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鷲田清一「顔の所有」②疑問点と感想 

◇まず、疑問点を中心に述べる。

〇「顔は誰のもの(誰の所有物)か?」と尋ねられた時、「それはその顔を頭部に頂いている人のものだ」と、ふつう答えるだろう。そんな当たり前のことを、何をいまさら問うのだ、ということ。こういう問いを、ナンセンスと言う。

 顔はその人のものであり、筆者が言う通り頭部に「密着」している。他の人の顔を勝手に自分の頭部に付け替えることもできない。筆者は、「所有」という概念をこの後述べるが、所有という概念は、ふつう、自分とは別の、切り離された存在に対する概念だ。「あれが欲しい」という欲求によって、自分の外物・自分にはないものを手入れることが「所有」だろう。これに対し「顔」は、生まれた時から死ぬまで自分の頭部にべったりとしがみついている。外科手術でもしない限り、自分から引きはがすことはできない。(「フェイス・オフ」という映画があった) 筆者は、このような一般的な「顔」の在り方や「所有」の概念について触れない。だからわかりにくい論述になっている。

 また、「顔は誰のものか?」と尋ねておきながら、その答えをまっすぐには示さないこともわかりにくさの原因だ。「このような問いは間違っている」と言われても、それなら問うなよと言いたい。「顔は誰かによって所有されるものなのか」と、初めから問えばいい。それなのに、「問われねばならない」と、とても回りくどい言い方を筆者はする。レトリック(修辞法)だとしても過剰だ。


〇「「誰かの顔」(顔の所有)と言うとき顔は」、「顔以外のものと」「分離したかたちで関係づけられようとしている」の、「顔以外のもの」もよくわからない。顔以外の身体なのか、精神・心も含むのか。それとも自分の身体以外のなにものか。


〇顔を、「誰かのもの」(誰かの所有)として「とらえようとする」と、「顔が消失する」「ことがある」。

顔を、「誰かのもの」(誰かの所有)として「とらえようとする」と、なぜ「顔が消失する」のかの理由が示されない。また、「顔が消失する」が表す意味も説明されない。だから何を言っているのかがわからない。


〇顔は「誰かのもの」であるとすると、なぜ「「「素顔」という概念も不可能になる」のか、理由は示されない。


〇顔の「分割」について

筆者は「顔と「誰(その所有者)」との一致」の度合いにより、顔を二種類に分割できるとする。

A「素顔」は「「ありのままの」顔」、「「ほんとうの」顔」、「真の顔」であり、「わたしの内部」、「一連の感情のつながり」、「わたしの「誰」(真の自分)」。

B「偽りの顔」・「仮面」


ところがこのすぐ後で、「わたしの内部」・「わたしの「誰」(真の自分)」が、顔によって(存在)可能となる、顔によって存在し始める」とし、Bがどこかに消えてしまう。「顔」によってAが存立するのであれば、Bはどこに消えてしまうのか。もともと無いものなのか。それであれば「分割」自体不可能だ。


〇顔が所有の対象であると仮定すると、「人はそれを思うがまま自由に操れるはず」=「自分の意のままにしうる」「(随意性、自由裁量件、つまり自由に処理してよい」とする。ここには、その顔の持ち主と顔との間に主従関係が成立することが前提にある。「しかし」、筆者が言うとおり、「顔は誰かが思うがまま自由に管理・統制しうるものではない。顔において、わたしはその主人ではない。いやむしろ、顔はわたしの意のままにならないものの典型(モデル)ですらある」。この後にはその具体的説明が欲しい。これまでの論述を見ると、筆者の考えと我々のイメージが必ずしも一致していないので、「意のままにならない」の意味が、一般的な意味なのかが不安だからだ。


〇「顔を自分のもの、自分の意のままになるものと考える」=「所有と操作の対象と考えるとき、我々は顔に所有される。」についても、顔を所有と操作の対象と考えるとなぜ我々は顔に所有されるのかが説明されない。


〇「顔」を、「自分の意のままになるもの、自分の所有と操作の対象であると考えた時」、なぜ顔は「わたしから遠く遠く隔てられている」・「わたしから最も遠ざかる」のかがわからない。「なぜなら」と、その理由が期待される語の後には、「皮肉にも、「わたしのものとしての」「<顔>が他者に対して閉ざされてしまうから」という、理由になっていない表現が続き、また、「<顔>が他者に対して閉ざされてしまう」自体の意味も分からない。さらには、「<顔>が他者に対して閉ざされてしまう」と、なぜ顔は「わたしから最も遠ざかる」のか。説明があまりにも少なすぎる。筆者の考えが述べられているだけで、その根拠や理由の説明が無いので、生徒や一般の読者には理解不能な文章となっている。

「<顔>は、わたしだけのものとなることによって、わたしから遠ざかってしまう」といわれても、自分の所有物になることが離れることになる事情が分からない。続いて述べられる、「所有することはそのまま(イコール)所有されることである」・「所有関係の反転」「というパラドクシカル(逆説的)な現象」を、「離れる」と言っているのか。


〇筆者は「所有者」と「所有物」の関係について次のように定義する。

「主体(所有者)が何かある対象(所有物)を自己の存在にとって不可欠のものとして要請して(求めて)いる限り(こと限定)で」・「所有物が自己(所有者)の存在の一部をなしている限りで」、「その所有物に囚われている=占められている」。「所有者が所有対象(所有物)によって所有される」。

これまで西洋では、「所有」を「あるものを自分の意のままにしうること(随意性)」と定義していたが、逆に、「自分の意のままにならないこと(不随意性)」こそが「所有」の特徴だとする。

これは顔についても同じで、「顔を自分のものとして所有することで(逆に)顔に所有されることになるという反転現象」が起こり、「<顔>という現象を「わたしのもの」として所有しようとしたとたん、人は<顔>によって所有されることになる」


〇所有物とは、「そのひとの存在の構成分子」であり、「私」と「所有するもの」との関係は、「密着」・「同一視」。「(物が人間に)憑依」と言える。これが、人がものに「所有される」こと、「自分を喪失する可能性を内に含んでいる」ことの意味だ。

「喪失への不安が、ますます(ものの)自己への密着(=所属)への欲望を募らせ」、「人は何かを求めている限り、その求められるものに翻弄=所有されてしまう」。さらには、「人は、反転の起こらない「絶対的所有」をさらに求め」、「所有のもつれ」・「所有の「苦しみ」」を生む。


〇人は、<絶対的所有の夢>・「夢としての(顔・ものと)自己との一致」・「(顔が)自分の顔であることを願う」

「わたし(ひと)は顔を自分のものとして「領有<我がものとすること、自己固有のものと認めること>させられる」=「顔は」、「「持たない」こと、非所有のままであることを許さない」現象が生ずる。


◇感想

筆者の考えだけが示され、その根拠・理由の説明があまりにも少ない。省略が多すぎる。また、哲学独特の用語とその使用法で記述されており、高校生には読解が困難・不可能だ。従って、このような文章を教科書に載せる意味と意図が不明だ。

哲学は現在、最も大切な学問でありものの考え方だと思うが、それを世に広めるべき哲学者の文章が、國分功一郎さんのものも鷲田清一さんのものも、読解困難を超え、理解不能とはどうしたことか。これでは哲学は、「わたしから遠く遠く隔てられている」・「わたしから最も遠ざかる」。「他者に対して閉ざされてしまう」。哲学は、「わたし(哲学者)だけのものとなることによって、わたし(人々)から遠ざかってしまう」。

はたしてそれでいいのだろうか。

さらには、このような文章を教科書に載せる側、入試問題に使用する側の責任も問いたい。

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