05. 再出発
そうしてあっという間に時は過ぎ、私がクロエト公爵に嫁ぐ日がやってきた。
朝から私の部屋には多くの侍女がやってきて私の身支度を行っていた。当の私は寝ぼけまなこのまま侍女にされるがまま椅子に腰かけていた。ついにこの日がやってきたというのに全然実感がなかった。前世でクロエト公爵に嫁ぐ日はどんな気持ちで過ごしていただろうか。きっと晴れ晴れした気持ちだったはずね、こんな家から出ていけるんだもの。
ぼーっとこの屋敷に想いを馳せていると、室内にノック音が響いた。
「私が確認してまいります。」
侍女は私が何かを言う前に来客の確認に行く。
「えっと…。」
何故か言葉に詰まっている侍女を見る限り嬉しくない来客のようね。まあ誰が来るかなんてわかっているのだけど。前世でも懲りずに来てくれたことだ。
「入ってもらって結構よ。」
「メルティ、ついにこんな最悪な日がやってきてしまったね。」
わざとらしく悲しむような素振りをみせているのは長男であるシノアール。前世でもシノアールは私を最後まで引き留めようと声をかけてきた。
「シノア兄さん、そんなことおっしゃらないでください。どうか私の門出を祝ってはくれませんか。」
私は引きつりそうな顔で必死に笑顔を取り繕う。
「すまない、使用人たちはみな席を外してくれないか。最後に愛する妹と二人きりで話したいんだ。」
このくそ野郎、そんな思ってもいないことをぺらぺらと…!
「し、しかしメルティお嬢様のご準備がまだ済んでおりません…。」
「構わない、ほんの少し話すだけだ。話が済んだらまた呼ぶから控えておくように。」
シノアールはそういうと有無を言わさず侍女を部屋の外へ追い出した。
…はぁ、憂鬱だわ。クロエト公爵に嫁ぐというのは決してめでたい事だとは言わないけれどシノアールと関わらずに生きることができるというのは私が喉から手が出るほど欲しい環境だった。
「メルティ。」
「はい、兄さん。なんでしょうか?私はもうすぐ嫁ぐ身なので準備で忙しいのですよ。」
「いつからそんな生意気な口をきくようになったんだ?」
シノアールの色のない声に背筋が凍る。
「そもそもメルティがあんなクソみたいな婚約に反対していればこんなことにはなってないはずだが?」
まずい、ただでさえこの間刺激したばっかりなのにまた同じようなことをしてしまった。
「兄さん、生意気言ってごめんなさい。嫁ぐ不安でどうかしていたみたい…。」
とにかく今は無事にこの屋敷を出られるようにしないと本末転倒だ。
「メルティ、少しこちらへ来てくれ。」
不自然なほどの態度の切り替わりに不安を覚える。前世でこんなことを言われただろうか…?なぜかとても嫌な予感がした。だけどここでまた反抗すると嫁げなくなる可能性すらある。
私は椅子から立ち、数歩歩いてシノアールに寄った。するとシノアールは突然、私の首を強くつかんだ。
「っ…!!!」
あまりの力、そして痛みに声にならない声が出た。…痛い、苦しい。
何をするつもりなの…?
するとその瞬間、シノアールが握る私の首が妖し気に光った。途端に私の全身に強い苦痛が襲い掛かった。
「い、痛いっ!!!!やめて…!助けて!」
全身を駆け巡る強烈な痛みを逃がす手段はなく思わずシノアールの手を振り払い、そのまま地面にうずくまった。
「メルティ、ちゃんと向こうに行ってからも定期連絡を寄こすように。そしてその痛みを忘れるんじゃないよ、この黒魔術はどうやっても解術できないから。」
その言葉とともに体中の痛みがすっと消えた。
私は目の前が真っ暗になったような気持ちになった。こんなものをかけられていれば実質そばでシノアールが監視しているようなものじゃないか。どう考えても絶望的な状況だった。
それに前世ではこんなことはされなかった。どうしてシノアールがわざわざこんなことをしにきたのだろう。やっぱり下手に反抗してしまったせいだろうか。こんなことになるならおとなしくしておくべきだったと今更考えてももう遅い。
こんなことのためにシノアールが黒魔術なんかに手をだすなんて想像もしていなかった。
シノアールは私の返事を聞く気もないのかそのまま侍女に入ってくるように促した。
私は慌てて立ち上がった。こんな場面を見られてしまったらまた余計な事態に発展しかねない。
そのまま部屋を後にするシノアールを私は嫌悪と侮蔑の目で見つめ続けていた。
いよいよ準備が滞りなく完了し、屋敷の前にはシャルロット家の紋章が大きく刻まれた馬車が止まっていた。
「やっとこの日が来たのね…。」
馬車を前にして私はようやくクロエト公爵に嫁ぐということを実感した。前世ではこの瞬間を待ちわびていたような気がする。だけど今の私にそんな希望はほとんどない。だってこの屋敷を出ることは第一歩に過ぎず、本当に大変なのはこれからだということを身をもって体験しているからだ。
今の私はまるで戦地に赴く兵士のような心持をしていた。
「姉様…!!!」
馬車を前にして立ち尽くしていた私は後ろから聞こえてきた愛しい声に笑顔で振り返った。
「エディー、来てくれたのね…ありがとう。この屋敷を発つ前にまた顔を見ておきたかったの。」
この間の不安そうな顔は何処へ行ったのか、今はにこにこと可愛い笑顔を見せてくれていた。あの約束が効いたのかしら?そうだとしたら少し罪悪感があるわね…。
「メルティ姉様、どうかお元気で。次に会うときにはもっと一人前になっておきます!」
輝く笑顔でそう言うエディーはこの家の本当に守るべき宝だ。
「ええ、楽しみにしているわ。エディーこそ身体に気を付けるのよ。」
最後にまだ低い身長のエディーの頭を軽く撫でた。
エディーはまだ十四歳。こんなに純粋で優しい子をこんな魔の巣窟に置いていくのは本当に心苦しいけれど、どうか健康に成長して幸せに暮らせますように。
リリアン兄さんは黙ってこちらを見ているようだった。なぜか少し不安そうな表情をしているような気がした。いつもあんなに堂々としているリリアン兄さんらしくないわね。
「リリアン兄さん。」
私が声をかけるといつもの表情に戻り、こちらを見た。
「お元気で。」
リリアン兄さんにはこの間会ったときに伝えるべきことは伝えた。これ以上無駄口をたたく必要はない。
「…ああ、お前も元気でな。」
リリアン兄さんは一瞬何か言いたげだったが口を閉じ、軽く微笑んだ。
周りを見渡すとお母様とお父様以外は使用人を含め、みんな見送りに来ているようだった。
お父様は相変わらずなのね。どうせ家のことにしか興味のない人だから来ないとは思っていたけれど、やっぱり前世と同じように娘の見送りに来るような親ではなかったわけね。まあ変わらないことのほうが多い、それが当たり前なのだ。私は無意識的に首をさすった。…これ以外は特に変わったことがないもの。ただ変わったことが大きすぎるだけ。
「メルティ、父上からの伝言だ。クロエト公爵とあったらそのうち皇帝に揃って挨拶に行くようにと。」
「承知しておりますわ。シノア兄さんもお元気で。」
「ああ、メルティもな。」
ああ、息苦しい。シノアールの顔を見るだけで首元がうずくようだ。腹立たしい、だけど今の私じゃ何もできない。さっさとクロエト公爵家に行こう。
一通り挨拶を終えるといよいよ馬車に手をかけた。屋敷を振り返るとせいせいするような気がした。前世でもこんな感じだったのでしょうね。
じゃあね、私の監獄。
前に向き直ると私は使用人の手を取って馬車に乗り込んだ。
さあ、ここから再出発するのよ。