02. 懐かしき悪夢
食事を終え、私たちは各々部屋へと戻った。そして私は今、シノアールの部屋の扉の前で立ち尽くしていた。
侍女に遭遇する前に早く入るべきなのは頭では理解していた。だけどどうしても身体が動いてくれなかった。いや、どうせ侍女と遭遇する確率はゼロに等しいだろう。おそらくシノアールが人払いをしているからだ。
入りたくない…と足を少し動かしたせいで履き物と床と擦れる音が鳴る。
本能的に感じる。
…まずい。
「メルティ?」
声が聞こえると同時に扉が少し開かれる。
「し…シノア兄さん。」
「少し遅かったね。いつからいたの?入ってよかったのに。」
シノアールは柔和な笑みを浮かべこちらを見ていた。世の中の令嬢がこの顔をみるときっとときめいてしまうことだろう。しかし、私はその笑顔を見ると無意識に身体が震えてしまう。
「ごめんなさい、少し着替えていたの。今来たところ。失礼するわ。」
震える身体をぎゅっと押し付け、シノアールが開けている扉の中に入る。
後ろでガチャリと扉が閉まると同時に鍵のかかる音がした。
「メルティ。」
「はい、シノア兄さん。なんでしょう?」
できる限り平然とした態度で答える。だけどすこし語尾が震えてしまった。
「どうしてさっき父があんなふざけた提案をしてきたのに反対しなかった?」
「っ…な、なんのこと?」
「とぼけるな。クロエト公爵に嫁ぐ話だ。あんなふざけた話をなぜ素直に受けた?」
後ろを振り返ることができない。怖い。頭が恐怖で埋め尽くされていく。
「ごめんなさい、だけど反対したところでどうせ聞き入れてもらえなかったわ。」
「だからって黙って賛同してちゃ仕方ないだろう?どうしていつもこう聞き分けが悪いのかな。私の教育がまだ足りない証拠か…。」
教育。その言葉に息が詰まる。もうだめだ。この状態になってしまったらあとは耐えるしかない。いつもの地獄に。
「ごめんなさい!だけど私だって…「うん、わかった。その話はまた後で聞くね。」」
シノアールは私の言葉を遮り、部屋にある真っ黒で異様な雰囲気を放つ金庫に近づく。金庫をごそごそといじり、ガチャリと金庫の扉が開く音がした。
ドクン、ドクンと私の心臓はいやになるほど音を立て始めた。
「ご…ごめんなさい、兄さん。」
無意識に口から謝罪が出た。
「うん、もうその言葉はさっきも聞いたよ。」
優しい口調でこちらに戻ってくる。その手には見慣れた黒いいつものが握られていた。
「さあ、ドレスを捲ってそこのテーブルに手をついて。」
息が詰まって言葉を発せない。動けないでいるとだんだんシノアールの目つきが鋭くなっていく。これ以上はだめだ。これ以上もたもたしているといつも以上に苦痛を受ける羽目になる。
黙ってドレスを捲り、テーブルに手をつく。
「そう、ちゃんとそのままの体勢でいるんだよ。」
シノアールがそういった直後にヒュンっと風を切る音が聞こえる。反射的に目を瞑る。
直後に太ももに強い痛みがはしった。
鞭が私の太ももにたたきつけられたのだ。
「っっ…!!!!!」
鮮明に蘇ってくる過去の記憶。必死にその苦痛に耐える。
「ちゃんと身体で覚えるんだ、いいね?またこんなことがないように。反省するべきだ、そうだよね?」
「…はい。」
シノアールはいつも私を鞭で打ち、教育をしてくる。私はこんな風に地獄の18年間を過ごしてきたのだ。
この苦痛から逃れる方法はない…クロエト公爵に嫁ぐ以外には。クロエト公爵に嫁いでも完全にこの家と縁をきれるわけではい。だけど精神的にこの家にいないということが私には救いだった。過去の私は救われることを願ってクロエト公爵に嫁いだのだ。しかし結局クロエト公爵に嫁いだところで大して状況が変わることはなかった。
しばらく続いた教育は扉のノック音で終わりを告げた。
「…誰だ。」
シノアールは邪魔されることが一番と言っていいほど嫌いだ。このノックが使用人だったならばその使用人はこの屋敷から今日限りで消えていたことだろう。しかし私はもう過去にこの出来事を経験している。
「シノア兄さん、兄さんにお客様がいらっしゃっているよ。」
その声はエドワードのものだった。過去も同じようにエディーが呼びに来たのだ。
「…はぁ、わかったすぐ向かうから応接室に通すように言っておいてくれ。」
「わかった。」
シノアールは不服そうに鞭をしまう。
何度も鞭で打たれた私の太ももは赤く腫れあがっていた。今もジンジンと熱く痛んでいる。
「今日教えたことはしっかり肝に銘じておくように。」
「はい、お手を煩わせてしまってすみませんでした。」
私はいつもとにかく兄さんの逆鱗に触れないように腰を低くする必要があった。
そのままシノアールはさっさと着替えて部屋を出て行ってしまった。
私はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、後ろに人の気配を感じて思わず振り返った。
「…エディー?」
後ろを振り返るとそこにはさっきお兄様を呼びに来たエディーが立っていた。
「姉様…。」
エディーは何かを言いたげにこちらをじっと見つめていた。いったい何を考えているのだろうか。
過去の私はすぐに自室に戻って泣いていたからこんな出来事はなかった。だけど二度目ともなるとつらい気持ちはあるけどそれ以上に無力感が勝って、その場から動く気になれなかった。
もしかして過去でもエディーは私が去った後にここに来たのかしら。
エディーの顔はなぜか苦しそうに見えた。
「どうかしたの?ここには何しに来たの?」
まさかさっきのシノアールとの出来事を知られていないだろうか。焦りと不安でじんわりと冷や汗をかいた。
「姉様はシノア兄さんとなにを話していたの?何か大事な話…邪魔しちゃった?」
内心ほっとした。まさかあんなことがこの屋敷内で行われているというのがエディーに知られてしまったら大きなショックを受けさせてしまう。
「いいえ、大した話ではないわ。だけどちょっと他の人がいる場所では話しにくい内容だったの。心配しないで。」
シノアールは侍女や召使いには厳しく罰することがほとんどだが、エディーは末っ子なこともありエディーに対してつらく当たることはしない。それだけが救いだった。
「本当?」
「本当よ、私が意味もない嘘をつくはずがないわ。そうでしょ?」
「…うん。」
「それじゃあ、部屋に戻りましょ。」
エディーに微笑みかけながら痛みに震える足を無理やり動かせる。
エディーはなぜかしぶしぶといった様子で私の後に続いた。エディーを部屋に送った後私も自室に戻った。結局どうしてエディーがまたシノアールの部屋に戻ってきたのかはわからなかった。