三十五話 後悔
わたしは、霧島稔をこの世界に連れてくるべきではなかったかもしれない。
わたしが願い、彼が願って双方の合意を以ってこの世界に召喚された。それなのにこんなことを考えてしまうなんて召喚の巫女としてはあるまじきことだ。
それでも、強くそう思わずにはいられない。
十年…現実ではないながらも、精神に刻まれた十年は確かにわたしの胸のうちにあって望郷の一念だけで国王たる人物を探し続けてきた。身が擦り切れるほどの憔悴の中、再び出会った彼はまさしく救済の神だった。
…そういう意味では、わたしと彼の間に結ばれた約束は打算的なものだった。あの時のわたしは、国王が誰だって良かったのだ。ただ早くわたしの知っている世界に、育った世界に還りたかった。恋人の下へ――その想いしかなかった。
…そんなわたしの弱さが甘さが今、稔を追い詰めてしまっている。
後宮を揺るがした大事件――国王暗殺未遂事件は霧島稔の傷付きやすい精神をずたずたに引き裂いた。それでなくとも慣れない環境、通用しない常識、未来への不安に押し潰されそうになっていた稔に、間近に迫った死の恐怖に抗う術などあろうはずもなかった。
ようやく心に余裕を得ることが出来て、前向きに歩みを進めようとしたその瞬間の惨劇。
稔は一週間、その居室から一歩も出ることは無く、またリディア以外の誰にも会うことはなかった。その一週間がどのようなものであったのかは彼とその専属メイドであったリディア以外は誰も知らない。彼らもまた、それを語ることは決してしない。
後宮主要メンバーのなかでは一番早く、一週間ぶりに再会した稔は、一目でわかるほどに衰弱していた。頬がこけたりしているわけではないが、覇気がない。声にも張りがなく、真っ直ぐにわたしを見つめ返してきたはずの黒瞳は宙を彷徨って少しも大人しくしていない。
――これは、わたしの知っている霧島稔本人か?
思わずそう胸中で呟いてしまうほどに彼は弱っていた。
そのとき、わたしは稔とどんな話をしたのか全く覚えていない。ただ脳裏に苦しみをひたすらに耐え忍ぶ彼の姿が焼き付いてしまっていて、それ以来まともに顔をあわせていない。
「お前のせいでっ!!」
そう罵られるのが怖くて。
「日本に帰らせてくれ!!」
と叫ばれるのが恐ろしくて。
他でもない、稔をこの世界に連れてきたわたしに全ての咎がある。そのことが分かっていても、受け止めることが恐ろしい。
…いや、本当はそうではない。わたしはただ自分勝手な理由で怯えているだけだ。稔が望むのであれば、すぐにでも彼のいた世界へ連れ戻すことは出来る。…でもそうしてしまったら、わたしはまた独り国王探しの旅をすることになる。たった一人で。
「――わたしは、最低な女」
歴代の召喚の巫女はただ王のみに忠誠を誓い、王に全てを捧げてきた。…それこそ、身も心もだ。
それは世界との決別の対価でもあった。全てのものを振り払って異世界にやってきてくれた人に対するせめてもの礼儀。
なのにわたしには恋人が既に居て、忠誠を誓うことはできてもこの身を投げ出すことは叶わない。そんな話をしたとき、稔は笑って許してくれたっけ。好きにすればいい、と。
それなのに―――
「守れなかった。稔の弱さを知っていたはずなのに」
優しい稔を――守れなかった。
その後悔の念だけが膨れ上がってついには胸の内に収まりきらなくなって…こうして一人の少女に吐き出しているのだ。滅多に使われることのない後宮に設えられたわたしの部屋で…わたしよりも、年下の女の子に。
その少女――リディアは優しく微笑んでわたしにお茶を勧めてくれる。彼女のオリジナルブレンドの紅茶は絶品なのだ。…どうやら、稔は分かっていないようだったが。
「……ミノルさんは、誰も恨んでなんかいませんよ」
「…嘘が下手ね」
とてもではないが信じられなかった。
リディアの言葉を疑うわけではないが、稔は弱い人間だ。その身体にしても、精神にしても決して頑健ではない。だって彼は、世界という外圧に負けてこの世界に逃げてきた亡命者なのだから。酒の勢いでぶちまけた愚痴を知っているだけに、わたしにはその言葉が信じられなかった。
「本当なんですよ? ミノルさんが恨んでいたのは、不甲斐ない自分。あまりに惰弱で脆弱な己自身です」
それはわたしの知らない霧島稔の姿。
「『強くなりたい、強くなりたい』と呪文のように呟いておられました」
なんのためにかは、お分かりですよね?
海の色をした瞳がわたしにそう訴えかける。
もう二度と、辛い目に合いたくはないから。今度は、自分自身の力で乗り越えていきたいから。
だからこそ、人は強くなりたいと願う。
…そうだった。稔は過去と決別することで新たな人生を、後悔しない力強く生きる人生を歩み始めたのだ。嘆くだけの日々は終わり、路なき路を切り開いていくことを決めたのだ。
だからといって、「はいそうですか」と簡単には割り切れないけれど、気持ちは少し前向きになった。
「…わたしも、稔のことをとやかく言えないわね」
ため息交じりの微妙が零れる。偉そうに稔のことを焚き付けたくせに、わたし自身もこの様だ。
「いいんじゃないですか? 弱っているときはお互い様…みんなで支えあっていきましょうよ」
リディアの微笑が眩しい。
慈愛に満ちた柔らかなこの笑顔は偽って作れるものではないだろう。
全く、頭が下がる思いだ。本当なら、わたしが相談を受ける立場だろうに。
「リディアは懐が深いのね…」
「…もし、そうだったとすれば、それはミノルさんの影響でしょうね。ミノルさんは、いつだってわたくしにいろんな世界を見せてくださいます」
例えば料理とか。
なんて、それは幸せそうな笑みを浮かべるのだ。
純粋に、稔の私生活に一番身近なのはリディアだからそれは役得なのだろう。そして彼女の見聞きしたものは料理という形でわたしたちにも還元される。
リディアが淹れてくれるお茶には漏れなく新作のお茶菓子が付く。それもこれもみんな稔との会話で得られたインスピレーションなのだとか。
以降、このささやかなお茶会はリディアによる料理談義へと変貌を遂げ、二度と恨み言云々の話が出ることは無かったがわたしには十分な答えになった。
稔は本当にわたしのことを恨んでなんかいなくて、本気の本気でこの国を愛しより良くしていこうと努力している様を一番近くで見ているリディアから聞くことができたから。
「…そういえば、ミノルさんがラフィリアさんを最近見ない、と仰っていましたよ?」
「…そう」
わたしはそれだけしか言わなかったけれど、密かに心に決めていた。
今度、飛び切りのお土産を持ってお茶会に乱入してやろうと。