三十二話 朝
「ミノル。朝、起きて」
こんな風に始まる僕の朝。けれど、そんなに早くはない。
夜明けと同時に、なんてことはなくすっかり日が昇って後宮全体が活動を始めてから僕が起き出す。幸いなことに僕は目覚めの良い方なのでかなりゆっくり寝かせてもらっているのだ。
…身体がひ弱であることと、精神衛生上問題を抱えているということもあって、しっかり休ませてもらっている。…人前に出られないために、あまりやる事がないのも確かではあるが。
「ミノル、起きて」
そしていつも、リディアが優しく起こしてくれる。これはもう、役得というしかない。少しでも駄々をこねようものなら、それはもう大変に取り乱してその様はとても愛らしい――のだが、報復が恐ろしいのでやらない。言うまでもないがリディアの――ではなく、彼女を取り巻く周囲の人々からの報復だ。一度、出来心で駄々をこねたことがあるがもう二度とやろうとは思わない。それほどまでに辛い体験だった。
そうならないためにも、身を起こして返事をしなければならない。
「おはよう、リディア」
「おはよう。ご飯、できてる」
「ああ、すぐに起きるよ」
…別に片言で喋るのが流行しているわけではない。どうしようもないくらいに機嫌を損ねたわけでもない。全身が活力の塊のようなリディアが爽やかな朝を教えてくれる、いつも通りの光景だ。彼女が急に言葉遣いを変えたのではなく、ただ僕が彼女の言っていること全てを理解できなくなっただけのことだ。
理由は単純。意思疎通のペンダントを身につけていないからだ。
暗殺騒動で僕が著しく不安定になっていたために有耶無耶になっていた約束を今になって実現しているのだ。
"ミノルさまが、ペンダントを外してくださるのでしたら、極めて私的に御仕えさせていただきます"
いつかの、極めて個人的な約束だ。
その証拠に、リディアはカチューシャをしておらず、前髪で隠していた双眸を晒している。大きく、ぱっちりとした深い蒼。すっと通った鼻梁。…非の打ち所のない美少女だ。
リディアの素顔を見るのは初めてではないが、見る度に見蕩れてしまう。…なにも思わなかったのは、初めて素顔を見た時――暗殺騒ぎの翌朝のことで、そんな彼女に気付くことすらなかったのだ。膝を抱えて震えている時だって、彼女はずっとカチューシャを外し"極めて私的に"僕の面倒を見てくれていた。それは僕を安心させるためだったのかも知れず、それ以外の理由だったのかも知れず…聞くにも聞けずにいた。いや、今も聞けないままだが。
ともかく、それでは不公平だろうと今更ながらに僕は約束を果たすべく、リディアと二人きりのときはペンダントを外してネィティブな会話レッスンを受けている。その甲斐あってか、ある程度の名詞と動詞、そして日常的な副詞やら形容詞なども少しは覚えた。そして分かる部分だけを言語化すると片言の会話分の出来上がり、というわけ。リディアの発音が丁寧ではっきりとしたものだからなんとか…というレベルだ。
「早く、来て」
僕が回想に浸っている間に、リディアはそれだけ言って寝室を出て行った。
他にも何事か言っていたが聞き取れなかった。でも、短くはない時間を一緒に過ごしているのだ。その行動から何を言ったかは察することができる。
キングサイズの一人で寝るには広すぎるベッドの横に据えられているテーブルに着替えが一式置いてある。これはいつもリディアが朝持ってきてくれるものだ。だから、多分聞き取れなかった言葉は――
「着替えはここに置いておきますね。それでは、早くいらっしゃってください」
ということなのだろう。
なんにしても早く起きなければ。
さほど寒くもないので暖かな寝床への未練もなく、さっさとベッドを出てリディアが用意してくれた衣服に着替えていく。滑らかな手触りと、つややかな光沢を持つこの布は絹かなにかなのだろうか?少なくとも綿や麻の類ではない羊毛でもないだろう。間違いなく高級品。同質の布で出来たズボンとシャツを身につけ、薄手の皮の上着を羽織り、チェインメイルを着込む。その上からもう一枚、環頭衣状の上着を重ねて完成。ちなみに色はみんな真っ白。リディアが言うには、この布は染色できないのだそうだ。…真剣になにで出来ているのだろうと思う。
手馴れたもので、着替えには五分もかからない。さっくりと着替えを済ましたら、テーブルの上に置いてあるペンダントをズボンのポケットに入れて寝巻きを抱えて部屋を出る。隣部屋…本来は護衛の詰め所であるはずの安楽室を抜け、一度廊下に出てから向かいの食堂に入る。
すでに後宮は完全に目覚め、活動を開始している。一時は完全に静まり返っていたというが、ジルヴァとレヴェッカが浮き足立つ仲間たちを叱咤激励して活気を取り戻させたのだと聞いている。それだけに止まらず、自主的に自分たちの在り方について議論を交わし、僕が教えた言葉の意味を掘り下げて理解に勤めている。薄っぺらいだけの僕の理屈に、肉付けをするために頭を捻っているのだ。
中でも面白いのはその議論に彼らの従者も混じっているということだ。誰が言い出したのか、やりだしたのかは分からないが立場の違う人間の意見はとても貴重なものだ。従者として就いている彼ら彼女らは箱入りの貴族たちとは異なり、"現実"を知っている。何も知らない貴族の坊ちゃん、お嬢さんには良い先生になっているようだ。彼らの手伝いをし始めたものまでいるらしい。
主従の関係を超えた信頼関係。そんなものが築ければいいな、とは思っていたが彼らは自分たちだけでその域まで辿り着こうとしているのかもしれない。
そうやって引っ張って行っているのがジルヴァとレヴェッカだ。短い時間ながらも面会したときには二人ともいい表情をしていた。特にレヴェッカは「如何かしら、私たちの手並みは? あなたがやるより上手くやれてよ?」と言わんばかりに自信たっぷりだった。
全く、苦笑するほかなかった。あの二人には人を惹きつけるなにかがあるのだろうか。短期間で後宮を纏め上げたのは他ならないこの二人。その手腕の巧みさは嫉妬するのも馬鹿馬鹿しいほど。
何はともあれ、そういうことであれば人心掌握はジルヴァとレヴェッカに丸投げして僕は僕にしか出来ないことに集中できるというものだ。
彼らを殺してしまわないように、この国の将来を守るために策を弄するだけ。
明確な指針を定めることが今の僕の役割。
「ミノル? どうした?」
「いや、なんでもない。すぐいくよ」
心配そうに食堂から顔をのぞかせたリディアに僕は笑いかける。眉の下がった彼女も可愛い。普段から目元を隠してしまう彼女だから、こうはっきりと表情が分かるというのはとても嬉しいことだ。
しかし、いつまでもリディアに心配ばかりかけてはいられない。
そのためにも、身体を鍛え革命の準備を進めなければならない。
朝と夕方に訓練をし、その合間に革命の教科書を書き、ストラトの報告を受け、夜にはリディアと会話のレッスン。
なかなかに大変だが充実した日々だ。これでトラウマがなければ尚良いのだが、そこまでは望むまい。それもこれから克服していくものだ。
「今日も一日、頑張りますか」
そのためにも、まずはしっかりと朝食を摂ることだ。
今日のメニューはなんだろう?
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