唐紀 六十八 乾符2(875)年(2)
話は変わり※盧龍節度使である張公素の性格は暴虐だったため、盧龍軍の兵士は彼に服従しなかった。
そして盧龍軍の大将である李茂勳は元々※回鶻の阿布思族の出身であり,※会昌年間に回鶻が盧龍節度使の張仲武に敗れたことで、李茂勳は彼に降り、そして張仲武は彼に辺境を防衛させたところ度々功績を挙げ、それにより唐の皇室の李姓と名を賜った。
ところで※納降軍使の陳貢言という者は幽州の宿将であり、兵士に心服されていたので、李茂勳は密かに陳貢言を殺して、自軍を陳貢言の軍と言いふらし、挙兵して幽州城に向かったため、張公素は出撃したが李茂勳に敗れ、京師(都→長安)に逃走した。
そして李茂勳が幽州城に入ると、人々はそこで彼が陳貢言でないことに気づいたが,やむを得ず李茂勳を盧龍軍の司令官に推戴し、朝廷はそれにより李茂勳を盧龍軍留後(盧龍節度使代理)とした。
※盧龍節度使
盧龍節度使の政庁は幽州城(現・北京市)にあった。
※回鶻(ウイグル)
トルコ系遊牧民族の一つ
※会昌
唐の第15代皇帝である武宗の時代の元号(841年 - 846年)
※『納降軍使の陳貢言という者はの幽州の宿将であり』という文章について→納降軍は幽州城内に拠点があった。
出典1:『新唐書』四 志 卷三十九 志第二十九 地理三 河北道 幽州范陽郡(中華書局 P.1019)
幽州范陽郡(中略)城內有經略軍,又有納降軍,本納降守捉城,故丁零川也。
出典2:『讀史方輿紀要』卷十一 北直二 順天府
納降城,在府城西。《唐會要》幽州城內有經略軍,有納降軍。本納降守捉城,故丁零川也(wikisource)