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唐紀 六十八 乾符2(875)年(1)

 乾苻けんふ 2(875)年の6月。,


 ※ 王仙芝おうせんし及びその党派の尚君長しょうくんちょう)濮州(ぼくしゅう)曹州(そうしゅう)を攻略して軍勢は数万に至り、天平(てんへい)節度使(せつどし)薛崇(せつすう)は出兵して彼らを攻撃したが、王仙芝に敗北を喫した。


 そして(曹州に属する)冤句(えんく)の人黄巣(こうそう)もまた民を数千人を集めて王仙芝に呼応(こおう)した。


 その黄巢は若い時から王仙芝と共にいつも塩の密売を仕事としており,さらに黄巢は騎射(きしゃ)が上手く,任俠(にんきょう)を好み、ほぼ古典を読み通し、度々地元の州県で試験を受けて郷貢(きょうこう)進士(しんし)となり、省試(しょうし)(中央政府(礼部(れいぶ))が行なう※科挙(かきょ)の試験)を受ける資格を得るも進士に及第出来なかったため、遂に盗賊になり、王仙芝と共に州県(しゅうけん)に侵攻して略奪し、※山東(さんとう)横行おうこう)して、民で重税に苦しんでいる者は競って彼らに身を投じ、数ヶ月間で軍勢は数万に及んだ。


乾苻けんふ


(とう)の第18代皇帝である僖宗きそう)の時の元号


王仙芝おうせんし


乾符元(874)年の12月に数千人の民を集めて(滑州(かつしゅう)の)長垣(ちょうえん)で兵を挙げた人物。


節度使せつどし


中国、唐・五代(ごだい)の軍職。初めは辺境警備のための軍団の司令官であったが、唐が衰退するきっかけとなった安史(あんし)の乱(755〜763年)で国内各地に多く置かれるようになり、管轄区内の軍事権・財政権・民政権を掌握し、強力な権限をもつようになった。


科挙かきょ)


中国の隋代(ずいだい)から清末(しんまつ)まで1300年に渡って続いた官僚登用試験。


進士しんし


唐代(とうだい)において進士科は科挙に複数ある科目の一つで中心科目であり合格者の進士はエリートであったが、一方で唐代はまだ貴族制が続いていて(唐は約300年続いたので年代によって貴族の力に変化があるとはいえ)、科挙が制度として本当に力を持つのは北宋(ほくそう)になってからであり、その北宋になると進士でなければほぼ高官になれなくなり、また様々な特権を持つようになる。


そして北宋中期に科挙は進士科に統一され科挙の及第者を進士と呼ぶようになった。


科挙はその当初吏部(りぶ)(人事などを司った役所)の担当であったが、後に礼部(れいぶ)礼制(れいせい)祭祀(さいし)などを司った役所)の担当となった。


唐代で進士(しんし)に及第するためにはまず地元の州県(しゅうけん)で試験を受けて郷貢(きょうこう)進士となり、省試(しょうし)(中央政府(礼部)が行なう科挙(かきょ)の試験)を受ける資格を得て、省試を通過して進士及第となったが、進士に及第しても実際に官職に就くためには、さらに吏部が行う試験を受けて合格しなければならなかった。


山東(さんとう)


華山かざん)または崤山こうざん)以東の地域のこと。


潼関どうかん)函谷関(かんこくかん)以東の地域を指す関東かんとう)と意味はほぼ同じ。

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