人生、お疲れ様でした
もし、自分が全く違う人生を送っていたら……なんてことを考えてしまう。
大金持ちで仕事にも行かず、プール付きの豪邸に住んで、遊んで暮らす毎日を過ごす。
今の自分と全く違う理想の自分だったらどうだ。容姿端麗で、器用で、希望を持って毎日を送るような自分。でも、そんな人生は考えられない。
スクランブル交差点で信号待ちをしていた。俺の鞄は、まるでボロ布を貼り合わせたようだ。くたびれたズボンとワイシャツ。それから皺の寄った革靴。なにもかも、俺にぴったりに見えてなんとも情けない。いや、俺みたいな冴えない男にこき使われて可哀そうな気もする。
前方斜め左には小学生が4人。信号待ちのわずかな間でもはしゃいで、ずいぶんと楽しそうだ。その姿を俺は表情を変えずに、ぼうっと眺めている。
小学生はいいよな。色々難しいこと考えなくていいんだから。
帰ったら、シャワーを浴びてメシは適当に済ませて、早く寝ちまおう……。
一日のささやかな楽しみは、ビール1本という嗜好品。明日への燃料代わりにそんなもん流し込んでさ。苦痛をなんとか誤魔化して……ずっとその繰り返し。
本当にうまいのかもわからなくなっているのかもしれない。そんなもので騙し騙し毎日を送っていくのか。
まだ火曜日だ。金曜の夕方が来るにはまだ果てしない道のりだ。社会の濁流に溺れながらもなんとか休日というの名の向こう岸に辿り着く。月曜が近づくと、もう憂鬱になり、なんにも手につかなくなる。飯の味さえ感じなくなる。日曜の夜は悲惨だ。それが俺の一週間だ。
いいことがない。冴えない。毎日が苦痛だ。
退屈というのではない。ただ辛いのだ。
なぜつらいのか、というのを自分の中で分析してみたことがある。
そう。なぜ日々がつらいのか。しかし、色々な原因が複雑にくっついて『つらい』という呪いを生成しているので、根本原因をこれと指し示せない。
つまり、日々の雰囲気が嫌なのだ。
会社に行かないと暮らしていかれない苦しみ。嫌な仕事のために朝、起きなければいけない苦しみ。仕事に行くために食う味気ない朝食。規律ある職場。厳しい部長。年下の上司。
そういう雰囲気が煙のように俺を取り巻いて、息苦しい毎日を作り出している。
頑張れよ。
男のくせに、情けないこと言うな。
気を引き締めろ。
会社の人間たちの無責任な励ましが、俺の心の柔らかい部分にガラスの破片のように突き刺さった。
あーあ。もう死のうかな。人生を終了させたいから、駅のホームから、ぽーんと飛んでみるか。
駅に向かいながら考えた。
今ここで味わう死の痛みと、定年までずっと続く苦しみを天秤にかけたら、どっちが楽だろうか。
ほどなくして、駅のホームに着いた。あとはいつも通り、電車を待つだけだ。そして乗り込めば家に着く。しかし、もうこんな生活は耐えられない。苦しい。電車に飛び込んでしまえば、一瞬は痛くても楽になれる。
『どうする。本当にやるのか?』
自問自答が始まった。元から勇気がない俺が、電車に飛び込むなんて大それたことができるだろうか。
電車のライトが見えた。今の俺には、目玉の光る化け物に見える。
『――でも、苦しいんだよ。日々の生活が――』
何とか思いとどまって、飛び込むのを止めようと思った。しかし、死神にでも憑りつかれたのか、死んで楽になりたいと思う気持ちが強くなっていた。
なんとか抗ったが、ついに耐えられなくなった。
『――――もう、死のう』
幸い、人は少ない。あまり目立たずにこの世から去ることができそうだ。ホームから飛び降りようとした。
すると……。
「おーい、にいちゃん、これから死ぬんか? するってえと、じゃあ、仲間だなあ。死んだらこっちにおいで」
背後のベンチの方から俺に向かって声をかける者がいた。
「え?」
思わず声が出た。そちらを振り返ると、
「今、お店開いてるから。楽しいよ」
「お店! 小学校のころ、机の中のもんぶちまけたときにみんなに言われたよな!『お店始めたの?』って。むはははっ」
ベンチには座らず、その脇で酒を飲んでいる男たちがいた。俺と同じワイシャツにズボンといった恰好の男や、工場の作業着を着た男。しかし、何かが変だ。彼らの体から向こう側の景色が見える。透けているのだ。
つまり、この世のものじゃないということか?
幽霊が俺に話しかけてきているのか。しかし、なんであんなところで宴会をやっているのか。しかも、なんだか楽しそうだ。
俺は、なんとなく男たちの方へ近寄った。
「あれ、死ぬのやめたの?」
「いやあ、その」
「こわくなっちゃったんでしょ。いいよ、もうちょっと考えな」
「そうそう。死んだらずっと死んでなきゃいけないからな。もうちょっと生きてても損はないぞ」
「…………」
俺は黙ってしまった。やはり彼らには現実感がない。透けているようだ。
やはりこの世のものではないのだ。
「どうした、兄ちゃん」
何も言葉を発しない俺を見て、一人が言った。
「幽霊、でしょうか?」
なんというか、不躾になるのかもしれないが、思わず尋ねてしまった。
「ああ。そうだよ。兄ちゃんと同じ、社会で苦しんで死んじまった者の集まりさ。こうやってみんなで宴会よ。兄ちゃんもこっちおいで。一緒に飲もう」
幽霊の宴会か。なんだ、妙に人間臭いんだな。幽霊と言っても、もっと邪悪な存在かと思ったが、透けている他は生きてる人間と変わらないじゃないか。やにわに、食指を動かされた。
こいつは面白い。面白いじゃないか。
「だったら、酒でも買ってきますよ。死んでるならいくらでも飲めるんでしょ」
なんて、ひょうきんな自分が顔を出した。俺も仕事で病む前は、陽気で社交的で、お調子者だったのだ。そう、今の仕事をするまでは。あるとき吉村部長と話すのがいやだな、と思い始めて、そこで心の中に病みのトゲみたいなものを植え付けられた。
それからというもの、吉村部長に報告をする度に冷や汗をかくようになり、ついには会社という存在自体が嫌になった。
「もーう、にいちゃんそんなこと言って。なんでも買ってきちゃってぇ。俺たち、金無いから」
俺は売店へ走った。
宴会幽霊おじさんたちのリクエストに応えて、チーカマ、ビーフジャーキー、するめいか、バターピーなども買い込んできた。当然、酒もいっぱい買ってきた。
と、食い物飲み物も揃ったところで、死者を相手に宴会が始まった。彼らの話を聞くに、やはり俺と同じように会社で働くということに悩みを持ち、苦悩の末に死んでしまった気の毒な人たちなのだそうだ。
いや、俺も同じだ。もう少しで彼らと同じになっていた。
死んでいる相手だからなのか、いつも隠したくなるようなことまで本音で話してしまった。
なぜか暗い話にはならなかった。すでにこの世界から卒業している彼らは、現世での蟠りはすでに過去のこととして決着がついているようだった。重荷がなくなったせいなのか、底抜けに明るかった。俺も自然と明るくなって、もう笑い話のように仕事での嫌な思い出話を喋った。幽霊と喋っているという、あまりに不可解な出来事に妙な感覚になっているせいなのか。
俺は年下の上司に理不尽に怒られた、苦い思い出話をした。俺の部署では、会社付近のゴミ拾い活動をするために早朝出勤をすることになっていたようだったが、俺には連絡がきていなかった。というより、年下上司が言い忘れたのだ。彼は俺に連絡をしたつもりでいたが、実は言っていなかったのだ。俺に非は無かった。言い返そうと思えば、いくらでもできた。しかし、年下の上司に怒られた恐怖で言葉が出てこなかったのだ。
その話をすると、みんな共感してくれた。みんな似たような経験をしてきたようだ。
俺は頭に手を当てて、
「俺なんてビビりだから、もう全然言い返せないんですよ。ほんとに自分が情けなくなります。『あっ、それは、あの』くらいしか言えなくて」
そうすると、宮本さんという霊が俺の肩に手を置いて、
「分かる! わかるわ! 俺もおんなじだった。年下の上司にさ、こき使われてるのに、一言も言えねえんだわ。もう、情けなくってな。なんで我慢しちまうのかな」
宮本さんの手が触れている場所は冷たく感じる。霊だからだろうか。
「そういう言ってないのに『言った!』って言い張る奴、面倒臭いよな。世の中に一割くらいはいるんじゃないかな」
川島さんが言った。川島さんは、ワイシャツにズボンといった営業職スタイルで、真面目な印象だった。真面目な人だからこそ、この世では損をし続けたのかもしれない。ずるいことができるような性格ではないのだ。
「生きてるうちは、ずいぶん些細なことを気にして生きてたよなあ。金があるの無いの、モテるのモテないの。ま、もう俺たちにゃ関係ないけどな」
と川島さんは結んで、みんなの笑いを誘った。気楽なもんだ。
「ほんとにそうだよ。死んだらもう関係ないからね。生きてるうちに、スカッと生きたらいいんじゃないかねえ。おっといけねえ、生きてるモンに説教しちまった」
「未練は無いわけじゃないけどね。ゴルフやらパチンコやら、生きてるうちにやってたことがなんにもできなくなったぶん、開き直って気が楽だな」
「いや、それでもよ、にいちゃんが買ってきてくれたつまみとビールは格別にうまい。うまいのは分かるんだから、まだ飲み食いの楽しみはあるわけよ。神様はそのへん、よう拵えてくれてるもんだ」
堀山田さんが言った。彼は自転車のリサイクルショップの自転車整備係として働いていたが、店の意向はしっかりと整備されて良質な自転車を売ることではなく、とにかく儲けることだったそうだ。小柄な男で、やはり世渡り上手ではない感じだった。愚直といっていいほどに仕事に入れ込んで、挫折してしまったそうな。『思えば死ぬほど入れ込むような大した仕事じゃなかったんだよ。自転車の整備なんてさ』と本人は語ったが、一生懸命になれば大変じゃない仕事はないはずだ。自分がどんなにつまらない仕事だと思っていても。
そうやって楽しく飲み食いしているうちに、終電の時間が迫ってきた。彼らはずっとここにいるとのことだが、俺は人間なので家に帰らなければならない。
俺がそのことを告げると、
「ごちそうさん。俺たち、いつでもここにいるからさ、気が向いたらまたここで飲もうや」
と川島さんが言った。
「はい。また、ごちそういっぱい持ってここに来ます」
「そいつはありがたい。おねげえしますだ、おさむれえ様」
大げさに土下座して、宮本さんがおどけた。それでまた俺は笑った。
「それじゃあな、気を付けて帰れよ」
彼らに見送られて、俺は最後の電車に乗った。
平日の、人のまばらな電車の中で考えた。
〝なんと楽しいひとときだったろう〟
そうだ。楽しいことなど無いに等しい毎日で、視野が狭くなっていた。
『同じ会社でずっと働かなきゃいけない』
凝り固まった思考回路の中で、嫌々日々を暮らし、生きる意味を忘れていた。
苦痛に耐えるだけが、俺の人生じゃない。俺には別の道もまだ残されているんだ。それに気づかなきゃいけなかった。今の会社で奮起して職場での立場を変えていくのか、別の会社で一からやり直すのか。選択は自由だ。もう他人の目など気にしない。
俺は自分自身に活を入れた。
『死ぬ気で生きろ。死んだら彼らが迎えてくれる。彼らを同じ立場で宴会をする、その日を楽しみにして生きろ』
俺は、人目も気にせず、笑顔を作った。一人でいきなり笑いだす男など他人には気色悪いかもしれないが、もう気にしない。
この俺の笑顔は、明日への希望の笑顔なのだ。やりたいことがまだたくさんある。この際、やりたいことリストを書きだして一つずつクリアしていこうか。登山にサーフィン、海外旅行、世界遺産巡り。それからなんだ、家でも買って大きな犬でも飼うか。 いや、まだ足りない。思いついたこと全部やろうぜ。
死ぬにはまだ早い! ひとあがきたりないんじゃねえのか、俺よ。
頑張れるところまで頑張ろう。無理しない程度に。
まだ生きよう。あの世が待ってる。