1.宴の始まり
秒針が、カチカチと神経質に時を刻む。
この時代に珍しい古風な造りの時計塔は、その後方に位置する美術館と揃いで建てられたものだ。アナログ時計など見たことも無い子どもたちの良い遊び場として、休日の昼は多少の賑わいを見せている。
日は落ちて、現在の時刻は午後十時三分前。当然、朝から夕方にかけて集まっていた子どもたちも家へと帰り、そこは静寂に包まれていた。
しかし今日は、少し様子が違うようである。
――街灯によって嫌味のように明るくなっている美術館は、モスグリーンの制服を着用した警官という名の雑踏に囲まれ、さぞ鬱陶しそうに佇んでいた。モスグリーンの群れは皆が皆、緊張と焦りに包まれた表情で、動きを続ける。やがてそれは、その道を行く者しか理解することが出来ない複雑なポジションを踏み、止まった。
「今度こそ逃がすな! 俺の面子を潰すんじゃねェぞ!」
質の悪い放送器具を通したのであろう、多少ノイズがかった野太い声が当たり一面に響き、更に強く大きな緊張の波がよぎる。明らかに近所迷惑になりそうなところだが、生憎この辺り一体は美術館と時計塔を囲む公園のお陰で、住居は無い。
迷惑になるのは、その森の住人たちなわけで。声と同時に、鳥たちはビクリと震え、木の洞の中の子栗鼠は長い尾で自分を包み込む。
そんなことは知ったこっちゃ無いとばかりに、声の主はモスグリーンではあるが他の警官とは異なるトレンチコートを身に着け、その地位の違いを見せ付けていた。
そんな、何も知らない者からすれば極めて滑稽な、だが関わりあいたくないような光景を一望できる場所に、二つの人影があった。ライトアップされた美術館を囲う公園の隅からその距離、三百メートル。この区間にしてはさほど珍しくも無い四階建てマンションの屋上で、彼等は細く口元を歪めた。
「――大変そうだなー。相も変わらず」
公園から吹き抜けてくる風を顔に受けながら、黒髪の青年は微笑む。その長い黒髪は緩く一つに結われ、風に遊ばれサラサラと流れた。それはまるで、初めて動物を見た赤子のように純粋で無垢な笑顔だったが、同時にそれを青年が持つこと自体の狂気をも示している。
彼が青い手袋をした右手で黒髪を掻き上げる様は、明るい夜の中で異様なほど美しく、絵になった。
「貴方がその原因の癖に、何を言っているんですか」
黒髪の青年の横には、風に靡く癖の無い栗色の髪を鬱陶しそうに払いのける少年の姿。彼は、早春の寒空の中冷たくなっているであろうコンクリートの床に座り込み、カタカタとノートパソコンのキーボードを叩いている。少年の手の動きに合わせ、青色のウィンドウが幾つも宙に映り、文字を表示しては消え、忙しない運動を繰り返す。パソコンのディスプレイを空中に移すことが出来るようになったのは、もう随分と前のことだ。
「……出来ましたよ」
「ふーん。きっかり三分で元に戻るの?」
「僕のハッキングの腕、見誤ってるんじゃありませんか?」
眉を顰めて少年に機嫌の悪さを隠さない視線を向けられ、青年は苦笑して「いや、そんなことは……」と曖昧な返事を返す。
「ほら、後三十秒ですよ<星の怪盗>さん」
「嫌味たらしーな。……つか、俺はその名前気に入ってないんだって」
「はいはい。分かりましたから」
軽く受け流してパソコンのディスプレイを閉じていく少年の栗色の後頭部を、青年は微笑まい心情で、眺めていた。こういうところは、やはり青年に比べて子どもなのである。
パソコンと言っても、正方形の板のようなもの。少年は小さなソレを器用に折りたたみ、そっとそのグレーのコートの中に忍ばせた。
それを確認した青年が、細く微笑む。
「さあ。始めようか」
演技染みた動作で、オペラの役者のように言って見せた青年は、軽やかに屋上の柵の上へと舞い降りた。パッチンと一つ右手を打ち鳴らせば、あらかじめ仕込んでおいたライトが光る。
少年も慣れた様子でその隣に並ぶ。近くに立って始めて、青年の方が頭一つ分ほど背が高いのが見て取れた。
青年は、歌うように告げる。
美術館の前に並んだ警備員たちの視線と、集まってくる観衆に微笑んで。
まるで、魅せ付けるかのように。
「今宵も、宴の始まりだ」
蒼いビロードのマントと濡れ烏のような漆黒の髪。
「……了解」
若草色のスカーフにアクアマリンの眸。
「皆さん! 怪盗プラネテスが、聖なる月夜をお届けします!」
それぞれが、一気に停電した夜の街と、午後十時を知らせる幻想的な時計塔の鐘の音の元へと溶けて行った。