『桜』
桜の花の命は一週間ほど。
それはまるで蝉の成虫の命のように儚いものだ。
そう毎年同じ季節にだけ。
現れていつのまにか消えている
一瞬のうちに消えて…なくなってしまう。
―その一瞬が私は好きだ―
「今日も…ハレだ…な。」
私は読書をしていた。
仲間は皆今頃学校で特訓を受けているはずだ。
私はその特訓が嫌で抜け出してきた。
もうすっかり葉桜になってしまい誰も気にすら留めない桜の木の下で。
一ヵ月半ほど前に大空襲があり東京はすっかり焼けてしまった。
いっぱいの人が死んだ。
…あの光景はもう一生忘れる事は出来ないだろう。
溶けていく家…わが子を探し泣き叫ぶ親…
燃え盛る行く手は思い出すだけでぞっとする。
身近な所で言えば私の弟が…まだ幼かった弟がその被害者となった。
それでもこの桜の木が被害に遭わなくて良かった。
私はそっと木の表面を撫ぜる。
ざらっとしたあの木の感触がリアルに手に伝わってきた。
見上げなければ全体が見えないほどの、どんなに腕を伸ばしてもぐるっと一周させることが出来ないほどに大きな木。
ここまで成長するまでに何年かかったのだろうか?何十年…いや何百年かもしれない。
ちっぽけな私なんかよりも…いやこんな馬鹿げた戦争をはじめた天皇や米兵たちよりもずっとずっと長生きなのだろう。
この桜はこの国の時代の変化を見てきていたはずだ。
「ねぇ…読書してるの?それ…なんていう本?」
いつの間にか目の前に少女が立っていた。
「…走れメロスだけど…。」
太宰治の…。と付け加えると少女は頷く。
「面白い?」
「まぁ…。」
同い年かその前後位かと思われる少女は長い髪を二つに縛っていた。
「高校生…じゃないの?」
それはこっちの科白だ。
「あんたこそ良いのかよ。お国の為に働かなくて…サ。」
近所の中学生がやっていたように祈るように胸の前で手を組み少女を見つめた。
「あら失礼ね。今日は空襲警報が出たから帰ってきたのよ。ちゃんと今日もお国の為にお勉強していたのよ。」
少女は子供のような笑みを見せた。
「…空襲警報?」
読書に夢中になっていたせいか全然気づかなかった。
確かに空の向こうからB29が去っていくのが見える。
「またいっぱい死んだのかな?」
少女は不安そうに言った。死傷者は一人も居ないという答えを期待しているのだろうが、私にはそんな嘘はつけなかった。
「日本は…勝てないよ。」
私は言った。なぜそんなことを言ったのか。ただその言葉に少女は唖然とした後そうね。と優しく微笑んでいた。
「貴方の家は疎開しなかったの?」
「生憎弟が病気を患っていたものでね。私は疎開したことになってるんだけど大空襲の少し前に戻ってきちゃったんだ。」
「故郷が恋しくなったの?男らしくない人ね。」
少女は本当におかしそうに笑っていた。
「ははは、いや…弟の病状がね…悪化したみたいで…それで戻ってきたんだ。最期だけでも一緒に居たかったから。」
今度は少女は笑わなかった。
「…ごめんなさい。」
彼女は泣いていた。
「なんであんたが泣かなきゃいけないんだ?」
私はハンカチを取り出すとその涙を拭いてやった。
「何で…だろうね?なんでこんなに簡単に泣いちゃうんだろう。なんで人は…こんなに簡単に泣く事が出来るのに人殺しなんて出来るんだろう?」
真剣なまなざしだった。
じっと…けっして見つからないであろう答えを求めるかのように。
「なんで…だろうな。」
私は本をそっと閉じた。もう読書する気にはどうしてもなれなかった。
ヴーゥヴゥー…。
敵の来た事を表す空襲警報が町中に鳴り響いた。
「今度こそ逃げた方が良いかもね。」
彼女は立ち上がった。
「今更燃やすものなんてあるのか?」
私はあざけ笑った。声を上げて。でもなぜだか涙が止まらなかった。
それから四ヵ月後…私の予想通りこの国は負けた。
たくさんの犠牲者を出して。
あの日以来…私はあの少女に会えていない。
あの桜の木は今でもあの場所に立っているのに…だ。
2009.4.24