05 声のない少女
城の外の世界を知らず、森の中を抜けた先にあったものは晴れた空だった。馬車の中からでも感じる草木のいぶき、街のざわめき、空の色。全てが新鮮だ。
誰かに蔑まれることがなければ、折檻を受けることもない。体を貪られるようなことだって当然なく、夜は体を休めるための時間だと、静かだった。
足の怪我のせいで一人で歩けないシルヴィアはドミニクに抱えられて馬車を降りる。初めての場所に緊張して体が強張っているのか、アロイスと同じくらいの年齢の男であるドミニクに抱きかかえられていることに恐怖を感じているのか、本人にもわかっていない。
なにかを口にしなくてはと思っても、声が張り付いたように出てこなかった。
足を怪我していると、用意された長椅子に降ろされたシルヴィアは大きく息を吸う。ドミノクの腕の中で無意識の中で呼吸が浅くなっていたのだ。
「はじめまして。ドミニクの妻エーファでございます」
城にいる頃何度も受けた淑女の挨拶に、シルヴィアはいつものように頷いて返す。城では権力闘争に関わらないように極力自ら話しかけるな、返事を返すなと、教えられていた。
「シルヴィア様、あなた様はもう王女ではないのですよ」
ドミニクの指摘に困ったように俯むいてしまう。
死んだことになっているシルヴィアはもう王女の身分ではない。今までの生活と違うのだと、わかっていても、苦しみから解放されたとしか認識していない。
王女だからと至れり尽くせりの生活ではなくなると、思っていない。シルヴィアにとってそれが当たり前だった。それ以外の生活はお伽噺のものだ。
今だって、ドミニクに抱えられてここまで来た。エーファから淑女の挨拶をされた。自分の振る舞いのなにがいけないのかわからない。
「シルヴィア様。同じように、はじめまして。で、いいのですよ」
「……はじめまして。シルヴィアです」
「はい。道中お疲れでしょう。これからはここを我が家と思ってお過ごしください」
エーファの優しい笑顔はいつかのクリスティアーネを思い起こさせた。またいつか、大好きな母と暮らせる日がありますようにと、小さな胸で祈りる。
シルヴィアの足の怪我を馬車に乗る前に見せた医術師の力では足の痛みを和らげるだけだった。改めて呼んだ医術師でも、出来ることは変わらず、完治ににはほど遠い。
骨折くらい簡単に治せると豪語していた医術師は己の未熟さに肩を落として帰っていき、なにか呪いでも受けているのではないかと、呼ばれた呪術師の所見でもなにもない。
ゆっくりと足が治ることを待つしかなかった。
歩くことの出来ないシルヴィアの世話係として側に置かれたのは、彼女よりも少しだけ年上の少女だ。
ザシャという少女は言葉が話せなかった。彼女自身に起こった不幸から言葉を失ってしまったのだ。言葉がなくては不便で、彼女の家族もどうしようもなく、領主家ならばどうにかしてくれると、彼女を捨て置いていってしまった。
少しだけ似た境遇の歳の近い二人ならばお互いを慰め合い、助け合うことが出来るだろうと、ドミニクの老婆心からシルヴィアの側に置かれた。
実際、話せないザシャをシルヴィアは不憫に思い、ザシャもまた、歩けないシルヴィアを気の毒に思い、甲斐甲斐しく世話をする。
その様子は主従関係にありながらも、姉妹のようで友人のようだった。
夜も更けた頃、シルヴィアは体を背筋を走る不快な緊張に目をかっと開く。今の今まで男の手で体をまさぐられていたような忌避感。アロイスが体の上に乗っていたような感覚。
噴き出してくる冷や汗と止まらない体の震え。
場所の確認をするように体を起し、震えを押えるように自分の肩を抱き込む。体を温めるように丸めても震えは止まらない。
思い出すアロイスの満足げな顔に、吐き気まで込み上げる。
体を労るような優しい暖かさ包まれ、震えが引いていく。
震えるシルヴィアの体をザシャは暖かく抱きしめていた。
ここにアロイスはいない。もう彼は死んだのだ。もうシルヴィアの体を弄ぶことはない。自分勝手な愛情に傷つくことはないのだ。
幼子のようにシルヴィアはザシャにしがみつく。
寝付けるまでと思いながら、その晩は朝目が覚めるまでシルヴィアはザシャに抱きついてた。
ザシャが側にいるだけで、アロイスの事を思い出す夜は減っていた。彼女が側にいることで、シルヴィアは心安らかに夜を過ごすのだ。
歩き回ることが出来ないだけで時間を持て余すことになったシルヴィアは本を読んで過ごす。
城の書庫に負けずとドミニクの蔵書は多かった。だが、空想を綴った物語が少なかったせいもあり、魔術の本をシルヴィアは読みふけっていく。
昼夜を問わないシルヴィアにドミニクは苦言を申すが、本に魅了された彼女は本を手放さなかった。
熱心に読む姿に知識をため込むことは悪くないかと、ドミニクは黙って見守ることにした。
「ザシャ、その本逆さまになっているわ」
ザシャがたった今本棚に戻した本の背表紙が逆さまだった。恐縮したように頭を下げたザシャはその本を直す。次にしまわれた本も逆さまだ。他にも片付けを頼んだ本の幾つかも、上下逆にしまわれていた。
「ねえ、ザシャ。もしかして、字が読めない?」
シルヴィアの問い掛けにザシャは慌てて振り返る。
「隠さなくてもいいの。字が読めないなら、今から覚えればいいのよ」
ザシャは大きく頷き、笑顔を向ける。
嬉しそうな顔にシルヴィアも顔が綻ぶ。彼女と一緒に本が読めたらきっと楽しいだろう。
ザシャを近くに座らせて、本にある字を一つずつ指さし、聞かせていく。
「あ、これ……ざ、しゃ。これとこれで『ザシャ』ね」
今、シルヴィアが示した字をザシャが指で辿る。
「そう! 『ザシャ』! あなたの名前。次は……」
楽しそうにシルヴィアはザシャに字を教えていく。読めるようになれば次は書けるように。一緒に本が読めるようにと思って教えていた字は、ザシャに言葉を与えることになった。
言葉が話せなくて、困っていたザシャも人に物事を伝えられる手段を手にしたと、喜んで覚えていく。シルヴィアと筆談で話すザシャはおしゃべりだ。
夢中になってシルヴィアとおしゃべりをするザシャは、仕事を疎かにしてしまうこともあったが、今まで話せなかった鬱憤があるのだろうと、ほんの少しだけ見逃されていた。
また、字を覚えたおかげで仕事の幅も広がったのだ。尋ねたくても言葉がなくて聞けなかったことも、筆談で行うことができる。たったそれだけでも彼女の世界は広がった。
二人が寄り添う姿は本当の姉妹のようだ。その頃にはもう、シルヴィアは一人で歩けるようになっていた。