03 狩人の優しい笑み
なにも知らないシルヴィアはドミニクの後を静かについて歩く。森の中で迷子にでもなれば、なにがあるかあるかわからない。
城の外へ出られる機会は貴重だ。気分転換に狩りに行かないかと、ドミニクの提案を受けて出てきてしまったことにシルヴィアは若干の不安を覚えていた。彼を信用していいのか考えあぐねているのだ。
城では両親をはじめとした大人を信用出来ないからだ。誰もかれもがシルヴィアの受ける仕打ちを見て見ぬ振りをしていれば当然だろう。
シルヴィアと縁もゆかりもないドミニクだ。泣き顔を彼に気が付かれなければ今ここにシルヴィアは来ていない。
「どうしました? シルヴィア様?」
優しい笑みを向けてる男にシルヴィアは首を横に振る。少しでも城から離れていたいとの思いが勝り、ドミニクへの信用は二の次になっている。
「疲れたら仰ってくださいね」
労るような言葉をかけられたのはいつ振りだろうか。厄介者と扱われることの多いシルヴィアにとってはそれだけで嬉しい。
森の中は気持ちが良かった。
澱んだ空気はなく、清々しい風が心地よい。
後ろ指を指すような声はなく、鳥たちのさえずりが美しい。
鼻先を掠める草花の香りは心を穏やかに 、自分の境遇を忘れさせてくれた。
突然立ち止まったドミニクにシルヴィアは戸惑う。本で知る森には人を襲う生き物もいる。今それが近くに居るのだろうかと恐怖が湧く。そして、目的が狩りだったことを思い出す。
ドミニクは振り返り、シルヴィアに向き合う。
「こんな事を申してはいけないのでしょうが、お城から逃げ出そうとは思わないのですか?」
突然の事にシルヴィアは固まる。思い立った事もなかった。シルヴィアを愛しているのだと体を求める父に、隠すことのない嫉妬から憎悪と嫌悪だけを向ける母。見て見ぬ振りをする城の者たち。
「逃げるって……どこへ」
「どこへでも。あなたの思う場所へです。自分はシルヴィア様の殺害を命じられております」
ドミニクの言葉にシルヴィアは後退りする。
「あなたを殺したふりをすることは簡単です。証拠に持ち帰るように言われているものは肺と肝臓。森の動物に身代わりになってもらえばいいのですから」
「……こんなにも汚いわたしを、助けてくれるのですか?」
震える声に今にも涙が零れそうだ。
「汚い? あなたは殺してしまうには持ったないほど、綺麗だ」
ドミニクはシルヴィアの黒髪を一房手に取り唇に寄せる。
シルヴィアは彼から距離をとるように後ろに下がる。ドミニクの手から溢れた黒髪はさらさらと流れるように落ちた。
「わたし……」
逃げ出せば母はどうなるのだろうかと、かつての優しかった頃の母の笑顔が浮かぶ。
「殺されてもいいのですか? あなたの母親が自分に命令したんですよ」
殺したいほど憎まれていたのかと、シルヴィアの中にあるクリスティアーネの笑顔が黒く塗りつぶされていく。胸の動悸を抑えるように胸の前で手を組み、一呼吸置く。
「わたしを助けてください」
「畏まりました。小さなお姫様」
凜とした声で、迷いなく助けを請うシルヴィアにドミニクは跪く。
ドミニクの教えられた通りにシルヴィアは森の中を進み、ドミニクはクリスティアーネに肺と肝臓を持ち帰った。
肺と肝臓なんてどうするのかと思えば、その日の夫婦の夕食に用意されたものはキドニーパイだった。
アロイスの好物だ。庶民の食事に近いものをと、王となった日から質素なものを好んでいた。シルヴィアに関する事以外は出来た国王なのだ。食事にしても、衣装だって式典などの必要時以外は歴代の国王の中ではなにもかも質素だ。本人は民衆に寄り添った国政をしているつもりでいる。
「今宵の食事は畑を荒らしていた猪ですわ。肉の良いところは娘と城で働く者達に。臓物は私たちが」
クリスティアーネの話を聞いているのか、アロイスは久し振りの好物に舌鼓を打っていた。
「謙譲された猪はとても……そんなに慌てて食べなくても、国王である貴方から誰も取り上げたりしませんわ」
クリスティアーネは微笑む。
「貴方のキドニーパイは特別ですのよ」
特別と言う言葉にアロイスは顔を上げる。質素倹約を旨とするアロイスには気にとまる言葉だ。
「そのパイには貴方の大好きなシルヴィアが入っていますの」
食べかけのキドニーパイに視線を下ろす。
旨いと息を呑むことさえ忘れて食べ進めた皿の上には、もう殆ど残っていない。
強烈な吐き気に押えることも出来ず、その場に吐き出す。全てを吐き出してもまだ、吐き気が収まらない。
「まぁ……吐き出してしまっては、シルヴィアが可哀想ですわ」
笑みを浮かべるクリスティアーネに気味が悪いとアロイスは声を出そうとしては、吐き気に遮られる。
「大好きなシルヴィアと一つになれるのに、なにを泣いているのですか?」
睨み付けるアロイスに冷淡な眼差しをむける。
「シルヴィアと同じ場所に行けるように」
アロイスの吐瀉物に血が混じる。
「ちゃんと林檎も入れておきましたよ」
血を垂れ流すように吐き出すアロイスが動かなくなるまであっという間だった。どうして自分はこんな男を愛していたのだろうかと、動かないアロイスをクリスティアーネは頬を伝う涙を拭うこともなく、じっと見つめていた。