二章の2 初戦は苦痛と共に
施設の、開かない窓から月が見える。やや黄色味を帯びた、みなれた丸い月。それを見て連想する物はいろいろある。吸血鬼、狼男……
「(……なんか碌なものが無い気がするな。月の兎も、もとはと言えば焼身自殺したんだっけ? かぐや姫も結局最後誰も幸せにならないしな……)」
どうにもネガティブな考えになるのは、寝ていないこと、あと場所の事もあるだろうか。満月は昔から人の精神に影響を与えるというし、それもあるのかもしれない。だとすれば、背後から聞こえる叫び声もまた、満月のせいなのだろうか。
「(それだったらどれだけ楽なことか……)」
目を閉じて、溜息一つ。休憩を返上し、問題の処理に向かおうと目を開けると、窓から見える月が二つに、色は氷のような青、血のような赤……
目前の空は白み、薄青の中を雲が流れていく。隣を見れば、その空と同じ色をした髪の少女が、すやすやと寝息を立てていた。
「(夢、か)」
異世界生活10日目、春の54日。
教えてもらった暦によれば、そろそろ夏が近づいているはずだが、まだ早朝の空気は少し肌寒さを感じる。白湯でも飲めればいいのだが、すでに焚き火は消え、燃料となる枝も昨日で使い切ってしまっていた。
荷物から黒パンを取り出し、ナイフで薄く切る。スープなり何なりで柔らかくして食べるのが本来の食べ方だが、今そんなことはできないため、せめて薄く切って食べやすくする……2,3枚切ったところで、鼻にかかった声と共にアルフィリアが体を起こした。
「おはようございます、ご主人様」
「ん~、おはよ……私もうちょっと薄い方が良いんだけど」
起きるなりパンの厚みに注文を出すアルフィリア。元の世界では、パンは切れているものだったからなかなか勝手がわからない。とりあえず、8枚切りの食パン程度の厚さにして、それと前の宿で汲んだ水で朝食を済ませる。
「よし、じゃあ出発」
毛布を丸めてリュックに乗せ、アルフィリアは歩き始めた。いつもフードを頭にかぶっている彼女にしては珍しく髪を横に流し、どことなく表情に開放感があるようにも見える。
「今日は、フードをしないのですか?」
「え? ああ……いちいち纏めるの面倒だしね。それに、人通りもなさそうだし」
「髪を見られることに、何か問題が?」
「当たり前でしょ? 目立ってしょうがないじゃない、青い髪なんて」
「(こっちの世界でも、青い髪は珍しいのか……)」
「……あんたとは一緒に移動するし、どうしたって見られるだろうから見せたけどね。それとも、あんたの世界では、青い髪は珍しくないの?」
「いえ、自然に青い髪を持つ人間はいないはずです」
「そう……」
会話が止まった。確かにあの青い髪は目立つだろうし、今のところ追手が居ないとはいえ、もし聞き込みなどをされれば間違いなく口に上るだろう。だが、仮にそうなったとしても、相手が探しているのは逃亡奴隷である自分……あるいは、馬車を襲った『異界人解放戦線』のメンバーのはずだ。アルフィリアが解放戦線のメンバーであるとは考えにくいし、青い髪が珍しいのなら、解放戦線にたまたま青髪が居る、と言うのも無理があるように思える。
そうなると、最初に考えた、アルフィリアに後ろ暗いところがあるのではないかと言う疑念が頭をもたげる。髪の色を理由に差別を受けていた、ということも考えられるが、習得に専門の勉強が必要らしい魔法を使えるあたり、それなりにきちんとした環境に居たのだろう。貴族か何かで、髪の色を理由に全寮制の学校へという可能性も捨てきれないだろうか。背を向けたままの彼女からは、その背景を窺い知ることはできない。
「(まあ、考えて答えの出る物でもないけど……)」
広葉樹と針葉樹が入り混じった森の中、お互いに沈黙したまま石畳を歩くことしばらく。太陽が見上げるほどの高さになった頃、その静けさを破る声が聞こえた。
サイレンの音を低くしたような、吹きそこなった笛のような、動物の声。方向や距離までは解らないが……
「……ご主人様、今……」
「聞こえてる。狼ね……」
「あの、昨日の獣避けを使っておいた方が良いのでは……」
「あれは寝るときに使うものなの。動きながらだと、薄まって効果が無い……とにかく、今は急いで先に行くわよ」
「……ちょっと待ってください」
荷物の中から弩を取り出して弦を引き、矢をつがえた。予備の矢をベルトのポーチに入れ、それを手にしたまま、街道を足早に歩く。
「(当てられるか……? 難しいだろうな……何せ相手は生き物だし……)」
「(餌をやってその隙に逃げるとか……?)」
「(いや、そもそもこれまで一人で生活してたんだし、狼くらい何とかできるんじゃ……?)」
右隣を歩いているアルフィリアに目を向けると、視界の右端で何かが動くのが見えた。振り向けば、灰色の犬を一回り大きくしたような動物、それが全部で四匹。地球で実物を見たことは無いが、それが狼なのはまず間違いない。
道を塞ぐように横に並び、じりじりと近寄ってくる狼たち。その足がどのくらい早いのかは解らないが、荷物を背負ったこちらよりも遅いとは思えない。
「ご主人様……」
「イチロー、三十秒ほど、息を止めてなさい」
「え?」
「息止める!」
こちらに続いて振り向いたアルフィリアは外套の胸元から試験管ほどの小瓶を取り出した。中には透明な液体が揺れているのが見え、こちらが息を大きく吸い込み、手で口と鼻を覆ったと同時に、栓のコルクが勢いよく引き抜かれ、地面を転がすように狼に向けて投げつけられた。中の液体が地面に流れ、そこから陽炎のような透明の揺らめきが地面に広がり……途端に、狼たちが苦しみ出す。
爛々とこちらを見据えていた目が閉じられ、低いうなり声はくしゃみの様な短い鳴き声に変わり、鼻水を垂らしだした。何かを振り払うように体を震わすものも出たが、やがて耐えかねたのか、狼たちは繁みの中へと消えていった。
「……ぷはっ。どう? 狼なんてどうってことなかったでしょ」
「今の瓶は……」
「簡単に言うと、喉や目に悪い空気をばらまく薬。まあ、伊達に一人暮らししてないってことよ」
そのまましばらく息を止めていたが、驚いたか、とでも言いたそうな声と表情で、アルフィリアが先に声を出した。どうやら催涙ガスのようなものだったらしい。人間より敏感な鼻で吸い込んだら、たまった物ではないだろう。
「そういう物があるのでしたら、言ってくれれば……」
「まあ、いいじゃない。済んだんだから」
「それはそうですが……」
「そんな事より、その弓仕舞っておきなさいよ、暴発する前に」
悪びれた様子もなく、瓶を回収しようとする。彼女から目線を下げ、矢を地面に撃とうとした瞬間、背後から茂みが揺れる音が聞こえた。振り返って目に入った物は、こちらに駆けて来る一匹の狼。
息をのみ、手にした弩を向けて矢を放つ。だが……その矢は、狼の横にそれて地面に突き刺さった。
「(外し……!?)」
狼は10mほどの距離を一気に詰めてこちらに飛び掛かってくる。咄嗟に左腕でその牙を受けたが、腕の中から木の枝が折れるような音がすると同時に、地面に引き倒された。牙が目前に迫り……
「こんのーっ!」
狼の横っ腹が思い切り蹴飛ばされた。怯んだのか、飛び下がってアルフィリアに向き合う狼。手傷を負わせたこちらが力尽きるのを待つか、目の前の小柄な人間を噛み殺すか、一瞬迷ったのかもしれない。
選択の結果は、後者だった。たじろいで、一歩下がったアルフィリアめがけて、牙を剥き飛び掛かっていく狼。だが、その牙が肉に食い込む前にこちらは立ち上がり、左肩からの体当たりで、狼を下敷きにする形で地面に倒れ込んだ。
声を上げる余裕もなく、体と左腕で狼を押さえつけ、腰のナイフを逆手で抜き、暴れる狼に突き立てる。作業用の小ぶりなそれでは、小さな傷にしかならない。だから何度も、何度もその胴体へ突き立てた。
いつの間にか暴れていた狼は大人しくなり、それに気づくと同時に、左手から火のついたタバコを何個も押し込まれたような痛みと、全身に疲労感が襲ってきた。
「あぐっ……! あ!!」
「……傷口見せて! 早く!」
アルフィリアが、噛まれた左手の袖をまくった。赤黒い血と、白と黄色とピンクが入り混じった肉が見え、腕の中から鋭い痛みがする。
「早く……あの時の魔法を……」
「あの魔法はただ傷を治すだけ。体の中に、牙から病気の元が入ってるかもしれない……!」
「(狂犬病……!?)何とか、それを治す方法は……」
「病気を治す魔法は使えない……薬も、手持ちには無い」
「そん、な……!」
狂犬病の致死率はほぼ100%だという。異世界の病気だから、あるいはもっと低いかもしれないが、まともな治療ができないという状況はその希望的観測を打ち消してあまりある物だった。
「そんな目で見ないでよ。手がないなんて言ってないでしょ」
アルフィリアは少し考えた様子を見せると、リュックを漁り、茶色いガラス瓶、乾燥した何か植物のような物、さらに転がっていた狼の死体を地面に並べる。そして指から魔法を使う時の光、オドを出し、それら三つを囲むように複雑な紋様を描き始めた。
「できれば、もうちょっと下処理したかったけど……仕方ないか……!」
手のひらをかざすと、薄い光の線だった紋様は強く輝き、並んでいた品々が光の粒子と化し、互いにぶつかり合い、一つに集まってアルフィリアの手元へと収束していく。その輝きは徐々に弱まり、光が消えると、手の中には白っぽくどろりとした半固形の物体が残されていた。
「よし……! さ、これを傷口に……」
「ま、待ってください! 何なんですかそれは!?」
「薬よ! たった今作ったの!」
「今って……!」
得体のしれないクリームを薬だと言われても、使うのはためらわれる。しかも見た限り、普通の作り方ではない。重傷を負ったこの状況で、本当に使うべきかどうか、すぐには判断が付かなかった。
「……ほら!」
こちらの猜疑心を読み取ってか、彼女はそのクリームを指で一すくいし、自身の口へと運ぶ。
「毒なんかじゃないから! もし病気になってたら、あんた死ぬのよ!?」
「……わかりました……お願いします……!」
少なくとも、彼女の態度はその効能に少なからず自信を持っているように見える。それに、感染していないことに賭けるよりは、怪しげな薬でも使った方が、まだ生存確率が高く思えた。
傷口から染み出す血を水で洗い流し、そこにクリームを塗りつけられると、傷の痛みに薬がしみ、思わず叫ぶ。
「あが……あっ……!」
「しみるくらい我慢!」
「(しみるなら言ってほしかった……!)」
地面に横たわったまま、歯を食いしばって苦痛に耐える。傷口全体を覆うようにクリームが塗られると、焼けるような痛みは、染み込むような疼きへと変わっていった。
「……ひとまず、ここを離れましょ。血の匂いで狼が戻ってくるかもしれない」
「わかり、ました……」
地面に刺さった矢と弩を回収し、二人足早にその場を離れる。どのくらい歩いたか……再び日が傾いたころ、ひとまず安全だと判断して足を止めた。
「傷、見せて」
クリームの効果なのか、疼きは幾分か収まり、出血もほとんど止まっていたものの、傷口はまだひどい状態だった。アルフィリアはそこに紋様を描く。初めて会った時にも使ってもらった、治癒の魔法だ。紋様が光を放つと、まるで早送りの映像のように肉が互いに盛り上がりくっつき、表面に薄皮が張る。痛みもたちまち収まっていって、光が消える頃には、少し痕が残った物の、元通り動かせるまでになっていた。
「……どう?」
「痛みはありません……治ったようです」
「そう……なら、いいんだけど……」
薬と魔法を使った当の本人が、どこか心配そうな様子だ。クリームがぬめって少し気持ち悪いが、袖を伸ばして手近な枝を拾い集め、焚き火の用意した。
日が沈み暗くなった森の中、焚き火に投げ込んだ枝が、爆ぜる音を立てながら火をまとう。周囲に撒いた獣避けのおかげか、あるいは同族の血に警戒したのか、狼たちが再び現れることは無かった。
食事を済ませ、後は寝るだけだが……いつもならさっさと寝てしまうアルフィリアが、もう一度傷を診たがった。
「……治ってる、わね」
「ええ……ありがとうございます」
「ああ、うん……あんた、傷が治りやすい体質だったりする?」
「いえ……なぜ?」
「もっとひどい傷跡になるかと思ったんだけど……まあ、薬との相乗効果もあったのかしらね」
「……あの薬を作った魔法は、一体?」
「えっ、と……」
アルフィリアは押し黙ってしまった。こちらからあからさまに目を逸らし、焚き火の反対側まで戻ってしまう。しばらく悩むそぶりを見せていたが、意を決したのか、ゆっくりと顔を上げる。
「あれが、錬金術よ」
「あれが……やはり、錬金術師だったんですね」
「やはりって……気づいてたの!?」
「なんとなく、程度ですが……」
「……もうちょっと、言動に気を付けるべきだったか……」
「大丈夫です、誰にも話したりしませんから」
「当たり前よ! って言うか誰かに話したら、あんたも逃亡奴隷だってバラしてやるから!」
落ち込んだかのように顔をうつむけたかと思えば、跳ね上げるように上がる。彼女のテンションと同期しているかのような仕草からは、禁術を操ると言うネガティブなイメージはまるで湧いてこない。そもそも錬金術が禁術ということも、地球の感覚からすれば違和感がある。広く受け入れられたからこそ、後の科学へと繋がっていったはずだ。
「……それほどまでに、厳しく規制が? あんな材料から、強力な薬を作れるのなら、むしろ歓迎されそうなものですが。」
「あんなって言うな。あの薬草、かなりの高級品だったのよ」
「そ、そうですか……」
「何で禁術かなんて、知らないわ。私はただ、親から受け継いだだけ。けど、それなりに自慢だし、どうせなら上手く使って、褒められたり感謝されたりしたいって思ってる。もちろんお金だって稼ぎたいし、色々楽しいことだってしたいわ」
「意外と、俗っぽいんですね……」
「私にどんなイメージ持ってたのよ。まあ、思うだけで……ずるずる逃げ回ってたんだけどね。あんたの事は、いい切っ掛けだったのかも」
「テルミナスに着いたらそれができる、と?」
「色々、噂を聞いた程度なんだけどね。商業都市だけあって、お金さえ稼げれば大概の事は許されるらしいわ」
「錬金術を使うことも?」
「だと、思う……さて、あんまり夜更かしするのもなんだし。今夜は念のため交代で寝るわよ。何かあったらすぐ走るから、荷物は手近に置いて、ランタンも点けておいて。そうね……マイラが頭上に来たら交代しましょ」
「マイラ……とは?」
「青い方の月。赤い方がケータ。本当、あんたには色々教えないといけないみたいね」
「すいません……」
「ま、奴隷の面倒見るのも主人の仕事か……それと」
「はい?」
「……ありがと、思ったより根性あるじゃない」
「……偶々です」
「じゃ、先に寝るからね。おやすみ」
敷いてあった毛布に横たわり寝息を立てるアルフィリアは、その直前、小さく微笑んだように見えた。彼女に対して抱いていた疑念は解消された。やはり彼女は錬金術師だったのだ。錬金術は禁術、使えば密告される危険があることも承知していたはずだ。少なくとも悪い人間ではないと判断しても、良いのかもしれない……そんなことを考えながら、練習用の矢を弩につがえる。
「(次に外したら、死ぬかもしれないしな……)」
放った矢は、狙いを上に逸れた。回収してつがえなおす。
「(……そう、死ぬところだった……)」
次は、下に逸れる。狙いが悪いのか撃ち方が悪いのか、そもそもの精度が悪いのかはわからない。
「(二回目だからか……思ってたより、ショックも無いな……)」
もちろん、狼と対峙した時や噛まれた瞬間、死の恐怖に襲われたし、アルフィリアに襲い掛かる狼に体当たりしたのも、考える以前の咄嗟の判断でしかない。しかし事が済んでしまえば、それをどこか冷静に受け止めているのを感じていた。
こちらに来て二週間、この世界に居ることを受け入れたと思っていたが、やはり、まだ現実感の喪失が続いているのだろうか……自分の精神を、客観的に分析することはできない。今できるのは、手元にある物を使いこなせるようになることだけだった。
「(まさか少女の笑顔で勇気が湧く、なんてベタな話じゃあるまいし。まあ、恐くて震えるよりは、いいのかな……)」
真上には赤い月、ケータが浮かんでおり、流れ星が左右に流れていく。青い月、マイラはまだ見えない。練習する時間は、たっぷりとありそうだった。




