八章の6 切られる火蓋、上がる炎
声のした方を振り向く。ヘルミーネの背後にランタンの灯り。光の輪ははっきりと彼女を捉えていた。ランタンの男が剣を抜くのが見える。
「(撃つか……!? いや、誤射が……!)」
ヘルミーネはこちらに向けて走り出していた。その体に隠れて、山賊を狙うことができない。迷ったその間にヘルミーネの束ねた髪が掴まれ、その背に剣が突き立つ……
「な、何だこりゃ!? 固え!」
「離せー! 離さんかい!」
致命傷かと思いきや、掴まれたまま暴れるヘルミーネ。そちらに駆ける。鉈に持ち替え、走る勢いそのままに振る。こちらには気づいていなかったのか、無防備な首に刃が。人と変わらないその顔がひきつる。若干の抵抗が腕に。温かい飛沫が手に。粘ついた水音。
「はあ、もうあかんかと思た」
安堵の声を漏らすヘルミーネだが、状況は最悪に近い。
「何だ!?」「血の匂いがするぞ……」「今の声はアンブロージョか!? 何があった!」
騒ぎを聞きつけた山賊たちが次々と焚き火から離れ、武器を手にこちらに向かってくる。隠密行動は失敗し、敵の数は圧倒的。仲間を殺したこともすぐに知れるだろう。後は、嬲り殺しにされるのを待つばかりだ。
「(ヘルミーネを囮にしたら自分だけでも逃げられるか……? そういうわけにも行かないか……!)」
集団に突っ込むわけにも行かず、岩壁の方へ追い込まれていき……ヘルミーネともども、包囲された。矢じりと穂先を睨みあわせ、背後には硬い石。
「ほーお、ネズミが逃げ出したか。チャーミゴの奴はどうした? そっちも死んだか?」
その包囲の輪の外から近づいてくる、背は軽く2m以上ある人影。手足、首が非常に太く、体毛は無く、代わりに全身が白っぽい、甲羅と言うべきか鱗と言うべきか……石のような物で覆われていた。声からして、小屋の中でボッグザッグと呼ばれていた人物だ。
「まあ、なんであろうが俺の部下を殺してくれたんだ、チリーノ、こいつはお前の不手際だぞ? 生け捕りにしたのはお前なんだからな。もう計画は破綻したってことでいいよな?」
「も、もうしわけない! どうぞこのガキを煮るなり焼くなり!」
異様な姿の相手ではあるが、これは最後の好機かもしれない。リーダーが倒されれば、あるいは。
「(頭を、確実に……!)」
距離は数m。自分の腕でも十分狙える距離。額に矢じりを向け、引き金を絞る。まっすぐ眉間に矢が飛び……乾いた音を立てて弾かれる。
「なっ……!?」
「嘘!? 今当たったやん!?」
焚き火で逆光ではあるがこの距離で見間違えは無い。武器やら何やらで弾き飛ばされた、というのではなく、確かに額に命中して跳ね返された。
「残念だったな? 見ての通り俺の体は石で覆われている! 魔法ならどうか知らんが、そんな矢程度じゃ傷つかんよ!」
「なんやそれ! これやから異界人は!」
「どんな進化したらそんな……!」
余裕綽々といったふうに自身の胸を叩いて乾いた音を立てるボッグザッグ。最後の一手も無駄に終わった。鉈で叩き割れるような物にも見えないし、前には部下が控えている。
「殺れ。女の方は好きにしていいぞ」
ボッグザッグの声と共に山賊たちがこちらに。矢が風を切る音。複数の悲鳴、倒れる山賊。
「何だ!?」
「(何……?)」
こちらに迫ってきた山賊たち数人の肩や頭に矢が刺さっていた。自分達と山賊、互いに戸惑いの空気に包まれ、足が止まる。
次の瞬間、目前に迫っていた一人が真上から降ってきた何かに飛び掛かられ、鈍い断末魔を上げた。月と焚き火の光に浮かび上がるその『何か』は……
「虎……?」
顔まで包む縞模様の体毛、頭の上に二つ並んだ耳。光を反射して輝く目。さらには山賊の首を噛み砕いた、牙の並ぶ口。虎としか言いようのないその顔だが、二本の足で立ち、服を着て、そしてはっきりと、喋った。
「ボッグザッグ! 山賊気取りもここまでだ!」
「ティーゲリヒ! この縞々野郎が、どういうつもりだ!?」
「とぼけるな、ネタは上がっているんだ! 組織の金をかすめ取り、その上仲間殺し! アドルフも、もはや許せんそうだ!」
聞き覚えのある名前。いや、それよりも。少なくともこの虎人間はこちらに目を向けてはいない……今は。
「ぶっ殺せ!」
どちらともなく、その声が上がり。岩壁の上から矢が振り、武装した人間が門を押し開けてなだれ込んでくる。たちまち、野営地の中は乱戦になった。
「な、なにがどうなってんねん!?」
「内輪もめのようです! 今のうちに!」
剣戟、飛び交う矢、怒号、悲鳴、それらの間を目につかないよう屈んで進む。乱戦になった岩壁側から離れ、門まで数mの所に来た時。
『グオオオオオ!!』
獣のような声を上げ、岩と虎、二つの影が門に激突する。ティーゲリヒと呼ばれた虎は鼻や口から血を流し、ボッグザッグは表面に傷こそついているが、これといって血も流さず平然としている。
「残念だったなティーゲリヒ! 目や口を狙う、鈍器で殴る、確かに効くぜえ? だが……そうくると解ってりゃあなあ!」
「グウッ……まだまだあ……!」
いつしか、剣戟の音は止んでいる。乱戦になっ
ていた方を見れば、参加していた者たちは皆地面に倒れ、あるものはうめき声をあげ、あるものは血だまりに沈んで動きを止めている。お互いに戦力を損耗し、立っているのはこの異形2人、ということらしい……爪で、岩のような拳で、お互いに相手の命を奪い取らんとする。
「隠れましょう……!」
「そうやな……あんなんに入っていったら命がいくつあっても足らん……!」
相手の注意がこちらに向く前に、物置らしい小屋の中へと身を隠す。中は木箱、壷、その他色々な物が並び。そして……その家具の影で震える男、チリーノ。
「わひいっ!?」
こちらに気付くや否や、腰を抜かして後ずさる。人を騙して殺そうとした……と言うより一人殺したのだったか。その割には何とも情けない姿だ……むしろ、その相手が武器を持って現れたから当然なのかもしれないが。
「何や、こいつ……」
「私を騙した商人です……さて、どうしてやったものか」
「は、話し合おう! 金なら出す!」
言った奴は大体直後に死んでいそうなセリフを吐くチリーノ。話し合うつもりなどさらさらないが、命まで奪う理由は……
「(……あるか)」
「まて! 待ってください! お願いします!」
どうするかはさておき、とりあえず自由は奪っておこうとチリーノに近づく。小屋の隅へと逃げる彼は慌てた拍子に壷をひっくり返し、中の液体が床に広がって、嗅いだことのない臭いが鼻を突いた。
「これは……」
「この臭い、松脂やな。松明か何かに使っとったんやろ」
靴に付いたそれは、粘り気があってぬぐうのにも苦労する。松明に使うということはよく燃えるのだろう……
「(まてよ……)」
ある考えが浮かぶ。ここに隠れていても今の様子ではボッグザッグが勝つだろう。そうすればどのみち終わりだ。なら、やれることをやってみる意味はある。とりあえずその辺りにあった縄でチリーノを拘束してから小屋を探索し、松脂の入った壷、あと幾つかの物を掴み、表に出る……外では、ティーゲリヒに馬乗りになったボッグザッグが拳を振るい続けていた。
「(あんまり時間は無さそうかな……)」
たき火の方へと急ぐ。酒盛りの途中で騒ぎになり、放置された酒瓶の数々。それらを一つ一つ手に取り、中身を焚き火の中に零していく。
「(どれか、一つくらいは……!)」
鉄板に水を落とすような音を立てる物が続き……ある酒瓶が、火の中に雫を落とした瞬間激しく燃え上がる。
「(あった!)」
その酒瓶の口にボロ布を詰めて松脂を吸わせ、縄で括る……後は思いきりの勝負だ。松脂の壷を手に、ボッグザッグの背後から忍び歩きで近寄る。ティーゲリヒはもはや殴られるがまま。あるいはもう死んだのかもしれない……いつ、その岩塊のような頭が振り向くか。そもそも今のうちに逃げるべきだったのではないか、そんな考えを胸中に収めながらも、壷を両手で掲げ……後頭部めがけて振り下ろす。
乾いた、ある種心地いい音と共に壷は割れ、中に満たされていた松脂が石に包まれた体に降りかかる。
「ふぅ~……邪魔すんじゃあ……ねえよっ!」
言葉と共に繰り出された拳。後ろ跳びで何とか勢いを殺すが、それでもまさに岩をぶつけられたような衝撃が顔面を襲い、鼻から熱い液体が滴り落ち、口の中に血の味が広がる。それなりに重い壷、多少なりともダメージがあるかと思ったが。まったくこたえているようには見えない。
「そんなに死にたいなら、そっちから先に殺してやろうじゃないか。首を折られるのが良いか? 脳みそをぶちまけるのが良いか? ……ん? この臭いは……」
たき火に走り、瓶の口に付けた布に火をつける。
「ちっ!」
ここに来て初めて、ボッグザッグに焦りの色が見えた。どうやら、これは看過しかねるらしい。左右へのフェイントをまじえながら、こちらに向かってくる。ただ投げるだけなら外してしまうかもしれない。しかし。
「(よく狙って……今!)」
「おっと!」
相対し、火の付いた酒瓶を投げる。それを横に躱すボッグザッグ……その動きに合わせ反対の手で持った縄を横へ薙ぐように払った。
あるいは夜でなければ。あるいは乱戦での疲れが無ければ、あるいは顔に被った松脂が無ければ、この簡単な仕掛けは見破られていたかもしれない……だが。
縄が張り、夜闇の中灯された火が弧を描き、ボッグザッグの顔へと吸い込まれていく。ガラスの砕ける音。青みの混じった炎が上がる。
「グアアアア!! この、チビの! 柔肌野郎があああああ!!」
たとえ肌が石で包まれていようが、元がどんな環境で生きていたかも解らない異界人であろうが。言葉を発し、肺呼吸する生物である以上、炎を吸い込めばただでは済まない筈だ。
燃えやすい酒から熱された松脂に火が移る。上半身が燃え上がり、踊っているかのように悶え苦しむ。叫び声はやがて絞り出すかのような声に変わり、地面に崩れ落ちた。
「(……一応……)」
燻っているその体に近づき、鉈を逆手に持つ。近くでよく見れば体を覆う岩は爬虫類の鱗のようで、隙間から肉が見えている。そこに鉈の先端を突き立て、首の中央を刺し貫いた。ボッグザッグは一瞬全身を震わせ、そして……それきり、動く事はなかった。




