八章の3 伏兵
金の計算が合わない。その言葉で職場の全員が集められることになった。給料や売り上げの話ではなく、全員が毎月出しているお茶代のような物だ。一応ダイヤル式の手提げ金庫には入っていたが、持ち回りで管理するため開け方は皆知っている。
計算が間違ったのか盗まれたのか、いずれにしても誰が犯人かなどわかるはずもない。だが、自分が金庫を弄っていた写真が出され、状況は一変した。
もちろん、盗んでなどいない。しかし、その写真を出したのがその時お茶代を管理していた事務員だったこと。金庫に自分で金を入れるよう、その人自身に言われていたこと。その二つで、自分がハメられたのだと気付いた。
反論は言い訳と切り捨てられ、周り全員がこちらを責めたてるように名前を呼ぶ。名前を呼ぶ、名前を呼ぶ、名前を……
「おい、イチローさんよ! 起きろ! 起きろって!」
名前を呼ばれて起きると、日は天頂から少し傾き、馬車の前には森が広がっていた。
異世界生活65日目、夏の19日
「危ないのはここからだ、そろそろ起きといてくれ」
「今から森に入るのですか? 森の中で夜になってしまうのでは……」
「解ってるよそんなことは。何のために緊急で護衛を呼んだと思ってるんだ」
「……護衛の立場としては、危険を冒してほしくは無いのですが……」
「儲けのために危険を冒す、そっちも同じだろ。そら行けビアッジョ!」
行動の決定権は向こうにある。少々寝不足なのは否めないが……そんな自分の事情は知らぬと言わんばかりに、馬車は枝と葉の下へと、進んでいった。
真夏の日光すら、生い茂った葉は薄めてしまう。涼しくなりはしたが、下がった明るさと、風で揺れる葉の音が、危機察知を余計に遅らせる……元々大して敏感なわけでも無いが。
「狼に食われるのは勘弁だな……あいつら、獲物を生きたまま食うんだろ?」
「そりゃ熊だろ。まあ、どっちにも食われたかないがな」
狼にせよ熊にせよ、荷物を引いたこの馬車より早いのは間違いない。そして全く守られていない馬が倒されれば、それで終わりだ。勿論、荷物、御者、商人、どれをやられても依頼は失敗ということになるのだろうが、一応は優先順位を付けるべきだろう。そうなると全員の生存に関わる馬、そしてそれを操る御者はやはり優先度を高くするべきと考えた。
「(少し不安定そうではあるけど……)」
「お、なんだなんだ、俺の隣に居たいってか?」
「できる限りのことはしておきたいので」
御者台に出て、前と左右の視界を確保する。襲われた時即反撃で倒せれば良し、そうでなくても、多少は怯んでくれるだろう。その間に走り抜け……追って来るなら。荷台から撃つ。簡単ではあるが、これが防衛作戦だ。御者の隣で、繁みや木の影に何かが隠れていないか目を配り、緊張した時間を過ごす。護衛を雇う理由があるとしたら、十中八九この森……ここさえ抜ければ、後は安心してもいいはずだ。
随分時間が経ち、森の中に刺す光が少なく、赤くなっていく。どうやら襲われないまま、夕暮れになったようだ。
「(いい傾向、かな……いや、危ないのはここからか……)」
「チリーノ……どうも、予定の時間に少し遅れそうだ」
「なーに、問題ない。少し待たせるだけさ」
辺りはますます暗くなっていく……しかし、馬車が止まる気配は無い。やがて日が沈んだのだろう。辺りは真っ暗になってしまった。馬車備え付けの大きなランタンで前方は照らされているが、それでも心もとない……と言うか、闇の中でこれでは『獲物が居る』と教えているような物だ。
「そろそろ、夜営にしましょう。まさか夜の間ずっと走るわけにも行かないでしょう」
「なに、もうすぐもうすぐ」
チリーノはまるで予定地点でもあるかのような口ぶりだが、この森の中にそんな目印になるような場所は無かったはずだ。少なくとも、アルチョム達と共に初めてここを抜けた時にはそのような場所は無かった。
訝しんでいると、やがて馬が足を止める。だがそこは、特に何かあるでもないただの道……
「(ん……?)」
繁みをかき分ける音。闇に目を凝らすと、ランタンの灯りを反射する剣、矢、光る目、そしてそれらの持ち主たる複数の……あるものは人間、あるものは巨大な単眼、あるものはイヌ科のような外見。総じて到底ガラが良いとは言い難い人物が、馬車の行く手を塞ぐように現れた。
「待ち伏せ……馬車を走らせて下さい!」
弩を構える。しかし相手が複数人いる以上撃つわけには行かない。一人撃てば残った全員が迫ってきてそれで終わりだ。脅しながら突破して、距離を取るしかない。幸い相手は徒歩、荷馬車とは言え簡単に追いつかれることは無い筈だ。
だが、馬車は動かない。怯えているのか、ビアッジョは何もせず御者台に座ったままだ。
「早く! 捕まりたいんですか!」
「まあまあ、落ち着けって」
妙に落ち着いたチリーノの声が背後からし……同時に、目の前を何かが通り過ぎ、首に巻き付いた。
「ぐっ……!?」
縄か何かか、絡んだそれを引きはがそうと手を当てるが、強く肉に食い込んだそれは、指先が入る隙間すらできない。荷物のように背負われ、足が浮き、完全に呼吸が阻害される。暴れてもその縄が緩むことは無く
「眠そうにしてたよな? 精々ゆっくりと休んでくれ」
ビアッジョの声がどこか遠くで聞こえ……目の前が、暗く な っ て




