十三章の8 命の価値、人の価値、仕事の価値
仕事から帰ると、母さんが泣いている。また、捨てられたのだそうだ。
「ごめんね、お母さんまだ世話にならないと駄目みたい、ごめんね」
わかっている、今までの生活が続くだけ。何も問題ない。
「優しい人だと思ってたのに……」
長々と嘆きは続く……そろそろ寝ても良いだろうか。自分の役割を果たすためにも、仕事が無い日くらいはしっかり眠りたい。布団を広げて転がる。目を閉じる……目が開く。天井にあった電灯は無くなっていて、頭痛の不快感が襲って来た……
異世界生活124日目、夏の78日
水汲み場で、顔を洗う。アルフィリアも同様だが、互いに言葉を交わさぬまま朝食。気配を察したのか、サンドラも今日は特に何も言わずに食事を終えた。
「(……やっぱり、こちらから切り出すべきか)」
中庭でブラッシングされているサクラを挟んでアルフィリアと向かいあい、座る。こちらに目を向け、再び落とされる緑色の瞳。
「その……昨日は、すいませんでした。不快にさせるつもりは、無かったのですが……」
「ん……」
「……全員生還が理想なのはわかります。ですが、私は英雄でも超人でもないんです、そんな、理想通りの結果など望むべくもありません」
「わかってる……私も、ごめん。その時の状況もわからないのに、あれこれ言う資格、無かった」
ブラシに付いた毛玉を捨てながら、少ししおらしさを感じる声で彼女もまた謝罪を述べる。昨日はお互い酔っていたのだ。ひとまずこれで一件落着と……
「でも、あんたの考え方が正しいって思ったわけじゃないから」
「(どうしてここで止めておけないかなこの人は)」
新たに立てられる波風に、流石に呆れにも似た反感を覚える。黙っておいた方が得策なのではあるが……
「では……あなたは、どうするべきだと思うのですか?」
「わかんないわよ、そんなの」
「えぇ……」
「勘違いしないで、私はあんたの判断が全部間違ってたって言うんじゃない。上手く、言えないんだけど。死とか命とかを、軽く見てるって言うか……」
サクラを仰向けにし、腹の方のブラッシングに入りながら。少し物憂げな様子でアルフィリアは続ける。
「私だって、そりゃ……助けられない人を見ぬふりしたことくらい、あるけど。それが正しいって思ったことはないし、出来る事なら助けるべきだと思う」
「私は凡人なんです、出来ることは限られている……しかも戦闘中でした。1人しか助けられないなら、戦えない者より戦える者を優先するのは当たり前のことで」
「そう言うとこよそう言うとこ! 判断自体がやむを得ない物だったとしても、それを『当たり前だから』とか『妥当だから』ってあっさりしちゃうようなとこ!」
「悩んで苦しんで後悔しようが、結果は変わらないでしょう」
「そうだけど! もう……何て言えばいいのかな……あんたが、どっかの貴族だとか、何千の兵士を率いる将軍だとかなら、それでも良いんだろうけどさ……」
結局の所、感情論なのだ。彼女の中には何かしら理想……あるいは『普通』と呼ぶべき物があるが、現実はそうではない。その簡単に埋められないギャップがストレスとなり、時折こうして爆発するのだろう。
「人間、上手く行ってる時と悪い時ってあるじゃない。手を貸してほしいのって、悪い時でしょ? だから、失敗とか怪我とか、そう言うのを理由に切るのが当然、なんてしてたら、あんたが助けてほしい時に、誰も居なくなっちゃうわよ」
「それは……」
……否、いや、違う。彼女は……心配しているのか、こちらを。
「それに、そういう考えって、裏を返せば自分が見捨てられることも受け入れるってことでしょ? 自分が失敗したから、自分に能力が無かったから、捨てられても仕方ないんだって諦めて……どっかで、1人、死んじゃったりしたら……それは凄く、悲しいなって思って」
これを、ポンペオやウーベルトが言ったのなら、一笑に付しただろう。どちらも形はどうあれこちらを見捨てたことがあるのだから。だが……
「私とあんたは、なんだかんだ持ちつ持たれつの所あるけどさ。やっぱり、その……どっちが突然居なくなるか、わかんないじゃない? ほら、商売柄、さ」
困ったように、小さく笑みを浮かべる彼女に対し、どうしてそんなことが言えようか。
「……イチロー? 大丈夫?」
「……あ、はい。大丈夫です」
ブラッシングの手を止め掌を眼前で揺らす彼女に、居眠りから覚めたような声が出る。
「(『聞いてる?』じゃなくて『大丈夫?』なんだな……)」
「まあ、だからさ……考えを改めた方が良いって言うか、なんて言うか……」
「……言わんとすることは、理解しました」
「そう?」
「ただ……ただ、私は……仕事を上手く行かせること以外、価値の証明方法が無いんです」
「価値、って……」
「価値は、色々です。金銭的利益を得られる、話していて楽しい、外見が美しい、権威がある、実績がある、将来の可能性、その他、色々……有形無形問わない、当人からもたらされる利益、あるいはその期待値。それがその人の……言うなれば、居場所を作るのだと思います」
「……」
人命は地球より重い、と言ったのは誰だったか。だが命と言うのは誰でも一つ持っていて……誰もが一つしか必要としない。いうなれば最も無価値なものの一つとも言える。自分自身の物は例外としてだが。それでも皆が口をそろえて命は大切と叫ぶのは、つまりこういった命の付随物に価値を見出しているからなのだろう。
「その中で私ができるのは、働いて賃金を得ることだけ。それすら出来なければ……何も、無くなってしまう。ですから、こと仕事においては……今回のような考えで関わるほか……?」
言葉が途切れる。いつしか顔は地面を向いていたが、頭に何かが乗って……動いている。
それはアルフィリアの手……撫でられていると理解するのに2,3秒かかった。
「な、何ですか」
「なんか、撫でてほしそうだなって思って」
「別にそんな……何をいきなり」
多少の気恥ずかしさと共に彼女の手をどける。どうにも、話の腰を折られてしまった……
「ほら、前にも言ったでしょ。あんたが沈み込んでたら手を伸ばす、って」
「……確かに、そんなことも言われましたが」
「あの時は怒って話を止めちゃったけど、今日は自分の考えも、話してくれたし」
「ああ……」
あの時から、考えは変えていない……こんなことを話しても、起こったことは変わらないし、価値観もそうそう変わる物ではない。不毛なのだ。重々わかっていたはずだ。
「まあ……あんたの考えも、ちょっとはわかったと思う……けど、せめて言い方とか、そのくらいは気を付けた方が良いと思うわ。そういう気遣いもあんたの言う『価値』のうちでしょ?」
「……ええ、そうですね」
「む、何か妙に素直」
「妙と言いますか」
「だってあんたって割と偏屈なところあるもん……ま、いっか。よし、サクラもだいぶ綺麗になったし、お散歩いきましょ。イチローも、今日は空いてるでしょ?」
「はい、お供します」
「よろしい」
だというのにこんな話をしてしまったのは、彼女に……理解してもらいたかったのだろうか。もし彼女がこちらに賛同していたら、自分はどう思うのだろうか。そんな考えを小さく嘲う。散歩に連れて行こうと、サクラの首輪に紐をつけ、アパートを出ようとしたとき。通りで慌ただしい足音が近づいてくるのが聞こえた。
「旦那! えらい事ですぜ!」
「ウーベルトさん?」
息を切らせて飛び込んできたウーベルト、彼の言うまま、探検者地区の広場へと向かう。そこでは、掲示板に人だかりができていた。
「一体何ごとですか?」
「あっしらが帰るときに使った遺跡でさあ。あの土地……市が供出令を出したんでえ」
「供出って……つまり強制的に買い上げるってこと? そんなのありなの?」
「ありなんでしょうなあ……で、もうすぐ額が発表されるってんで……」
その時、人だかりがざわついた。人ごみをかき分けて掲示板に進む者……あまり埃っぽくないその服装は、おそらく役人か何かだと想像がついた。彼は掲示板に紙を貼り出すと、用件は済んだとばかりにさっさと立ち去っていく。だが……ざわつきは収まるどころか、むしろその大きさを増していった。
「どうしたんでしょう?」
「ちょいと読んできまさあ。お待ちを」
ウーベルトが人ごみの中に紛れていく。しばらくして戻ってきたとき、その顔は驚愕の色に染まっていた。
「だ、旦那、えらい事ですぜ……」
「やはり、法外に安かったのですか?」
大体において、国だのなんだのは物を安く買いたたく……と言うのは偏見かもしれないが、そうでも無ければここまで騒ぎにはならないだろう。あまりに安いのであれば傭兵団、しいてはこちらの取り分にも影響が出かねない……
「驚かんで下せえよ、金貨36000だそうで!」
「さんまん、ろくせん!?」
「(3万6千……か)」
この世界、自炊であれば一日の食費がおおよそ銀貨1枚弱で賄える。その銀貨が50枚で金貨1枚。
「(ということは、3万6千は大体……20億円くらいか……?)」
「……落ち着いてやすな……いや、さすが旦那だ」
「単に、額が大きすぎて実感わかないだけじゃない?」
「私の国は島国なので土地が貴重で……そのくらいの値段がする不動産も無くは無かったんです。実際、高いんですか? 安いんですか?」
「もう、高えの高くねえのって! それだけありゃ、一家で使用人を雇って、死ぬまで贅沢暮らしができやすぜ!」
「なるほど……とはいえ、別に私が貰えるわけでも無いですしね」
「覚めてるわね~……」
ウーベルトの相場観から見ても、相当な高値らしいことはわかった。少なくとも、未払いに終わると言ったことはないだろう。ひとまずは安心ということで、サクラの散歩へと戻ることにした。




