柔肌の熱き血潮 4
グィネヴィアは裏表のありそうな男の申し出を飲み、罠があったら終わりだなどと多少の緊張はしつつ人の家にあがる覚悟を決めた。しかしながら、その道行きには随分と寄り道が多かった。はっきり言ってしまえば、彼女は散々につれまわされた。まずはざっくりと適当に切ったままになっていた髪をととのえるようにと床屋に放り込まれ、それから毛皮のコートや手袋や宝飾品を買い与えられた。
ザハレスク家は商家で――というよりも、世界に名だたる大財閥らしかった。レフはその財閥の取締役――副社長にあたるそうである。
レフの本日の予定としては、クリーオウに店舗をもつ子会社の視察ついでに娘の就学祝いの買いものをすませるというものだったらしい。そこにグィネヴィアという客人が増えたものの、結局彼は予定を遂行した。
グィネヴィアとしては勇者のことが気になって仕方なく、一刻もはやく遠くへ行きたいところだったのだが、やり手の商人である彼はグィネヴィアが目をまわす速度で贈り物を重ねることで逃げる隙を与えなかった。パンを買いに戻るだけではなかったのか――という文句すら言えなかった。
ゆえに彼女には買いものを楽しんだという感覚は微塵もなく、馬車に戻るころには、頭の中は様々な商品説明や次から次へと取り出されたきらびやかな品々がぐるぐるとまわって疲弊していた。あれが流行りだこれが似合うと積極的に口を挟んでいたヒルデガルドのほうも、鞄や万年筆や稀覯書を買い与えられ満足顔で疲れ果て、すでにうとうとと頭が揺れている。やがて幼子はぬいぐるみに顔を伏せて眠りに落ちた。
「こんなものかな。お疲れ様でした」
「ええと、たいそうなものをいただきまして、ありがとう存じます」
欲しいとも思わぬうちから与えられてしまうと、ありがたみは薄いのだが、たいそうな品であるのは確かだった。
彼女はおそらくその中でも一番の高級品であろう、コートの留め具となった青い宝石に手をあてる。宝飾店の主人いわく、矢車菊の色の最高級のサファイアだそうである。燦然とした煌めきとともに深く潤みがあり、最高級の名にふさわしく――そしてものの価値を知らぬ彼女も絶句するような値がついていた。彼女はシグルドの目に似ていると思い目を留め、そして値段ゆえに目を背けたが、それに気づいたレフはあっさり買い上げた。
そうこうしているうちに、グィネヴィアのうちにあった緊張と不信はずいぶんと拭われた。疲労と諦めが押し流したのもあるが、レフの仕事ぶりや彼へ寄せられる信頼を見れば、少なくとも優秀であることと、堅実な功績を残してきたことは確かだった。
「いえ、既製品ばかりで。まあ、そのサファイアは中々いいご趣味だ。春になったらペンダントにでも仕立てなおしてお使いになるといいでしょう。そういえば――今度の勇者がそんな色の目をしているそうだけれど、ご存知でしたか?」
「いいえ――。勇者が来ていたことは知らず、出て参りましたので。でもこの色の瞳は、知っているかもしれません。その方のお名前はなんと言うのですか?」
「彼の名はシグルド」
「ああ……。存じております。塔を出る時に、事情も聞かぬまま手助けしてくださいました」
「お会いになっていましたか。彼の噂は色々聞き及んでいますが、お聞きになられますか?」
「ええ……聞かせてください」
「彼はストウベリの辺境、ダウェン地方のエイリスで、騎士と妻の間に生まれた子だそうです。長男でしたので父親は跡取りとして育て、10歳をこえるころには、付近で並ぶもののないほどの腕前になったとか」
「ずいぶんと優秀な方なのですね」
「勇者ですからね――。ストウベリは建国以来の長年の平和を謳歌していますが、盗賊や魔物はたまに出ます。それらを退治して名をあげて、昨年フレデリク王がダウェン地方へ御幸したさいの、御前試合に参加しました。この御前試合の参加は普通16からなのですが、活躍がめざましければ特例が認められます。御前試合は伝統的に勇者探しもかねていますからね――。勇者はかならず魔王の後に生まれる。魔王の誕生は教会が感知しますから、だいたいのところはわかりますし。だから、それらしい年頃のもので才能があれば参加させる習慣です。そして見事にその試合彼が優勝しました。そしてあとは昔話にもあるように――勝者は報奨を得るため王の御前に進み出る。聖剣の管理者たる王は、その時も聖剣を佩いている。グラーニャは勇者に呼応して光輝き、勇者の存在が知れました。一昔前ならその場で剣を渡したのでしょうが、現代は色々煩雑で、本日城では授剣式とそれに続く祝賀が行われています」
「そうですか……」
「それから、勇者はたいへんな美少年だとも聞いています。いかがでしたか?」
グィネヴィアの顔色の悪さに気づいたレフは、年頃の女の子に噂話をふるような軽い口調でそう聞いた。確かにいるだけで周囲の明るくなるような美しい人であった――そう彼女の目から見ても思う。しかし彼女としては勇者は天敵だというおそれが先に立ち、スカートの上に重ね置かれていた手が拳をにぎった。
「そうですね。例えるならば朝日のような人でした。清らかでかげりのない、これから力を増してゆく光です」
――つい先ほど出会った、あの優しい少年が私を殺しにくるのだろうか。私が誰かを知り、あの瞳に軽蔑や嫌悪を乗せて、聖剣のするどいきっさきを向けるのだろうか。
容姿を知ったぶんだけ、グィネヴィアが昔からくりかえしくりかえし想像していた、己の殺される場面がくっきりと色づいて見えた。青いふたつの目がひたと彼女を見すえ、聖剣のきっさきが彼女に向けられる。その刃は皮膚を裂き、胸骨を避けて彼女の心の臓をつらぬくだろう。刃は抜かれ彼女は崩れ落ちる。勇者は血にまみれた剣をたかだかとかかげ、魔王の死を宣言する。それを彼女は見ることがあるだろうか。それとも、死というのはもっと速やかに、貫かれてすぐ意識を奪いさっていくものだろうか。
そして殺されることと同じくらい、一度は向けられた優しい微笑みが、冷徹な敵を見る顔に変わるだろうことが、たえがたく彼女の胸をしめつけた。
つい昨日までそれを望んでいた――どれほど惨めに、無惨に息絶えることになろうと、少しでもはやい完全な終わりを望んでいた。はやく殺してください勇者様――そんな祈りを毎日口にしていた。
「それでも私は、大人しく殺されるつもりはありません」
「いいですね。私はストウベリの人間ではありませんから、さほど神を重んじてはおりません。たわむれのような奇跡をおこす神よりも、金や金で動く人の力の方がよほど信用がおける。神の使徒たる勇者は現実に存在しますし、彼の存在は政治的にも――ひいては経済的にも重要ではありますがね。世界を揺り動かす力を持つのは、あなたとて同じことです。私はあなたを歓迎しますよ」
「ありがとう存じます。あなたは何かたくらんでいらっしゃる――。あなたのたくらみに、どれほどの力になれるかはわかりませんけれど」
「たいしたことではありませんよ」
レフはそういって穏やかに笑った。しかしそのあと、窓の外に目をむけて怪訝な表情を浮かべた。郊外に向かう道のひとつで小さな森に入ったところだ。木々は冬枯れて寒々しく、地を色づいた落葉があつく覆っていた。このあたりは落葉樹が多いからまだ見晴らしはよいが、むこうにはトウヒの木立が並ぶ。葉の落ちぬ常緑の木々は、とけきらぬ雪を化粧するようにまといつかせて、夏よりも暗いかげを作っている。
「おかしいな……道が違っているかもしれない。ねえ、君、朝はこの道を通らなかっただろう?」
御者に声をかける。
「へえ、旦那さま。お戻りのさいはこちらの道を通るようにと奥さまからのご指示です。なんでも、お嬢様にプレゼントがあるそうで」
「ラダの直接の指示か? そうではないだろうな。彼女は娘がいるのに暗い道を行かせたりはしないから」
「執事のかたのご指示ですが」
「……君はうちにきて日が浅いんだったね。誰が言ったか名前も覚えてないか。今すぐ引き返せ――といっても無理か」
「ええ、この道幅では。もう少し行ったら開けた場所がありますから、そこでしたら」
「多分それじゃ遅いよ」
「何かまずいことが――」
「大変まずい。君も覚悟を決めておくんだ。……ヒルダ、起きなさい」
レフは娘を揺り起こした。彼だけが事情を飲み込んでいて、危機感をいだいている。御者もグィネヴィアもそれを見て緊張を覚え――ヒルデガルドもぐずったりはせず静かに父親を見つめた。
「たぶんこの馬車は襲われる。どうせ私の実家から寄越された手合いだろうから、狙われているのは私と君だよヒルデガルド。だからね、隠れていなさい」
そういって彼は馬車の座席を持ち上げた。中には空間があり子供くらいならばそこにおさまる。ヒルデガルドは反論しようと口を開いたが、その前にレフが彼女のぬいぐるみと鞄を中に放り込んだ。
「トットが一緒にいるから寂しくないだろう。もし私がもどってこなくとも、ザハレスク家の跡取りとしてきちんとなすべきことをなすんだよ。学校にはちゃんと行くこと。友達は選ぶこと。――騒ぎがおさまったら、お母様のところへ行きなさい。今日は城に招かれて夜会までいるはずだ。屋敷には帰らず、また屋敷の人間が探しにきても信用せず、まっすぐお母様のところへ行くこと」
「お父様……」
「愛しているよヒルデガルド」
レフは娘の頭を優しく撫でて、娘を座席の下に放り込んだ。蓋を閉めて、その上に座し、何事もなかったかのように穏やかに笑った。
「そういうことですので、しばらく巻き込まれてください。グィネヴィア姫」