柔肌の熱き血潮 3
何はともあれ、グィネヴィアは外に出た。今彼女の前にはストウベリの王都、クリーオウの市街地が広がっていた。石畳がしかれて整備され、街路樹が植えられた美しい大通りが真っ直ぐに続いている。
そしてそこには彼女の知らない雑踏があった。ざわざわと波のように押し寄せる話し声、ときおり行き過ぎる馬車の馬の蹄の音に、車輪のきしむ音。うつくしく着飾った高慢そうな婦人や、せわしなく歩く医師風の青年。それから、どこからかただよってくる――パンの焼けるにおい。
長年幽閉の身であった少女をあらがいがたく引き付けたのは、噛みごたえのあるこんがり焼けた皮やその内側のふわふわと柔らかい甘さを想像させる、あの香ばしいにおいだった。
「それ、ひとつくださいな」
ふらふらとひきつけられたベーカリーには主食として切り分けるべき大きなパンが多かったが、四角い小さいパンに切り込みをいれ野菜とハムなどを挟んだハンバーガーともサンドイッチともつかないものもある。グィネヴィアは黒っぽい具がはさんであるそのひとつを指差す。
「はいよ。2イニね。すぐ食べる? 家まで持ってかえる?」
「すぐ食べます。ええと、どれがイニかわからないんですが」
グィネヴィアはお金の入った袋をあけた。少額の貨幣とおもわれるものをいくつか店番の青年に見せる。
「こっちの白いのがイニ硬貨。茶色いのはマイニね。100マイニが1イニだよ。というわけで1イニ硬貨を2枚いただくよ。ところでお嬢さんお金使ったことないの? 騙されないよう気をつけてね」
青年は気さくに話を続ける。
「これの具はブラックプティングだけど大丈夫? いいおうちのお嬢さんならあんまり食べないと思うんだけど」
「ブラックプティングですか?」
「そうそう。牛や豚の血からできてるから黒いの。癖があるから好き嫌いわかれるよ。栄養あるから若い女の子にはおすすめだけど」
「わからないけれど、試してみます」
「了解。焼きたてだからはやめに食べてくれると嬉しいな。ねえ、君、そのワンピースだけで寒くない? もう雪月も下旬だよ。お忍びなら早めに帰りなね」
グィネヴィアは答えられず、でもその気遣いを喜んで笑みを浮かべた。外に出てみてよかったと思う。この親切な青年も彼女がどういうものかを知れば、顔色をかえるのかもしれなかったが、それでも満足だった。
「お気遣いありがとう」
「はーい。また来てね」
店を出ると同時に、グィネヴィアはパンにかぶりついた。予想以上に皮がかたく噛みごたえがあり、やや酸味もある。ブラックプティングの癖はあるが濃厚なうまみと、くさみ消しに混ぜられた食欲をそそる香草のにおいが、その酸味のあるかたいパンに合う。
夢中で舌つづみをうちながら歩く。
隣に馬車が止まったのには気づかなかった。
「ねえ、そこの黒髪のすてきなあなた」
声をかけられて立ち止まる。
みなりのよい、小さな栗色の髪の女の子が降りてきてにこりと笑った。
「ずいぶん美味しそうなものを食べているじゃない? どちらのお店の品か教えていただける?」
「この道をまっすぐ行って、3番目の交差点をこえて右手です」
「わかりません。乗ってくださらない?」
そこでようやく世間知らずの少女は危機感を持った。前世で通った小学校で、知らない人の車には乗るなと教えられたのではなかったか。誘拐するための口実として、道を尋ねるという手があるから気を付けるようにと。
誘いかけているとうの人物が、誘拐の対象となりそうな愛らしい女児であるが。
乗りませんと断るべきだが、その前に女の子が続けた。
「そのパンもだけど、私あなたにもとても興味があります。だからいらして」
そしてグィネヴィアは、愛らしく愛らしく小首を傾げてねだる幼女に負けた。
馬車の中には幼女と同じ栗色の髪の30前後の男性が乗っていた。彼は品のいい苦笑とともに謝罪を口にする。
「娘のわがままに付き合わせてもうしわけない。ザハレスク家のレフといいます。こちらは娘のヒルデガルドです。さあ、ご挨拶しなさい」
ヒルデガルドは父親のとなりにいそいそと座り、大きな熊のぬいぐるみを抱き上げた。
「ヒルデガルド、8歳です。どうぞお見知りおきくださいませ。最近いろいろあって、今日は久しぶりのおでかけなの。この子はトットよ」
ヒルデガルドは機嫌よく、腕の中のぬいぐるみまでもを紹介した。天真爛漫な笑み――大切に、愛されて育ったこどもは、往々にして愛されることが当然という顔をするものだ。この愛らしい、栗色の巻き毛のこどもも、傲慢なほどに自信にみちた顔で笑う。
「ねえあなたは、なんておっしゃるの?」
「私は――」
グィネヴィアが名乗っていいものだろうかと迷っているとき、清らかな光の波紋が馬車を通り抜けていった。
「勇者様が剣を取られたのね!」
ヒルデガルドが弾んだ声で言った。
勇者があらわれるたびに、ストウベリの城では剣の授与が行われてきた。光の波紋はそのたびに観測されてきた現象である。有名な物語の中にもあるから、このように小さい子でもわかっている。そして、この国に住む女の子であればたいてい、多少なりとも心ときめかせるものだ。
幼女の父親は興味のうすい事件の記事を読むような、ややさめた目でみていた。こちらも成人男性としては少なくない反応である。とはいえ無邪気に勇者にあこがれ快哉を叫ぶ人も少なくはないのだが。
グィネヴィアはというと――静かに青ざめた。
顔に出してしまってはまずいと自らに言い聞かせたが、一度引いた血の気はそうそう簡単には戻らない。太ももの上で握りしめたこぶしは震え、青白かった。
それを見たレフは何か気づいたようだった。穏やかな笑みが消え、鋭い値踏みするような視線が頭の上から足先までなぞる。少女はその視線にさらに身体を強ばらせ、それに気づいた幼女は父親をこづいた。
「お父様、性格悪いのが顔に出てるわ」
「酷いなあ」
「それにしても、酷い顔色。あなた、何か事情があるのね――」
「その事情、だいたい推測できますよ」
幼女の父親は穏やかな、人当たりのいい笑みを浮かべた。誠実で勤勉そうな――見た目が内面を表しているとは必ずしもいえないが――ほとんどの人を一目で信用させてしまう表情だ。
「あなた、フレデリク王のところのグィネヴィア姫でしょう。フィン城から出ていらっしゃったのですね。……そんな顔をしなくても、大丈夫、引き渡したりしませんよ。といってもそう簡単に信用してはくれないでしょうけどね。幼い頃のあなたには一度会っているんだが、覚えてはないだろうなあ。そういえば、あなたが着ている服も、アニカに頼まれてうちが仕立てたものです。まあ、その辺の話はあとで屋敷で話しましょう」
「いえ、私はこれで……ご迷惑をおかけするわけにも」
「いえ、ぜひいらしてください。少し昔話でもいたしましょう。それから、魔王が何で勇者が何であるのか、という話も。ね、いいでしょう?」
そういって誘いかける声音は、驚くほど彼の娘に似ていた。彼の語ろうとする話に興味があったのは本当だが――頷きたくなる甘さがそこにはあった。この親子が誘惑が得意なのか、グィネヴィアが押しに弱いのか――。どちらにせよ、彼女は行くことにした。
「……お察しの通りです。フレデリク王の娘のグィネヴィアでございます。お言葉に甘えまして、お邪魔させていただきます」
「お招きできて光栄です。そうですね――まずはパンを買いに戻ってもいいですか? 娘に甘すぎるとは自分でも思うのだけれど」