雪の香り
「はなを抱く」別バージョンです。もともと、考えていたお相手役は、こんな感じのヒトでした。本編とすり合わせが出来れば、そちらに組み込むかもしれません。
疑問などその時浮かぶ間もなかったのだ。
ただ、花のような甘い甘い香りだけ、が。
心を支配する。
白い空よりの使者に閉じ込められる季節も、そろそろ終わろうとしている時期だった。
森の奥はまだまだ固く凍りついた雪で覆われているが、木々がまばらに生えた森の浅い部分では地面はぬかるみ、黒々とした地肌をのぞかせていた。
凍りつき流れを止めていた川にも水音が戻り、やがて来る春の先駆けを感じさせていた。
それでも空気は肌を刺すように冷たく、まして人も通わぬ森のこと、動くものと言えば冬でも眠らぬ獣か、枝から枝へと飛び移る鳥くらいのものだった。
自分たち以外には。
昨日までは酷く吹き荒れていた雪まじりの嵐も、今日はすっかりおさまっている。
灰色の空とは打って変わって、漂白されたような薄青の空が頭上には広がっている。
おそらくはあれがこの冬最後の吹雪だろう、と見当はついていた。
その証拠に、降り積もった雪は水っぽく、晴れ渡り気温が上がって来たこの時間、日が当たる部分では早や溶けかけていた。
吹雪いていた間、家に閉じ込められていた甥たちは、晴れ間を見た途端しきりに外へ出たがった。
くうんと甘えるように啼いて、がりがりと扉を爪で引っ掻いた。
そうして自分の方を見ては出てもいいかと強請る。
自分たち一族は、殆どの者が人と獣の姿両方を持っている。
人に変じる獣か、獣に変じる人か、どちらなのかはわからないままだが……人の中に紛れて生活していた。
今は事情があって森の中で暮らしているが、普段自分は街中で暮らしているし、仔狼のなりをしている甥たちは、妹夫婦と別の街で暮らしている。
まだ小さい甥っ子とはいえ、相手は獣に変じられるのだ。
人の形しか持たない自分が面倒を見るのは、仕方がない事とはいえ骨が折れた。
甥たちの懇願に根負けする。
家の中で大人しくして居られる習性ではないから、仕方ないとため息をこぼす。
自分の目の届く所にいること、と約束させたものの、さてどこまで甥たちが守るかは甚だ疑問では、あった。
普段なら甥たちにとっても慣れた森の事、放っておくのだが今は時期が悪い。
大きな岩を風よけにして、雪にまみれるのも気にせず転げまわる甥たちを目の端で捉えておく。金の毛並みはたちまち雪で真白になっていく。
取りあえずは泥まみれになられるよりはましかと思った。
山小屋を出る前に、乾いた布は沢山用意しておいたから、どれだけ雪まみれになろうが大丈夫だろう。
今のところは言いつけを守ってくれているが、遊びに夢中になれば、甥たちの小さな頭の中からは約束事などすっかり消え去るに違いない。
甥たちのような俊敏な足を持っていない身としては、非常に困るんだがなとため息をつきたくなる。
探すこちらの身にもなれと内心で呟いた時、ふと感じた奇妙な気配に眉をひそめた。
何かが森に入って来たようだった。
自分たちが居るこの森は、周りに住む住人から魔の森と呼ばれ恐れられている。
入り込んだ者を惑わすとも言われ、また恐ろしいものが棲むとも言われているらしい。
そんな噂があるためか、森の奥深くまで足を踏み入れてくる者は滅多にいなかった。
恐れを知らぬ子どもたちですら、昼なお暗い森に恐れをなすのか、親の言いつけを破ってまで冒険してくる者は稀だった。
人が立ち入らぬ森は、雑多な植物でますます生い茂り、昼日中でも光が届かないほどの暗さを増し……稀に足を踏み入れた者が居れば、抜け出る事が難しい迷いの森と化すのだった。
しかし森のごく浅い部分……街道に近い所へは、時折人が訪れている様子はあった。
というのも、森には珍しい様々な薬草が生えており、それを目当てにする者がいるらしかった。
魔の森は恐ろしいが、さりとて珍しい薬草は欲しい。
もしくは病気を治す薬にするために必要であるから。
密かに様子を探ってみれば、彼らがここを訪れるのはそういった理由であるらしかった。
魔の森とも迷いの森とも呼ばれていても、森の外縁部は彼らにとってもさして危険ではないのだろう。
しかし、そんなごく一部の者たちも、森の奥へはけして行こうとはしなかった。
森の奥には、もっと珍しくて貴重な薬草が生えているかもしれない、そんな事を思う者はいつでも居たのだが、いざ森の奥へと足を向けるたび彼らは足が竦んで動けなくなるのだ。
もちろん、自分たちは森の中の何処へでも行く事が出来るから……立ち竦む体に驚き恐れている彼らを窺いつつ、何故だろうと首を傾げてもいた。
そうすると、この森は自分たちにとっては恵みの森であるのだが、彼らにとってはまこと魔の森であるのだろう。
何かに妨げられるように、一歩も動けない彼らを見るたび、自分も知らぬ何かの意図が働いているような、何とも不思議な心持になるのだが、まあいいだろうと深く考える事はしなかった。
何かが在るにせよ、もしくは無いにせよ、それは自分たちにとって害となるものではないと、心のどこかで確信していたからかもしれないし、自分たちは何が在ったとしてもさして興味がないからかもしれない。
時折訪れる人間たちには、関わらないようにすればよいだけだった。
森を無闇に荒らさないのであれば、ここで暮らすものたちに無闇に関わらないのであれば、彼らの訪れじたいは気にすることではないからだ。
そういった者たちは大抵心得ていて、森にやって来るとそっと採集して、静かに森を去ってゆく。
その時必要なだけのものを採ってゆくのなら、それだけならば……森からの恵みを受け取ればよい。
その程度の事は、森は許している。
あとは、互いに干渉しないよう、気をつけてさえいればよい。
彼らにしても、密かに様子を窺う目がある事など、思いもよらないだろうが。
しかしこの時感じたのは、そういった者たちが放つ密やかな気配ではなく、煩くて耳触りで……何とも不快な気配だった。
思わず眉間の皺を深くしていると、同じく何かを感じたのか転げまわっていた甥たちはいつの間にか動きを止め、大きな目を見開いて空を睨んでいる。
何かの気配を探るように、ぴんと立てた耳をひくひくと動かしていた。
自分も何だろうと息を潜めて気配を探っていた時だった。
不意に何か……甘い香りを感じて戸惑う。
花のようでいて、花の香りでは、ない。
そもそもまだ花など咲く時期ではない。
春の先駆けの花でさえ、蕾すらつけてはいないのだ。
花を咲かせるべき枝はいまだ雪を纏っているし、地に至っては硬い凍りついた雪で覆われている。
それなのに、何処からか馥郁たる香りが漂ってくる。否応なく誘われる惹きつけられる香りだ。
思わずふらふらと足を踏み出そうとして……その前に力強く地を蹴り、駆ける二つの足音に意識を引き戻された。
甥たちはともにどこかへと駆け出していたのだ。
何かに引き寄せられるがごとく、まっすぐ迷いなく駆けてゆく。
見る間にその姿が小さくなる。舌打ちをして、その後を追いかけはじめた。
甥たちのような四足ではなく、こちらは二つ足だ。すぐに追いつけはしないが、追いかけないわけにはいかなかった。
森の外までには出ないと思うが、あの調子ではいささか心配だった。
先程まで感じていた甘い香りの事も一瞬頭から消えていた。
やはり大人しくしていなかったかと三度ため息を零すが、追いかけるうち奇妙な事に気付いた。
甥たちが駆けて行った方向、それは甘い香りが漂ってくる方向でもあったのだ。
それに気付いた途端、目眩を起こしたように視界が揺れる。
甘い甘い香り。花のような、いや、花よりも甘い。ずっと傍で嗅いでいたいような。
どさりと音を立てて雪が枝から落下した。
その音で、束の間の夢から覚めたような心地になる。
足は惰性で走りながらも、意識を飛ばしていたらしかった。
頭を振りながら、これは一体何だと低く唸る。
こんなことは初めてだった。惹き寄せられる甘い香りも、意識が霞みそうになるのも。
向かう先に……一体何があるのだろうかと思いながら、ともすれば引き摺られそうになる意識を何とか保ちつつ、雪の上を駆けたのだった。
ゆるんだ地面。融けかけた雪と、その下の黒々とした地面が混じり合う辺り。
雪と泥になかば身を浸すようにして。
その人は目を閉じ手足を投げ出していた。
随分森の中を駆けたが甥たちにはまだ追いつけない。
甥たちほどではないが、自分もそれなりに早い脚を持っているのだが……このまま行けば森を出てしまうだろう。それほど街道に近い所までやって来ている。
森特有の湿った空気が薄れ、外の乾いた風さえ感じられるような場所だった。
先程感じた不穏な気配は、もう感じられなかった。
あれらは森から立ち去ったのだろう。それにはひとまず安堵する。
騒がしい気配は何とも気に触るからだ。
けれど……ますます甘い香りは強まっている。
それがとても気にかかった。
急く心を宥めながら雪の上を駆け、凍っていた地面がゆるみ、雪に泥が混じる所までやって来た時。
地面に蹲り、何かをしきりに舐めている甥たちをようやく見つけたのだ。
甥たちは近づくこちらにも気付いていないのか、振り向きもしない。
何をしているんだとため息一つついて、傍に近寄り……目に映ったものに息を呑んだ。
むせかえるほどの甘い香りに、思わずぬかるんだ地面に膝をつきそうになる。
それを必死に堪え、ぎりぎりと唇をかんだ。
ぶつりと嫌な音がして、薄い皮膚が噛み破られ血の味が口の中いっぱいに広がる。
それを気にする余裕はなかった。否、そうでもしなければ衝動のまま振る舞っていただろう。
そうするわけにはいくまい、と頭の片隅、奇妙に冷静な部分が呟く。
同族、あるいは同類であれば納得される振る舞いであるが、この場合……自分の場合本能のまま振る舞えば、訪れるのは有難くもなく、また悲惨な未来だ。
それを聞き知っているから、衝動の波をやり過ごし何とか手綱を取ろうと歯を食いしばり、喉の奥から唸るように息を吐き出した。
ぬかるんだ地面に、しろい肢体を浸し。
細い手も足も、黒々とした泥にまみれ。
融け残った雪の上に散る髪は、枯葉色。
閉じた瞼は青白く透き通って……二度と開く事がないかのように見えた。
微動だにしなければ、まるで人形が打ち捨てられているかのようだった。
しかしぴちゃぴちゃと舐める音に混じり、微かに呼吸音が聞こえている。
甥たちがしきりに舐めているのは、未だ目を開けない彼女の、胸辺りであるようだった。
霞みそうになる意識を引き戻し、そして気付く。
甘い香りに混じり、乳の匂いがすることを。甥たちはその匂いに引かれたのだろう。
そうすると、彼女は子を産んで間もないのだろう。
ならば、細い体に不似合いなほど、張り出した胸にも頷ける。
魔の森に放り出された、子を産んだばかりの若い女。
何やら厄介事の気配が濃厚だ……などと、余所事を考えているが、そうでもしていないと暴走しそうで怖いからと言えば、恐らく妹辺りは鼻で笑いそうだった。
どさり、とどこかで雪が落ちる音がする。
気付けば日が陰りはじめ、風も出始めた。
このままここで莫迦みたいに突っ立っていても仕方ないし、何より冷たい泥の中に彼女を置いておくわけにはいかなかった。
覚悟を決めて近寄り、しきりに乳を舐めていた甥たちを引き剥がす。
甥たちにとっては久しぶりに口にした甘露であろうから、引き剥がしたあともしきりに未練がましく鼻を鳴らしている。
しかし、それを宥めてやる余裕などない。
抱き上げた体を腕の中に囲い込み、冷え切った体を少しでも温めようとする。早く体を温めてやらねば、体を損なってしまうだろう。
身の軽さと細さに驚きつつも、濃くなった甘い香りに……体の中がざわざわと落ち着かない。
それを、深く息を吐き出すことで逃がす。
甥たちは先導するように、自分の前を駆けてゆく。
その背を見ながら、妹に心の中で呼びかける。
お前の言った事は、まったくもって正しかった、と。
確かに、一目で“それ”とわかった。
とうとう見つけた伴侶を前に、どこまで理性がもつか懸念しながら、再び森の中を駆けだしたのだった。
END
お読みいただき、ありがとうございました。