パンドラ
開けるべきか、開けざるべきか。
むかしむかし、ある美しい娘が禁を破り、神が残した黄金の箱を開けたという。そしてその中からは、病気、貧困、犯罪など、悲しみの源が噴き出し、世界中に飛び散ったのだった。
神は、無垢で非力な原初の人間から、ありとあらゆる災いを隠していたのである。
ないほうがいいもの。しかし決して、人の世からは消えないもの。
知らずに済ませたいが、避けては通れない。人は必ず、その箱を開けねばならぬときがくる。
その底に何があるのか、確かめるために。
東急東横線H駅より徒歩十五分のアパート、「カーサ・エアロスミス」二○一号室。
倉田 成人はその部屋の前に立ち、インターホンのボタンに手を置くが、なかなかそれを押すことができずにいた。
目の前の部屋には、彼の恋人が住んでいる。
広次 美夕。大学のゼミが一緒だったのが縁で、付き合い始めた女性である。
二人が交際を始めた当初、周囲は大いに驚き、しかしすぐに納得した。
――なぜ驚いたのか。
二人の容姿に、大きな格差があったからである。
美夕は大変な美人で、モデル並みにスタイルもいい。
対して成人は、自他共に認める地味系だ。不細工とまではいかないが、うっすい顔立ちである。中肉中背、顔も普通。成人と出会った人々は、五秒で彼を忘れるだろう。
――そんなアンバランスな二人の交際を、皆はなぜ納得したのか。
美夕は性格がきついのだ。彼女にちょっかいを出した結果、完膚なき「口撃」に晒せれ、日本海溝よりも深く深く撃沈された男は数知れず――。だから、美夕に対する周囲の男子の評価は、「可愛いけれど、付き合うのは絶対にお断りだ」といった厳しいものだった。
そんな女と付き合えるのは、「ガンジー」という二つ名を持つほど温厚な成人くらいだと、そう思われたのである。
故に、成人と美夕の交際が明らかになったとき、男たちはどちらかというと成人に同情的だった。しかし当の成人は幸せの絶頂にいたのである。
彼にとって美夕は、初めての彼女だった。しかも、向こうのほうから告白してきたのである。確かその理由は、「成人はあまりに人が良くて、絵やツボを買わされまくりそう。放っておけない」という、わけの分からないものだったが。
多少クセのある女とはいえ――否、それくらいなければ、フェロモンが欠如しており、ただただお人好しなだけの自分が、こんな美しい恋人を得ることなんて、できなかっただろう。
それに美夕の態度も、慣れてしまえばなんてことはなかった。彼女は確かにひとしきりギャンギャンやかましく吠えるが、それで気が済むと、実に甲斐甲斐しく成人の世話を焼いてくれる。少々素直ではないが、成人にとっては、そこも可愛く思えた。
美夕がツンツンと意地を張り、誠がデレデレと鼻の下を伸ばす。そんな正しいツンデレカップルたる姿を晒しつつ、二人の交際は上手くいっていた。
――二人が大学を卒業するまでは。
――そりゃあ学生の頃は、ほとんど毎日会ってられたけどさ……。
インターホンの上の成人の指は、まだ動いていない。いい加減しびれてきた肘を堪えつつ、彼はため息をついた。
大学を卒業してから半年、二人はそれぞれ別の会社に就職し、忙しい日々を送っている。
社会人一年目というのは覚えることが山ほどあって忙しいものだが、特に成人の入った会社は残業の多いところだった。アフター5の予定を入れるなどもっての外だし、そのうえ不幸なことに、彼の会社の定休日は平日で、恋人である美夕のそれとは異なっていた。
仕事のあとも会えないし、休日も合わない。自然、彼女とのすれ違いも多くなる。
ただそれだけなら、寂しくはあるが、納得できる。社会人なら、仕方のないことだ。
だが――。
最近なんとなく、美夕の様子がおかしい。
たまに土日に休みが取れたときなどに、デートへ誘ってみても、すげなく断られてしまう。
理由はいつも「疲れているから」、または「忙しいから」。
――これは、どうなのだろう。恋人との逢瀬を断るのに、妥当な理由なのだろうか。
成人だったら、美夕に会えるのならば、多少無理をしてでも都合を付けようとするだろう。
――もしかしたら、他に男ができたのではないか。
短絡的だが、成人はそのような疑念を持つに至ってしまった。
美夕を信じたい。彼女はそんな不誠実な人間ではないはずだ。
しかし、疑いの気持ちは日に日に大きくなっていき――遂に耐えられず、成人はなんとか本日、土曜日に有休を取り、美夕の部屋の前まで来てしまった。彼女の仕事も、今日は休みのはずである。
そう。もうここまで来てしまったのだ。いい加減、覚悟を決めなければ。
――今までが、幸せ過ぎたんだ。
成人は美夕に告白されたときから、遠からずこんな日が来るだろうと、どこかで予感していた。
美し過ぎる美夕は、自分には過ぎた恋人だ。いつかあっと驚くほどのイケメンが現れ、彼女をさらっていくのだろうと――。
――そうだ。別れるなりなんなり決着を着けることが、美夕の新しい幸せに繋がるのだ。
惚れた女のために、身を引く。己の美学の麗しさに瞳を潤ませつつ、成人は腹に力を入れ、引きつった指を動かした。
ピンポンと軽やかな音が響き、しばらくののち、ステンレスの扉がゆっくりと開いた――。
「何よ」
恋人の第一声は、これ。
開いたドアの隙間から、美夕は成人をぎろりと睨んでいる。
――コワイ。
節度のある付き合いを好む彼女は、いくら恋人といえど、一人暮らしの部屋にはなかなか入れてくれなかった。どうしても入りたければ、「最低一週間前にはお願いし、許しを得ること」というのが二人のルールである。
「や、久しぶりに、土曜日に休み取れたからさ~。急に美夕の顔が見たくなって」
何とか笑顔を作ったものの、成人は背中に嫌な汗をかいた。
「………………」
チェーンがピンと張った向こう側で、美夕はふいっと成人の顔から目を逸らした。――この表情は、どうしたことだろう。
怒っているようにも見えるし、照れているようにも見えるし、焦っているようにも見える。
――焦っている?
もしかしたら今この部屋に、誰かいるんじゃないのか?
成人は背伸びをし、彼女の背後をそっと探った。
「……なに?」
美夕は不愉快そうに眉を顰めた。
「あっ、えーと、その……」
「まったく。あんた、変な勘は働くのよね」
「え………」
どういう意味か質す前に、美夕は一旦内側に引っ込むと、チェーンを外し、ドアを開き直した。
「盗聴とか盗撮とかしてるんじゃないでしょうね?」
「そ、そんなわけねーだろ!?」
――それをする勇気があれば、こんなにも悩まないのだが。
「冗談よ。何ムキになってんの?」
美夕は成人に背を向け、さっさと玄関の框に上がってしまった。
「こんなとこで話すのも何だし、入れば?」
「えっ、いいの?」
さっさと奥へ行ってしまう美夕の気が変わらないうちにと、成人は急いで靴を脱ぎ、小走りに彼女のあとを追った。
美夕が暮らすこの部屋の間取りは、確か1DKだ。玄関を上がってすぐ、ガラス戸がある。
ここを開けたら――男がいたらどうしよう。
冷静でいられるだろうか。取り乱したりしないだろうか。
こわい、こわい、こわい。
だが開けずにはいられない。確かめずにはいられない。
例え、不幸が飛び散っても。――いや、不幸になるのは、自分一人だけだが。
神話の「パンドラ」になりきって、一つ深呼吸してから、成人はガラス戸の取っ手に手を置き、横に押した。途端、むわんと湿気を孕んだ熱風が顔を包む。それから半テンポ遅れて、嗅ぎ慣れた匂いが鼻孔をくすぐった。
「ん?」
反射的に腹が鳴る。その音を聞いた美夕が、呆れ顔でこちらを振り返った。
「まったくもう。絶対どっかで見てたでしょ」
「いいにおい……」
ガラス戸を開けると、すぐそこは台所になっている。一人暮らし用にしてはなかなかしっかりした作りのそこで、美夕はガスコンロの前に立っていた。コンロには、寸胴の大鍋がかかっている。お玉で中身をぐるぐるかき混ぜながら、美夕は唇を尖らせた。
「カレー、今できたばっかなんだよ!」
何がなんだか分からないが、「出されたものは残さず食べる」が成人の信条である。だから彼は「美夕特製カレー」を米一つ残さず、すっかり平らげた。
「あー、うめー!」
たっぷり盛られたカレーは中辛だった。じゃがいも、にんじん、玉ねぎといったレギュラーメンバーはもちろん、ナスにしめじ、ブロッコリーといったいぶし銀の野菜まで、たっぷり入っている。米飯は固めに炊かれており、さらりとしたスープ状のルーがよく染みた。
「美夕のカレー、久しぶりに食ったなー!」
「い、いつもはもっと本格的なんだから!隠し味もいっぱい入れるし!」
「そうなの?でもこれも、すげー美味かったよ」
「そ、それなら………いいけど」
成人はここへ来た目的を忘れ、口の中を満たすスパイシーな味に夢中になった。彼の激しい食べっぷりに、美夕はしばし呆気に取られ、だがちゃっかり差し出されたお代わりの皿で我に返ったのか、それを受け取ってカレーを盛ってやりつつも、ぶつぶつと文句を言い始めた。
「ナルトは本当に卑しいんだから!カレーの匂いを嗅ぎ付けてくるなんて!」
「い、いやいや、俺、そこまで鼻良くねえって」
「あーあ。いっぱい作って冷凍しておくつもりだったのに、ナルトのせいで、だいぶ減っちゃったじゃん」
「ん?そうだったの?」
「そうだよ!平日なんて、料理できないもん。残業ばっかだし、疲れるし。だから休みの日にいっぱいおかずを作って、冷凍しとこうと思ったのに。一人暮らしの女の子なんて、みんなそんなもんだよ」
――だから、休日もあまり構ってくれなかったのか。
どうして疑ってしまったんだろう。
美夕の会えない理由が「疲れた」なら疲れているのだろうし、「忙しい」なら忙しいのだ。
性格がきついと言われるのは、本当の気持ちを誤魔化すことができないから。不器用なだけなのだ。
そんな彼女が嘘をつくなんて要領の良いこと、できるわけがないのに――。
「もう一回、いただきます!」
満面の笑みでお代わりを受け取ると、成人は皿にスプーンを浸した。二杯目のくせに、勢いが衰えることなく食べ続ける彼に、美夕は引き気味に尋ねた。
「ねえ、ちゃんとご飯食べてる?」
「えー?」
「――例えば、夕べは何食べた?」
「ええと……マック」
「ちょっとー……」
咎めるように、美夕は成人を睨んだ。
「だってさー、段々面倒くさくなってきて。何食うとか、考えるの。毎日のことだし。もう腹膨れればいいやって感じになってきてさ」
「でも、体に良くない!」
「まーねー。あ、でも、野菜はできるだけ取るようにしてるよ。ポテトも野菜でしょ?ね?」
「…………………」
美夕は黙り込んでしまった。
そして、食後のこと。
「あんだけ食べたんだから、後片付けくらい手伝いなさい!」
そう命じられて、成人は慣れない手つきで洗い物に勤しんでいた。その横には美夕が立ち、余ったカレーを百均でよく見かける、プラスチック製の容器に詰めている。
「――ねえ」
忙しく手を動かしたまま、美夕が話しかけてきた。
「ん?」
「本当は、どうしたの?急にうちに来るなんて、何かあった?――会社で嫌なことでもあったの?」
浮気を疑ってました、などと正直に言ったら、恐ろしいことになる。成人は息を呑みつつ、平静を装って答えた。
「いや、別に、その……。美夕に会いたくなっただけだよ」
「……ふうん」
白々しかったろうか。
ちらりと横目で覗くが、美夕はちょっぴり微笑みつつ、カレーの詰め替え作業に没頭しているようだ。だから成人も、皿洗いに集中する。自炊なんてしないから、水仕事はなかなか難易度が高かった。泡のせいで手が滑る。
ああ、嘘をついたことや、彼女を疑った後味の悪さも、この泡のように流れてしまえばいいのに。
――そんなリリカルな想いに浸っていたから、美夕の台詞の意味が即座には理解できなかった。
「一緒に暮らさない?」
「え?」
素っ頓狂な声を出し、成人は美夕に向き直った。
「……水、出しっぱなし」
「うん」
「……皿、落ちそう」
「うん」
成人は美夕から目を逸らさず、手にした皿を水ですすぎ、脇にあったバスケットに置いた。
そして、蛇口を閉めて――。
「美夕!」
思い切り美夕を抱き締めた。
「ぎゃっ!?」
暴れる恋人を力で押さえ込み、成人は興奮をあらわに聞いた。
「本気!?」
「うっ……」
男の腕から逃げようとじたばた暴れながら、美夕は一息に叫んだ。
「だ、だって!ご飯ちゃんと食べさせないと、このままだと、ナルト、絶対病気になるし!
そんでナルトが死んじゃったら、『あなたがついていながら!』とか責められし!そんなの腹立つし!」
分かるような、分からないような理由は、まあどうでもいい。大事なのは、美夕が自分と一緒に暮らすことを望んでいる。その点だけだ。
美夕は成人の胸に顔を埋めながら、か細い声で続けた。
「そ、それに」
「うん」
「朝起きたらナルトがいて、夜寝るときもナルトがいる、そんな暮らしがしたい。ずっと一緒にいたいよ……」
「――うん。うん!うん!うん!!」
「………………」
美夕は観念したようにすっかり大人しくなると、成人の腕の中で子猫のように背を丸めた。
しかし――。
そんなにも自分のことを好いていてくれるのなら、もっと家に入れてくれてもいいだろうし、休日会ってくれてもいいだろうに。
しかし、美夕の答えは、
「完璧に掃除してない部屋を見られたくない!」、「疲れた顔を見られたくない!」とのことである。
――まあ、しょうがないか……。
すっかり余裕を取り戻した成人の目には、美夕のそんな完璧主義も可愛く見えるのだから、現金なものである。
それから濃厚で甘い時間を過ごし、早五時間。成人が美夕のアパートを出る頃には、既に日が傾いていた。
明日からはまた忙しない仕事が待っている。が、成人の足取りは軽かった。
――帰ったらネットですぐ、美夕と暮らす部屋を探そう。
鼻歌など浮かべつつ家路に着く彼の手には、紙袋が下げられていた。不摂生を心配した美夕が、持たせてくれたのだ。
まだ温もりの残る密閉容器。――成人のパンドラの箱の中は、災いなど悲しいことは欠片も入っておらず、ただ恋人の愛あふれる手作りカレーで満たされていたのだった。
おわり