ACT45 その手をとって、いつまでも共に
一体何がどうなってるんだろうと思いながら、日当たり良好なテラスでジニアと向き合っていた。
「緊張する必要などないだろう? 飲み物でもどうだ? ああでも、そなたはもしかしたら口には出来ないかもしれないな」
カップにそそがれている紅茶みたいな飲み物を、洗練された仕草で味わうジニア。
一言で表現するなら、とても様になっている。王族だから当たり前か。
今さらだけど、ジニアってかなり綺麗な顔立ちだな。ソティスが究極なまでに顔が整っているから、あんまりそこまで注意を向けていなかったけど。
その上夢の中では、不機嫌もしくは怒っている時が大半だったからね。
ジニアは中性的で、線が細い。けど軟弱ってわけじゃなくて、どっしりしたところもあると思う。肩幅とか、指の節は男性のものって感じがするし。
何より人の上に立つ人間が持っている、厳かな空気をしっかりまとっている。
「改めて名乗ろう。ジニアという。そなたは、瑠璃だったな?」
「は、はい。どうして知ってるんですか?」
「少し前に、エキナセアが久方ぶりに戻ってきたのだ。そなたの話をたくさんしてくれたぞ」
「え! エキナセアが、あなたに会っていたんですか?!」
私は前のめりになってしまう。
エキナセアは二ヶ月くらい前から、突然姿を見せなくなってしまったのだ。私も北斗君も心配していたんだけど、とにかく待てど暮らせど音沙汰が全くなかった。
そのうちマルムまで、『俺も呼ばれてる気がします。そろそろかも』なんて妙なことを言いだしたのだ。この一週間、北斗君はマルムと鍛錬が出来ていない、って言ってた。
「ああ、別れのあいさつもせずに、戻ってきたことをひどく気にしていた。もしもう一度瑠璃に会えるのならば、一言謝罪をしたいと言っていたな」
そういうとジニアは、すっと目を伏せた。
「妹に変わって詫びを言おう。世話になったそうだが、事前に何も言えずにすまなかった」
「ああ、そんな、謝らないで下さい……私のほうこそ、謝らないといけないのに」
しゅんと肩を下げた私を見て、ジニアが苦笑する。
「そなたは、そなた自身の過ちでないことをつぐなおうとして、必死だったと聞いたぞ。三年もの間、ひたすらに祈り続けてくれたそうだな?」
ジニアに言われて、そういえばそんなに時間が経っていたんだな、と改めて思う。
中学二年生の秋だった。北斗君と一緒に、エキナセアやマルムにも協力してもらって、前世からの因縁を断ちきった。
それから丸三年。私は高校二年生だ。もう十七歳。カレンデュラが道ならぬ恋に踏み出したのと、同じ年になった。
「そうは言っても、祈ることが出来ない日もたくさんありました。体がついてきてくれないことも、けっこうあったんです。でも私に出来ることはこれしかないと思って、この世界が少しでも癒されるように、それを強く願い続けてきました」
それでカレンデュラの過ちが帳消しになるとは、決して思えないけど。
無意識のうちに、テーブルの上で両手を握り合わせていたらしい。ジニアの手が、そっと私のそれに重なった。
「そなたの悔恨は、カレンデュラのものと思えばよいのか?」
それは自分でもよくわからないままだったけど、どうしてかうなずいてしまった。
「カレンデュラは、深く傷つき、後悔し、そして再び祈ってくれた。カレンデュラは、<光の子>としての役割を充分に果たしたのだ」
ジニアの指先が、私の頬をなぞる。けれど私の涙は、それだけではおさまらない。
後からどんどん流れてきて、止められなくなる。
これはジニアが怒ってはいないと、思えばいいのかな。
もしかしたら最初からジニアは、エキナセアのようにカレンデュラを赦していたの?
「いけません……お兄様。私を甘やかさないで」
これは誰だろう。私の口を借りて、喋っている誰か。
「アミアンを奪ったお兄様を憎く思わなかったと言えば、嘘になります。私は恋に落ちる前から、自分の祈りに違和感がありました。でも星は、次代の<光の子>を選ぼうとしなかった。私がアミアンにのめり込んだのは、その不安を忘れたかった為もあるのかもしれません。けど私のせいで、大切な国が魔物に荒らされました。お兄様だって、魔物のために命を落とした。たくさんの人の上に苦しみと嘆きをばらまき、それでもただの女でいようとした私を、どうか甘やかさないで下さい。せめてお兄様だけは、私をずっと叱っていて下さい」
祈り続けても消えない、後悔と罪。
カレンデュラは、それを忘れちゃいけないと思っているのだ。
「そなたはとても素直な子供だったな。嬉しいことは嬉しいと、嫌なことは嫌だと、はっきりすぎるくらい言える子だった。辛かったであろう。己を殺し、祈らねばならぬことが。役割を全うしようとする決意と恋心に挟まれ、どちらも選ぶことができなかったのだな。だが、今はどうだ? カレンデュラでなくなった、今は」
ジニアは手を戻し、深く椅子にもたれかかる。そして光満ちる庭の向こうへと、視線を流した。
「王太子だった私にも、心の奥底に押し込めた願いがあった。それはジニアだった時に、叶えられることはなかった夢だ。だがこれから先は……別の生を得た後は、どうなるだろうか」
「え?」
ジニアは外を見たまま続ける。
「エキナセアは私より先に行った。おそらくは祈りで癒された世界で、私達がかつて生きていたあの世界で、再び生を受けたのだろう。次こそは自由に走り回れる体になりたいと、別れの時に言っていた」
あれ、それってつまり。
人が生まれくることができるほどには、世界が回復したってことなの?
がむしゃらに祈った結果が、出てくれたんだ。
「もしかしてジニアお兄様も、そろそろ」
「もう王太子ではなくなる。この記憶も洗い流され、私は完全な別人となるはずだ」
じゃあ、本当に最後のお別れだ。
でもこうして言葉を交わせただけ、ありがたいことなんだ。以前は戦乱の中ですべてがぐちゃぐちゃのまま、カレンデュラは死んでしまったのだから。
「瑠璃、礼を言おう。祈ってくれたこと、本当に感謝している。そして、カレンデュラよ」
立ち上がったジニアは、私の隣まで来た。そしてぽん、と頭に軽く手を置く。
「そなたは今までも、そしてこれからも、私の大切な妹だ。私が忘れてしまっても、そなたは覚えていてほしい。私は間もなく王太子ではなくなる。しかし高貴な生まれが私を縛らなくなっても、すべてが思い通りになることなど、決してありえないだろう。だがその人生において、たとえひとつだけでもきらめくものをつかむことができれば、この上ない贅沢だとは思わないか?」
ジニアはテラスから一歩庭へ足を踏み出した。立ち上がり、追いかけようとした私は悟る。
ジニアの元へは行ってはいけないのだ。
彼の魂はもう、完全に違うところへ向かおうとしている。
「カレンデュラの時にはつかめなかったものを、そなたはつかんでほしい。これは兄である私の、最後の願いだ。どうか、幸せになってほしい。瑠璃の思う幸せを、これから先ひとつでも多く、味わえることを願っている」
ジニアは背を向け、歩いて行く。剪定された庭木を過ぎて、植え込みの花々を横切り、やがてその姿が見えなくなった。
「お兄様……甘やかさないでって、言ったのに。私の話を、聞いていないのですね」
ここで嘆いている私は、瑠璃なのかカレンデュラなのか、どっちなんだろう。
私の胸のあたりから、何かが机の上に転がり落ちる。それは久しぶりに見る星だった。
銀とも金ともつかない、陽だまりのようにも思える、優しい光。
私が手を伸ばしきる前に、星がからんと、床に落ちる音が響いた。
「さん……穂積さん、しっかり」
やさしく揺り動かす声に導かれ、まぶたを開けた。
視界いっぱいに広がるのは、心配そうにのぞきこんでいる北斗君。
ここがどこか思い出すまでに、少し時間がかかってしまった。
近所の公園のベンチで、私は横になっていた。倒れた時は花壇の近くにいたから、北斗君がここまで運んでくれたのかな。
マルムがしばらく姿を見せないから、公園にいたら会えるかもしれないねって話になって、北斗君と一緒に来たんだよね。
「私、また倒れたんだね」
こんなこと久しぶりかもしれない。最近はいろいろと、自分でコントロールできている感覚があったんだけどな。
「うん。最近ちゃんと眠れてる?」
私は無言でうなずく。北斗君の手にあるのは、オレンジ色のタオルハンカチ。それで私の頬をそっと押さえてくれた。
「嫌な夢でも見た? 何度か泣いてたからびっくりしたよ」
「違うの。夢の中でジニアに会ったんだ」
北斗君は目を見開いた。
「ジニアは、カレンデュラのお兄さんだよね。会ったって、どういうこと? 過去の記憶を見たわけじゃないの?」
首を振った私は、上体を起こす。北斗君は過保護にも、私の肩に手を添えて助けてくれる。
彼が近づいたものだから、またどきりと心臓が鳴った。
北斗君はとっくに身長が止まった私と違って、高校生になってからも少しずつ背が伸びていった。マルムに鍛えてもらっているせいか、体つきもたくましくなった気がする。
私が座ったのを確認してから、北斗君は少し間をあけて腰かけた。
「過去の記憶を見た後に、ジニアが出てきたの。瑠璃として、ジニアと少し話をしたんだ」
そしてエキナセアとジニアが、あの世界で転生したらしいことを話した。
北斗君は形の良い眉根を寄せ、考え込むように手を口にあてる。
「その話が本当なら、もう俺たちはマルムにも会えないってことになる……うーん、だとしたら残念だな。結局俺は、剣でマルムにまともに勝てなかったってことか」
ベンチに背を預けて嘆く北斗君の片手が、私の二の腕に偶然触れた。また、心臓がうるさくなる。
「ごめん、穂積さん」
私ですらどきどきするくらいだから、高校では北斗君はかなりの人気者だ。
同じクラスになったことはないけど、女の子達からきゃあきゃあ言われてるらしい。
正直な感想を言うと、もし玲旺那君も同じ高校だったら、たぶん北斗君はかすんでいただろうけど。それでも中学校の時と比べれば、格段に女子の人気が高くなっている。
私に話してくれたことはないけど、告白も何回かされてるみたいだ。いつだったか北斗君と仲良くなりたい女子が、私に北斗君の趣味とかを聞いてきたことがある。
私は、北斗君と同じ中学校で一番仲の良い女子、という扱いだ。誰も恋のライバルだなんて思わない。
地味だから、歯牙にもかけてないって感じなんだよね。
「大丈夫だよ。ハンカチありがとう。洗って返すね」
一度、貸してもらってばかりで悪いのでプレゼントさせてほしいと言ったら、断られちゃったことがあるんだよね。
「気にしないで……そういえば、このハンカチだったかも」
「何が?」
「俺が月影に捕まってしまう直前に、穂積さんにハンカチ貸したの覚えてる? たしか、これだったと思う」
さすがに色あせてるなあ、とつぶやく北斗君とは違って、私は雷に打たれたみたいに固まった。
「ねえ、昨日じゃない? 三年前の、昨日だよ。北斗君が……」
北斗君が、私に最初に告白してくれた日だ。
「そうそう、昨日弟に冗談めかして言われちゃってさ。家出なんかもうするなよって」
困ったように笑う北斗君は、忘れているのだろうか。
違う、北斗君はきっと私のために、この話をずっと避けていたんだ。
私はいきおいよく立ち上がった。
「穂積さん?」
「北斗君、あの、あのね!……ほ、星が私の体から、出ていったの」
ちょっと!! 伝えたいことはこれじゃないのに!!
だけど大事な情報なのは間違いないから、説明してしまおう。
「ジニアと別れた後、星が私の体から出てきたの。拾おうとしたけど、その前に夢が醒めちゃった。だからきっと、星もあの世界へ帰ったんだと思う」
上手く言えないけど、私の体に在ったはずの別のモノの感覚がない。ぽっかりとした、奇妙な不在を感じるのだ。
「て言うことは、もう祈れないんだ」
「それはきっと、もう祈らなくてもいいってことなんじゃないのかな?」
北斗君も立ち上がって、私を見おろしてくる。
この三年間で、身長差が開いてしまった。そんな当たり前な事実にすら、私は時々戸惑っていた。
「穂積さんはやりとげたんだよ。君の力で、かつての俺達がいた世界は息を吹き返したんだよ。それって本当にすごいことだよ。よく頑張ったね」
まだよく呑みこめていない私の肩を、北斗君はそっとつかんで目線を合わせてくる。
「穂積さんは、やるべきことから解放されたんだ。だからもうこれからは、カレンデュラの行いを背負わなくていい。自由になっていいんだよ?」
「自由、に……」
祈りは、この三年余りで私の習慣になっていた。
それは罪をあがなうため。招いた災禍を打ち消せなくても、つぐないたかったから。
「北斗君、カレンデュラは……私は、本当に赦されていいの?」
「きっとカレンデュラを最も赦せていないのは、カレンデュラ本人なんだろうね」
その言葉は、最近耳にしたどんな言葉よりも、私の胸に深く突き刺さった。
気づけばまた涙が流れてくる。北斗君が腕を差し出すままに、私は飛び込んで泣きじゃくった。
温かい。北斗君のぬくもりを感じる。
アミアンは、カレンデュラを全く恨んでなんかいなかった。
北斗君も私を気づかって、見守ってくれて、今もこうして慰めてくれている。
――北斗君に。言わなきゃ。私の気持ちを。
涙をごしごしと拭って、私はもう一度北斗君に向き直った。
「北斗君……あの、えっと……」
どうして、こういう時に限って言葉が出てこないのかな。しっかりしてよ、私!
「その……ずっと、ずっと私の気持ちを伝えてなかったよね? 北斗君が、好きだって言ってくれたのに」
あ、と北斗君が声を上げた気がした。
ここで止まったら、二度と口を開く勇気はないと思った。私は、息を思いっきり吸う。
「私は、三年も待たせちゃって。その間、北斗君にお世話になりっぱなしだったね。ハンカチも貸してくれたし、学校で倒れた時は保健室まで運んでくれたし、家まで送ってくれたこともあったし、泣きごとだって聞いてくれていたのに。私は、何も返していないね」
「それは、俺がしたくて勝手にしたことだよ。穂積さんが気に病んでたなら、謝るよ」
「違うの、迷惑なんて思ったことないよ!!」
こんなに優しくて辛抱強い人、他にはいないだろう。
背も中学生の時より伸びて、どんどん男らしくなっていく北斗君。私は彼をすごく頼りにしていたのと同時に、むずむずした気持ちにもなっていった。
北斗君が女子からモテているって聞いた時に、本当は気づいていたんだ。
あの時、胸の内が嫌なふうにざわざわしたのを覚えている。
「北斗君がしてくれたこと、嬉しかったよ。でも、もう祈る理由がなくなったから、私はもう北斗君の側にいちゃだめなのかもしれないね」
「どうして?!」
大きな声で問いただす北斗君が焦った顔をしていることに、私は気がつかなかった。
「だ、だって、三年も待たせたのに、今さら、北斗君が……」
涙が止まらない。けど、勇気を何とか振り絞って。嗚咽が、私の心の声を塞ぐ前に。
「北斗君が、好きだなんて……そんなこと、言う資格なんてないよ。北斗君に、ひどいことしたのに。けど、言っちゃいたかったの……ごめんな、さい」
直後に、また腕の中に閉じ込められる。
今までのどんな抱擁よりも、強くて、苦しくて。
私にすがるように、逃がさないように、北斗君は何度も腕を組み直して、私を抱きしめてくる。
「聞き間違いじゃないよな……俺なんかで、いいの?」
「北斗君が、いいんだよ。北斗君じゃなきゃ、嫌。ごめんなさい、三年もお返事しなくて、ひどいことして」
「そんなこと、もういいよ」
もう一度、さらに力を込めて抱きしめられる。まるで北斗君の温もりを、私に刻みつけるみたいに。
やっと体が離れたと思ったら、北斗君の目元がうっすら光っていた。
「ごめん、嬉しくて泣きそうだよ。ていうか、泣いちゃってるね。恥ずかしいな」
「ううん、私の方が涙でぐちゃぐちゃだよ。私だって恥ずかしい」
「じゃあ、おあいこだね」
そう言って、お互いにふふ、と笑いあう。
何だか照れ臭くて、どちらからともなくベンチに再び腰掛けた。
「不思議な気分だな。穂積さん、俺の彼女になってくれるんだよね?」
彼女、という単語の響きに、私の耳はたちまち熱が宿った。
「わ、私だって。北斗君に怒られるかもって思ってたのに」
「怒るわけない。好きな人が頑張ってるから、絶対に余計な邪魔はしたくなかったんだ。ただそれだけだよ……本音を言うと、けっこう複雑だったけどね」
「それは、本当にごめんなさい」
うなだれる私に、北斗君は励ますように肩を叩いた。
「お祝いしようよ。穂積さんが<光の子>じゃなくなった、お祝い。お金はないけど、何かおごるよ。今度の土曜日、どこか行かない?」
それってつまり、デートってことかな。うわあ、緊張しちゃうよ。
「じゃあ今までのお礼も兼ねて、ハンカチのプレゼントをしてもいいかな?」
「そうだな……うん、穂積さんから最初にもらうのは、それがいい」
もう暗くなってきたから、そろそろ帰ろうと北斗君に促される。
差し出された手を、私は照れながらつかんだ。
「なんだか、お姫様と騎士みたいだね」
「確かに、昔はそうだったね」
けれど今、私と北斗君はごく普通の高校生だ。前世の記憶を持ってはいるけれど、かつてのようにお互いを好きでいることに、誰の遠慮もいらない。
ふいにジニアの言葉が脳裏に浮かぶ。
――瑠璃の思う幸せを、これから先ひとつでも多く、味わえることを願っている。
好きな人と、何気ない日常を過ごすこと。
それは、カレンデュラが欲しがったものだった。
そして私も、穂積瑠璃も、今はそれが欲しい。
触れた指先が熱い。もぞもぞ身じろいだ北斗君が、そのままぎゅっと手のひらを握ってくれる。
ひどく恥かしいけど、とてもいいなって思えた。
冷たくなった風が、もう少しで夜の訪れを告げる。
まだ西の空が明るい中で、ひときわ明るい星が、私達を祝福するかのように瞬いたような気がした。