ACT44 数年後、少女は夢を見て、そして再会する
『ああ、お目覚めになられた!』
『カレンデュラ猊下、お加減はいかがでございますか?』
案ずる言葉が投げかけられて、私は声の主たちを順に見上げた。
最近よく世話になる医師と、毎日のように顔を突き合わせている女官長だ。
自室の寝台に横になっていることを把握し、私はため息をついた。
『ごめんなさい。また倒れてしまったのね?』
体を起こそうとすると、女官長に優しく、けれど有無を言わさないふうに止められる。
『いけません、しばらく安静になさってください』
『いいえ、祈りを続けなくては。休んでなどいられないわ』
次に言葉をかけてきたのは医師だ。
『恐れながら、わたくしの勝手な判断ではありますが、先程神官長様にカレンデュラ猊下の静養をお願いいたしました。おそらく、了承されることと存じます』
『そんな……』
思いもよらないことに、愕然とつぶやく。
<光の子>が星を使い捧げる祈りが、どれほど大事かわかっているはずなのに。
おまけに今のような春を迎える時期は、より祈る回数を増やすべき時であると、いにしえより決まっている。
『いますぐ着替えを準備して。もう一度、本日の分を祈るわ』
さらに医師と女官長が止めようとした時、入口の向こうで凛とした声が響いた。
『失礼いたします。神官長様よりご伝言がございます』
姿を見ずとも、頬の奥がかあっと熱くなる。女官長が入室をうながすと、予想通りアミアンが姿をあらわした。
私の寝室は二部屋が連なっている。ひとつは寝台がおいてあるこの部屋で、もうひとつはアミアンがいる空間だ。
入口から一歩入ったところで止まったアミアンに、私はすぐ声をかけた。
『神官長様は、何とおっしゃっていたの?』
『医務官殿の診断どおり、猊下は三日間お休み下さるように、とのことです』
私はアミアンと、そして医師と女官長を見た。
『私はこんなところで寝てはいられないのよ。お願いだから……』
『いい加減になさいませ、カレンデュラ様!!』
雷を落としたのは女官長だ。私は肩をすくめるしかない。
視界の端で医師が面喰い、アミアンも絶句しているのがわかったけど、女官長は目尻をつりあげたままだ。
『お目覚めになるまで、どれほど時間が経ったとお思いですか? 神殿の皆がたいそう肝を冷やしたことを、よくよくご理解いただきたいものです。ご自身の使命に真剣になられるのは大変けっこうなことではありますが、その大切な御身を粗末にするような真似は、このわたくし、たとえ命をとられたとしても決して許すわけには参りません!!』
しまった。女官長がこうなってしまったら、もう私には彼女の意思をくつがえせない。
逆らたってどうにもならない。私はしぶしぶ、三日間部屋で大人しくすることを受け入れた。
『ごめんなさい。この機会にたっぷり眠っておくわ』
『それがようございます。くれぐれも、ご自分をお責めにならないでくださいませ』
もう一度簡単な触診をしてから、医師は宮殿へ戻っていった。
女官長が息を吐き、その指をこめかみに当てる。疲労がたまっているようだ。私のせいで、だいぶ気をもんだらしい。
『下がってくれていいわ。疲れているでしょう?』
『何をおっしゃいますか。猊下がこうしてお目覚めになられたのですから、気力が戻りました』
『少しの間、下がって。ひとりになりたいの』
『左様でございますか。では、仰せのとおりに』
女官長は部屋を出ていく時、まだ立ちっぱなしのアミアンを数秒間、視界に入れた。
普段から礼儀作法を気にかけ、私に所作を指導する立場の女官長が、そんな無駄とも言える行動をとった。一瞬、背中に緊張が走る。
女官長は、私がアミアンに片想いしていることを察しているはずだ。
今のは、アミアンに対する無言の忠告なのかもしれない。
女官長が出ていき、私とアミアンだけになった。けどこの二人きりの時間も、すぐに終わるだろう。
アミアンは次の仕事があるはずだし、女官長は別の女官をこちらへよこすに違いないから。
アミアンは微動だにしない。少し俯いたままで、私が何か言うのを待っているのだ。
神殿に出入りする人物の中で最も家格の低い彼は、私が見ている限りでは自発的に意思表示はしないし、命令や指示以外の、余計な行動はとらないようにしている。それがここで生き抜くための、彼なりの方法なのだろう。
マルム相手には、どうやら別のようだけど。
『あなたも、すぐに戻らなくてはいけないのよね?』
『いえ、本日はすでに役目を終えました』
『どうして? いつもは日が暮れるまでお仕事のはずでしょ?』
まだ、空が赤く染まるまで時間はある。一体どうしたというのだろう。
アミアンは感情の読めない淡々とした調子で、続けた。
『僭越ながら、僕がカレンデュラ猊下をここまでお運びいたしました。それもありまして、後はカレンデュラ猊下のお側にひかえるため、上官より本日の役目を免除いただいたのです』
『……え?』
アミアンが、私をここまで、運んだ?
『あなた一人で、私を運んだ、の?』
『その通りでございます。他の神官様方や騎士を呼ぶ暇が惜しいため、一人で運ぶようにと女官長様が判断されました』
想像しているうちに、顔が赤くなるのがわかった。
あの、儀式用のために着飾った状態でアミアンに抱きあげられ、祈りの部屋からここまで運ばれたの?
仕事とはいえ、アミアンは私に触れたのだ……どうしよう、重いと思われていないかしら。
気絶しなければ、アミアンを間近で見れたのに。いやでも気絶したからこそ、アミアンが私を抱きかかえてくれたわけで。
一人で赤くなるけど、離れたところで微動だにしないアミアンを見るうちに、照れや少しの嬉しささえもしぼんでいく。
ぽつりと、引っ掛かっていたことを口にした。
『怒っているわよね? 五日前のこと』
あからさまに、アミアンの体がびくりとこわばる。やっぱり、この話はしてほしくないのだろう。
五日前、私は無謀にも再びアミアンに想いを告げたのだ。最初の告白から、やがて一カ月は経とうとしている。何の返事もないから、どう考えてもアミアンにとっては迷惑でしかないのだろう。
それでも私は、この燃えるような初恋を無視することはできなかった。
<光の子>としてあるまじき行為だとわかっていても、だ。
『ごめんなさい。忘れてくれていいわ』
アミアンが顔をあげ、一瞬私を見た。何か言いたげだったけど、すぐまた面をふせる。
好きな人なのに、苦しませてしまっているのだ。
私は間違ったことをしてしまった。かつて、お父様やお兄様にも、注意されたことがあったのに。
私たちは上に立つからこそ、かしずかれるからこそ、簡単に我儘を言ってはいけないのだと。
だからと言って意思を持ってはいけないとか、そういうことではなくて。
理不尽な目に遭う人間をつくらないようにするため、常日頃気をつけるべきだと言われた。
忘れてくれていいなどと、アミアンに逃げ道を与えたつもりでも、アミアンはますます追い詰められているのじゃないだろうか。そう思うと、悲しくなってきた。
(好きだって、言わなければよかった)
アミアンに恋したことを、悔いてはいない。一生秘めて、生きるべきだったのだ。
ごめんなさいって何度も言ったって、また困らせてしまうだけ。
早く出ていって、と、そう言ってしまおう。
『アミアン、もう下がっていい……』
『カレンデュラ猊下』
聞き逃しそうになったけど、確かに私の名を言った。
顔をあげてくれない彼は、ゆっくりと続ける。
『あなた様は、僕がお仕えする尊いお方です。この国で、いやこの世界で大きな役割を担われる<光の子>でもあらせられる。貴族とはいえ卑しい身だと蔑まれてしまう僕など、本来はお姿を目にすることも失礼極まりない、比類なき輝かしいお方です』
アミアンは何を言いたいのだろう。困惑する私をよそに、彼は続けた。
『先程、恐れ多くもあなた様をお運びした際、驚きました。あまりにも重いと』
『え……』
衝撃がじわじわと胸に広がる。やっぱり私、重かったんだ。
『そう、なの。今度から、食べ過ぎないように気をつけるわ』
『あ……い、いえ! そういう意味ではございません!! 誤解なさらないで下さい、言い間違えました!!』
絶望の沼に沈みかけた私だったけど、アミアンの慌てぶりに現実に戻された。
そういえば、かしこまっていないアミアンを初めて目にしたかもしれない。
耳がうっすらと赤いままの彼は、また面を伏せ、気を取り直して話を再開する。
『重いと感じたのは、あの儀式用の衣装です。細い御身体で、あのような重いものを身に着けておられたとは、存じ上げませんでした。誰も、何も言わないのですか? 作り直すとか、もう少し簡素にするという案はないのですか?』
少しだけ心が高揚した。アミアンが私の想いに応えてくれることはなくても、私を心配してくれていることがわかったからだ。
それだけで、満足しなければ。
『あれは、代々伝わる装身具をそのまま使っているから重いのよ。それに、祈りの部屋は案外寒いの。あれくらい重いと、防寒になってちょうどいいのよ』
アミアンの何かをこらえるような瞳が、私をつらぬいた。
『あのような重いものを、この国の人々は、あなた様に背負わせていたのですか?』
『背負わすって、それは間違った解釈よ。私は、この使命に誇りをもって向き合っているわ』
『かつて一人きりで、泣いておられたではありませんか。誰も、あなた様の孤独など知らずに!』
それは押さえた叫びだった。けどアミアンの瞳が、激情の波に揺らいでいるように思えて。
唇をきつくかみしめ、再び黙ってしまったアミアンが気がかりで、私は寝台からそろりと足を降ろした。
『アミアン、あなたがそう言ってくれただけで、私は……』
嬉しいの。そう続けようとした矢先に、視界が傾き、進もうとしていた足がもつれる。
『危ない!!』
間一髪で、私の体が床に崩れることはなかった。
駆けよってきたアミアンが私に触れ、しっかりと抱きとめてくれたからだ。
こんなにも優しくて、大きくて、頼もしくて、温かい男の人を、私は知らない。
両腕に閉じ込められ、耳元に彼の息使いを感じて、高揚すればいいのか緊張すればいいのか、もう何が何だかわからない。
胸が苦しいのに、幸せで満ち足りる奇妙な心地を、彼の存在が教えてくれたのだ。
『あなた様は、僕がお守りする方です。騎士である僕が全力でお守りし、お支えする、尊い御方だ。それ以上の……それ以上のことを、考えてはいけないのに』
囁くような、苦い独白。どうしてだろう。
心の片隅で、単なる女となった私が期待し始める。もしかしたら、アミアンも私を想ってくれているのかもしれない。
いいや違う、と別の私が言う。私は<光の子>だ。恋におぼれ、好きになった人を困らせるなんてあるまじき行いだ。
『カレンデュラ猊下を、お守りしたい。それが純粋な忠誠だけであるならば、どれほど楽なことだったでしょう。僕は、あなた様にだけは、あらぬ想いを抱いてはならないのに』
首から下げた星が、震えているのがわかる。
身綺麗であらねばならない光の子が、異性に長い間抱きしめられているのを、怒っているのだろうか。
けれど私の理性は、どこかへ押し流されようとしていた。
アミアンが、息が触れるほどの近さで覗きこんでいる。いつも以上に凛々しく素敵に見える彼の瞳に、呆けた表情の私が映っていた。
この瞬間を閉じ込めて永遠のものにしたい。それが至上の望みになってしまう。
『せめて僕の前では、お嘆きになることなく、笑っていただきたいのです』
目を閉じたアミアンは、腹を決めたように息を吐き、再び私をその双眸でとらえた。
『僭越ながら、お慕い申し上げております、カレンデュラ様』
『……アミ、アン』
言った側から、アミアンは本当に苦しそうに顔を歪めてしまう。後悔しているのだろうか。
どうして両想いになったというのに、喜べないのだろう。
立ち場のせいなの? 身分のせいなの?
私とあなたは、ただの女と男でもあるのに。
『ありがとう。私を慰めてくれたのね? あんなに困らせてしまったのに』
『慰めるなど、違います!! 僕は決して嘘をついているのではありません!』
アミアンの必死さから、どうやら今の告白を嘘だと解釈された、と勘違いしているようだ。
『わかっているわ。本気で、言ってくれたのよね?』
あれが私のための優しい嘘ならば、ここまでアミアンは苦しんだりしない。
私を浮かれさせ喜ばせたいだけならば、決死の想いで告白などする必要はないのだから。
彼の頬に、そっと手を添える。答えるように、私の手のひらを包みこんでくれる。
何か言おうとした私の、その言葉さえ奪うように、唇がそっと重ねられた。
息を一度吸い吐くだけの、短い間の口づけ。刹那だけの、かすかなふれあい。
けれど私にとっては、何よりも貴重で、至福で、夢のような出来事だ。
顔を離した最初の言葉は、謝罪だった。
『申し訳ありません、カレンデュラ様』
『どうか謝らないで。私も、望んでいたことなのだから』
『僕は、自分が恐ろしくてなりません。あなた様に触れてしまったのに、後悔もしているのに、その思いを凌駕する程に……おぼれそうな程に幸せなのです』
星が二、三度、激しく跳ねた。
愚かなのは、言われなくてもわかっている。けれど止められなかったのだ。
もう、突き進むしかない。
誰にも祝福されない、後ろ指を刺されるだけの恋路だとわかっていても。
○○
(痛いほどわかってたんだよ。破滅の恋だって。カレンデュラもアミアンも、二人ともちゃんと理解してたんだ)
夢――つまりは私の前世の記憶なんだけどね――を見て、私はそうひとりごちる。
前にも何度か見た、アミアンがカレンデュラの想いに応えた瞬間だ。
この後アミアンはしばらく、カレンデュラに近づくのをだいぶ渋っていたんだよね。彼の中では、告白だけしてそれで終わりにしてもよかったんだろう。
けれど最初に恋に落ちたカレンデュラは、それじゃあ満たされなかった。<光の子>の使命も果たし恋路も歩むなんていう、とうてい成立できないことを同時進行していたんだ。
この日この瞬間こそが、ある意味では運命の分岐点だったんだろうな、と何もかも過ぎたからこそ思う。
ここでアミアンが自制して、カレンデュラに告白しなかったらどうなっていたんだろう。
カレンデュラが片想いのままだったとして、彼女はちゃんと星に祈れたのだろうか。そうすれば国を滅ぼさずに済んだのかな。
それとも人間側のささいな行動なんて関係なく、悲劇が起きることは必然だったんだろうか。
……そんな仮定をいくら考えたって、もう過去は変わらないんだけどね。
恋心を貫くことは、その当時の立場を考えた場合、正しい行いではないと二人ともわかっていた。それだけが事実だ。
場面が変わる。これは王宮の一角だ。確か、カレンデュラのお兄ちゃんである、王太子のジニアの居住区域だったかな。
今私がいるのは、執務室じゃない、きわめて個人的なスペースのはず。シンプルだけど造りのいい調度品が並んでいて、それをしげしげと眺めてしまう。
違和感を覚えたのは、そのすぐ後だった。
(あれ……これ、カレンデュラの視点じゃない。私が私の意思で、見たいものを見てる)
これまで見てきた夢は、私の前世の記憶。つまり過去の出来事だ。
カレンデュラの瞳にうつったものや彼女が感じた気持ちを、私は見ていたのだ。
だからドラマや映画といった映像作品と同じで、カメラが焦点を向いているところは絶対に決まっていて、それを視聴している側は絶対にカメラの外にあるものを確認できない。
でも今の私は、それが出来ている。
どうしてだろうと思いながらさらにウロウロしていて、また気がついた。今度は驚愕のままに声に出してしまう。
「これ、制服だ……!」
私はなんと、制服姿のままでジニアの部屋にいたのだ。
ということはここに立っている私は、カレンデュラの姿ではなく、穂積瑠璃の姿で立っているということ?
部屋の中に鏡らしきものが見当たらなかったので、窓際にかけより、顔を近づける。
硝子に映るのは、間違いなく今の私だ。穂積瑠璃がそこにいた。
「どうして、何がおきてるの?」
「来てくれたのだな」
人の気配もないはずの部屋で、男性の声が響いた。
飛び上がりかけた私は、あわてて背後を振り返った。
そこに立って笑むのは、優雅で高貴で、けれどどこか親しみやすい美丈夫。
「……ジニアお兄様?」
「名乗らずともわかってくれたようで、嬉しいぞ」
私はとんでもなく間の抜けた顔をして、ジニアをまじまじと見ることしかできなかった。