少年の視点9
それから数日経ったある日の放課後、一馬は教室の入り口で立ちつくしていた。
一度帰路についたが教科書を忘れたことに思い当って、途中で引き返してきたのだ。
そして誰もいないはずの教室には、瑠璃が自席ですうすうと眠りこけていた。
他には人の姿が見当たらない。
(そうだった。この教室、吹奏楽部は全然使わないんだっけ)
あれから瑠璃に話しかけるのが少し気まずくて、何も喋っていないままだ。
そろりと足を踏み入れ、ゆっくりと自席まで近づきながら、瑠璃の様子をうかがう。
両腕を枕代わりにし、そこに顔をうずめている。少しだけ横を向いているので、片まぶただけが一馬にも見えていた。丸まった背中が、規則正しく上下している。
一馬が緊張していることなど、夢の中にいる少女には考えももつかないことだろう。
教科書を探し出しすぐさま帰ろうとしたが、もう一度瑠璃を見やる。
みごとに熟睡していて、寝息をたてている以外動く気配が全くない。
(……どうしよう。またこのまま眠り続けて、見回りの先生に注意されるかも)
三年になってから二度、そういうアクシデントがあったと瑠璃が話していた。その二回とも、帰宅が遅くなりすぎて親に怒られてしまったらしい。ただ遅いとはいっても、夜の七時半までには帰っていたそうだが、瑠璃の親からすれば受験生なのにフラフラするのはよくない、という理屈だそうだ。
一馬だけでなく、エキナセアもマルムもよくよく言い含めたから、放課後は教室で寝ないようにすると瑠璃も誓ってはいたのだが。
そういえば今日の授業中は、いつもよりかなり居眠りをしていなかっただろうか。
数秒間考えた一馬は、ひとつの結論に辿りついた。
(マルムに話して、穂積さんを起こしてもらおう。からかわれても、それが一番いい)
思いついたら、躊躇する前に実行するまでだ。
いきおいにまかせて扉をあけると予想外の珍客がいて、一馬は反射的に後ろへと下がってしまう。
「月影?」
「あれ? なんだ、まだいたんだ……穂積さんもか」
のろのろと歩を進める様子は、寝起きの悪い一馬の弟とそっくりだ。
「今まで保健室にいたのか?」
「うん、先生が会議か何かで、戻るのが遅れたんだ。誰も起こしてくれなかったんだよ、運が悪いよな」
確かにホームルームが過ぎてから一時間以上寝ていたというのは、あまりないことだろう。
あくびをかみ殺しながら着席する玲於奈に、一馬は内心ツッコミを入れる。
(この場で一番、運が悪いのは俺かもしれない……)
同じ空間に瑠璃と玲於奈と、そして自分がいる。去年の秋以来だ。
瑠璃は寝こけているし、玲於奈は記憶を失っているので、妙に緊張しているのは一馬ひとりだけ。
このまま教室を出ても何も不自然なことはないはずなのに、一馬の足は動かない。
瑠璃と玲於奈の間には、もう元部活仲間という繋がりしかないのは承知しているのに、刹那の間でも二人きりになってしまうのが嫌なのだ。
(こういうのも嫉妬なんだよな。みっともない)
こっそりとため息をつく。同時に、玲於奈が独白のようにつぶやいた。
「穂積さんも、具合あんまり良くなさそうだよな?」
「へ?!」
勢いよく玲於奈の方へ首を動かす。直後、一馬はあわてて自分に言い聞かせる。
(月影は何も覚えてない。ただ、クラスメイトを心配しているだけだ)
「ああ、うん。三年になってから、授業中はかなり居眠りしてるよな。無茶だけはするなって言ってるのに」
ふふ、と苦笑が聞こえてからあやまちに気がつく。自分の頬が、うっすら赤くなるのを自覚した。
「穂積さんのこと、よく知ってるんだ?」
「いや! 断っておくけど他の奴らがからかってるような、付き合っているとか、そういうのは絶対ないから!」
ここは全力で否定しておかなければいけない。瑠璃は玲於奈に未練があるかもしれないのに、忘れられた上に勘違いされたとあっては、よりショックが大きくなってしまう。
「そんな必死にならなくても、見てたらわかるよ。少なくとも恋人って感じじゃないし」
「え? ……なんでそんな、断言できるんだ?」
玲於奈は帰り支度をしながら話しているが、動作がかなりゆっくりだ。眠りから覚めたばかりだからか、本調子ではないらしい。
「小学生の頃から、人間観察を時々してたんだ。そしたらそのうち、誰が誰のことを好きなのか、何となくだけどかなりの割合でわかるようになったんだよ」
何気なく言っているが、一馬からすればそれはマジックと同じだ。
「それ、本当か?」
「勿論外れることもあるけど。だいたいは目線とか、声の高さとかで推測できるかな。隠すのが上手い人なら、もちろんわからないけど……面倒事もいろいろあったから同級生の様子を伺うクセがついて、気がついたらこんなヘンテコな特技ができたんだよ」
ほとんど人に言ったことはないけどね、と付け加える玲於奈に、一馬は首をかしげる。
「面倒事って、何があったんだ?」
玲於奈は、盛大に明後日の方向をむいた。
「二つの女子のグループが、どっちが俺と遊ぶかでモメてたんだ。深く考えずにジャングルジムで遊ぶグループについて行ったら、次の日にもう片方のグループから無視されて、ついでに変な噂が流れた。ちなみにこれ、小学校二年生の出来事な。その時鬼ごっこしようって言ってきたグループの中に、すごく気の強い子がいたんだ。ほんと、痛い失敗だった……」
一馬の身が勝手に総毛だった。
「大変だったんだな……でもその話、話す相手を選んだ方がいいと思う。人によっては自慢話に聞こえるかもしれないし」
「自慢なんかじゃないよ。本当に面倒だった、あれは」
はあ、とため息をつく玲於奈を見て、一馬はふとあることを思いつく。
最初に感じた気まずさも忘れて、玲於奈の近くの席に腰かけた。
「じゃあさ、聞いていいのかわからないけど。月影って女子の人気がすごいだろ? ただ単にファンなだけって人間と、お前に片思いしている人間って、区別がつくのか? あ、別に答えてくれなくてもいいぞ。単なる野次馬根性だし」
玲於奈はわずかに眉根をよせたが、一馬は固唾をのんで回答を待つ。
「誰にも言うなよ? 七割くらい、勘は当たる」
「そう、なんだ」
であるならば、だ。
瑠璃の気持ちも、記憶を失う前の玲於奈は察していたのかもしれない。
だがこれ以上は、本人に確かめようがない。
(隠すのが上手い人もいるって言ってたから、悟られていないかもしれない)
玲於奈の表情が、また苦笑で満ちる。
「ずいぶん踏み込んでくるんだな」
「……ごめん、考え無しだった」
「ううん、いいよ。北斗は、何となく信頼できる気がしてるから」
「え?」
想像もしない単語が出てきて、一馬は目をしばたたかせる。
「同じクラスになる前もなってからも、何度も助けてくれたし。少なくとも、俺に悪意がないんだってことはわかるよ。俺が体を壊したことに対してほくそ笑んでる奴も、いないわけじゃないからな」
「そんな……」
女子からの人気が高い分、男子から嫉妬を向けられやすいのだろう。もしくはかつて玲於奈にフラれたことのある女子が、逆恨みしたのか。いやそんなことよりも。
信頼できる、と玲於奈は言った。そう一馬を評した。
(何言ってるんだよ。俺は、穂積さんの心を奪ったお前に嫉妬してるんだぞ)
本来なら玲於奈は、瑠璃の初めての恋人だ。瑠璃が初めて手を繋いだり、お弁当をつくってあげた異性は彼なのだ。
玲於奈からその記憶が消え去ったとしても、瑠璃にその経験は刻まれているわけで。
(俺が踏み入れることじゃないのに。悔しくて、どうしようもない時があるんだよ)
「月影、俺はそんな善良じゃないよ。人間観察してるってさっき言ってたけど、その見立てだけは間違ってる」
「そんなことはないと思う。例えば、そうだな……北斗といる時の穂積さんを見てると、部活と少し違うかな」
「穂積さん?」
なぜここで、瑠璃の名が出てくるのだろうか。ぽかんと口を開ける一馬の目の前で、玲於奈は眠りこける瑠璃を振り返る。
「穂積さんは、良く言えば大人しい子で、悪く言えばおどおどしてるはっきりしない子、だったんだよ、俺の中では。笑いさえすれば印象も変わるだろうに、ってずっと思ってた。たぶんだけど、お前が転校してきてしばらく経ったくらいから、ちょっと変わった気がするんだ。目の輝きとか、誰かと会話する時の呼吸とかさ」
一馬は驚くばかりだった。そんなところに、観察眼が向いていたというのが信じられない。
「北斗と穂積さんの関係は知らないけど、仲が悪いってわけじゃないんだろ? だったら穂積さんに良い影響を与えたのは、たぶんお前なんじゃないのか? でも……俺は去年の夏前から記憶がいろいろ抜けてるから。こんな話しちゃったけど、あんまり真面目に取り合わなくていいよ」
いつの間にか、玲於奈は帰り支度を終えたようだ。
一馬は叫び出したい気持ちになった。
瑠璃が変わったのは、操られていた玲於奈に立ち向かうため。
戦うすべを持たなかった一馬を、盾になって守るためだ。
そして今は、前世の自分の過ちを少しでも償うために躍起になっている。
あの現実とは思えない出来事と責任感から、瑠璃は変わったのだ。
たしかに一馬は多少関わったかもしれないが、何もかも受け止め変わる決意をしたのは彼女自身だ。
(月影と記憶を共有できないことが、こんなに哀しいなんて)
ソティスの記憶があるままだったら、うやむやにならず、ちゃんと過去と向き合った上で和解できたかもしれない。
あるいは、今困っている瑠璃の力になってくれたかもしれない。
たとえ瑠璃のことが好きでなかったとしても、玲於奈はそれくらいのことはしてくれる性格のはずだ。
(そっちの方が、穂積さんだって喜んだかもしれない。俺なんかより、月影の方が)
「北斗、自信持てよ」
まさに心を読まれたようなタイミングだったので、心臓が口から飛び出そうになる。
「何だよ、急に」
「ウジウジしてるみたいだから、適当に言ったんだよ。でも俺も、たぶん穂積さんも、お前と同じクラスで良かったと思ってるよ。それって結構、自信にならないか?」
「え、いやあ、いきなりそんなふうに言われても……」
「ま、俺はもう帰るよ。ちょっと体が辛くなってきたから」
止める間もなく、玲於奈は扉の前まで進む。振り返ってから、いらずらっぽく笑んだ。
ああ、この爽やかなレモンのごとき笑顔に女子達はイチコロになるのか、としみじみと一馬は納得した。
「穂積さんのこと、頼むな? 元部員泣かせたら、元副部長の俺が黙ってないから」
一馬がその言葉の意味をおぼろげながらに咀嚼できたのは、玲於奈の足音が聞えなくなってからだった。
ぽつりと言葉が漏れる。
「月影……俺の気持ち、わかってたのかよ!」
照れと罵倒が交じったような叫びを、極力抑えて口から出す。まだ、瑠璃は寝ている。
寝ている、はずだった。
もぞもぞと動く気配ののち、気だるげな吐息が落とされる。
「穂積、さん?」
おそるおそる一馬は覗きこんだ。焦点のぼやけた瞳が、こちらを見ている。
やがて意識が覚醒したのか、瑠璃は手を組んで大きく伸びをした。
「どうして北斗君が? ……わっ、またこんなに眠っちゃったんだ」
教室の壁時計を見て、瑠璃が肩を落とす。一馬はなるだけ、当たり障りのない言葉を選んだ。
「また怒られちゃう前に、早く帰ろうよ。俺ももう帰るから」
「うん……ねえ、北斗君」
起きぬけの瑠璃の表情に、なぜだか心音が高鳴った。
「な、何?」
「何日か前に、北斗君が言ってたことについて、少し考えてたんだ」
「えっと、それって」
嫉妬に駆られ、玲於奈に構う瑠璃を一方的に怒ってしまった、あのことか。
今すぐ、穴に潜り込みたい気持ちになった。
「あれは俺がどうかしてたよ。驚いたよね? 本当にごめん」
「驚いちゃったけど、でも、あることに気づかされて堪えたんだ……玲於奈君への気持ちは、もう無いって私は思ってるんだけど、そうじゃないのかも。どこかで玲於奈君が思い出して、また関係が上手くいくかもしれないって、少しだけでも期待してる部分があるんだって、わかっちゃったんだ」
「そう、なんだ」
瑠璃の口からそれを聞くのは、辛いものがあった。
「玲於奈君への気持ちを、私なりにもう少し整理したいの。そうなると、あの……北斗君への返事も、すぐには出来ない、かな」
「返事?」
きょとんとする一馬だが、瑠璃は言葉につまっている。
以前よりハキハキするようになった彼女には珍しく、ためらっているようだ。
「えっと……去年、言ってくれたよね? 『初めての恋人を、俺に代えてみない?』って」
数瞬のち、一馬も瑠璃も、そろって首から上が真っ赤になる。
「う、うん。そうだったね」
覚えていてくれたのか――そう思うと、嬉しかった。
祈りを捧げる彼女に負担はかけたくないから、自分から掘り返すつもりはなかったが、瑠璃は気にかけてくれていたのだ。
「あの、ね。カレンデュラの記憶があるから、アミアンを想う気持ちも覚えてるんだ。でも、そのせいで今の私が、私自身の気持ちを判断できなくなるかもしれないでしょ? だからもっとハッキリさせてから、北斗君に返事をしたいの……でも、それってひどいことかもしれないね」
「どうして?」
「だって、待たせることになっちゃうから」
しゅん、とうなだれる瑠璃の前で、一馬は床に片膝をついた。
優しく覗きこんで、瑠璃に威圧感をあたえないように言葉を紡ぐ。
「俺は、穂積さんが困ったり、傷ついたりするのが一番嫌だよ」
本当は、側にいてほしい。しかしやらねばならない使命がある彼女に、一方的な想いを押しつけるのは嫌だった。
見栄でも虚勢でも、それが本心だ。
せめて彼女を自分なりのやり方で助け、守りたい。
そのために、いつも近くにいることを許してほしかった。
「君の想うように、してほしい。本当だよ。去年も今も、俺はそう思ってるよ」
「北斗君……」
視線がかち合うと、また瑠璃の頬がかあっと朱色になり、彼女は両手で顔を覆ってしまった。
またしゃくりあげるような嗚咽が聞こえて、一馬は心底慌てる。
「ごめん! 泣かないで」
「ち、違うの! 夢を思い出しちゃって、恥ずかしくて」
「え、夢?」
再び顔をあげた彼女は、確かに泣いている様子はない。頬を染めたまま、はあ、と瑠璃は肩を落とした。
「北斗君は、アミアンだった頃の夢をまだ見る?」
「うーん、以前ほどではないかな。回数は減ったと思う」
「私も一時期そうだったんだけど、またたくさん夢を見るようになったの。それも、さ……」
また言葉を切り、さらに耳を赤くする瑠璃を見て、一馬は何となく察した。
「ああ、なるほど。ちょっと恥ずかしい内容の夢なんだね」
瑠璃はこくこくと首を縦にふる。
「それで俺が顔を近づけた時に、反射的に夢を思い出しちゃったんだ?」
「うん、何度も似たような内容ばっかり見ちゃうから、頭から離れないんだ」
ということは先程の嗚咽のようなものは、驚きのあまり出たものなのか。
そうなると数日前の瑠璃も、泣いていなかったことになる。
(よかった。穂積さんを泣かせたわけじゃなかったんだ)
こっそりとそのことに安堵してから、全く違うことが頭をもたげた。
しかしそれをここで告げるわけにはいかない。一馬は己を必死で律した。
「で、瑠璃ちゃんと仲直りできたのか?」
瑠璃と共に教室を出て別れた後、マルムがどこからかひょっこり現れた。
「仲直りって、喧嘩してたわけじゃないんだけど……うん、また話せてよかったよ」
「そうか。じゃあまた明日からしごいてやるぜ?」
「うん、よろしく」
そう返事したものの、どこか上の空な自分がいる。隣を歩くマルムにも、それは気づかれたらしい。
「おいおい、また何かあったのかよ?」
気づけば、ぴたりと足が止まっていた。
帰路についているこの薄暗い時間帯、他に人影は見当たらない。
気楽そうに尋ねてくるマルムになら、吐き出してしまってもいいだろう。
「俺さあ、肝心な場面、見てないんだ」
「一体どうした? この世の終わりみたいな顔してないか?」
近づいてきたマルムの両肩に、がばっとしがみつく。
「お、おい、一馬?」
「前世のこと、俺も何度か夢で見たよ? けどさ、どうしてかわかんないけど、カレンデュラとキスしたところを、一回も見てないんだ!!」
たっぷりの沈黙が流れ、マルムの双眸が困惑と憐みと共に細くなる。
「悪い、嘆いている意味がよくわからないんだけど?」
「俺だって!! どうしてこんなに悔しいのかわからないよ!!」
一馬にはアミアンの記憶があるので、大半のことは思い出せる。
カレンデュラとは、手を握ったりキスする以上の関係になったことはない。これは事実だ。
初めての口づけは、アミアンからしてしまった。罪深さに慄きながらも、とろけそうな幸福感に浸っていた。それも事実として覚えている。
問題は、記憶の根拠となるその瞬間の出来事を、一切夢で見ていないこと。
「ソティスにボコボコに打ち負かされた夢は何回も見たのに! マルムにからかわれたり怒られたりする夢も見たし、カレンデュラと手を握ったりするくらいの内容もあったけど! 穂積さんが見たような夢は、全然これっぽっちも見てないんだ!! 女の子が真っ赤になるくらいのキスだったのかどうか、すごくすっごく気になるんだよ!!」
近所迷惑を考えながらの押さえた咆哮だったが、想像以上に息があがってしまう。
ぜえはあと呼吸を繰り返す傍らで、腕を組んだマルムがやる気のなさそうにつぶやいた。
「まあ、前世がアミアンだったとはいえ、お前とアミアンは別人だからな。もしかしたらアミアンが良い思い出を覗かれるのを、嫌がってたりしてるんじゃないのか?」
「適当に言わないでくれよ」
「適当に返したくもなるってえの!」
軽く額をはたかれ、一馬はうなだれる。
「どうして俺は、一回も見てないんだ」
「どうしてもそこが気になるのか、年頃だな。まあ俺が思うに瑠璃ちゃんが照れちゃうのは、夢を思い出しているだけ、じゃないだろうなあ」
「え、それだけじゃない?」
「しょうがないなあ、お前にこっそり教えてやる」
マルムはそういうと、がっしりと一馬の肩を組んだ。急に密着され、目を丸くする。
愉快そうに口角をあげるマルムを、怪訝な表情でうかがった。
「誰にも言うなよ? 実は数か月前のあの戦いの後、カレンデュラ猊下が瀕死のアミアンに何回も……」
「マルム、何をしているの?」
背後から割って入った声の主は、エキナセアだった。
一馬よりもマルムが驚いたようだった。足にバネでもついているかのように飛び上がり、あっという間に数メートル後ずさる。その行動を間近でみたせいで、一馬の驚愕がしぼんでしまったくらいだ。
「エ、エキナセア様、いつの間においでに」
「あなたは乙女心をわかっていないわ。少しお説教をした方がいいのかしら?」
「え?! 何のことでしょうか?!」
「話をしましょう。今日はもう、私についてきてちょうだい。じゃあまた明日ね、一馬君」
颯爽と歩を進めるエキナセアの後ろを、マルムが深酒でもしたみたいな足取りでついてゆく。
(お説教って単語が出たとき、マルムが嬉しそうに見えたんだけど)
どうやら現在の主人への片想いをこじらせすぎて、妙な領域に到達しようとしているらしい。
一馬といてくれる時のマルムは、頼りになる悪友かつ先輩というふうだが、恋心だけでこんなにも骨抜きにされてしまうのだろうか。
「俺もマルムも、お互いに苦労しそうだな。けど、これが俺たちの選択なんだよな?」
恋の成就よりも、相手を守り支えることを優先する。
けれども、長く険しい道のりになりそうだ。
明かりのともった街灯が、なぜかやたらと目にしみた。