少年の視点8
春が来たような気分にならないのはどうしてだろうと不思議に思っていたが、あるときふと気がついた。
この中学校の周辺に桜並木がないからだ。
敷地内の隅に数本植えられているが、それだけ。かつて通っていた中学校では、何十本もの桜の木から大量の花びらが舞い落ち、通学路のコンクリートを薄紅に染め上げていた光景が印象的だった。
三年生に進級しクラスの面々も変わったというのに、どうにもピンとこない理由がそれだったのだ。
「季節の花を見てないから、春を感じない? お前って植物好きなのか?」
「別に。そこまで興味はないんだけど、自分でもびっくりしたよ。弟や妹でも誘って、お花見に行こうかな」
校庭の隅で、一馬はマルムに話しかけていた。傍から見れば、一馬が虚空に独りで喋っているように感じるだろう。周囲には注意を払っているつもりだが、もし誰かに聞かれでもしたらいたたまれない。
話を区切って、目の前のクロッキー帳に目を落とす。今は美術の時間だ。写生のため、校舎内の中ならどこでも行っていいことになっている。鉛筆を手に取り、適当に紙の上ですべらせる。
マルムが覗きこむ気配がするが、一馬は黙々と続けた。少し時間が経ってから、いつのまにか桜の幹にもたれかかっていたマルムが口を開く。
「さっき言ってたお花見って、用はきれいな植物を愛でに行くんだろう?」
「うん。向こうでも似たようなことをやってた気がするけど、どうかした?」
ヴィクライ国の平民の間では類似した行事はなかったが、王宮ではあったと記憶している。
「まどろっこしいなあ、瑠璃ちゃんを誘えばいいのに」
マルムのあきれ交じりのアドバイスの意味を解した途端、鉛筆の先がぼきり、と折れた。
固まった一馬の側にまたマルムが歩み寄ってきて、独白めいたぼやきを垂れる。
「おいおい、この手の話になったとたんこうかよ。大丈夫か? 俺が鍛えてやってるから前よりも根性ついたと思うけど、こればっかりはどうにもしてやれねえなあ」
「う、うるさいっ!!」
声を荒げた瞬間、視界の端で何かが動いた。
他のクラスメイトに聞かれたか、と焦ったのもつかの間だった。その人物が倒れたので、一馬は一目散に駆けつける。
抱き起こした相手へ、そっと声をかける。
「月影、聞こえるか? しっかりしろ」
玲旺那の閉じられた瞼が、ゆっくりと開いた。顔色も良くはなく、呼吸も浅い。
うつろな視線が一馬を認めると、苦笑する。
「ああ、北斗か……助けてもらってばっかりだな」
「そんなことは気にしなくていいよ。立てるか?」
玲旺那の腕を自分の肩に回し立ち上がったところで、他のクラスメイト達がかけよってきた。
皆で協力しながら玲旺那を保健室まで連れていく一馬を、マルムは微動だにせずじっと見つめていた。
例の戦いのあと、一馬が玲旺那と接点を持ったのはだいぶ後で、三月に入った頃だった。
廊下でうずくまっている玲旺那を、たまたま最初に見つけたのが一馬だったのだ。
それ以来体調の悪い玲旺那を介抱することが何度か続き、今日で五回目になる。玲旺那と同じクラスになったことも、助ける回数が多い一因になっているだろう。
玲旺那は以前よりも登校日数が増えているが、こうして具合が悪くなることが多々あるらしい。本人によればしばらく横になれば良くなっていくらしいのだが、それでも苦しんでいる彼を目にするのは、気の毒でならなかった。
保健室から桜の木の前へ戻ってくると、マルム以外にもう一人、誰か立っている。
その後ろ姿を見て、一馬の心臓が切なく跳ねた。
ひとつ呼吸をして、こみ上げてくる緊張を散らす。
こちらを振り向いた彼女へ、いつも通りの表情を浮かべる。
「穂積さんも、桜を描きに来たの?」
「違うの。マルムがここに立っているのが見えたから。ねえ、また玲旺那君、倒れちゃったの?」
一瞬唇をかみ、安心させるように意識して笑みを唇に刷く。
「うん、保健室で寝てるよ。月影は心配しなくていいよって、またそう言ってた」
「そう、大丈夫かな」
保健室の方へ視線を移す瑠璃を通り過ぎて、クロッキー帳を拾い上げ、また地面に腰を降ろす。
集中力の途切れたこの状況で、続きが描けるだろうか。
途切れた緊張の糸を再びどうつなごうか、首を鳴らしながら思案していると、ふわりと柔らかな匂いが鼻腔をくすぐった。
すぐそばで瑠璃がしゃがみこんだのだ。一馬は飛び上がりそうになった。
「ど、どうしたの?」
「そ、その……北斗君、辛くないかなって、心配で」
目を瞬かせる一馬へ、マルムが補足するように説明した。
「瑠璃ちゃんは、お前の心の傷を心配してるんだよ。一馬が玲旺那を気遣っているのは本心からなんだろうけどさ、一応お前は散々な目にあっただろ? それをふと思い出したりしないのかって、心配なんだとさ」
確かに、操られていた玲旺那の所業はひどかった。
一馬は彼に脅され、命を狙われ、首を何度も締めあげられ、監禁までされたのだ。並べ立てるとすさまじい内容ばかりだが、今となっては遠い過去のように感じてしまう。
「ありがとう、穂積さん。俺は平気だよ」
「でも今は平気でも、この後でもしも辛くなっちゃたら、ちゃんと話してほしいの。私、北斗君の力になりたいから」
少し頬を染め、力強く話してくれる瑠璃に、いつかのような眩しさを感じる。
たとえ非力だと感じていても、前を向かざるを得ない現実から逃げず、覚悟と悲壮感を持って立ち向かっていた、あの少女のような。
カレンデュラと同じ秘めた強さを、彼女は持っている。
瑠璃がいるのとは反対側のこぶしを固く握り、一馬はまた笑んだ。
「ありがとう。そうなった時は、よろしくね」
「うん……じゃあ私、あっちでスケッチするね。お邪魔してごめんなさい」
そう言うと瑠璃は、つつじの植え込みのある一角へ駆けていった。まだ花は咲いていないが、そこに女子の姿が数人あるので、そこで写生をしていたのだろう。
「瑠璃ちゃんは優しいなあ。もっと頼ってやれよ、一馬。女性に甘えるのも悪くないんじゃないのか?」
「マルムが言うと妙な意味合いがありそうだから、その言い方は止めてくれよ」
「えー、どうしてそうなるんだよ?」
無意識のうちにため息をついた一馬は、もう一度、瑠璃の言葉を思い起こす。
――今は平気でも、この後でもしも辛くなっちゃたら、ちゃんと話してほしいの。
「穂積さん……俺は今、別のことでとても辛いんだ」
けれどこれだけは、決して瑠璃に言うことはできない。
玲旺那が教室に再び姿を現したのは、給食の時間だった。
クラス編成の際に先生達が気を配ったのかは不明だが、このクラスは演劇部員が多い。そのため、部員が玲旺那を気遣う場面をしょっちゅう目にする。
皆一様に玲旺那を心配しているようなので、本当に彼は慕われ愛されている人気者なのだなと、一馬はしみじみ感じていた。
だが今日この時間は、胸の奥にちくりと痛みが走る。
「玲旺那君、まだ寝ていなくていいの?」
青白い顔の玲旺那に話しかけているのは、瑠璃だ。彼女も同じクラスだとわかった時は、どんな運命のイタズラかと大袈裟に考えてしまった。それでも瑠璃の姿をまた毎日のように見れるのは、正直なところ嬉しかった。
ただし――彼女が玲旺那を気にかける場面もよく目にするようになったのだが。
隣の席で数名集まっている、女子たちの会話が耳に入る。
「玲旺那君、新入生歓迎公演に出れなかったんだよね」
「そうそう、それでそのまま部活は引退なわけでしょ? 残念だよね」
「あーあ、去年の文化祭の時の玲旺那君、見ておきたかったなあ。出し物の当番しなきゃいけなかったから、行けなかったんだよね。すごくカッコよかったって聞いたけど」
「相手役だった女の先輩も上手だったから、ほんとうに素敵な王子様に見えたよ?」
「見れたんだ。いいな、うらやましいー」
ぼやくため息とは別に、苛立ちの混ざった吐息も聞こえる。
「前から思ってたんだけど……穂積さん、玲旺那君に構いすぎじゃない?」
「うーん、好きなんじゃないの? 玲旺那君は人気あるし、不思議でもなんでもないよ」
「なんていうかさあ、釣り合わないと思うんだよね」
「え? あ、まあ、穂積さんはちょっと地味だから」
一馬はがたん、と椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がった。さりげなさをよそおい、玲旺那と瑠璃に歩み寄る。
「月影、クロッキー帳はどうした?」
「あれ? そういえば、どこに置いてきたかなあ……覚えてない」
「中庭か校庭にはあると思うから、とってくるよ。行こう、穂積さん」
「私も?」
疑問符を浮かべる彼女の返事は聞かず、腕をとって歩きだした。自分を呼ぶ声がしたが、次第に止んでいく。何か用事があるのかと、瑠璃も察したようだ。
「北斗君、手、放して……痛いよ」
「っ……ごめん」
戸惑っている瑠璃の姿を見て、熱くなっていた自分に気がつく。頭をふって、ため息をついた。
「何かあったの?」
案じるような視線に、思わず口を開いた。
「あのさ、あんまり月影の面倒見ないほうがいいと思うよ?」
言ってから、何を口走っているのかと自分に驚く一方、やめられない。
「せっかく平和になったんだから、面倒事は少ない方がいいだろ? このままだと穂積さんは、事情を知らない誰かにやっかまれるかもしれない。月影は人気があるんだから、構いすぎると損すると思う。心配なのはわかるけど、少し距離を置くべきだと思うんだ。ただでさえ穂積さんは……しょうっちゅう祈って、疲れてるだろうし」
基本、授業は真面目に受ける瑠璃だが、三年になってから居眠りが格段に増えた。マルムも、瑠璃が無理してあれこれ祈っているようだと言っていたので、間違いない。
彼女はその強い責任感でもって、過去のあやまちを償おうとしている。
だけど少しは、我が身もかえりみてほしいのだ。
瑠璃が苦笑しながら首を振った。
「大丈夫だよ。北斗君は知らないかもしれないけど、演劇部の女子がいろいろ言われるの、これまでに何度かあったんだ。私も直接、玲旺那君にあんまり構うなって言われたことあるし、仕方ないことなんだよ……心配してくれたんだね、ありがと」
瑠璃は廊下を進みだした。会話を無理やり終わらせるつもりなのだと悟った瞬間、一馬の中で何かがはじけた。
「それでも月影に構うのは、心配だから? それ以外に何かあるんじゃないのか?」
瑠璃の前に回りこみ、両肩をつかむ。相手が身をすくめたのはわかるが、止められない。
「まだあいつが好きなのか? それは穂積さんの自由だけど、あいつは何もかも忘れちゃってるんだろ? そんな奴をまだ想って、何になるんだ? 君を傷つけたあいつのどこがいいんだ?!」
三年生になる前のことだ。まるで、魂の抜けたような瑠璃から聞かされた。
いわく、玲旺那へ慎重に質問を投げかけ続けた結果、前世にまつわる諸々の出来事を、玲旺那は綺麗さっぱりおぼえていないことが確定した、と。
それはソティスが真に解放された証しでもあるのだけれど、同時に瑠璃の完全な失恋を意味するものでもあった。
一馬はそれを聞かされた時、どこかで安堵してしまった。
そんな醜い自分が、未だに許せていない。
「そんなことを続けてても、穂積さんが苦しいだけ……」
「……っ」
かすかな嗚咽が聞こえて、一馬はばっと身を離す。
瑠璃がうつむいて、小さく震えている。
怖がらせた上に、泣かせてしまったのだ。
そんなに、恐ろしい顔をしていたのだろうか。嫉妬にかられた自分は。
「……クロッキー帳、とってくる。先に教室に戻ってて」
逃げるようにその場を後にする。取り繕っても、墓穴をさらに掘って大きく広げるだけだろう。
春のうららかな陽の光とは裏腹に、一馬の心はずんずんと沈んでいった。
放課後、公園の芝生の上で、一馬はうつ伏せに伸びていた。
通りすがりの小学生の集団がこちらを怪訝そうに伺っているのは目に入ったが、気にかけている余裕はない。
片手にはいつも鍛錬をする時に使う剣がにぎられているが、あの小学生たちには見えてはいないだろう。
ついでに一馬の背中に遠慮なく腰掛けている、マルムの姿も認識できていないはずだ。
「どうした、調子悪いな? 何かあったのか?」
肺から空気がすべてなくなるくらいの、長いため息をつく。
「見たらわかるだろう? 悪いけど、今日だけは放っておいて欲しいんだ。鍛錬はまたちゃんとするから」
「原因は何だ? 月影にまた酷い目に遭わされたか? それとも瑠璃ちゃんにフラれた?」
「……頼むから、本当に放っておいてくれよ」
「お、図星だなこりゃ。わかった、今日はもうこれでおしまいだな」
マルムは立ち上がると剣を鞘に収める。どこかへ去っていくかと思ったが、芝生をふらふらと散策し始めた。理由を聞くまでは、側にいた方がいいと判断したのだろうか。
手を振って剣を消した一馬は、ごろんと寝がえりをうつ。
陽が傾いた春の空は、すきとおりそうな薄水色をしていた。上質な羽毛布団のように柔らかそうな雲が、点々と浮かんでいる。
風に流される雲を見上げていたら、誰かが隣に転がる気配がした。マルムだ。
「嫌じゃなかったら、俺に話してみろよ。覚えてるだろうけど、俺は昔カレンデュラ猊下とのことに関して、アミアンに注意してばかりだったしな。気持ちを聞いてやろうなんて考えは、これっぽっちもなかった。その代わりにと言っちゃなんだけど、一馬の話を聞かせてほしいんだ」
(そうだ、カレンデュラと両想いになったのを一番最初に見抜いたのは、マルムだったな)
マルムはアミアンに対し、その恋路を突き進むのは止めておけ、とばかり言っていた。
当時の状況や身分を考えたら、それは当然の意見だ。
それでも誰にも告発しなかったのは、マルムなりにアミアンを心配していたからだろう。
家格の低い貴族であるアミアンが、最も高貴な女性の一人であるカレンデュラと恋仲になったと知れれば、咎がおよぶことを充分に承知していたのだ。
空がまぶしくて、一馬は片腕で両目を覆った。ぐっと拳を握りしめる。
「俺さ、月影が穂積さんにせまっていた時、偉そうなこと言ったんだよ。穂積さんは誰のものでもなくて、彼女を自由にできるのは彼女自身だけだって……でも俺はかつての月影と、同じことを望んだんだ」
瑠璃の姿を見ていると、心が温かくなるのと同時に、黒い欲望が渦巻くことがある。
自分のすぐ隣に置いて、どこにも行けないように繋ぎとめておきたくなってしまう。
「無理に俺の側にいてほしいわけじゃないのに、月影を心配しているのをみると、イライラしちゃうんだ。馬鹿みたいだよ。俺って、こんなに心が狭かったんだって嫌でも気づかされて」
瑠璃の前では、常に格好つけていたい。彼女の助けになれる良い人でありたい。
実際はその遠い目標の裏に、幼稚な我儘を必死で隠している。滑稽すぎて笑えてしまう。
「ちょっと潔癖というか、真面目に考えすぎだな。恋なんてそんなもんだろ。相手にとって最も良いことを願える奴らばかりだったら、この世に争いなんて無いさ」
頭に、ぽふと何かが触れる感覚がある。マルムが撫でてくれたのだろう。
「けど一馬は、操られていた月影とは全然違うぞ。苦しみながらも、瑠璃ちゃんのことをちゃんと考えているってことだ。自分の感情を優先させたら、瑠璃ちゃんをすごく困らせる。だから思いとどまってるんだろ?」
マルムがこちらを覗きこんでくる。騎士になったばかりのころ、あれこれ手とり足とり教えてくれた時も、こんな真剣な表情をしていた覚えがある。
「苦しいのはわかる。けど恋心を押しつけるよりも、瑠璃ちゃんを見守って時々助けるっていう関わり方を選んだんなら、今はそれをつらぬくんだ。俺達の腕っぷしが、瑠璃ちゃんやエキナセア様より強いのはそのためなんだからな。力づくで、相手に言うことを聞かせるためじゃない。守るべきものをちゃんと守れるように、授かったものなんだよ」
「マルム」
後半は、彼自身に言い聞かせるような内容だった。
「やっぱり、エキナセアに振り向いてもらえないのが、辛いのか?」
「……ばれてた? 俺がエキナセア様に片想いしてるの」
こくん、と一馬はうなづく。
「穂積さんとも一度話したことがあるよ。俺達には丸わかりなのに、全く気にも留めないエキナセアもすごいな、って」
「ああ……まあ、あの御方の状況じゃ致し方ないかな。基本的には政略結婚する立場なのに、嫁ぐほど健康じゃなかったし。誰かと夫婦っていう関係をつくることすら想像できない日々だったろうから、それ以上に恋愛っていうものにピンとこないのかもな」
マルムの視線が嘆きと共に遠くへ投げられる。なるほど、と一馬は心の中でつぶやいた。
エキナセアは意地悪で気づかないふりをしているのではなく、恋愛回路がそもそも備わっていない可能性が高いということか。
「じゃあ、俺よりもマルムの方が大変じゃないか?」
「いいんだよ……恋心をひた隠しにしながらお仕えするのも、わりと癖になってくるんだよなあ」
ほんのわずかだが、マルムの言葉に恍惚が混ざっていたのは気のせいだろうか。
どう反応していいかわからず沈黙していると、今度はそこそこの力で頭をはたかれる。
「いたっ」
「何か言ってくれよ。気まずいだろ」
「いや、そんなこと言われても」
さらに繰り出されるマルムの拳を、よける。本気で攻撃しているわけではないので、一馬もマルムもどこか笑みを浮かべていた。
「とりあえず、俺は帰るよ。一馬もあんまり道草するなよ?」
片手を振りながら去るマルムの背中を、一馬はなんとはなしに見ていた。
脳裏に、投げかけられた言葉がよみがえる。
――恋心を押しつけるよりも、瑠璃ちゃんを見守って時々助けるっていう関わり方を選んだんなら、今はそれをつらぬくんだ。
(確かに、俺が望んでいるのってそれなんだろうな)
道しるべはあるのに、迷いがどうしてもある。
空を流れる雲のように流れに身を任せて生きれればいいのにな、などと大袈裟なことを考える一馬だった。