ACT41 少女は安堵する
とくんとくん、と優しい音がする。
私の心臓の音か、それとも誰かの鼓動なのか。
最高級の絹にくるまれても、こんなにも安らかな心地はしないだろう。
ああ、愛しい私の騎士は――いや、北斗君は無事なのだろうか。
「……ちゃん、瑠璃ちゃん?」
やさしく呼ばれる声と同時に、目に光が飛び込んでくる。
今にも泣きそうなエキナセアが、私を覗きこんでいた。
「……ここは?」
エキナセアの背後の壁を見て、ここが玲旺那君の自室だとわかる。
ゆっくりと記憶が呼び起こされる。自称神の創った異空間で、私たちは過去の姿に変わり戦った。
そうだ、アミアンに姿を変えた北斗君が、私をかばって大変なことに。
「北斗君!!」
叫んだ直後に、ようやく今の自分の体勢を理解した。
なんと床に伸びた北斗君の体の上に、ちょうど乗っかっていたのだ。耳に届いていた心臓の音は、北斗君の胸の上に私の頭があったせいだろう。
「ご、ごめんっ!」
飛びすさったけど、まだ彼は気絶したままだった。胸がゆっくりと上下するのを確認して、私はこれでもかというくらいに気が抜けた。
よかった……北斗君、ちゃんと無事だった。
ちょっぴり涙がにじんできたところを、エキナセアにそっと抱き寄せられた。
「よかったわ、本当に。瑠璃ちゃん、よく頑張ったわね」
「蛇の神様は?」
「しっかりとこの目で消滅したのを見たわ。気配もどうやらないようね。少なくとも、玲旺那君を操ることはもうないでしょう」
エキナセアの視線の先に、ベッドに横たわる玲旺那君がいた。北斗君と同じように、気を失ったままだ。そんな彼をマルムが複雑そうに見おろしていた。
「どうしたのマルム? もうその子から魔物は消え去っているわ。そんなに警戒しなくてもいいでしょう?」
まるで機械仕掛けのおもちゃみたいに、マルムがゆっくりと首だけこっちにむける。苦虫をかみつぶした顔をしていた。何だかすねているみたい。
「エキナセア様、どうしてソティスの野郎は、あなた様の肩を恐れ多くも抱いたのでしょうか?」
「さあ、一応夫婦だったからじゃないかしら? 以前は全く私に触れようとなさらなかったけど、星の加護を取り戻せたし、あの方なりに深く後悔されているようだったから、私に優しくしようなんて思われたのかもね」
もう確認はできないけれどね、とエキナセアは私に微笑んだ。マルムはまだ何かブツブツ言っている。
えーと、これは……そういうこと、なのかな?
こういう話題に疎い私でも、マルムがエキナセアに想いをよせているんだろうな、と思ってしまう。きっとマルムは、ソティスに嫉妬してるんだろう。
当のエキナセア本人は、全く気づいていないみたいだけど。
「……ん、穂積、さん……」
身じろいだ北斗君が、ゆっくり目を開けた。床を這って近づいた私は、そっと手を握る。
温かい。北斗君の瞳に、ちゃんと私の姿が映っている。
よかった。カレンデュラの癒しは届いて、北斗君を助けてくれたんだ。
「北斗君、本当に無事でよかった」
また泣きそうになった私は、ある行動を思い出して青ざめた。
ちょっと待って。
カレンデュラに姿を変えた私は、アミアンに姿を変えた北斗君を助けるために……キスしたよね。
それも、一度や二度じゃない。十回、二十回? いや、下手したらもっとたくさんしてたんじゃない?!
血の気が下がったと思った次の瞬間、顔が爆発したみたいに熱くなる。
恥ずかしい、照れ臭い、後ろめたい、いたたまれない。なんて表現したらいいんだろ。とにかくむずむずする。
「どうしたの 穂積さん?」
私の体調がすぐれないと思ったのか、北斗君は体を起こした。でもすぐに体が傾いで、私はとっさに支える。
北斗君の体温と息づかいが近すぎてまた妙に意識しちゃって、顔どころか首まで熱くなってきた。
「ごめん、なんかクラクラするんだ」
エキナセアが、私の隣にしゃがみこんだ。
「どうしたのかしら。まだ完全に癒えてないのかしら。なら瑠璃ちゃん、さっきみたいに……」
そこまで言って、エキナセアは唐突に黙り込む。でもそれを補完するみたいに、近づいてきたマルムがこう言った。
「一馬、無事でよかったよ。いやしかし、あれは騎士冥利につきるよな。使える主人から直々に介抱してもらって、おまけに……」
ぱあん、とエキナセアの平手がマルムの後頭部に炸裂した。私も北斗君も目をむく。
エキナセア、なんてことしてるの?!
お姫様の攻撃なんて、鍛えている騎士には屁の河童なんだろうか。音が派手だった気がするけど、マルムの体はよろめきもしない。けどかなり衝撃を覚えたみたいで、今までみた彼の中で一番目を大きく見開いていた。
「エキナセア様、な、なぜこのようなことを……」
「あなたはもう少し、乙女心とか情緒というものを悟るべきよ」
もしかしてエキナセアは、私を気づかってくれたのかな。
助けるためとはいえ、北斗君にキスをたくさんしたことを隠そうとしてくれたのかも。
状況についていけてない北斗君が何か言おうとして、さらに私の方に倒れ込んできた。私の肩に額をつけて、深いため息をつく。
照れている場合じゃない。北斗君の具合が良くないんだから。
「北斗君、もう星はないんだ。その代わり、お医者さんに行こう?」
「いや、その……」
北斗君の言葉をかき消すように鳴ったのは、盛大な腹の虫。
今度はエキナセアとマルムが目を丸くする中で、北斗君がもう一度切なげにため息をついた。
「めちゃくちゃ腹減ったんだ。朝から、パン一個しか食べてなくて」
あ、そうか、私もうっかりしていた。
中学生の男の子だもんね。お茶を飲ませてあげるよりも、食べ物の方がよかったのかも。
その時、誰かが階段を昇ってくる音がした。「玲旺那?」という声までする。
玲旺那君のお母さんだ。
自称神様を退治したから、乗っ取られていた玲旺那君が張った結界も当然なくなってるはず。
まずい、姿を見られるわけにはいかない!
私たちは風のように退散した。エキナセアが私と北斗君の鞄を持ってくれて、マルムは私達二人を無理やり抱きかかえてくれて、何とか部屋の窓から間一髪逃げることができた。
玲旺那君が寝ているのに窓が不自然に開いたままだったこと、疑問に思われたかもしれないけど、もうそれは仕方がない。
マルムがこっそりと靴を回収してくれた後、どうやって話の裏合わせをするか、みんなで知恵を出しあった。
私はすぐに家へ戻った。いつもの帰宅時間よりも二時間近く遅くなっちゃったから、お母さんにもお父さんにも心配されて、最終的には怒られた。お父さんより遅く帰るなんて、もしかしたら人生で初めてかもしれない。
私はうなだれて、ごめんなさいと謝るしかなかった。本当の理由を言えるはずがないもの。
自分の部屋へ行き、窓の外で待っていたマルムに菓子パンを渡す。北斗君が食べれそうなら、食べてもらうためだ。
次の日の朝、私はめずらしく朝刊をチェックした。小さい記事だったけど、北斗君が無事見つかったことが書いてある。
内容はとても簡潔にまとめてあった。
北斗君が新しい生活になじめなくて、ふらっと家出をしちゃったこと。隣町をウロウロしていたけど、思い直して家に帰宅したこと。全部これは、私達が考え出した嘘なんだけど。
北斗君が同級生にさらわれて監禁されていた、なんて言える訳がないもんね。
みそ汁の香りがいつもどおり鼻をくすぐる中で、漫然とテレビに視線を移した。内容が頭に入ってこない。
もう前世の人間関係にやきもきしなくていいんだと思ったら、力が抜けちゃったよ。
北斗君、私みたいに、家族に怒られてないといいな……。