ACT40 愛しているから
大蛇が狙っていたのは、やはりソティスだったようだ。
逃げ切れなかった彼をのみ込もうとして――そのがらあきの蛇の背を、マルムがざっくりと切りつける。
大蛇が悲鳴を上げた隙に、ソティスは窮地を逃れた。
そういえばマルムは魂だけの存在だからか、誰よりも身軽に動いている気がする。さっき私を助けてくれた際にも、やすやすと蛇の胴体をかけ上がっていた。
ソティスの近くに着地したマルムは、不承不承といった様子で剣を構え直した。
「俺はあんたが憎いけど、エキナセア様を悲しませるわけにはいかないんでね。超・特別に助けて差し上げました。この借りはあとで数万倍にしてお返しください」
ソティスは毒気を抜かれたように、苦笑している。
「トゥデヤンの者たちは、変わり者ばかりのようだな」
「ああ? 心の広い妻を変わり者呼ばわりですか?」
食ってかかりそうになったマルムは、すぐ正面に向き直った。大蛇が再び動き出している。
アミアンは私たちの元に駆けつけてくれて、剣を構えている。
首をもたげ、残った片目で私達を睥睨する、自称神。
かつては玲旺那にとりつき、一馬の命をたやすく奪いかけたほどの力の持ち主なのに、もはや力突きかけているようにも思う。
このまま自滅してくれればありがたいけど、油断はならない。窮地に陥った相手ほど、注意を払う必要がある。
その時ふいに、星が手のひらの中で動いた。
今まで感じたことが無い程の、強く長い震え。不可解さが、不吉な予感に変わっていく。
大蛇の片目が、赤く光を放った。
怖気も美しさもどちらも感じる、いのちの赤の色。
『私としたことガ、惑わされていタ。狙うべきハただ、お前のみだったのニ――』
突然蛇の全身が崩れる。ついに消失するのか、と思ったけどそうではなかった。
崩れた礫から、またもや無数の大量の蛇が現れる。そのすべてが巨大な矢のように私に躍りかかってきた。
「いや……いやあああああっっ」
すぐに視界は黒一色になり、皆がどこにいるのかわからなくなった。
鱗どうしがこすれる音、威嚇の音、生温かい呼吸音。そういったものだけが世界のすべてになってしまった。何匹かが私の手を噛んでいるのに気がつき、あわてて胸に引き寄せる。きっと星を狙っているのだ。
何とか目を開けると、どこかで一点のみ赤い光が見えた。あれが本体なのだろうと見当はついたものの、身動きが取れずに近づけない。
私は身を折りうずくまって、何とか蛇達から星を守ろうとした。そうしている間にも肌に牙を突きたてられ、体のあちこちに蛇がからみつき締め上げてくる。何とか祈ろうと意識を集中させるものの、絶えまなく襲う痛みや恐怖が邪魔して上手くいかない。
自称神は本気だ。私ごと、星を葬り去る気なのだ。
「そう、は、させない」
私はここで、負ける訳にはいかない。
そもそもこの体は瑠璃のものであり、加えてやるべき大事な使命が残っているのだ。
「何度も、負けはしないわ……! くぅ……」
数匹の蛇が私の首をしめあげる中で、まぼろしが見えた。
十をすぎたくらいの二人の子供の姿。それぞれ漆黒の衣と純白の衣をまとい、遊びの最中なのか、漆黒の子が純白の子を追いかけまわしている。
純白の子はただひたすら楽しそうに、無邪気な笑い声が今にも聞こえそうな笑顔を浮かべている。対して追いかけている漆黒の子は、半ベソをかいていた。どれだけ駆けても追いつけないことに苛立ちを感じているようだ。泣き顔が一瞬深い憎しみに染まり、漆黒の子は立ち止まった。
異変に気がついた純白の子は、きょとんとした表情のまま漆黒の子に近づいていった。
漆黒の子は怒声を浴びせているようだ。内容は私には聞き取れないけれど、純白の子はただ首を傾げ、不思議そうに相手を眺めていた。漆黒の子はますます激昂した。
漆黒の子は怒りにまかせて手を振り上げた。純白の子は、何もせずそれを見ていた。
手が振りおろされたと同時に一種の手品のように、純白の子の体がバラバラになってしまう。
地面に転がった純白の子の体を見て、漆黒の子は複雑な表情を浮かべていた。
愕然としているようにも、歓喜しているようにも、後悔しているようにも見える。
その場から漆黒の子は走り去っていった。残された純白の子の体はそれぞれが光に包まれ、いくつもの小さな光の屑になっていった。
その光の屑はより集まって、私がよく見覚えのあるものに形作られていって――
『ここまで見たのは、おそらくお前が初めてだろう』
薄れゆく意識の中で、男性であろう声が響いた。
『最初は他愛のない喧嘩だった。私とあの者は切っても切れぬ関係であったのに、分かたれてしまったのだ。太古にはお互い求め、愛していたこともあったのに。いつしか憎しみしかなくなってしまった。だが分かたれたことで、あらゆるものが誕生したのも事実だ』
蛇に噛まれる痛みの中、誰かに肩を抱かれる感覚がある。
その誰かは常にこちらを見守ってくれているのに、肝心な時に手助けはしてくれない。
でも私達を愛してくれていることは痛いほどわかっている。だから、求めずにはいられない。
『もう、あの者と同一になることはない。時は二度と戻せないのだ。このまま進むことしか選べないのであれば、これ以上そなた達を巻きこむわけにはいかぬ。秩序を乱さぬ程度に、そなたを助けよう』
癒しの口づけが、ひとつだけ頭に落ちた。
痛みにさいなまれ朦朧とする中で、視界に入った自分の手の中がからであることに気がつく。
けれど温かい何かが背を包んでいるので、焦りはなかった。
薄く白い光が私を覆っていた。繊細な紗のような光に、蛇達はひるむ。
何を思ったのか、数匹が再び私に牙を立てた。だけど光に呑まれ、のたうちながら消えていった。
無数の漆黒の蛇達が、ゆっくりと消えていく。私を覆う光が、少しずつ強くなっていく。
まだ体は完全に癒えてないので、ゆっくりと身をおこした。
『なぜダ……お前、何をしタ』
ただ一匹だけ残った、真っ赤な双眸の蛇。せいぜい、私の腕程の長さしかない。
あれだけ恐ろしげな自称神が、ここまでちっぽけになってしまうとは。
『あやつガ何かしたのカ。まさか、こんなコトをする力が残っていたとハ!』
自称神は、怒っているのだろうか――泣いていると思ってしまったのは、私個人の感傷だろうか。
立ち上がろうとしたのに、膝が崩れてしまう。光の紗は私を包んでくれているけれど、まだ完全な回復には至らない。
それに気づいた蛇が、踊りかかってきても反応できず。
腕で顔をかばった私の前に、人影が滑り込んで。
悲鳴をあげた人影は、次の瞬間、蛇を真っ二つに切り捨てた。
短い断末魔と共に、自称神は塵となっていく。
勝ったのだ、と理解する前に私は叫んでいた。
「アミアンっ!!」
剣を取り落とし、倒れ込んだアミアンの腕から血が滔々と流れている。最後の力を振り絞った蛇が、私を殺すつもりでやった渾身の一撃をまともに食らったのだ。
とっさにアミアンを抱きよせた。固まっていただけの皆が、私とアミアンを取り囲む。
「いやよ、アミアン、しっかりして!!」
私の体は、相変わらず光に覆われたまま。けれど手元に星はない。これではアミアンの傷を治せない。
しゃがみこんだお姉様が、あわてて尋ねてくる。
「カレンデュラ、星はどうしたの?」
無言で私が首を振ると、お姉様は絶句してしまった。よろめきかかったお姉様の肩を、ソティスが支える。
額に大粒の汗を浮かべ、青ざめたアミアンは途切れ途切れに言う。
「いけま、せん。大切な御身が、僕の血でけがれる、など……」
「何を言ってるの!」
そういえば、こんなやりとりを以前にもした。
ソティスに操られたアミアンが、自らを刺し、息絶えるあの時に。
「よかった。カレンデュラ猊下、使命を果たされました、ね。さすが、です。あなた様は、本当に、すごい御方だ」
「アミアン、無理して喋らないで」
私はアミアンをますます強く抱き寄せた。私を包む光が、彼も同じように包むことを信じて。
せっかくあの大蛇をやっつけたのに、犠牲を出したくない。
「僕は、格好悪いところばかり、お見せしてますね。騎士のくせにと、失望されたでしょう?」
「そんなわけないわ! 何度も私を守って救ってくれたあなたが、格好悪いわけない!」
いつだったか神殿の外で一人泣いていた私を、アミアンは見つけて慰めてくれた。
のちにアミアンが言っていたのだけれど。あの時アミアンは、私を普通の女の子だと初めて実感したらしい。
不遜な感想だったと前置きした上で、泣いている私を不憫に思い、それでも翌朝以降いつもの通り振舞う私に、守りたいという思いが一層強くなったのだ、と。それが気がつけば、恋になっていったのだ、と。
アミアンの息が荒くなる。顔を苦痛にしかめる彼の片手を、マルムがとってさすった。
「しっかりしろ! お前以外に、誰が猊下の側にいるっていうんだよ?!」
友の叱咤に、かろうじてアミアンは笑った。
「あの時……猊下を刺す前に、僕自身を刺せたのは、マルムが最後の力を振り絞って、忠告してくれた、から。マルムのおかげで、一番大事な人を、傷つけず、に、済んだ」
「ばか、やろう」
アミアンの頬に、涙がひとすじ流れる。それがきっかけだったのか、次から次へと涙があふれて。
私と目が合うと、歯を見せて微笑んでくれた。
「今度こそ、最後まで守る、と、一馬も言ったのに……」
「アミアン」
私はアミアンの傷にそっと触れた。本当にもう、出来ることはないのだろうか?
運命はまた、アミアンを容赦なく奪っていくのか?
私はそれを、なすすべなく見ているだけなのか?
「カレンデュラ、様……僕は、僕の生も死も捧げれる方に出会えたことを、心より、嬉しく思い、…ま……」
言葉をすべて紡ぐこともなく、アミアンはすっと瞼を閉じた。
違う。こんなことはあり得ない。許せるわけがない。
悲しみよりも、遣る瀬無い怒りの方が膨らんでいく。
虫の息のアミアンを何とか救いだすことができるなら、私はどうなったっていい。
騎士にかばわれてばかりの<光の子>なんて、嫌だ。
突き動かされるように、唇を愛しい人のそれに重ねた。
何度も何度も。こぼれおちる彼の命を、掬いとるように。
祈りが届いたのか、私を覆う光が、わずかずつではあるけどアミアンにうつっていく。
少しずつ生気の戻る顔を見ながら、私は口づけを止めなかった。
目がかすんでいるせいか、アミアンの姿が、一馬に戻っていったように見える。
そういえば私も、カレンデュラから瑠璃に戻っているような――
それでもアミアンの無事を確かめるまでは止める訳にはいかないと、気力を振り絞りながら、私は彼を抱きしめ、口づけ、祈り続けた。