ACT35 その昔、地獄に落ちて
エキナセアの青ざめた顔が、マルムの悔しそうな顔が、扉の向こうに消えてから、私はどうしてか意識を失ってしまった。
次に目が覚めた時、どこか知らない場所で横たわっていた。
かつてくり返し見ていた、夢の光景を連想させる薄暗い空間だった。カレンデュラの最期の場所になった、神殿の奥まった部屋にも似ているかもしれない。
手も足も思うように動かせなくて戸惑っていると、近くで何かが動く気配がする。
「気がついたのか、瑠璃」
覗きこんできたのは、玲旺那君だった。
「ここ、どこなの?」
「瑠璃と俺以外は入れない、特別な場所だよ」
玲旺那君は私の体の両側に手をついて、悠々とこちらを見おろしている。
私をこうして捕まえて腕に閉じ込めて、満足なんだろうか。
その瞳に、はっきりわかるほどの恋慕が宿っているのだけれど。
それを見て感じるのは、もうときめきじゃない。恐れと寒気だ。
「こうでもしないと、どうしても邪魔が入るからな。こうするしかなかったんだ」
唇が重なる。そのまま背中ごと包むように抱きしめられた。
玲旺那君の顔が、鎖骨のすぐ下辺りに乗っかっている。振り払いたいのに、体がいうことを聞いてくれない。
もしかして気を失っている間に、例の蛇に噛まれちゃったのかな。
「どうして、カレンデュラも瑠璃も、俺に心をあずけてくれないのかな?」
表情が見えないからわからないけど、まるで今にも泣き出しそうな子供みたいな声だ。
躊躇ないやり方で私や北斗君を脅してきた人だとは、まるで思えない。
「カレンデュラへの愛しさに気づいた時には、もう手遅れだった。彼女は、下級貴族のつまらない男に夢中になってた。瑠璃の前世に気がついた時はすごく嬉しくて、両想いになったあかつきには今度こそ上手くいくと思ってたのに、またあいつが現れて、邪魔しやがった」
抱きしめられる腕に力がこもる。思わず、唾を飲み込んだ。
「あいつのこと、本気で殺すつもりでいたよ。でもむやみに北斗を消したら、きっと瑠璃は悲しむだろう? そしたら俺は嫌われてしまう。また瑠璃の心が手に入らなくなっちゃう。そんなのはもう嫌なんだ。だから誰にも邪魔されない状態で、こうするしかないんだ」
玲旺那君の薄い唇が、私の首筋を這った。思わず肩をすくめる。
「やめて……」
「どうして、俺を好きになってくれない女の子を、好きになったんだろう。こんなの苦しすぎる。もう、本当は止めたいのに……」
ぴたり、と玲旺那君の動きが止まった。次に聞こえた声は、低くかすれていた。
「何を今さら、それはお前のノゾミだったはずダ」
また玲旺那君の動きが止まる。さっきの自分自身の言葉に答えるように、首を横に振る。
「確かにそうだった。けど好きな人が振り向いてくれないからって、根こそぎ奪うのは違う。そんなことしたって、心は満たされないんだ!! ……ぐっ!!」
玲旺那君は胸を押さえ、ごろりと床に転がった。服の上から爪を立てて、あえぐように呼吸を繰り返す。
「この世界ハ、私と相性が悪イ。こうして何かにつけて、調子が悪くなるのガ良い証拠ダ。さっさとあの少女ヲ手に入れロ。お膳立ては充分ニしてやったダロ?……うるさい!! 勝手に人の体を占領しておいて、偉そうに言うな!!」
何とか上半身を起こした私は、あっけにとられた。
玲旺那君が、二人分の声音を使っている?
わざわざそんなことをする必要なんか、ないよね。
じゃあ玲旺那君じゃない低い方の声は、一体誰なんだろう。少なくともソティスの声じゃないと思うけど。
ぜいぜいと荒い呼吸を続けた玲旺那君は、ふいに静かになった。今この景色に気がついたというように辺りを見回し、そして私と目を合わせ愕然とする。
ついさっき悪夢から目覚めたみたいな、ひどい顔だ。
「穂積さん……」
とっさに反応ができなかった。
玲旺那君が、私のことを名字で呼んでいるのだ。二人きりで、恋人であることを誰にも隠す必要がないというのに。
「俺、君にものすごくひどいことをしたんだね。君だけじゃない、転校生の北斗にも、だろ?」
事実確認のように言った後、くしゃりと顔をゆがめる。
「そういえば、若山先輩にもだ。どうして、あんなこと……何で、止められなかったんだ!!」
「玲旺那君、落ちついてよ! いきなりどうしたの?」
頭をかかえてうずくまる玲旺那君の動きが、またぴたりと止まる。
「力を使いすぎたせいデ、この者の魂を押さえこめなくなったノカ。私としたことガ、何と情けナイ」
「玲旺那君?」
名前を呼ぶけどその一方で、目の前にいるのは玲旺那君でもソティスでもないことに、うすうす気づいてしまった。
カレンデュラも知らない、全く正体不明の第三者だ。
彼はゆっくりと体を起こした。玲旺那君の黒い瞳に、火の粉を散らしたような赤色が一瞬炸裂する。
「あの星に選ばれタ、かつての<光の子>の魂を持つ者ダナ。まさか、憎き星の側の者と直接話す日が来るとハ」
「あなたは一体誰なの? どうして玲旺那君の体を操っているの?」
彼は、両の口角をにんまりと持ち上げる。本物の玲旺那君なら絶対にしない、狡猾で侮蔑に満ちた笑みだ。
「ずいぶん無礼ナ態度ダナ。私はお前達が崇める星ト、同じ時に生まれたノダ。かの世界の始原を見たことのある、神デアルゾ」
「……はい?」
ぽかん、と口を開けて反応できなかった私を、どうか誰も責めないで欲しいな。
だってさ、いきなり「私は神だ」とか自信満々に宣言されて、しかも見た目は玲旺那君なわけでしょ。
状況が緊迫してることには変わりないけど、ちょっと肩透かしをくらった感じになっちゃったんだよね。
私の反応が面白くなかったのか、玲旺那君にとりついた自称神様は、しばらくこっちを睨みつけてきた。何となくまずいと思ったので、とりあえずなだめにかかる。
「わかった、信じるよ。信じるから」
「嘘くさいガ、まあいいだロウ。ソティスという名の者も、最初は私を馬鹿にしていたからナ」
「え、ソティス?」
息をのんだ私に、彼はまた嘲弄の笑みを向けた。
「そうダ。私の器となったソティス。あいつは一国の王族だっタ。権力があるから、殺戮と混乱を招くのはたやすかったナ。おかげで、かつてのお前の国もすぐに滅ぼせタ。私の力が星に勝ったのダ。あれは、久方ぶりに味わったこの上ない快感ダッタ」
全身の血が冷えて、すぐに熱くなったのがわかった。まだ自由にならないはずの指先が、カタカタと震える。
私の中にいるカレンデュラが、激しい怒りを抱いている。
「あなたがソティス様にとりついて彼を苦しめ、私の国を滅ぼしたの?」
脳裏によぎるのは、カレンデュラの記憶。神殿に攻め入ったソティスは、蛇を操っていた。
今思えば、それは不自然な光景だった。
ソティスの国であるヴィクライは、<光の子>に対する敬意が薄かった。魔物の出現が不幸にも多かったからこそ、星の威光を信じるものが圧倒的に少なかったのだ。
その延長線上で、魔法を他国以上に法螺話扱いしているお国柄だった、はずだ。
戦乱の中で、追求することができなかった。
とても現実主義的な国の王族が、それも次期王位継承者の王子が、蛇を操るという不可思議を実現させていたのに。
「命を落とし生まれ変わった今、やっと気づいたノカ。愚かな<光の子>ヨ」
勝ち誇った彼の笑みが、さらに怒りに火を注いだ。カレンデュラの感情が暴れて、止められない。
「ではソティス様は、あなたに殺されたのね? 人心を惑わし、苦しめ、多くの血を流した。どれほどの人々が、あなたのせいで運命を狂わされたか。あなたのような存在は神ではない! 魔物と同じよ!」
「無礼ナ。今すぐその言葉を撤回シロ。弱い人の子ヨ。星がナければ、何も出来ない愚か者ドモガ!」
「ええそうよ。人は愚かで弱いから、私の世界では必死に祈りを捧げたの。だからこそそれに応え、救ってくれた星を大切に崇めた。助けてくれた存在を神とは認めても、ただ破壊と苦痛をもたらす存在は、神ではなっ!……ううっ」
にじり寄ってきた玲旺那君が、両手で私の首をつかんで地面に押し倒す。そのまま馬乗りになって、腕にゆっくり体重をかけてくる。
振り払いたくても、体は相変わらずうまく動かない。私はただ、睨みつけることしかできなかった。
「実力行使で、今スグ永遠に黙らせることもできるガ? 非力な者ほどよく吠えル。誰も救えなかった<光の子>が、私に何を言うつもりカ?」
確かにそうだ。カレンデュラは何も出来なかった。
祈りの力が弱まっていることに気づいてたけど、それだけだ。選ばれたくせに、特別な力があったくせに、何も守ることができなかった。
家族も、国も、たったひとりの愛しい男の人さえも。
「今は星も手元にないノニ、そうして私を睨むのか。人間トハつくづく馬鹿で、面白イ。私自身はお前に一片の興味もないガ、ソティスの願望を代わりに叶えてやってもいいダロウ。器となってくれた礼ダ」
また玲旺那君の瞳が、赤く光る。頭の中がぐらぐらと揺れた。
唇が押し付けられて、迷いなく手が後頭部に回り固定されて、唇を何度も重ねなおされた。
身を起こした自称神様は何の嫌味か、慈しむように微笑んだ。
「瑠璃、と。甘く呼んでやれば満足カ?」
目にうっすら涙を浮かべたまま、睨みつけることしかできなかった。
「玲旺那君を元に戻して。私の知ってる優しい玲旺那君を返して!!」
「ああ、目的ヲ遂げたら返してやるゾ」
喉を鳴らして笑う神様に、もう一つ何か言ってやろうと息を吸い込んだ。
次の瞬間だった。
「穂積さんから離れろっ!!」
どんっ、と音がして玲旺那君の体が横に飛んでいった。そのまま玲旺那君は地面に打ち付けられ、ぴくりとも動かない。
誰かが駆けてきた荒い息使いのまま、私の体を起こしてくれる。
さっき会ったばかりなのに、長い間その姿を見てなかったような錯覚におちいった。
「北斗君……?」
「遅くなってごめん」
北斗君は私を起こすと、両腕を巻きつけてきつくきつく、抱きしめてくれた。全力で心配してくれてたんだと、その温もりが伝えてくる。
まだ早い鼓動が、静まらない呼吸が、必死で私を探してくれていたんだと訴えてくる。
「どうして戻ってきたの? 学校か、警察にはもう行ったの?」
「穂積さんを残して、そんなことはできなかったよ」
「だめだよ、早くみんなを安心させてあげて!」
北斗君は身を離した。私の両肩に手を置いたまま、しっかり目を見てくれる。
「昨日、言っただろ。穂積さんを心配してるし、すごく気にかけてるんだ。だから、君を守るために動くのを許してほしい」
「でも……」
「じゃあ、これはさっき助けてもらったお礼だと思ってよ。それならいいだろ? お茶も飲ませてもらって、すごく嬉し……」
振り向きざま、北斗君は片手を振り上げた。彼の手にあった剣が、蛇を一匹真っ二つに切り捨てる。
どうしてそんなもの、持ってるんだろ。マルムにでも借りたのかな。
あるいはとうとう北斗君も、私や玲旺那君のように前世に関連した力が使えるようになった、とか。
蛇をけしかけた玲旺那君は――じゃなくて自称神様は、がくりと膝をついた。また、彼の息が荒くなってる。
「月影、そこまで俺が憎いのなら、もう一度正々堂々と勝負しよう」
「待って、北斗君。その人は玲旺那君じゃないの」
「え……どういうこと?」
私が説明を始める前に、玲旺那君がかすれた声を上げた。
「あ……、北斗、か。ちょうどよかった」
安心したように名前を呼んだ玲旺那君は、直後、着ていたシャツをいきなり乱暴に脱ぎ捨てた。
「は?! どうしたんだ?」
北斗君の疑問を聞きながら、私は口をパクパクさせた。相変わらず腕が動かせないからわからないけど、多分ほっぺが熱くなってる。
玲旺那君は苦しそうに息を繰り返しながら、自分の心臓の上を指さした。
私も北斗君も同時に、息を飲んだ。
闇を固め閉じ込めたような、不吉な黒いあざがある。よく見るとそれは、命あるかのようにわずかにうごめいていた。
「これ、だ……これをどうにかすれば、あいつは消える。もう俺は、北斗も穂積さんも傷つけないで済むんだ」
「それは何なんだ?」
「俺も上手く説明できない。けど夢のなかで見た限りでは、ソティスって奴を乗っ取った魔物の本体だと思う。これのせいで、ソティスはおかしくなって……っ」
両手で胸を押さえた玲旺那君は、その場でうずくまる。北斗君は私を片手でかばい、剣を構えた。すごく警戒しているみたい。
「どうにかするって、具体的に何をすればいい?」
「俺を……俺を殺してくれ。それが一番確実な解決方法だ」
まただ。またとてつもなく、物騒な話になっている。
「やめて、そんなこと言わないでよ」
さっきとは違う意味の涙をこらえながら言ったけど、玲旺那君の悲鳴じみた怒声が刺さった。
「こうでもしないと、また俺は穂積さんに嫌な思いをさせる!! さっきみたいに!! 何とか止められたけど、俺が生きている限り、次はどうなるかわからない」
体を起こし、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返す玲旺那君の瞳から、ぽろぽろと涙が流れていく。
本当はもう、泣く気力なんてないのかもしれない。激しい波にさらわれ、めちゃくちゃにもまれ、すべてを諦めようとする直前のよう。
「ソティスは何度も、奴を止めようとした。けど、あっちのほうが断然強くて、どうしても出来なかったんだ。命を断つことも考えたけど、当然駄目だった……たくさんの人を、死なせてしまった。カレンデュラに憎まれたまま、彼女を死なせてしまった。一体何で、どうしてこうなった……う、ああああああっっっ!!」
胸に爪を立て、両手でかきむしる。玲旺那君の目が数度、赤く光った。
北斗君は私の方を振り向き、手のひらをとって、何かをそこに押し込めてきた。
「穂積さんに返すよ。これは、君が持つべきものだから」
皮膚から伝わる感触から、それが見ないでも何なのかがわかる。
私が窓から捨てた星は、エキナセアが北斗君に渡していたんだ。だからこそ彼は、この空間で私を探し出せたんだろう。
動かなかった体のこわばりが、徐々に溶けていくのがわかる。
でも星がなかったら、北斗君が危ないんじゃないの。
目と鼻の先でうめく玲旺那君の気配が、徐々に良くないものに変わっているのが肌でわかる。
私の疑問を封じるかのように、北斗君は安心させるように笑った。
「お願いだ。どうか君を守らせて。今度こそ絶対、俺は勝つから。目の前からいなくなったりしないから」
言葉から滲む強い思いが、私の心を揺さぶった。
北斗君が一瞬アミアンに見えたせいで、カレンデュラの記憶が刺激されたからなのか。
ううん、それとも別の理由が……。
手のひらの中で、星が震えている。
北斗君は私の手をうやうやしく掲げると、中指と薬指の付け根に唇を落とした。
そうだ、叙任の際のこの仕草で、カレンデュラはますますアミアンに惚れ込んだんだ。
そんなことを思い出したせいか、妙に心臓が高鳴ってしまった。
「最上の祈る者のために、俺の命と剣を捧げます」
カレンデュラだった時に聞いた、儀式のための決まり文句。
北斗君は立ち上がり、すっかり静かになった玲旺那君と向き合った。
私は両手で地面を後ずさりできるくらいには、動けるようになっていた。邪魔にならないように、ゆっくりと二人から離れる。
その時数匹の蛇が、北斗君めがけて踊りかかった。