ACT29 少女は振り回される
私にとってはさいわいなことに、部活は中間テスト期間のため休みになった。
まだ読み合わせしかしてない状態で休みに入るわけだから、つかんだものや感覚が途切れちゃう子もいるだろうけど、私は内心ほっとしている。
こんな状態で、玲旺那君と恋人役を平然と演じるのは無理があるよ……。
問題を先延ばしにしているだけだとわかっていても、この休みはありがたかった。
ちなみに私と玲旺那君の出演時間は短い。五十分程ある上演時間のうち、五分くらいかな。
とはいえ肉食獣顔負けで私を欲しがっていて、かつ北斗君の身の安全を脅していて、さらには前世から私のことを好きだった玲旺那君と、短時間とはいえ恋人の役になるなんてすごく複雑。
数ヶ月前の私だったら、人生で一番嬉しい出来事になったはずなんだけどなあ。
とまあこういうことで悩んだり、前世だったカレンデュラのあれこれを思い出しちゃって、気持ちが沈んじゃっているのに。
これ以上頭を抱えたくなることは、起らないでほしいのに。
思わぬ方向から、気持ちが乱れることが起ってしまったのだ。
「ねえ穂積さん、他のクラスの子に聞いたんだけど」
その時は休み時間で、私は花菜子と数学の問題を解いていた。
花菜子も私も数学は苦手なんだけど、終わらせていない課題があったので、お互いあれこれ言いあいながら文章問題と格闘していた。
それに割って入ったのが、クラスの女の子たち。
私はきょとんと顔をあげた。
「どうしたの?」
「今度の劇で、玲旺那君と一緒に恋人を演じるって聞いたんだけど、そうなの?」
一瞬息が止まった。曇りの無い笑顔で聞いてきた笹木さんに、反応が返せない。
不自然な沈黙が数秒間生まれてしまう。私は何とか平静をよそおった。
「うん、そうだよ」
笹木さんと、笹木さんの友達二人がきゃあ、と盛り上がる。花菜子もにやにやしながら、私の腕をシャープペンでつついてきた。
そして固まる私を置き去りにして、笹木さんたちと花菜子はおしゃべりに花を咲かせた。
「何だあ、瑠璃ったら教えてくれてもいいじゃん。で、玲旺那君と一緒に主人公をやるの?」
「確か、出番は短いって聞いたよ」
「へえ、そうなんだ」
「そうそう、玲旺那君のファンって多いから、たくさん舞台の上に出してあげればいいのに、今回はたまたま出番の少ない役なんだって」
「玲旺那君ばっかり目立つのは、あんまりよくないんじゃない? 他の人だって舞台に出たいだろうし、玲旺那君だって疲れちゃうだろうし」
「でも、玲旺那君人気のおかげで演劇部はより活発になったわけでしょ?」
「文化部に入るつもりはなかったけど、こういう話を聞くと、演劇部に入るのもアリだったのかなあって思うなあ」
「そうだよね。穂積さんもラッキーだよね。玲旺那君の恋人役をやれるなんて。こう言っちゃなんだけど、羨ましがってる子けっこう多いと思うよ。まあ、私もその一人だけど」
照れた笹木さんは最後にそうつけくわえた。
私は笑みを引きつらせながら、最大限の注意を払って言う。
「私もすごくびっくりしたの。とりあえず、玲旺那君の足を引っ張らないように頑張る。よかったらみんなも見に来てね?」
うう、隠してたつもりはなかったんだけど、クラスの子たちや花菜子に知られると、より気が重くなっちゃうよ。
だってみんな、私と玲旺那君が脅し脅されてる関係だなんて、知らないもんね。
騒いでいる皆を横目に、はあ、とひっそりため息をつくと同時に、また別の声が聞こえた。
「そうなの、穂積さん?」
反射的に首をめぐらすと、笹木さん達が立っている反対側に北斗君がいた。
「え、何が?」
「今度の劇で、月影と恋人になるんだ?」
再び固まってしまった私の気持ちを、花菜子が代弁してくれた。
「ちょっとちょっと、だいぶ語弊のある表現だよ。恋人になるんじゃなくて、恋人役を演じるんだよ」
「そ、そうだね、ごめん」
言い間違いを恥じたのか、北斗君は目の下をうっすらと赤くして、そそくさと自席へ戻っていく。
笹木さん達がさっきと同じくらいに色めき立った。小声であれこれと、好き勝手に盛り上がる。
「ねえ東堂さん、もしかして北斗君って穂積さんのこと……?」
「いやあそれがねえ、なかなか白状してくれないんだよねえ。時々瑠璃のことで赤くなってるくせに」
「わかりやすいね。玲旺那君に嫉妬してるのかな?」
「で、穂積さんはどうなの? 北斗君のことどう思ってるの?」
「いや、ちょっとまって、とりあえず落ち着いて……」
幸いチャイムが鳴ると同時に国語の先生が入ってきたので、会話はそこで強制終了となった。
ああ、助かった。私はまたため息をつく。
劇のことが話題になるのはまあ許せるとして、北斗君と私を会話の俎上にあげるのは、ちょっと勘弁してほしいな。
どうしても、カレンデュラの感情が無視できなくなっちゃうから。
テスト対策用に先生が作成した漢字プリントを解く一方で、私の意識は徐々に苦みの沼に沈んでいった。
私は特別教室棟を歩いていた。つるつるした床の感触が、いつもと違う気がする。
私の重さを反射できているのかそうでないのか、あやふやな踏み心地。
そのうち内履きで床のこすれる音がもう一人分聞こえて、背後から声がかかる。
「穂積さん」
予想通り、そこには北斗君が立っていた。
歩み寄った私は無言で北斗君と頷き合い、いつかのように理科室へ入ろうとした。
とそこに、もうひとつ別の声。
「瑠璃」
よく知った声に、さあっと血の気がひく。
その人は、北斗君が現れた場所と反対方向にいる。
学校内で素敵な笑顔をたたえる、玲旺那君。けれど私と北斗君はもう、彼の非道さを目の当たりにしてしまっている。
無意識のうちに後ずさろうとしたら、北斗君にぶつかってしまった。
「ごめんなさい」
見上げた北斗君は、険しい目つきで玲旺那君と視線をぶつけあっている。
嫌な予感がかけめぐり、私は北斗君の手をとった。
「北斗君、逃げよう」
ところが時すでに遅く、北斗君の足元には例の黒い蛇がいた。すばやく螺旋を描きながら北斗君の体を這いあがり、その足に牙を突き立てる。
「ぐっ……」
足を噛まれたはずなのに、北斗君は胸を押さえて両膝をつく。
「北斗君!!」
叫んだ私は、目を疑った。北斗君の姿が、まばたきする瞬間に別人に変わったのだ。
それは夢で何度か見た姿だった。
水色と白を基調とした騎士の服をまとう、アミアンだ。
「どうし、て?」
呆然と問うと、アミアンは苦痛に眉をしかめながら私を見上げてくる。
「カレンデュラ猊下……」
「違う。違うよ」
私は首を振る。その名前はアミアンの仕える主人で、恋人である女性のもの。
その人は、私じゃない。
動揺していた私は、遅れて気がついた。アミアンの胸に、剣で貫かれたらしい傷がある。彼の命を支える血潮が、押さえる手からあふれ床を濡らしていく。
「申し訳ありません。僕はあなた様をまた、守れなかった」
さらにうめくアミアンに、私は思わず手を伸ばした。
「おや、私に目を向けてはくれないのか、カレンデュラ姫?」
後ろから私を拘束した腕は、玲旺那君のものだった。それがまた、形を変えて。
美しい黒太子が、私を覗きこんでくる。
間近で見る、ソティスの恋情にあふれた瞳に鳥肌が立った。
「やめて……」
「私の元に来るのだ。何もかも忘れるほどに、愛してみせる。私の言うことを聞けば、あの男の命を助け、安全を保障しよう」
ソティスが視線をやった先には、痛みで虚ろな目をし、床に倒れたアミアン。
「嘘よ。助けるなんて信じられない。あんな傷を負わせておいて!」
「……ああ、そうだな。訂正しよう。手遅れだった」
感慨もなく放たれた言葉を耳にしながら、私は頭が真っ白になった。
アミアンが、もう動かない。こと切れているのは明白だった。
どうして、なの。
どうしてまた、愛しい彼が息絶える瞬間を、見なくてはいけないの?
ソティスに抱きしめられたままの私の姿が、廊下の窓に写っている。
中学生の穂積瑠璃じゃない、カレンデュラになっていた。
「邪魔者はいなくなったな。これで安心して、あなたを妻にできる」
勝利の確信に満ちたソティスが、私の体を反転させて壁に押し付け、唇を近づけてきて。
「カレンデュラ姫、愛していますよ?」
涙をあふれさせながら、私は何かを叫んで……。
がたん、と大きな音がした。
一瞬状況が把握できなかった私は、視界がいつもと違うことに気がつく。
みんながざわつき、先生が私の名前を呼んでこちらに近づいてくる。
「穂積さん!!」
先生より早く近づいてきた誰かに抱き起こされた私は、そこでようやく、椅子から倒れてしまったことを理解した。
そうか。あれは悪夢だったんだ。
でも、似たようなことが起らないとは限らない、たちの悪い内容だったな。
先生は驚いたように動きを止めた後、しゃがみこんで私の様子を伺う。
「保健室に行くか?」
「たぶん大丈夫です。最近ちょっと寝不足だったんで、そのせいだと思います」
「うーん、でも一応、保健の先生に見てもらうか……北斗、一緒についてくるか?」
先生が私の背後に目線をやって口にした名に、私の息が止まってしまう。
え、今なんて言ったの?
「はい」
迷いなく答える北斗君の声があまりに近くで聞こえて、頬を赤く染めた。
ちょ、ちょっと北斗君……!
そりゃ確かに、北斗君は私の斜め後ろの席だから、助けるのに苦はない距離なんだけどさ。
他のクラスメイトが誰も反応できてない中、一番真っ先にこんなことして、あとでからかわれないわけがない。
いやすでに、武内君が小さく口笛吹いちゃってるよ!
花菜子も手で口元押さえてるけど、明らかにニヤニヤしてる!
混乱したままの私は先生に先導されて、北斗君にそっと肩を抱かれて、しずしずと教室を後にする。
なんだろう、すさまじい羞恥の炎であぶられてる気分だ。みんなの野次馬な視線がぐっさり刺さって、痛いよ。
保健室について、すぐに北斗君だけが教室に引き返した。私はとりあえず、ベットにしばらく横になることになった。
布団をかぶって、さっきの出来事を必死に忘れようとする。でも意識すればするほど、脳はそれを思い出してしまう。
私の肩を支えてくれた北斗君の手のひら、すごく温かかった。
気遣ってくれることがわかる、誠実な男の人の手。
アミアンと引き離されたカレンデュラが、すごく欲しがっていたものだ。
「……っ」
苦しさと恥ずかしさに悶えた私は、結局次の授業も戻ることはなく、保健室ですごすことになったのだった。
その後眠ることもなく、何度も寝返りを繰り返した私にとって、その日の放課後を告げるチャイムは救いの音色に聞こえた。
ようし、ころあいを見計らって教室に戻ろう。どんな尋問をされても、逃げ切るんだ……!
気合を入れたせいで、近づいてくる足音を気にも留めなかった。
保健の先生が様子を見に来たんだって、だれだってそう思うだろう。
それは半分は、正解だったんだけども。
「お迎えが着てるわよ?」
微笑んだ先生の肩の向こうに花菜子と、そして北斗君が立っている。
友達はニヤニヤ笑いで、クラスメイトは気づかわしげに、私の方を伺っていて。
ひくり、と口元をひきつらせて、私は保健の先生にお礼を言い、二人と一緒に教室へ戻ったのだった。
「穂積さん、もう平気なのか?」
武内君は私の体調を心配しながら、その他のことを聞きたくてたまらないのがとてもよくわかるほど、目をきらきらさせていた。
辺見君が、北斗君を肘で小突いていた。
「やるじゃん、見なおしたよ」
「さっきも言ったけど、穂積さんを困らすようなことは言うなよ?」
うっすら頬を赤くして、北斗君は照れ隠しなのか首に片手を当てている。
「わかったわかった。普通のクラスメイトなんだろ? でもさ、舌を巻くほどすばやく助けてあげてたじゃん」
「斜め後ろに座ってたからだよ」
「それでも動きが華麗だったぞ。例えるなら、お姫様を助ける騎士、みたいな感じ?」
「何だよ、そのヘンテコな例え」
呆れた北斗君が、辺見君に対して大きくため息をつく。
お姫様と騎士、か。実は前世はそうだったから、辺見君の言うことはあながち間違いじゃない。
「さあさあ瑠璃、体調不良なんだから、さっさと帰ろうねー」
花菜子はウキウキと、私の帰り支度を手伝ってくれる。嬉しいんだけど、きっと質問攻めされるんだろうなと思うと、気が遠くなった。
ところがちょっとだけ、私の予想とは違ったことが起きたのだ。
花菜子と二人の帰り道、私たちの家の方角からは少しずれた公園へ向かう。
まだ噴水が、動いている。これは冬になる前には水を止めちゃうから、今が見おさめの光景だ。
「どうしたの、花菜子?」
「まあまあいいから、少し待っててよ」
噴水近くのベンチに、私たちは座った。ほどなくして姿を見せたのは、北斗君だった。
北斗君って確か、家は反対方向じゃなかったっけ? どうしてここにいるの?
「ありがとう。東堂さん」
「いえいえ、どういたしまして」
立ち上がり歩き始めた花菜子を、北斗君が呼びとめた。
「東堂さん、悪いんだけど、その辺で待っていてもらえるかな?」
「どうして? 二人で話をした方がいいでしょ? 邪魔者はさっさといなくなろうと思ってたのに」
「話はすぐに終わるから。頼むよ」
首をかしげながらも、花菜子は十メートルくらい離れた場所でこちらに背を向け立った。
北斗君は花菜子がいた場所に腰かけてくる。
あれ、ちょっと近いよ?
北斗君もそう思ったのか体の位置をずらして、改めて私に向き直った。
「体はもう大丈夫?」
「うん、さっきはありがとう」
「お礼なんていいよ。俺は穂積さんには迷惑かけてばかりだから、こういうことでもしないとお返しできないし」
そこで、北斗君は離れて立つ花菜子を振りかえった。ちょうどこちらを伺っていた花菜子が、きょとん、と北斗君を見る。
数秒間、二人は無言で目線を交わしていたかと思うと、花菜子が再びこちらへやってきて。
私の前に来て止まり、突然、手を胸に当てて頭を下げた。
「お久しぶりでございます、カレンデュラ猊下」
唇から出た声は、花菜子のものじゃなかった。