ACT25 少女と彼の隔たり
次の日は土曜だ。私は、朝からソワソワしていた。
なんたって今日は、玲旺那君の家で一緒に勉強をするんだから。
前々から約束してたことで、いよいよ待ちに待った当日が来たんだ。
約束の時間は、昼の十一時から。というわけで、私は台所で二人分のお弁当を作っている。
実は昨晩、もやもやを吹き飛ばすことも兼ねて、クッキーまで焼いちゃったのだ。
お母さんには、友達の家へ遊びに行くって嘘ついたけど、ばれてそうだな……。
朝から意味ありげに、ウフフと笑われてるし。
お弁当を準備し、クッキーもラッピングして、足取りも軽く待ち合わせ場所の公園へ向かった。
ブランコ近くのベンチに座っていた玲旺那君が、片手をあげる。
「こんにちは、瑠璃」
「こんにちは。良い天気になって、よかったね」
はあ、私服姿の玲旺那君も新鮮で、かっこいいなあ。
ふたりそろって、のんびり歩く。約十分後、玲旺那君の家に到着した。
住宅街にある一軒家だ。我が家はおじいちゃんたちが住んでた家を増改築したからちょっと古めかしいけど、玲旺那君の家は新築のピカピカ。
床が全部フローリングっていうのは、ちょっとあこがれるな。
「ちらかってるけど、あがって」
「お邪魔します」
そろりと歩を進め、私はすぐに気がついた。
あれ、誰もいないんだ。
「お父さんとお母さんは?」
「父さんは仕事。母さんの用事は時間かかるらしいけど、そのうち戻ると思うよ」
「そっか……」
彼氏の親にあいさつするんだ、と一人張り切ってた私は肩すかしをくらった気分だ。
でも、後でちゃんとすればいいよね。
まずは、玲旺那君の部屋に向かう。
想像していたより、物が少ない。家具の色味は濃茶で統一されている。
小さな本棚には、これまでに部活で上演した作品の台本が並んでいた。
それをじっと見ていると、玲旺那君がコーヒーを運んで来てくれる。
「普通のお茶の方が良かったかな?」
「コーヒーも好きだから。ありがと」
正午までもう少し時間があるけど、どきどきしながら玲旺那君にお弁当を渡した。玲旺那君は笑顔で受け取ってくれる。
「彼女の手作り弁当、あこがれだったんだよ」
「でも、あんまり料理は得意じゃないから、期待しないで」
「これで期待するなって言う方が、無理だよ」
玲旺那君は蓋をあけるなり、美味しそうだねと言ってくれた。
隠し味にチーズを入れた卵巻きに、ウインナーでタコとカニを作って。ほうれんそうとごまのおひたしに、星型にくりぬいたニンジンとスイートコーンをバターで炒め、白米の上にシャケフレークと海苔でスマイルマークもどきをつくってみた。
自分の分の蓋をあけつつ、緑色が足りないかなとか、から揚げの方がよかったかな、と心の中でぶつぶつ反省する。
「口に合うといいんだけど……」
「いただきます」
玲旺那君が卵巻きを咀嚼する間、判決を待つ被告のように緊張してしまった。
「うん、おいしいよ」
やわらかい笑顔で言われて、ほっとするやらドキドキするやら。
「よかったあ」
お世辞であってもその感想が嬉しくて、緊張がとけた私もぱくぱく食べちゃったのだ。
腹ごしらえの後、クッキーは後で食べようねという話になって、私も玲旺那君もそれぞれの宿題をひろげてとりかかる。なんだけど。
まあ、恋人同士でいるわけだから、そう長々と勉強ばかり続けれるものじゃないよね……。
お互い一時間程度で宿題をきりあげて、居間の大きなテレビでゲームを始めた。
私の家にゲームはないから、いざこうして一緒に遊んでみても、慣れてないからいまいち操作ができないんだよね。
それでも普段しないことをするのは新鮮だし、なにより玲旺那君と二人きりっていうのがドキドキする。
そのうち玲旺那君のお母さんが買い物袋を下げて帰ってきたので、私はぺこりと挨拶をした。
「お邪魔してます。穂積瑠璃と言います」
「あらこんにちは。女の子が来てくれるなんて、珍しいわね。これからも仲良くしてあげてね」
「はい」
私はゲームを続ける玲旺那君を振り返る。女の子が珍しいんだ。連れてきたことないのかな?
「どう、夕飯食べていく?」
提案に、手をぱたぱた振る。
「いえ、門限もあるし、夕食は家で食べるってお母さんにも言ってますから。ありがとうございます」
丁重におことわりして、私たちは再び玲旺那君の部屋へ戻った。
おばさんが紅茶を持ってきてくれて、私の作ったクッキーをつまみながら、他愛もない話が続いた。
「そういえば若山先輩、退院するんだってな」
「うん、安心したよ」
若山先輩は来週中に退院予定なのだそうだ。ただ文化祭二日目の記憶が曖昧で、一時的な記憶喪失状態らしい。医学的な不調はないけど、登校はもう少し先になるんだって。
迷惑になるといけないから、お見舞いは部活の代表者しか行ってないけど、また元気な若山先輩に会えたらいいな。
と同時に、クラスメイトの彼のことが頭をよぎる。
昨日北斗君にひどく拒絶されちゃったけど、そういえば文化祭の時、一緒に行動していたんだったな……。
文化祭のあの日、黒い蛇にかまれた北斗君は、私が何かをしたから助かった。
もし私が若山先輩と一緒にいたのなら、先輩は助かったんだろうか。
でもそうなった時は、北斗君が大変なことになっていたのかな。
二人同時に助ける方法って、あったんだろうか。
それを知れば、私に何ができるのかわかれば、未だに見えない敵に立ち向かえるのに。
そういえばあれ以降、敵も何も仕掛けてこない。
でも油断しちゃいけない。向こうの次の目的が不明なんだもの。
「瑠璃、おい、瑠璃?」
玲旺那君が覗きこんできて、ひゃあっと飛び上がる。
いたずらっぽく、玲旺那君は微笑みかけてくる。
「今、どんなこと考えてたんだ?」
「ごめん、ぼーっとしちゃった」
「話しかけなくてもよかったかな。あのまま、キスしちゃえばよかったかも」
一気に頬に朱を散らす私を見て、クスクス喉をならす。
「瑠璃のそういうとこ、すげえ可愛い」
「玲旺那君って、時々私をからかうの、楽しんでるよね?」
「そういうわけじゃないよ」
いつも玲旺那君は、余裕だ。私は初めての彼氏で舞い上がっちゃって、時々地面を歩いてないようなフワフワした心地になることもある。
だって好きな人と手をつなぐのも、学校から一緒に帰るのも全部が初めてで、胸が幸せではちきれそうなんだ。
玲旺那君はあたふたしてしまう私を、さくっとリードしてくれる。その理由って、女の子と一緒にいることに慣れてるから、かもしれない。
嫉妬というよりは、好奇心が大きく膨らんだ。
「いきなりだけど、こんなこと聞いてもいいかな? 玲旺那君は、今まで彼女何人いたの?」
これだけかっこよくてさわやかで、人目を引いてしまう彼のことだ。小学生の頃から女の子に大人気だったらしいし、下品な言い方だけど、よりどりみどりだったに違いない。
予想では、うーん、私の前に三人くらいかな?
玲旺那君は、間髪いれずに答えた。
「瑠璃が二人目だよ」
「そうな……えっ?!」
「家に連れてきたのは、瑠璃が初めて」
二重に面喰う。そんなに少ないんだ。意外だなあ。
「小学校の五、六年にもなったら、周りには恋人ごっこで付き合い始める奴も何人かいたけど、俺はそういうこと、したくなかったから。初めての彼女も、正直なところちょっと違うなって思いながら付き合ってた」
今となっては不誠実だったな、と玲旺那君は苦笑する。
「玲旺那君って、けっこう告白されてるんだよね?」
「まあ、うん」
あっさりと言う。モテる人の余裕ってやつかな。
「今だから白状するけど、去年も今年も、引退直前の三年生に告られたよ。合計で三人」
「そうなのっ?!」
さらに続けて言われた名前に、のけぞりそうになる。
その先輩全員、けっこう可愛い人ばっかりだ。しかも、劇中で玲旺那君と夫婦役を演じた人までいる。
部内恋愛禁止じゃないと、玲旺那君を中心にややこしい人間関係が展開してただろうなあ……と、あらためて思う。
「俺は一人の女の子しか必要ないし、その子だけを生涯大事にしたいって、小さい頃から思ってたんだ。けどそれが誰か、ずっとわからなかったんだよ。だから誰とも付き合う気になんてなれなかった。初めての彼女になった子は、俺のそういう感覚を知ってもらった上で恋人になったんだ」
玲旺那君、いつになく饒舌だ。彼は、テーブルにのっていた私の手をとる。
「で、俺が探していたのは、たぶん瑠璃」
歯の浮くような台詞だけど、玲旺那君が言うと様になる。容姿がとびきり良いっていうのは恐ろしい。
「瑠璃は俺にとっては、ずっと部活仲間の一人だったけど、ある日突然気づいたんだ。たぶん、俺が欲しかったのはこの子だって」
向かい合わせだった玲旺那君は、私の横に移動してくる。ゆるく抱きしめられて、心臓が踊る。
「考えることがけっこうロマンチックなんだね。いつそう思ったの?」
「確か、六月だったかな……夢を、見たんだ」
耳朶に小さなキスが落ちる。あれ、玲旺那君いま、大事なことを言ったような……。
「瑠璃」
切なげな吐息が、耳元から首筋をたどる。突然の接触に、反射的に驚いてしまった。
「あっ」
玲旺那君の腕が、きつく体に巻きつく。鎖骨近くの皮膚をなぞる唇の音が、とても恥ずかしい。
「瑠璃は、俺のものだよ」
すがるような、それでいて断定的な響き。
「俺は瑠璃以外いらないから、瑠璃も、俺だけを見てほしいんだ」
「私も玲旺那君のこと、大好きだよ?」
彼の背に手を回しぽんぽんと叩くと、片手で頬を包まれた。
好きな人とこうして過ごせて、私はなんて幸せ者なんだろう。片思いが叶うなんて、本当に夢のようだ。
「じゃあもう、他の男を構うなよ?」
砂糖菓子のような甘ったるい心地よさを打ち砕く、低い声。
玲旺那君の瞳も、あわせて細められる。
「え?」
「特にあの転校生。あんな野郎、どうでもいいだろ。昨日みたいなおせっかいは、もうやめてくれ」
「玲旺那く、んっ……」
問う間もなく、唇が重ねられた。何度も重ねなおされ、苦しくて息を吸おうと顔をそらすと、後頭部をつかまれて固定される。
口づけが深くなって、私はおののいた。けれど背後はベッドだし、玲旺那君の腕に閉じ込められて逃げようがない。
彼の腕をつかんだって、やめてくれない。戸惑う私の吐息まで、根こそぎ奪おうとしてくる。
酸欠で力が抜けたころあいを見計らって、玲旺那君は私をベッドの上にのせた。すかさず覆いかぶさり、また強引にキスしてくる。
「ふっ……やっ、ま、って……」
まただ。文化祭の劇で私が倒れた時以来の、突然の激情。
怖いって感じてるの、玲旺那君は気づいているよね?
ならどうして止めてくれないの。私の気持ちなんて、関係ないの?
――夢の中の彼は、こんなに強引じゃなかった。私がいらただしく思うくらい礼儀正しくて、適切に距離を置こうとしていた。触れてくる時も、宝石のようにあつかってくれたじゃないか。
夢の中の彼が、泣きそうなクラスメイトの彼と重なって。
玲旺那君とキスしているのに、玲旺那君じゃない男の子の名を、心の中で呼んでいた。
そんな自分に気がつき、愕然とする。
どうして北斗君のことを考えてしまったんだろう。
私、玲旺那君が大好きなのに。絶対に間違いないのに。
他の男の子といくら話しても、それは揺るがないんだよ? 玲旺那君にずっと片思いを続けてきた私が、一番良くわかってること。なのに、どうしてそう怒っちゃうの?
私達、ボタンをかけ違えかけているのかもしれない。
今まで意識できなかったすれ違いが、浮き出ているのかな。
「はっ……」
玲旺那君が、やっと顔を離して私を見おろしてくる。混乱で、すぐに頭が回らない。
彼の右手が、私のわき腹に添えられた。指先が服をめくり、肌に触れる。
私を食い入るように見つめながら、指がするすると上へのぼってきて。
「まっ、て」
色めいていく玲旺那君の瞳に、さすがに何が起きようとしているのか、疎い私でもわかる。
「好きだよ、瑠璃。だから……触れてもいいよな?」
「……っ」
何かが違う。お互い好意があるはずのに、噛みあわない。
好きな人のはずなのに、どうして怖いんだろう。
蜘蛛の巣に捕らわれたみたいに、動けない。
「やだ、よ……」
涙がにじんだ時、ちゃり、と何かが鳴る音。
玲旺那君の指が、例の星のペンダントにあたったのだ。
また、目の前に光景が立ち上がってくる。
○○
『アミアンっ!!』
私が絶叫する先にいたのは、激しい剣戟を繰り広げる、私の愛しい人。
既に息もあがっていて、疲労困憊だ。それでもアミアンは全身全霊で気力を振り絞り、戦っている。
そこは神殿の奥まった場所。本来儀式を行う神聖で厳かな場所であって、剣を交えていいようなところではない。
神殿は今、不吉に騒がしい。悲鳴や怒声や破壊音があちこちで響いている。離れた中庭には火の手があがっているのか、赤い光と煙が見える。
『どうして、みんな……』
アミアンが戦っているのは、神殿に配属された兵士ら数名だ。
彼らは戦い、絶命したはずなのに。光を失った瞳で、操り人形のようにぎこちない動きで、アミアンを切り捨てようとして踊りかかる。
『アミアン』
『お逃げ、ください』
アミアンは荒い息のまま、振り返らずに言う。やがて、アミアンを襲っていた者たちは一人を除いて、床に倒れ伏した。
あと残っているのは、マルム。アミアンと同い年の<光の子>に仕える騎士で、彼と最も親しかった者だ。アミアンが騎士でなくなった今は、アミアンの様子を何度となく私に教えてくれた。
彼だけは、他の人と少し違った。アミアンに剣を向けてはいるが、その剣がひとりでに暴れないように必死で押さえつけている。
歯を食いしばったまま、マルムは声を絞り出す。
『アミアン……猊下を頼む』
『マルム、一体どうしたんだ? どうして皆が、こんなことになってるんだ?』
『あの野郎が仕組んだんだ。みんな死んだ後に操られたけど、俺だけは虫の息だったからか、今もこうして意識がある。でもそのうち、俺はお前のこともわからなくなるかもしれない。こうして、剣をとどめるだけでも精一杯……』
要領を得ない説明を補うように、一人の人物がマルムの後ろに立った。
『ソティス黒太子様』
『お久しぶりです。カレンデュラ姫』
一応敬称をつけて呼んではみたが、憎しみを押さえきれず彼を激しく睨んだ。
ソティスこそがこの惨事の元凶だ。何を思ったのか突然我が国との休戦協定を無視し、国土を蹂躙し始めた。
そして大胆にも、王宮と神殿を侵したのだ。
瞳に陰を宿したソティスは、唇を歪めて笑う。その片腕に、黒い蛇が絡みついている。
ソティスが片腕を上げると、蛇はたちまちマルムに飛びついて牙をたてた。
『うわぁっ!』
アミアンが近寄り、蛇を串刺しにする。しばらく身体を跳ねさせた蛇は、霧のように霧散した。
『マルム、しっかりしろ!』
敵が近くに立っているというのに、アミアンは剣を放り捨てて友を抱き起こした。
ソティスはその様子を横眼で見ながら、私へ一歩踏み出す。
『この若い騎士の命が惜しければ、こちらへ来て下さい』
『なぜ、こんなことをなさるのです。人々を苦しめ、命を奪い、その先に何があると?』
ソティスはいっそう唇の笑みを深めた。
『愚かな問いですね、姫。もう少し賢い人になっていただきたいものだ……さて、世界を敵に回しても、あるいはすべてを滅ぼしても欲しいものは、あなたにはありますか?』
強烈な怒りがはじけた。こんな問答で、遊んでいる場合ではない。
『ふざけるのはよして!』
『あなたにも、あるはずだ。何ものにも代えがたい、優先したい願いが。あなたは諦めたふりをしながら、すべてを捨て去ってでも、あの男――アミアンとやらとの恋を成就させることを、心の片隅で望んだのだ』
思わず胸の辺りをつかむ。なぜこの異国の王太子が、私の子供じみた愚かな欲望を言い当てるのだ。そんな願いは、とっくに捨てたはずのものなのに。
私はこれ以上ないほど青ざめ、誰にも聞こえない程の、小さな声で呟く。
『私のせいで……<光の子>の務めをおこたったせいで、このようなむくいが……私だけでなく、皆の上にそそがれてしまった』
国が荒らされ、命が奪われた。祈りができなかったゆえの、悲惨すぎる代償だ。
『カレンデュラ姫、私とあなたは、同類だ。自分以外がどうなろうと、己の切なる願望を叶えたかった。ただ、私とあなたの最大の違いは、私がこうして行動してしまったことです』
いつの間にか、ソティスとの距離が縮まっている。片腕を伸ばした彼の指先は、私の手の届く範囲だ。
『このために私は来たのだ。あなたを迎えにきた。この手をとってくだされば、他の者の命は助けましょう。さあ、いかがなさる?』
足元が、ぐらりとゆれる感覚に襲われる。私は実際に、ひびの入った巨大な柱にもたれかかった。
『やめてください、そんな言葉を、信じろというのですか?』
『それしか、あなたに残された道はないと思いますが……姫、こうは思ったことはありませんか? なぜ自分だけが苦しみ、ひときわ重い宿命を背負わされるのか、と。逃げ出したいと、考えなかった瞬間が一度もないと断言できますか? このような立場でなければもっと自由でいられたはずだと、姫の心の中でささやく誰かがきっと居たでしょう。このソティスは、姫のそのような気持ちが痛いほど理解できますよ。あの男と違って、ね』
囁くような言葉がひとつひとつが、私の心を踏み荒らす。
それは猊下とよばれる立場の私が、誰にも知られてはいけない弱み。
己で認識してはいけない悩みだ。それをまともに言葉にしてしまえば、私はこの大地に立っていられなくなる。
『いや、もう何も言わないで!!』
『おかわいそうに。そんなに辛いなら、こっちにくればいいのですよ? この私が、何もかもを忘れるほどにあなたを慈しみ、癒し、愛してみせましょう。<光の子>などというくだらない務めは、辞めてしまいなさい』
『黙りなさい、ソティス黒太子!! これ以上、私を侮辱するようなことを言うのは許さな……』
『マルム!!』
アミアンの叫びに、我にかえる。目をやれば、マルムが自ら喉を突いてこと切れていた。後ろを向いたソティスが鼻白む。
『足手まといになる前に、死んだか。存外気骨のある……』
言い終わらないうちに、アミアンが切りかかった。
『お前だけは、絶対に許さない!!!』
苛烈な怒りに目がくらむアミアン。剣戟をよけるソティスは楽しそうだ。
『そうだ、お前と手合わせがしたかったのだ。これが、最初で最後になりそうなのが残念だが』
『猊下、お逃げください!』
今度こそ私は足を動かし、神殿のさらに奥深くへと向かった。
いつも一人きりで祈る場所で膝まづき、手を組んで目を閉じる。
代々受け継がれる星が、胸元で答えるように光った。
――それから私はしばらく、意識を失っていた。
いくさが終わったのかまだ続いているのか、わからない。
音もない、光もない、どこかもわからない暗闇の中で、私は横たわっていた。
どれくらいぼんやりしていたか、気がつけば逃げてきた方から、足音が近づいてくる。身を起こし、その人物を見上げる。
ふわりとかぶった布のせいで、顔が見えない。でも私は、その人が誰だかわかった。
『ねえ、あなた……アミアンなの?』
返事はない。布が外れて、顔が露わになる。
愛しい彼が、私を見おろしていた。
『アミアン!? ねえアミアンよね? よかった。もう、会えないかと思ったわ……』
『カレンデュラ猊下』
『アミアン』
意識せずに、声が喜色に満ちた。だがそれも一瞬で。
アミアンの目は、先程の兵士たちと同じように光を失っていた。
すぐに背筋が凍る。彼はソティスに負け、操られているのだ。
だというのに、アミアンは笑みを浮かべて。
いつも私を励まし、ときめかせ、切なくさせた、大好きな笑み。
『カレンデュラ猊下』
うつろな目のまま、折れてしまった剣を私の頭上に振りかざす。
こんな力が残されていたのかと思うほど、私は絶叫した。
『嫌よ、アミアン、こんなの嫌あああああっっっ!!!』
○○
また突然引き戻された。
玲旺那君はいつの間にかベッドから降り、私に背を向けている。
状況を理解すると同時に、さっきみた幻覚の恐ろしさに、足先から冷気が這いあがってくる感覚に襲われる。
私は今、何を見たの?
内容は胸をかきむしられるものだったけど、謎の答えをひとつ得たかもしれない。
「くっ……」
玲旺那君が背を丸めてうめいたから、私は先程彼からされたことも忘れて近づいた。
「どうしたの?」
目を見開く。玲旺那君は左手で右の指先を押さえていて、そこから血がどんどん溢れていた。
「切ったの? ひっかけたの?」
ポケットティッシュで血を拭いながら問うけど、玲旺那君はすぐに答えない。
心なしか、青ざめている。
「俺が、怖くないのか?」
意外そうに聞いてきた。血がカーペットに垂れて、私はあわてる。
「さっきは怖かったよ。でも、今はこっちの方が先でしょ」
おばさんを呼んで、玲旺那君の手当てをしてもらう。
その間一人になった私は、ティッシュでカーペットのしみ取りに奮闘した。
数分後、玲旺那君とおばさんが再び戻ってきた。おばさんは小走りに近づいてくる。
「ごめんなさい、こんなことしてもらって」
「いえ、勝手にやってることですから」
巻かれた包帯を片手で押さえながら、玲旺那君は自分の部屋に入らず、血液汚れに挑む私と母親を見ている。
この時。
玲旺那君の表情をちゃんと見ていたら、彼が何を考えているのか、わかったのだろうか。