ACT23 少女が感じる恋心
理科室での収穫は、特に何もなかった。
けどあの日を境に、私はまた違う夢を見るようになったのだ。
長かったり短かったり、内容も少しずつ違う。でも基本的に出てくるのは、例の女の人と男の人。
さすがに何日も経つと、その二人が道ならぬ恋に身を焦がしていることがわかった。
女の人の身分がかなり高く、男の人ではとうてい相応しくない、とか何とか。
現代日本に生きてる私じゃ、いまいちぴんとこない感覚だ。
そして不思議なことに、私はその女の人の気持ちが、手に取るようにわかるのだ。
時々、同一化しているような錯覚にすらおちいる。
まるでかつて味わった感情を、もう一度再生しているみたいだ、とすら思える。
○○
その夢の中で、私は困っていた。
私に話しかけているのは、初めて夢に出てきた男の人だ。異国の貴人で、無下に扱ってはいけない人と、私は認識している。
王宮の一角で、ぼんやりと配下の者を待っていた私の目の前に、彼は突然現れたのだ。見慣れない人だったけど、名乗る前に誰であるのか、何となく察しはついた。
くすんだ短い金髪が、日差しを受けて甘い蜂蜜のようなつやを放っている。深い森のごとき緑の双眸、すっとした鼻筋と薄い唇。器用な職人による一世一代の超絶技巧の芸術だ、と説明されたら納得するくらいの、とても顔立ちの良い殿方だ。均整のとれた身体に、黒と赤を基調とした軍服をまとっている。隙のない着こなしも、彼の高貴さを演出するのにふさわしい。
『こんなところでお出会いできるとは。名高い<光の子>にお目にかかれて、至極光栄です』
彼が名乗り、丁寧なあいさつと共に投げかけられたのは、舐めまわすような深い視線。
私が好きな人が、私を切なげに見つめる時と、似たような感情が宿っている。
ただし彼のほうが、一方的な欲望にまみれている。
寒気を悟られまいと注意しながら、私は答えた。
『黒太子様の名声は、こちらにもとどろいております。とても恐ろしい方なのではと勝手に思っておりましたが、お美しくていらっしゃるのですね』
その男の人は、たぶん十九歳か二十歳くらい。私は十七歳なので、二、三歳年上だろうか。
私の好きな人と、ほぼ同い年くらいだ。
黒太子と呼ばれた彼は、柔らかく笑む。他の女の人なら、これでイチコロだっただろう。
『そのような異名を御存じでしたか。そうではなく、どうかソティスとお呼びください』
ソティス黒太子。それが彼の近隣諸国での通称だ。
私の父が治めるトゥデヤン国と長年にわたり、停戦と交戦を繰り返している、ヴィクライ国の次期王位継承者と目されている人物。
ヴィクライ国は最も、魔物による災害の多い国だ。それゆえ国をおさめる王族は魔物討伐のために戦上手にならざるを得ず、彼もその例外ではない。
ソティスは王族男子の中でも武勇のほまれ高く、そのうえ誰もがみとれる程の美丈夫であると評判の青年だ。
幼いころの私なら、両国の和平を兼ねて彼に嫁ぐという道もあったのだろう。
けれど五年前に<光の子>と呼ばれる立場になったため、簡単には結婚ができなくなってしまったのだ。
後ろに控える女官が、うろたえているのがわかる。経験豊富な者ならうまく対処できたかもしれないけど、彼女は私と同い年だ。異国の貴人を注意したり、それらしい嘘を言ってこの場を去るなど出来るはずもない。
どうにか丸く収まる方法はないかと頭を巡らせる。
そもそもソティスはなぜ、王宮のこんな奥まった場所に現れたのだろう。
いつもは神殿にこもっている私だけれど、今日ヴィクライ国の使者一行が来ることは知らされていた。
けどそのうちの一人のソティス黒太子が、共も連れずにうろついているなんて想像だにしていなかった。
一応敵国の王宮内だというのに、不用心にもほどがある。
それとも他の目的があるのだろうか。例えば偵察とか。
見張りの兵や宮殿を行き交う役人たちは、どうして彼の侵入を許したのか、と内心怒っている場合ではない。
ここで彼を無視して去るのはまずいだろう。放っておけばどこへ行ってしまうか、わからないからだ。
『父との話はお済ですか? お戻りになられた方がいいのでは?』
それとなく促すけど、ソティスは気にもとめない。
『先程気分が悪くなりまして、少し外の空気を吸っていたのです。あなた様にお会いできるとは、思いもよりませんでした。これでしばらく、私に幸運は巡ってこないかもしれませんね』
ソティスは私の片手をとり、手の甲に唇を押し当てる。
『あっ』
手をひっこめてしまった後、非礼な行為だったと遅れて気がつく。
『失礼、ご気分を害されたようですね?』
『い、いえ』
ソティスが平然と詫びてくる。彼は、単なる挨拶をしただけのようだ。
『私の方こそ、申し訳ありません。家族と神官以外の男性とあまり会わないもので、驚いてしまいました』
私の失態が、父の足を引っ張ってはいけない。ひょんな行動が外交問題に発展しかねないのだから。
どうふるまうのが正解なのだろう。去りたいけど、敵国の人であるソティスをここに残すわけにもいかないだろうし。けれど神殿にこもってばかりの私が、殿方の独壇場である政治的やり取りの秘訣を知るわけもない。
悩み、そして脅えているのが伝わったのか、くすりと笑う声がする。
『では、私で慣れてみますか?』
『え?』
問いただす間もなく、腰に腕をまわされていた。
ソティスは己の黒いマントで、私の体を包みこんでしまう。いよいよ女官が慌てだす。
彼女を目線でするどく制した後、彼は私にささやいた。
『二人きりになって、いろいろと教えて差し上げたいのです』
低く甘い声が耳に流し込まれる。私はどうにか首を振る。
『何をおっしゃっているのですか。私ごときに構う暇など、ないのではありませんか?』
『あなた様といられるのなら、時間など惜しくありませんよ』
うっすらと細められた瞳の奥に、熱情が光る。
一度もがいてみるものの、ソティスはびくともしない。怖気が全身を走った。
なぜ異国の王宮内で、王族相手にこんな大胆な真似ができるのだ。
こんな場面を誰かに目撃されれば、あるいは私の父が知れば、もめ事の種になってしまう。
彼も王太子という身であれば、この行動の危険性がわからないはずはない。
『私は<光の子>なのです。どうかこれ以上のおふざけはよしてください』
『姫の果たすべき役割の重さは、私なりに理解しているつもりです。しかし決して、一時の気の迷いでこうしているわけではありません』
切々と訴える様に、見覚えがあった。ソティスの胸に宿る感情は、私もよく知っている。
でも気持ちをいきなりぶつけられても、ただ怖いだけだ。
彼なりに丁重に扱っているつもりなのかもしれないけど、心に既に決めた人がいるから、受け入れられない。
『噂にたがわず、気高く美しいお方だ。もうしばし、私の姿をその瞳に映してくださらないだろうか』
『ソティス様……』
止めてほしいと、願いを込めて名前を呼ぶけど、通じる訳もなくて。
私が触れられたいのは、抱きしめてほしいのは、この人じゃないのに。
『どうなさいました、姫? お顔の色が悪いようですね?』
優しい笑みをそそがれ、もう片方の手が私の頬を包み、上向かされる。
近づいてくる、ソティスの整った顔。
私は固く目をつむった。彼の名を、強く心の中で呼びながら。
『カレンデュラ猊下』
凛とした声が響いたのは、その時だった。
私は声のした方を向く。まさに来てほしかった彼が、そこにいる。
慈しみの大地を連想させる、焦げ茶色の髪と瞳。水色と白を基調とする騎士の略式正装は見慣れた姿のはずなのに、この瞬間はとても頼もしく見えた。
『アミアン、どうしたの?』
腰に刷いた剣に手をかけたまま早歩きで近づいてきた彼は、ソティスに軽く一礼した後、私に向かって片膝をついた。
『王妃殿下がお呼びでございます。どうか至急きてほしい、とのことです』
『そう。すぐに行くわ』
私はソティスを見上げる。彼はその美貌を、怒りで歪ませていた。
視線の先には、頭を下げたアミアンがいる。
私の腰にまわされた腕が、ゆっくりと離れた。
『そなたは、何者だ?』
問いはアミアンに向けられたものだ。また、緊張が走る。
私はソティスから離れ、脅える女官とくっつくことしかできなかった。
『<光の子>であらせられる猊下にお仕えする、しがない騎士でございます。高貴な方々に、名乗れるような身ではありません』
『顔をあげるのを許す。名乗れ』
尊大な物言いに、アミアンは臆することなく顔をあげた。
いつもは優しげな焦げ茶の瞳は、どこかもの言いたげに、ソティスを毅然と見つめ返している。
『アミアン、と申します』
『家名は名乗らないのか? どこの家の出の者だ?』
『僕は本来ならば、王族の方々にお目通りが叶うような者ではございません。上の方々の特別なはからいで、カレンデュラ猊下のお側にいることを許されているのです』
アミアンは淡々と告げた。漂う空気が、重苦しいものになっていく。
彼は私の知る限りでは、王宮や神殿に出入りできる貴族たちの中で最も位が低く、実家の権勢も弱い。
彼のおじい様とお父様は、市井でパン屋を営んでいる。驚くべきことに、経営を人任せにするのではなく、自分たちで働いているそうだ。我が国に限らず、どこの貴族もそうだとは思うけれど、労働などは本来する必要がない。特にそれが、肉体を酷使するものであればなおさらだ。貴族の責務とは元をたどれば、敵と戦うことなのだから。
私は、アミアンの実家がパン屋を営むに至った理由は知らないけれど、貴族たちはあまりに貧乏すぎて自ら働くしかないのだ、と影口を叩いて楽しんでいるらしい。
アミアンは見聞を広げるため、軍に入ったと聞いている。元々は早いうちに退役する予定だったそうだ。そういった状況にありながら、生来の運動神経と勘の良さを生かして、ただでさえ玄人のようだった剣の腕がさらに上達していき、剣術大会でことごとく強豪を打ち負かし、あれよあれよという間に<光の子>を守護する騎士となったのだ。
その間わずか三年程。嫉妬も嫌がらせもあっただろうけど、むしろ今もそういうことはあるだろうけど、彼は矜持の高い貴族たちの間で、日々業務に励んでいる。
私は初めて彼を見た時から、彼が好きになったのだ。
昨年の剣術大会の最中、私も含め王族の何人かが、試合を観覧する機会があった。その際に初めてアミアンという兵士を知ったのだ。
大会で剣をふるう姿が、下級貴族と蔑まれようとも、誇り高く美しく、息をのんで見入った。
あれが私の初恋だ。ほとんど、一目惚れだった。
彼も同じ思いだと告げてくれた時は、舞いあがるほど嬉しかった。けど。
決して報われることのない恋だと、お互いに嫌というほどわかっている。
ああ、でも。
私の窮地を救うように現れたアミアンが、今ソティスと静かに火花を散らしている彼が、こんなにもかっこよく頼もしくみえる。
これではまた深く、ひどく、恋してしまう。
『そういえば聞いたことがある。今の<光の子>は、何の気まぐれかネズミを一匹飼っている、と』
アミアンは表情を変えない。私はソティスを睨みそうになってしまった。
ネズミとは、一部の口さがない者たちがアミアンを揶揄する呼び名だ。
『小麦の好きな、卑しく教養のないネズミだ、とな。だがそのネズミは、おそろしく剣が上手いらしい。それに勝てぬ者たちが、ネズミと陰口を言うのは、あまりにもみっともない。そうは思わないか?』
アミアンに対する怒りはどこへやら、彼はおもちゃを見つけた子どものように喜んでいた。
『お前が、ネズミか?』
『僕は、アミアンという名の騎士です』
背筋を伸ばすアミアンは、彼なりに誇りがあるのだと、言っているようだった。
『帯剣が許可されていたら、お前と一戦交えたかったな。残念だ』
何も下がってない腰回りを、ポンポンとソティスは叩く。
『アミアンだな、覚えておこう。いつかお前と、戦いたい』
『もったいないお言葉でございます』
『剣と、それからもうひとつ、お前と競う必要があるみたいだな』
アミアンはわずかに眉根を寄せる。私も、ソティスが何を言いたいのかわからない。
『私とカレンデュラ姫との縁談が、最初に検討されたのは十年以上前だ。最初の結びつきは、私の方が先だったのだよ』
ソティスは最後に名残惜しそうに私を見て、去っていった。
彼の姿が完全に見えなくなると、アミアンは立ちあがり、私と女官を気遣ってくれる。
『駆けつけるのが遅くなりまして、まことに申し訳ございません』
私はすっかり涙目の女官をなだめながら、首をふった。
『助かったわ、本当にありがとう。お母様がお呼びしているというのは、嘘よね』
『はい。それ以外に、猊下を連れ出す口実が思い浮かばなかったのです』
『あの、ありがとうございました……』
アミアンに礼を言う女官は、複雑そうだ。
彼女も下級貴族の出身だけど、それでもアミアンより家柄は良い。
でも私は、今さら何かを言う気にはなれない。いくら私が注意したって、彼女の価値観を変えることなんてできないのだし。
それに、アミアンに好意をもつ人間の方が少ないことは、理解している。
『礼には及びません。あの状況では、お二人をお助けするのは当然のことです』
アミアンはこともなげに女官に言った。
<光の子>に仕える騎士と、王宮の一介の女官とでは、騎士の方が格上になる。けれどアミアンは、誰に対しても丁寧な物腰で接するのだ。そこが高潔な彼の、良い部分でもある。
私達三人は、しばらくそこにいた。
その日の夜神殿に戻った私は、アミアンを自室に呼びつけた。
神殿の者は、もはや誰も私を咎めない。皆私を、恋に狂った哀れで馬鹿な女と思っているだろう。
それはある意味、間違いない。
<光の子>になった限りは、務めを果たしたいと願っている。
けどこの強烈な想いは、封じようがないのだ。
『お呼びでしょうか』
離れて立つアミアンを、私の側まで来させる。人払いも済ませたので、控えの部屋にも誰もいない。
椅子に座ったままの私に、彼は片膝をついた。彼の焦げ茶の髪が、ゆれる灯りをきらきらと反射している。
『今日は、本当にありがとう』
『とんでもございません。もう少し、早くかけつけるべきでした。しかし……』
声音を落とし、アミアンは眉根を寄せる。
『本当に、国王陛下へご報告なさらなくてよいのですか? あの王太子は、これから何度もこの国にやってくるかもしれません。猊下に不敬を働いたのだから、注意するべき相手です』
『その必要はないわ。何度も考えたの』
今日起きたことは、たまたま王宮にいた私と、たまたまこの国に来たソティスの邂逅がもたらしたことだ。偶然の産物による小さな事件で、父の心を乱すことはしたくなかった。
それに、アミアンが助けてくれた。平和的に解決したのだ。蒸し返したくはない。
美しい顔で、恋情に瞳を潤ませたソティスの顔がよぎり、私は衝動的に目の前の騎士に手を伸ばした。指先は、宙をかく。
『ねえアミアン……抱きしめて?』
ぴくり、とアミアンの肩が動く。私は言葉を重ねる。
『昼間、無理に抱き寄せられて怖かったの。あの方の腕の感覚が、残ってるわ。こんなもの、忘れてしまいたい。だからお願い』
数瞬ののち、アミアンは短く息を吐いた。
『……カレンデュラ様の、ご命令とあれば』
『ええ、命令よ』
アミアンは立ち上がり、まず私の頬を拭った。
『また、泣いておられるのですね』
『何度も言ったでしょう? 命令しないと動いてくれないのが、寂しいの』
本当は彼だって、私に触れたいはずなのだ。
思いあがりでも何でもない。アミアンは、絶対にそう思ってくれている。
以前は頑なに私との間に線を引こうとしていたのに、今では私を抱きしめる際のためらいが薄くなっている。やはり、彼も私を求めてくれているからとしか、思えない。
アミアンの身体が、私を包みこむ。
私よりも大きな体、鍛えた腕が、私を慎重に繊細に、あつかってくれる。
背中に回る温もりが、あまりにも心地いい。
何もかも忘れてまどろんで、ひとつになってしまいたい。
すがった私に応えるように、腕がよりきつく回される。
『アミアン……』
どちらからともなく、唇を重ねあった。想いを確かめ合うような、優しい口づけだ。
夢見心地でうっとりしていると、顔をはなしたアミアンが、こつんと額を合わせてきた。
『そのような切ないお顔をされると、これ以上、我慢できそうにありません』
『いっそ我慢なんてしないで。私を、好きなんでしょう?』
『いけません、カレンデュラ猊下。僕があなた様のお側にいられるのは、僕が騎士だからです。この胸の思いだけで、あなた様から何もかもを奪うことなどできません。許されぬ不敬を働けば、僕は騎士を辞めなくてはならない。騎士でなくなれば、ここにいる資格がなくなるのです』
だからこれ以上、深い仲にはなれない。アミアンはそう言いたいのだ。
『あなた様のお側にいる幸福を、いつまでも味わっていたのです』
『……せめて、敬称をつけないで、私の名だけを呼んでちょうだい』
ふわりと笑んだアミアンの顔が、再び近づいてくる。
『カレンデュラ』
恋人たちの短い逢瀬が、夜の中に溶けていく……。