少年の視点3
一馬はネガティブな感想を禁じ得なかった。
(絶対性格悪いだろ、こいつ)
そう感じてしまうのも、仕方がない。何せ一馬は、月影玲旺那が不機嫌か、怒っている場面しか見ていないのだから。
今回は、どこからどうみても怒っている。
入口の引き戸を閉め、電気を消した玲旺那が教壇に上がり、近づいてきた。
するどい視線は瑠璃に向けた笑顔と比べ、えらく対象的で非友好的だ。
「穂積さんとお前と二人して、どうしてここにいたんだ?」
緊張を散らすために一度息を吐き、なるだけ自然をよそおう。
「校内を案内してもらってたんだよ。俺が理科が好きだから、ここに長くいただけだ」
本当の理由を話す必要はない。誤魔化したい気持ちのせいか、やや饒舌になる。
「どうして? 穂積さんとそんなに仲がいいのか?」
「そういうわけじゃない。悪くもないし、普通だよ。席も近いから、時々話すだけだ」
「席が近いだけで、学級委員でもない穂積さんに校舎を案内してもらってたのか?」
「俺も驚いたよ。彼女、けっこう優しいんだな」
ほとんど睨みつけてくる相手に、一馬は呑まれまいと息をのんで見返す。
月影玲旺那は穂積瑠璃と同じ、演劇部。
瑠璃の話やクラスメイトの噂を小耳にはさむ限り、かなり女子から人気があるらしい。同学年の二年に限らず、三年や一年にもファンがいるようだ。
確かに一馬からみても、さっきの笑顔にときめく女子は多いだろうな、と思う。圧倒的に眉目秀麗なうえに、天性の華やかさを持っているのは間違いない。
だが本人は自らの容姿の良さを誇ることは一切なく、気取らず、明るくて爽やかな性格だそうだ。人気者になることを定められたような、絵にかいた完璧さだ。
瑠璃によれば、ムードメーカーの役割を果たしてくれる副部長、らしいが。
(どこがムードメーカーだよ)
敵意を隠しもしない玲旺那にげんなりする。
一方で一馬は、瑠璃の部活仲間である知尋の言葉を思い出していた。
彼女の推測では、瑠璃と玲旺那は付き合っている。部内恋愛禁止にもかかわらず。
もし知尋の言うことが正しければ。
今、玲旺那は一馬に対し、いわゆる嫉妬をしているのだろう。
(彼女と男が二人でいたら、面白くないのはわかるけど)
視線が矢のように刺さり、いい心地はしない。
これは一馬の勘だが、こういう一面は、瑠璃の前ではけっして見せてないのだろう。
以前も思ったが、彼女はこの男に近づかない方がいい。
「穂積さんに……瑠璃に、近づくな」
「は?」
驚くと同時に、やはり本題はそれか、と思う。
瑠璃の呼び方も、名字から名前に変わっている。隠す気はないのだろうか。
一馬には二人の仲を言いふらすつもりはこれっぽっちもないが、多少は注意を払うべきだ、と他人事ながら思う。
「噂のせいで、舞いあがってるんじゃないだろうな?」
顔がくっつきそうなほどの距離で、玲旺那がさらに睨みつけてくる。一馬が後ずさると、さっきまで瑠璃が腰かけていた椅子に足があたった。
がたんという音が、大きく教室内に響く。
「噂? ああ、あれか」
クラスメイト数名が勝手に騒いでることだ。瑠璃と自分が付き合っているという、他愛もない内容だ。
「火のないところに煙は立たないっていうけど、火種がなさすぎるのにみんなが騒いでいるだけだよ。俺も穂積さんも迷惑してる」
ふん、と玲旺那が鼻で笑う。
そしていきなり、一馬の右腕をつかんで持ち上げた。
「そう言うわりには、さっき瑠璃の頭を撫でようとしてたよな?」
一馬はわずかに瞠目した。玲旺那が理科室に入ってくる直前、落ち込んでる彼女を慰めようとしただけだ。
改めて指摘されると、やけに後ろめたい。
「見てたのか?」
「見たくもなかったな、あんなとこ」
握る手に力がこめられ、右腕がきしむ。
「……っ!!」
振り払えない。一馬は愕然とした。
身長も体格も同じくらいの、同い年の同性なのに。二人がかりで押さえつけられているような気にさえなる。
気のせいだろうか。玲旺那の目が一瞬だけ、鮮やかな血の色に光った。
「瑠璃の周りをうろちょろするな」
左手も使って引き剥がそうとしても、びくともしない。
圧が増し、痛みが走った。
「……はなせっ!」
急に視界が傾き、背中に衝撃が走る。
気がついた時には、机の上にあおむけになっていた。両手首は玲旺那に押さえつけられている。
咄嗟に身を起こそうとしたら、机の上に素早く乗った玲旺那が、片膝でわき腹を押さえてきた。
「うっ……!」
腹への圧迫感に、軽い吐き気がする。
一馬の腰から下は机に乗ってないので、体が直角に反れた格好になっている。これでは足を振り上げても、玲旺那の体をうまく蹴れない。
反抗できないよう、動きを封じられたのだ。
短時間のあまりに唐突な出来事に、面喰うしかなかった。
(なんだよ、これ)
一馬は絶句する。
嫉妬だったとしても、この行動は一体何なのだ。牽制のつもりだとしたら、何という癇癪持ちだ。
「男相手に、こんなことしたって面白くないな。色気も何もあったもんじゃない」
心の底からのつまらなそうな物言いに、むっとする。
「俺だって、同性に押し倒される日が来るなんて、夢にも思わなかったよ」
「じゃあ、女ならよかったのか?」
「そういう問題じゃない。いいから、離れてくれ」
再び身をゆするが、びくともしない。上から体重をかけれる玲旺那の方が有利なのは、間違いなかった。
「何に怒ってるのか知らないけど、穂積さんと俺は何もない。そっちの勘違いだ」
「勘違い? 本当にそうか?」
両の手首がより強く押さえつけられる。話の通じない相手に、一馬は苛立った。
「そうだ。いい加減にしろよ。彼女は単なるクラスメイトだ。恋愛感情はない」
「今まではそうだったとしても、これからはわからない」
やけに断定的な物言いだった。
「何が言いたいんだ? まさか、穂積さんに近づく奴全員に、こうして回ってるんじゃないだろうな?」
ありえないが、もしそうなら執着が激しすぎる。
(なんでこんな奴が、女子から人気があるんだ)
「瑠璃に近づいているのがお前だから、だよ」
「俺だから?」
ますます訳がわからない。玲旺那はゆっくりと、顔を近づけてきた。
「瑠璃は、俺のものだ。お前には渡さない」
瞳の奥に一瞬ぎらつく赤い光に、寒気を覚える。
「何言って……」
「思い出していない癖に、瑠璃の周りをうろつくのはやめろ。次は、本当に命を落とすぞ」
ぞわぞわと、背筋に嫌な予感が走る。
「月影、お前は、何を知ってるんだ?」
問いには答えず、玲旺那は続けた。
「五日前は瑠璃に助けられたけど、いつもそういう幸運が続くと思うなよ?」
気配がして、一馬はそちらに視線をやる。
机の上にいたのは、舌をちろちろと動かす黒い蛇。
全身の肌がいっきにあわ立った。
もがく一馬を睥睨しながら、蛇は近づいてくる。首筋を細い舌がなぞり、小さな悲鳴がもれた。
「うっ……」
脅える一馬を、玲旺那は愉快そうに見降ろしている。
(こいつが、敵だったのか?)
「どうする、北斗一馬。瑠璃から離れるか、俺に歯向かうか」
勝者の醸し出す余裕たっぷりの笑み。だが一馬はそれどころではない。
蛇が口を開け、首筋に牙を立てるのがわかった。また噛まれてしまったら、今度こそ終わりだ。
そのまま数秒、膠着した。呼吸や鼓動すらはばかられる緊張感が全身を走る。
玲旺那が身を起こし、一馬から離れた。けれど一馬は、まだ動けない。蛇の牙が、いつ肌を食いやぶるかわからないからだ。
窓を開けた玲旺那が戻ってきて、一馬の腕を引っ張り起こす。睨みつけると、すばやく耳打ちされた。
「助けをよんだら、どうなるかわかってるよな?」
舌うちしそうになるのをこらえる。先程の蛇は一馬の首に巻きつき、振り払えそうになかった。
おそらく玲旺那の命令があれば、この蛇は、たちまち一馬の命を奪うだろう。
手を引っ張られ、窓の近くまで連れてこられる。
二階の理科室の下にあるのは、レンガで囲われた花壇と、コンクリートで舗装された狭い道だ。
「ここから飛び降りたら、どうなると思う?」
中庭よりも土の面積が狭い。間違えば、固いコンクリートに叩きつけられてしまう。
その場面を想像してしまった一馬は、ようやく呼吸を思い出したようにあえいだ。膝が崩れかけたところを、玲旺那に後ろから抱きとめられる。
「やっと状況が理解出来たみたいだな」
蛇が首をひっこめた。その代わりに、玲旺那の指が食い込む。
「ぐっ……」
「この蛇に噛まれるくらいなら、ここから飛び降りた方が、助かる確率は高いぞ?」
軽く背を押され、窓枠に押し付けられ、恐怖を全身がつらぬいた。
「やめろっ!!」
玲旺那の腕から何とか逃れるが、足に力が入らず、すぐにその場にへたりこんでしまった。
腰で後ろに下がりながら、玲旺那を睨みつける。
「若山先輩がああなったのは、お前のせいなんだな?」
「彼女は、お前と少し違うケースだけどな。気絶させて運んだだけだ」
ほぼ認めたも同然の物言いだ。思わず大声でなじる。
「どうしてそんなひどいことをするんだ?!」
「若山先輩本人には、気の毒だと思うよ」
この時ほんのわずか、玲旺那の表情に痛ましげな色が出て、一馬はあっけにとられた。
「けれどああでもしなきゃ、あの体からあいつを追い出せなかったんだ」
「あいつ……?」
玲旺那がさしているのは、例の声の主だろうか。
瑠璃を妹だと言った、謎の女性。
「瑠璃に変なことを吹きこまれたら困るんだ。あいつにも、お前にも、余計なことはしてほしくない」
玲旺那が歩み寄ってくる分、一馬も後ろに下がる。すぐに背に壁がついて、また逃げられなくなってしまった。
玲旺那は、一馬の首にからまったままだった黒い蛇を、自らの腕にのせながら言う。
「瑠璃に近づくな。そうすればこの後も見逃してやる」
「俺が大人しくしてたら、穂積さんはどうなる?」
「別にどうもならないさ。あえて言うなら、俺と恋人同士のまま、ってところか」
玲旺那の腕を這っていた蛇が、ふっと姿を消した。マジックのような消失に目を見張る。
(穂積さんには、何もしないのか?)
危害を加えないという点は、信用してもいいのかもしれない。
さっきまでの言動をみるに、玲旺那は瑠璃へ、恋慕というにはどろどろした執着があるようだ。
となると瑠璃を傷つけるようなことを、彼がする確率は低そうだが。
(そもそも、こいつと穂積さんが一緒にいてもいいのか?)
否、と心のどこかですぐさま結論が返ってくる。
(だめだ、穂積さんはこいつに近づいちゃいけない)
それでも瑠璃は、先程玲旺那と嬉しそうに話していた。
恋人同士であることは隠せても、慕っていることまでは隠せていなかった。
彼女の相互を崩す顔を思い出し、ちり、と胸が痛む。
(近づいちゃいけないなんて、言えるわけない……)
沈黙が続く一馬をどう思ったのか、玲旺那がさらに駄目押しのように言う。
「瑠璃は、俺のものだ。お前の出る幕はないんだよ」
傲然とした言い草に、わけもなく腹が立った。
見えなかった敵は、目の前の彼だった。
戦うすべは、今の一馬にはひとつもない。反撃した瞬間、あっという間に黒い蛇に噛まれて、そこで終わるだろう。
ここで文句を言えば、玲旺那の神経を逆なでして、何をされるかわからない。
それでも、衝動を押さえられなかった。
「違うだろ。穂積さんは誰のものでもない」
玲旺那の眉が、不愉快そうにはねあがった。
「は?」
「しいていうなら、穂積さんは穂積さん自身のものだ。彼女を自由にできるのは、彼女だけだ」
言いきってから数秒が恐ろしく、一馬はごくりと唾を飲み込む。
返ってきたのは、憐れまれた失笑だった。
「だから、どうしたっていうんだ? 俺は瑠璃が好きだから、瑠璃が欲しい。欲しいものを手にして、何が悪い?」
一馬に警告するという用は済んだのか、玲旺那は立ち上がり入口へ向かう。
扉をひらきながら、振り向いた。
「死にたくないなら、そうやって隅っこで震えてろ」
足音が遠ざかっても、一馬はしばらくその場を動けなかった。
両の手を持ち上げ、手のひらを見る。指先が、細かく震えている。
大きく息を吐き、そこに顔を埋めた。
(くそっ……!)
非力さを嫌というほど思い知り、何もできないことだけは痛烈に理解した。
理科室の壁を、血よりも赤い夕陽が染め始めている。
その明るさを視界の端にとめながら、一馬はしばらく、孤独にうずくまっていた。