少年の視点2
一馬は転校してきてから初めての学校行事を、少しの期待と緊張と共にむかえた。
文化祭一日目の朝にクラスへ向かうと、皆は既に最後の準備におおわらわだった。この学校は、クラスごとに催し物をするという方針らしく、一馬のクラスは喫茶店をすることになっていた。
とはいっても衛生面を考慮して、実際に料理をすることは禁じられているため、あらかじめ業者から購入したものを盛り付けするだけなのだが。
店の飾り付けをチェックしていると、すぐそばで同じ作業をしていた穂積瑠璃と目が合った。しかし少女はすぐにそっぽをむいて、別の場所を確認しにいく。その行動が何となく、さみしいといえばさみしかった。
一馬は、いまだに瑠璃に感じた既視感の正体をつかめずにいた。本来なら、もうどうでもいいとなげやりになっていてもおかしくないのに、ずっと疑問に思っている。
自分は、あの少女と会ったことがあるのだろうか?
だが一体いつ、どこで?
それがわからないことには、数日前から心に巣くうもやもやがはっきりしそうにない。
一馬は小さく、重いため息をつく。
と、そんな憂鬱な思いなど知るはずもない女子たちの、賑やかな話し声が聞こえてきた。
「穂積さん、劇、頑張ってね」
「絶対見に行くね」
「あーあ、午後はお店の当番だから、今日はだめなんだよねえ。でも明日、見に行くから」
「玲旺那君主役なんでしょ? 絶対絶対行くよ! かっこいい姿をみなきゃ」
どうやら数名の女子が瑠璃を中心に集まって、演劇部の文化祭公演の話をしているらしい。
一馬にとって驚いたことに、どうやらこの学校は、演劇部が随分と活動的であるらしいのだ。一馬のイメージでは、普通は吹奏楽部が文化部の代表格に躍り出そうなものだが、この中学校は違うらしい。
そういえば、と、数日前を思い出す。
廊下に落ちていたかつらを、演劇部室に届けたことがあった。そこで瑠璃に会い、劇を見に来ないかと言われた。
女子たちの会話を盗み聞きしてる限りでは、今日は午後に上演するらしい。
実は午後は暇なのだった。特にこれといって用事もないし、転校したてだから一緒に歩きまわってくれる友達もあまりいない。それに人ごみの中をむやみやたらと動き回るのも、特に好きではない。
一馬はぼんやりと、午後の予定を決めた。
体育館横の講堂は、想像していた以上に大きかった。
一体、何人の生徒や保護者がここに集まっているのだろう。開演前の客席は喧騒に満ちていて、ささやきが別のささやきを呼び、さらにそれが大きな波となる。
一馬は一階上手寄りの奥まった席に腰かけ、ぼんやりと開演を待っていた。
そのときだった。
誰かが、耳元でささやいた。
『やめておけよ』
最初は、近くの席の誰かが連れと会話をしているのだと思って気にもとめなかったが、また再び声がする。
『やめておけよ。少し考えたらわかるだろ?』
今度は、あまりにもはっきりと聞き取れたので、周囲を何度も見渡した。しかしいましがた自分に話しかけたと思われる人物は、見当たらなかった。
(何だ、今の声?)
疑問に思うが、答えてくれる者はいない。
そのかわり、もう一度謎の声は言った。
『よりによって、何で……。もうこれは、俺の理解を超えてるわ』
そこでアナウンスが流れた。開幕を告げる内容のものだった。
しかし、一馬の注意は途切れることのない謎の声に向いていて、幕が上がり芝居が始まっても、舞台上に意識が向かなかった。
『ほかにいくらでもいるだろ? どうしてあの御方なんだよ?』
『お前、自分の立場、わかってるよな?』
『止めておけ。お前自身のために、だ。俺の言っている意味がわかるよな?』
声は、おそらく十代後半の男性のものと思われた。何を、咎めているのだろう。その言葉から、込められた感情から、苦々しい思いと表情が容易に想像できる。
自分は夢を見ているのだろうか? 一馬はほっぺをつねってみた。古典的な方法を試した結果、痛かった。では幻聴なのだろうか? もしくは、いまごろ転校の疲れがでてきたのか?
いずれにしても、これはおかしな状況だ。あきらかに普通ではありえない。
保健室に行って、横にでもなろうか。そうは思うが、今は劇の最中だ。ほかの観客の迷惑になるので、抜け出すのははばかられる。
仕方ない。上演が終わるまで待っていよう。もしかしたら、それまでにこの声は聞こえなくなっているかもしれない。
一馬は劇に集中することにした。最初からまじめに観ていなかったので、どういう場面かはよくわからなかったが、ともかく緊迫していることだけは伝わってくる。
舞台上の役者達が、二つのグループにわかれて言い合いをしている。そんな中、ただ立ち尽くす少女と、少女の肩を抱いている少年。やがて少女は少年と引き離され、少女の父と思われる人物に無理やり連れていかれた。舞台の袖に引っ込んで、見えなくなる。
「レオナルド様!」
去り際、少女は叫んだ。
「クラディウス!」
こちらは、少年。
そして一馬の網膜に、劇とは全く関係のない一つの映像が飛び込んできた。
まるで白い光を放っているかのごとく、淡く輝く見知らぬ少女。
純白の衣をまとい、顔はフードで上半分が隠れている。わずかに見えるその頬に流れたのは、一筋の涙だ。
ひどいくらいに、胸が締め付けられた。
たった一瞬の、まばたきほどの間の、すぐに消滅した幻だというのに。
先ほどからの不可解な現象に、一馬はますます首をかしげた。
結局、あれこれの幻聴や幻覚が気になってしまい、ゆっくりと観劇できないままに時は過ぎてしまった。
折り重なってピクリとも動かない少年と少女を隠すようにして、幕がするすると降りる。そしてぴたりと止まって、舞台の向こう側を完璧に隠した。
観客席には、いまだ割れるような拍手がやまない。そのときだった。
少女の、恐怖に満ちた痛々しい叫び声。
それは、唐突に観客の耳を打った。感激に包まれた講堂の中で、叫び声はあまりにも場違いなものだった。
一瞬沈黙がおりて、その後客席がざわめきで支配される。観客の心配と騒ぎが頂点に達する前に、すかさずアナウンスが入った。
「ただいまのは、音響ミスです。繰り返します。ただいまのは、音響ミスです。申し訳ございません。本日はご観劇いただき、ありがとうございました。観客の皆さまは、順番に出口に向かってください。繰り返します。ただいまのは……」
数度のアナウンスでたいていの客は関心を失い、何事もなかったかのように講堂を去っていく。
そんななかで、一馬はわけのわからない不安にさいなまれていた。
今の叫び声は誰のものか?
直感が言った――穂積瑠璃だ。
なぜわかるんだ? そんなことが。叫び声だぞ。普段の声とは違うのに。
そもそも自分は、穂積瑠璃の声さえもあまりきいたことがないではないか。
いや、でもあれは、あの少女の叫び声で間違いない。
一馬は口元を押さえた。
なぜ、こんなにも体が動揺で震えるのか? なぜ、こんなにも心が騒ぐ?
あの少女に対して既視感はあったが、けれどそれにしても、なぜだ?
疑問に思う一方、一馬は徐々にいてもたってもいられなくなってきた。
客は既に、ほとんどいなくなっている。照明がともり始めた客席通路を走り抜け、緞帳の向こう側、舞台の上に飛び乗った。
数名の演劇部員が舞台セットを確認したり、床を掃除している。何人かにはあからさまに邪険そうな目で見られた。しかし一馬は、それらの視線など気にしている場合ではない。
あたりをせわしなく見ていると、後ろから声をかけられた。振り返ると、そこには四十代ごろの男性教師がいた。
一馬は知らなかったが、その教師は演劇部顧問のヤマセンだった。
彼は、突然現れた一馬に首をかしげる。
「一体どうした? ほら、邪魔だからさっさと降りなさい」
手で軽く払うような動作に、一馬はあわてて頭を下げた。
「すみません。あの……さっきの悲鳴は、誰のですか?」
「ああ、音響じゃないってやっぱりわかったか。一人、倒れたんだよ。どうも劇の最中に具合が悪くなったみたいで。まあ、大丈夫だ。おそらく心配はいらない。倒れた直後はさすがに驚いたけど、もう保健室に運んだから」
「保健室にいるんですね? ありがとうございます!」
はじかれたように駆けだす一馬の背に、ヤマセンは叫ぶ。
「気になる? 知り合いなの?」
「たぶん!」
勢いよく駆けてく一馬を見送りながら、ヤマセンは不思議そうに独りごちた。
「うん?……なんで、倒れたのが穂積だってわかったんだ?」
保健室に到着すると、目を赤く腫らした知尋の姿が目に飛び込んできた。
息を切らす男子生徒の出現に知尋は呆然となるが、一馬はかわまず早口でたずねる。
「無事なのっ!?」
「……え?」
「穂積さんは無事なのっ!?」
「えーと……瑠璃のクラスの転校生? 確か、北斗君だっけ?」
ポカンと口を開けたまま、知尋はまじまじと一馬の顔を見る。物言いたげな見知らぬ女子生徒に、一馬は容赦なく矢継ぎ早に質問をまくしたてた。
「さっきの悲鳴、たぶん穂積さんだよね? 音響じゃないって聞いたよ。大丈夫なの? 先生は心配ないって言ってたけど、本当?」
「ちょ、ちょっと」
知尋は小声で叱りつけ、懸命に唇に人差し指をたてて合図するが、混乱している一馬にはそれが目に入らない。
だが。
「静かにしろ」
低いが、ひどくあたりに響く声で一馬は我に返った。
カーテンで仕切られた向こうから、一人の少年が現れた。
少年は一馬を睨み据えたままつかつかと歩みよる。一馬は、彼の雰囲気に気圧されてなんとなく後ずさってしまった。そして自分の失態に気づく。
だが詫びを言うより先に、少年が口を開いた。
「保健室で騒ぐなんて、非常識だろ」
ずいぶんと刺々しい物言いだったが、一馬は素直に頭を下げた。
「ごめん、つい。穂積さんのことが気になって」
その言葉に、知尋が変な顔をした。
「……あのさ、音響じゃないってわかったのは納得できるけど、どうして倒れたのが瑠璃だってわかったの? 瑠璃の名前、アナウンスで言ってなかったでしょ?」
「あ……ああ、それは、舞台の前の方で見てたんだ。だから、穂積さんなのかもしれないって思って……」
しどろもどろにウソをつく。本当は舞台からだいぶ離れた後ろの席に座っていたのだが、それを素直に言えば、知尋はますます変な顔をするだろう。
それに一馬自身がこのことを不思議に思っていたため、人に話すのは何となくためらわれたのだった。
「そうか、なるほどね」
知尋は、一応納得してくれたらしい。しかし目の前に立つ少年は、あいかわらず一馬を睨みつけている。
「お前、本当に前の席に座っていたのか?」
心臓が、どきんとはねた。
「座ってた」
「本当か?」
「本当だよ」
少年の目が細まる。一馬は冷汗をかいた。なぜか、ありえないほど緊張している。ただ小さなウソをついているだけなのに。
しかし無遠慮にねめつけてくるこの少年は、一体何者なのだろうか?
「玲旺那君、瑠璃はもう大丈夫なの?」
知尋が場の空気をどうにかしようと、話題を変えた。一馬はそのおかげで、少年の名前が玲旺那であるということを知った。
玲旺那から、ふっと刺々しさが消える。
「うん、落ち着いて眠ってる」
と、彼はカーテンの方を振り向く。
「俺はしばらくここにいる。穂積さんが目を覚ましたら、送ってくよ」
「そう? そうしてくれるとありがたいな。私、この後クラスの方で用事があるんだよね。じゃあもう行くね。玲旺那君、あとはよろしく」
言うが早いが、知尋は問答無用で一馬の腕をひっぱり、保健室を後にした。首だけで後ろを振りむいた一馬は、扉が閉まるその一瞬に、今にも牙を剥きそうな玲旺那と目が合い、寒気を覚えた。
しばらく知尋に腕をつかまれたままだったが、彼女は階段の踊り場で一馬を解放した。
「ごめんね。せっかく瑠璃を心配してくれたのに。私がかわりに謝るわ。なんだか玲旺那君、瑠璃が倒れたせいで動揺してるみたいなの。本当は、いつも優しいんだけど」
「俺の方こそいきなり騒いじゃって、ごめん」
「ううん、いいんだけど」
知尋はそう言いながら、再び一馬をまじまじと見る。くりっとした丸い瞳の奥に好奇心が見え、一馬は気後れしそうになった。
「北斗一馬君、だっけ? この学校、転校生は久しぶりだったから、うちのクラスでもちょっとした話題になってたよ」
「そ、そうなんだ?」
「あ、私は多崎知尋。瑠璃と同じ演劇部なんだ。それにしても……瑠璃からあなたの話を、聞いた覚えがないんだよね。でも、瑠璃のこと心配してくれたんだ?」
よくわからないが、後ろめたさが倍増した。
自分がなぜ、彼女を気にかけ続けているのか。自身でも不可解なことを、他人に説明できるわけがない。
「そ、そりゃあ、クラスメイトだから」
心配の根拠としては、明らかに弱いだろう。一馬は話題を変えようと質問する。
「ところでさっきの人も、演劇部なの?」
「そう、月影玲旺那君。私たちと同じ学年で、副部長なの」
ふうん、と一馬はとりあえず相槌を打つ。二人は、階段をゆっくり登りながら会話を続けた。
「で、なんで穂積さんが倒れたから、その、月影ってやつが不機嫌になるんだ?」
とたん、知尋は眉根を寄せてため息をついた。
「私の勘違いだったらいいんだけどね……」
知尋は足を止める。
あなたは部活関係者じゃないから言うけど……と前置きし、あたりをはばかるように耳打ちした。
「たぶん、二人は付き合ってるのよ」
その瞬間、一馬の胸によくわからない感情が巣食った。去らない雨雲が心の中に陣取っているような、すっきりしないものを感じる。単なるクラスメイトの色恋沙汰など、どうでもいいものでしかないのに。
この、納得できないもやもやしたものは何なのだろう。
(納得?なんだそれ?)
嫉妬だろうか? いや、そんなはずはない。
これは穂積瑠璃という少女に感じるものではなくて、先程睨まれたあの少年、月影玲旺那に由来するものだ。
何となくだが、一馬は思った。
彼女は、あいつに近づいてはいけない。
「ほんとはね、演劇部は部内恋愛禁止なの。副部長がその掟破ったとなったら、そうとうやばいことになるわね」
知尋は、一馬が何を考えて黙りこくっているかなど思いもよるはずもなく、話を続ける。
「んーまあ、私としては瑠璃を応援してあげたいんだけどさ」
「え?どうして?」
一馬は我知らずするどく聞き返してしまう。
「だめなんだろ?本当は」
「うん、でもね、一年生のころから瑠璃が玲旺那君に片思いしてるの知ってたから……だからさ、別れなさいっていうのも、ちょっとね」
そこまで言って、知尋はあわてて付け足しした。
「あ、でもね、これはあくまで私の推測だから。二人は本当に付き合ってるかどうか、確かめたわけじゃないの。だから、誰にも言いふらさないで」
手をあわせて、知尋が一馬に懇願する。
一馬は腑に落ちない思いを抱えながらも、ただ一言、「わかったよ」と言ってうなずいた。
○○
知尋と一馬が出て行った後の保健室では、瑠璃のかすかな寝息が聞こえるばかりだった。
こんこんと眠る少女のそばには、一人の少年が寄り添っている。
慈しみあふれる視線を彼女の上に落とし、玲旺那は、そっと指先を頬にすべらせた。
「瑠璃……」
玲旺那は、自分だけにしか聞こえないほどの小声で、祈るようにささやく。
「あいつを、お前に近づけさせやしない……お前は、俺だけのものだから」