ACT9 少女は異変を感じる
最初に変だなと思ったのは、舞台の上。
クラディウスからレオナルドへの手紙を、真夜中の路地で受けわたすという場面。
ここは私が演じる召使いの役と、その姉役しか出てこない。台詞のやりとりもそんなに長くないから、舞台のすみっこのほうで、局所的に当てられた照明に二人の姿が浮き上がっている。そんな場面。
私は台詞を言う。
○○
召使い:じゃあまた、今度ね。
姉:気をつけて帰るのよ。
召使い:わかってるわよ。お姉ちゃんこそ、夜道に気をつけて。クラディウス様が頼れるのは、お姉ちゃんだけなんだから。
○○
そして私はきびすを返した。返そうとした。でもその時。
頭の中に、声が響く。
『ねえ、あなた…………なの?』
「え……?」
一瞬くらっと、視界が歪んだ。その瞬間、照明が変わり明転。舞台中央が明かりに照らされ、セットが現れる。いけない。このままじゃ私が舞台袖に引っ込めないまま、次の場面が始まっちゃう。
頑張って歩こうとしたけど、また、さっきの声。さっきよりもひどいめまいに襲われる。私はたたらをふんでその場に倒れそうになった。
けど、ぎりぎりで姉役の越乃先輩が抱きとめてくれた。
立ち上がれずにぼんやりしていたら、舞台袖から知尋が出て来て、先輩と一緒に素早く私を運ぶ。
越乃先輩と知尋は、私を舞台袖奥に運んで、小さな声で話始めた。
「先輩、瑠璃どうしちゃったんですか?」
「私もびっくりした。うーん、貧血かな?」
越乃先輩は、念のため私の額に手のひらをあてる。
発熱なんてしてるわけがないのに。それくらい、自分でもわかる。
でも、そんなにぼんやりとした顔をしてるのかなあ。もしかしたら、してるかもしれない。今、私の頭の中に、さっきの声がこだましてる。
あなた……あなたなの? そう、聞こえる。
ずっとその言葉の繰り返し。
誰なんだろう。誰なのかはわからないけど、でもこれは、女の子の声。か細くて、まるで泣いているよう。しつこく何かを、確認しているみたい。
何度も何度もあなたなの、と。まるで、その相手に必死にすがりついているようだ。
まだめまいは続いている。変な声も聞こえる。世界が、不安定に揺らいでいる。
私は青ざめた。どうしよう。まだあと一回は、舞台に立たなきゃいけないのに。私の最後の出番があるのに。
ううん、ここで弱音なんか、言ってられない。せっかく練習したんだ。せっかく本番を迎えたんだ。頑張らなきゃ。私は無理やり自分に言い聞かせる。
「ごめんなさい。先輩、知尋も。ちょっとふらっとしただけ。もう、大丈夫だから」
私は、二人に笑いかけた。まだ視界が歪んでいる気がするけど、そんなこと言ってられない。
やらなきゃ。私はやらなきゃいけないんだ。
私は知尋の制止も、先輩の忠告も聞かなかった。
心配してやってきたヤマセンにも、無理に笑ってみせた。ヤマセンは厳しい顔をして、それでも、「やりたいのなら、やりなさい」と、後押ししてくれた。
私は、自分の最後の出番がくるまで、舞台袖のすみっこで座り込んでいた。めまいと変な声に負けないように、必死で戦った。
でも、気分がよくなることはなかった。ただ、それ以上悪くもならなかったけど。
どれくらい経ったかな。襲いくるめまいに耐えていたから、時間の感覚はほとんどなかった。頭上で、知尋の声がする。
「そろそろ出番だよ。大丈夫?」
私はゆっくりと立ち上がって、軽く頭をふった。ため息をつきながら答える。
「うん。何とか。それに、次の場面は、ほんとはあまり台詞はないからさ。たぶん大丈夫。間違っても、倒れたりなんかはしないよ」
言ってから、まずい、と思う。よけいな一言がついちゃって、知尋はますます心配そうな顔になっちゃった。
「えー……ねえ、それならさあ、抜けても何とかならないかなあ。悪いけど、他の人にアドリブしてもらうとかさ」
「ううん、それはイヤなの」
私はすかさず否定した。
途中でやめるなんて、今更、考えられないから。
「私、やりたいの。大丈夫。この劇、みんなで成功させたいんだ」
私は、まっすぐ前を見た。少し離れた舞台からは、キャストの声が聞こえる。この日のために、みんな、頑張ってきたんだ。ゴールまでもう少し。投げ出すなんて、途中でリタイアなんて、やだよ。
頭の声は、相変わらず鳴り止まないけど、私は頑張る。
舞台が、照明が落ちて暗くなる。
私は、静かに歩きだした。
後ろから、知尋の励ましの声が聞こえた。