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第二章:破綻へのカウントダウン

1

 降りしきる冷たい雨が、渋谷の雑居ビル街を黒く濡らしていた。

 築四十年の古びた雑居ビルの最上階。看板すら出ていない重い鉄扉を開けると、そこには丸の内の東京中央銀行とは対極の光景が広がっていた。壁一面に並んだトリプルモニター、床をのたうち回る黒いコードの群れ、そして静まり返った室内でカタカタと高速で打鍵されるキーボードの音。

「神島さん……!」

 パイプ椅子から飛び出してきたのは、SpaceNode(スペース・ノード)社の社長、西条真一だった。まだ三十二歳。Tシャツにパーカーというラフな身なりだが、その目には酷い隈が落ち、唇は乾ききっていた。

「西条さん、状況を整理しよう」

 神島は濡れたコートを脱ぎ捨てることもせず、中央の作業デスクに歩み寄った。後ろから息を切らせた新人バンカーの一ノ瀬あかりが続く。

「ファブラス社の粉飾決算の件、どこまで事実なんだ?」

「……壊滅的です」

 西条は震える手でキーボードを叩き、メインモニターに巨大な財務データとスマートコントラクトのログを呼び出した。

「ファブラス社は、我が社のSpaceNode上で『世界最大級のバーチャル旗艦店』を運営し、毎月三億円のテナント料を支払う契約になっていました。しかし、今朝東京地検特捜部が動いた。過去三期にわたり、架空の海外売上を計上していた疑いです。すでに主要取引口座は凍結、社長は連絡が取れません」

「三億円のテナント料が、完全に焦げ付くというわけか……」

 あかりが息をのんだ。

「それだけなら、まだ我が社の自己資金で二ヶ月は耐えられました」

 西条は苦い顔で首を振った。

「問題は、日東新星銀行です。あいつら……ファブラス社がSpaceNodeに支払うはずだった『将来の十五年分のテナント賃料(総額約五拾億円)』の受取権を勝手に担保に取り、それを裏付けにした『デジタルMBS(資産担保証券)』を自社の富裕層顧客や機関投資家に三拾億円分も売りさばいていたんです!」

「何だと!?」

 神島の声が鋭く響いた。

「将来の賃料キャッシュフローを担保にしたMBSの小口化発行……。まさに、俺たちがさっき本店で提案していた『第三のステップ』じゃないか。日東新星はそれを一足先に、裏で実行していたというのか」

「ええ。ですが、あいつらのやり方はあまりにも悪質でした」

 西条は悔しさに歯噛みした。

「日東新星のデジタル開発部トップである神崎(かんざき)という男が、ファブラス社の粉飾の噂を事前につかんでいた形跡があるんです。彼らはファブラス社が倒産する前に、その焦げ付くことがわかっている賃料債権をMBSとして小口化・証券化し、投資家に押し付けてリスクをオフバランス(帳外隔離)しようとした……!」

「……不適切な原資産の流動化、実質的な詐欺的証券化か」

 神島の目が険しく光った。

「しかも、日東新星が組んだスマートコントラクトには悪質なトリガーが仕込まれていました。ファブラス社からのテナント料が一度でも不渡りになれば、連鎖してSpaceNode全体の『土地所有権トークン』が差し押さえられ、日東新星の特別目的会社(SPC)に自動的に接収される仕組みになっていたんです。……明日、ファブラス社の支払期日が来ます。自動引き落としが失敗した瞬間、SpaceNodeの土地はすべて日東新星に奪われ、我が社は強制破産させられます!」

2

 静寂が部屋を支配した。

 あまりにも杜撰で、そしてあまりにも邪悪な金融トラップ。

 最先端のブロックチェーンとスマートコントラクトという「自動化されたプログラム」を、投資家へのリスク押し付けとベンチャー企業の乗っ取りのために悪用したのだ。

「日東新星の神崎……」

 神島はその名を低く呟いた。

 神崎哲也。かつて東京中央銀行で神島の同期であり、数年前に破格の提示額でライバルの日東新星銀行に引き抜かれていった男だ。「金融に倫理など不要。数字と利回りこそが絶対の正義だ」と豪語していた神崎の顔が、神島の脳裏に浮かんだ。

「神島さん、どうすればいいんですか……」

 あかりが蒼白な顔で尋ねた。

「明日の朝九時、ファブラス社の口座からSpaceNodeへの三億円の引き落としが実行される。そこで残高不足になれば、スマートコントラクトが不渡りを検知し、自動的にSpaceNodeの全権利が日東新星側のSPCへ移転してしまう。タイムリミットまで、あと十五時間もありません!」

「落ち着け、一ノ瀬」

 神島は静かに腕を組み、思考を研ぎ澄ませた。

(日東新星の狙いは二つ。ファブラス社の粉飾によって生じる三拾億円の焦げ付きリスクを、何も知らない投資家にMBSとして擦り付けること。そして、デフォルトに乗じてSpaceNodeという次世代の巨大デジタルプラットフォームをタダ同然で手に入れることだ)

「西条さん」神島は西条を直視した。

「日東新星が発行したそのMBSの裏付け資産(原資産)は、どこに保全されている?」

「保全なんてされていません!」西条は首を振った。

「日東新星の自社システム上のプライベート・チェーンに記録されているだけです。信託銀行による分別管理も、倒産隔離も行われていない。ただの『銀行の信用を背景にした見せかけの証券』です!」

「やはりな」

 神島の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。

「日東新星のスキームは隙だらけだ。彼らはプログラムの自動実行(スマートコントラクト)の速さに頼るあまり、金融の根本である『法的な権利の保全』を怠っている。……勝機はあるぞ」

「勝機……ですか?」

 あかりと西条が同時に神島を見た。

「ああ。日東新星が仕掛けた不当な差し押さえプログラムを無効化し、さらにファブラス社の倒産による金融パニックを最小限に抑える唯一の方法がある」

 神島はポケットから手帳を取り出し、ペンで三つの条件を書き走らせた。

「第一に、明日九時の引き落としが行われる前に、SpaceNodeの土地権利と将来の全テナント賃料請求権を、我がグループの『東京中央信託銀行』へ正式に信託譲渡する」

「信託譲渡!?」あかりが叫んだ。

「そうだ。信託法上の『受託者(信託銀行)』へ権利を移転させることで、信託財産には強固な『倒産隔離』が発生する。これにより、日東新星が設定した勝手な担保権や自動差し押さえプログラムは、信託法第十三条(信託財産の独立性)に基づき、法的に無効化される!」

「なるほど……!」西条の目が輝いた。「信託銀行という強固な法的防壁の中にSpaceNodeを避難させるわけですね!」

「だが、それだけでは終わらない」神島は二人目の条件を指さした。

「第二に、ファブラス社という腐ったアンカー・テナントを排除し、健全な別の企業グループを新しいテナントとして差し替える。そして第三に、その新賃料を裏付けとして、我が東京中央銀行が『デポジット・トークン(トークン化預金)』を発行し、正式な預金保険適用下で正当なデジタルREITおよびMBSとして再組成(リファイナンス)するんだ」

「しかし、神島さん!」あかりが悲鳴のような声を上げた。

「そんなことをするには、信託銀行の役員会を通し、代替テナントを見つけ、さらに我が行の融資承認を得て数拾億円規模のリファイナンス決済を組まなければなりません! 明日の朝九時までにそんな大仕掛け、絶対に不可能です!」

「不可能ではない」

 神島は力強く言い放った。

「日本国内における銀行の総融資額――貸出金残高の合計は、現在およそ六百三十兆円から六百五十兆円規模で推移している。そのうち、我々のようなメガバンク(都市銀行)が占めるシェアは全体のアタッチメントの約半分、三石兆円近くに及ぶ」

神島は一ノ瀬の目を見つめた。

【日本国内における銀行の貸出金残高(総融資額)の規模】


・ 全国銀行 総貸出残高 : 約 630兆円 〜 650兆円

├ 都市銀行(メガバンク等) : 全体の約半数(巨大企業・グローバル融資・高度ファイナンス)

└ 地方銀行・第二地銀 : 約 200兆円超(地域経済・中小企業融資)


「日本の銀行全体で六百五十兆円もの金が動き、毎日何兆円という決済が実行されているんだ。その巨大な資金循環の輪の中に、たった三拾億円のデポジット・トークンによる正しい流動化スキームを通せない道理がない。伝統的な銀行が持つこの六百五十兆円の信用の重みと、最先端の信託スキーム……それを使えば、日東新星のちっぽけな詐欺的プログラムなど一ひねりにできる!」

 神島の言葉には、長年メガバンクの最前線で修羅場をくぐり抜けてきた男だけが持つ、圧倒的な説得力があった。

「いくぞ、二人とも」

 神島は時計を見た。夜の八時を回っていた。

「今から明日の朝九時まで、一秒も休めないぞ」

3

 深夜一〇時。東京・日本橋にある「東京中央信託銀行」の本店ビル。

 暗闇にそびえ立つビルの最上階、信託不審・リスク管理担当常務である山内(やまうち)の執務室に、神島の怒声が響き渡っていた。

「山内常務! お願いします、今すぐ緊急の信託受託審査委員会を立ち上げてください!」

 ソファーに深く腰掛けた山内は、白髪の眉をひそめ、神島が出した資料を忌々しそうに眺めていた。

「神島君……君は正気か? 相手は日東新星銀行だぞ。しかも明日の朝九時までに、まだ実績もない『デジタル空間の土地』を信託財産として受託しろだと? 万が一、法的な不備があって日東新星から訴訟を起こされたら、我が信託銀行の信用に傷がつく!」

「傷がつくのは、何もしなかった時です!」

 神島はテーブルに両手をつき、山内に顔を近づけた。

「日東新星がやっているのは、不当なMBS発行による投資家へのリスク転嫁です。もしファブラス社が倒産し、日東新星のMBSがデフォルトを起こせば、被害を受けるのは我が行の顧客でもある富裕層や機関投資家です! 金融庁が黙っていると思いますか? 『なぜメガバンクグループでありながら、異変に気づきながら手を打たなかったのか』と、グループ全体のガバナンスが問われます!」

「う……」山内が言葉に詰まった。

「我々が提供するのは、逃げ道ではありません」

 すかさず一ノ瀬あかりが前に出た。手元のタブレットから、信託法に基づく権利関係の整理図を提示する。

「信託法第十三条により、受託者が信託財産として引き受けた時点で、委託者(SpaceNode)の固有の債務や不当な差し押さえ権限は完全に遮断(倒産隔離)されます。さらに、新しく組成するデポジット・トークン(トークン化預金)による決済システムを組み込めば、信託口座に入金される賃料は、ブロックチェーン上で一秒の遅延もなく受益者へ自動分配されます。リスクはありません。これは、信託銀行にとっても将来の『デジタル信託報酬』という巨大な収益源になるのです!」

 あかりの必死の訴えに、山内の目がわずかに動いた。

「……新しく代わりに入るアンカー・テナントの目処はあるのか? ファブラス社に代わる、毎月三億円の賃料を払えるような優良企業が」

「あります」

 神島は不敵に微笑んだ。

「すでに、交渉は詰めてあります」

4

 午前二時。大手町タワーの東京中央銀行・本部。

 神島は、ある人物を応接室に迎えていた。

 日本を代表する巨大EC・流通グループ「グランドモール」の財務担当専務、諸星(もろほし)だった。

「神島さん、こんな真夜中に呼び出して……一体何の冗談ですか」

 諸星は眠そうな目をこすりながら、差し出されたコーヒーに手をつけた。

「冗談ではありません、諸星専務」

 神島は単刀直入に切り出した。

「グランドモール社がかねてより模索されていた『Web3型メタバースにおける本格的なコマース事業』。その最高の立地を、破格の条件でお譲りします。SpaceNodeの超一等地、旧ファブラス社の区画です」

 諸星の目が一瞬で鋭くなった。

「ファブラス社の区画……? あそこはファブラスが年間三拾六億円の賃料で独占契約を結んでいたはずだ。我が社も狙っていたが、条件で競り負けた」

「ファブラス社は明日、破綻します」神島は静かに言った。「粉飾決算です」

「何……!?」

「諸星専務。グランドモール社が今すぐあの区画を引き継ぎ、新たなアンカー・テナントとして15年間の長期賃貸借契約を結んでいただけるなら、賃料を年間三拾億円――つまり二割引きで提示します。決済はすべて、我が東京中央銀行が発行する『デポジット・トークン』で行う。貴社の既存口座からの自動引き落としです」

 諸星は絶句し、神島の顔を穴が開くほど見つめた。

「ちょっと待ってください、神島さん。明日破綻するような物件に、我が社が今すぐ判を押せと? リスクが高すぎる」

「リスクはありません」

 神島は確信に満ちた声で答えた。

「物件の所有権および賃料請求権は、今夜すべて『東京中央信託銀行』に信託譲渡されます。貴社が支払う賃料は、信託口座内で厳格に分別管理され、SpaceNodeの運営会社が倒産しようが、第三者が差押えを狙おうが、貴社の出店権利は法的に百パーセント完全に保護されます。さらに、トークン化預金による即時決済システムを導入することで、貴社の出展店舗での売上は、中間手数料なしで即座に貴社の本勘定口座へ還元される」

 神島は契約書をテーブルに滑らせた。

「実体経済で年間二兆円の売上を誇るグランドモール社が参入すれば、SpaceNodeの信頼性は一夜にして世界最高峰になります。日東新星銀行が仕掛けた不当なMBSなど、一瞬で正常な高利回り証券へと生まれ変わる。……決断してください、諸星専務。貴社がWeb3時代の覇者になるためのチケットが、ここにあります」

 諸星は沈黙した。応接室の時計が、カチ、カチと無情に時を刻む。

 三分経過した。

 諸星は深いため息をつくと、胸ポケットからモンブランの万年筆を取り出した。

「……神島さん。君は相変わらず、とんでもない悪魔のようなバンカーだな」

 諸星の手によって、三拾億円の長期賃貸借契約書に鮮やかな署名が走った。

5

 午前六時三十分。

 朝もやに包まれた東京中央銀行本店の役員階。

 神島は、副頭取室の重厚なドアをノックした。

「入れ」

 室内にいたのは、副頭取の東条(とうじょう)だけではなかった。

 ソファには、昨日の会議で神島の案を冷酷に跳ね返したデジタル戦略特命部長・黒木和彦が、苦虫をかみつぶしたような顔で座っていた。

「神島……! 君は一体全体、夕べから何をやっているんだ!」

 黒木が立ち上がり、書類を神島に突きつけた。

「信託銀行を勝手に動かしてSpaceNodeの受託審査を通させ、さらにはグランドモール社と三拾億円の契約を結んだだと!? 本部の融資承認も得ずに、一次的な繋ぎ融資の枠を設定するなど、銀行員として言語道断の越権行為だ! 即刻懲戒処分にするぞ!」

「静かにしろ、黒木」

 重厚なデスクの奥から、副頭取の東条が低い声を上げた。白髪の交じる厳格な面構え。東京中央銀行の「融資の神様」と恐れられる男だ。

「神島。説明しろ」

 神島は深々と一礼し、手元のタブレットから最新のスキーム図を東条のデスクのモニターへ飛ばした。

「東条副頭取。日東新星銀行が、ファブラス社の粉飾を隠蔽したまま、SpaceNodeの賃料債権を悪質なMBSとして証券化し、市場に流出させていました。今朝九時、ファブラス社の不渡りとともに、日東新星はスマートコントラクトを自動実行させ、SpaceNodeの全資産を不当に没収する計画です」

 東条の眉がピクリと動いた。

「私は昨夜から今朝にかけて、次の手を打ちました。

 第一に、SpaceNodeの全資産を東京中央信託銀行へ信託譲渡完了。信託法第十三条に基づき、日東新星の自動没収プログラムは無効化されました。

 第二に、破綻するファブラス社に代わり、グランドモール社と年間三拾億円・十五年間の長期賃貸借契約を締結。

 そして第三に……この健全化された年間三拾億円の確定キャッシュフローを裏付けとして、我が行が『デポジット・トークン(トークン化預金)』を発行し、日東新星の悪質MBSをすべて買い取り・正常なデジタルREITおよびMBSとしてリファイナンスします」

「なに……! 日東新星のMBSを買い取るだと!?」

 黒木が叫んだ。

「そうだ」神島は黒木を睨み返した。

「日東新星のMBSを買い取らなければ、それを買わされた投資家が数拾億円の損失を被り、市場全体が凍りつきます。しかし、グランドモール社の健全な賃料が裏付けとなった今、そのMBSは『年利四パーセントを生み出す極めて堅牢な超優良資産』に化けているのです! 我が行が買い取り、自社の富裕層向けにデジタルREITとして再小口化して販売すれば、我が行には数十億円の引受手数料と信託報酬が転がり込みます!」

「バカな……! そんなウルトラCが通るか!」黒木が顔を真っ赤にした。

「通るか通らないかではない」

 神島は東条副頭取に向き直り、膝をつく覚悟で頭を下げた。

「東条副頭取! 日本の銀行貸出残高・六百五十兆円の頂点に立つ我が東京中央銀行が、最先端の金融テクノロジーを前にして保身に走り、ライバル行の不正を指をくわえて見過ごすのですか!? 『預金者の資産を守り、真の産業を育成する』……それが我が行の矜持ではありませんか! デポジット・トークンと完全信託保全……この正統なる金融の力で、日東新星の邪道を打ち砕かせてください!」

 部屋の中に、沈黙が降り積もった。

 黒木が息をのんで副頭取の顔を見つめる。

 東条は静かに目を閉じ、腕を組んだまま動かない。

 壁の時計の針が、午前七時三十分を指した。

 やがて――東条がゆっくりと目を開けた。

 その瞳には、かつて数々の巨大企業の再建を成し遂げてきた伝説のバンカーとしての、鋭い光が宿っていた。

「……黒木」

「は、はい!」

「今すぐ緊急常務会を招集しろ。議題は『SpaceNodeに対する三拾億円のリファイナンス枠設定およびデポジット・トークン発行の特別承認』だ」

「ふ、副頭取!? 本気ですか! 審査も終わっていない案件ですよ!?」

「審査なら、神島が昨夜一晩で完璧に終わらせた」

 東条はデスクの上の書類をポンと叩いた。

「信託保全による倒産隔離、グランドモールの15年契約、デポジット・トークンによる預金保険適用の法的スキーム……どこにも隙がない。日東新星の神崎とかいう小小僧に、我が行が遅れを取ったとあっては、メガバンクの名がすたるぞ」

 東条は立ち上がり、神島の肩をガシリと掴んだ。

「神島。八時三十分までに稟議書を仕上げろ。私が常務会で判を押す。九時の引き落としまでに、日東新星の鼻を明かしてこい!」

「はいっ!!」

 神島の胸に、熱い塊が込み上げた。

6

 午前八時五十五分。

 千代田区大手町にある「日東新星銀行」本店の十五階、デジタル開発部特設オペレーションルーム。

「ふはは、見ろ! あと五分だ!」

 巨大なモニターの前に立ち、高級なシャンパンをグラスに注いでいたのは、日東新星銀行のデジタル開発部トップ・神崎哲也だった。周囲の若手システムエンジニアたちが、ニヤニヤしながら画面のカウントダウンを見つめている。

「ファブラス社の破綻ニュースは、あと一時間後に打たれる。だが、その前に朝九時の決済が走り、ファブラスの口座からSpaceNodeへの三億円の賃料引き落としが『残高不足』でエラーになる!」

 神崎はグラスを掲げた。

「エラーが起きた瞬間、我が社がスマートコントラクトに仕込んだ自動執行プログラム(キル・スイッチ)が作動する。SpaceNodeの全土地所有権トークンは我が社のSPCへ自動移転し、奴らのシステムはすべて我々のものだ。三拾億円のMBSの焦げ付きリスクも、何も知らない投資家に押し付け完了。完璧だ……! 東京中央銀行の神島の奴、今頃青い顔をして泣いているだろうよ!」

 その時――オペレーションルームの重い両開きドアが、バァン!と大きな音を立てて開いた。

「誰だ! 今、部外者は立ち入り禁止――」

 神崎が振り返り、絶句した。

 そこに立っていたのは、濡れたスーツのまま立ち尽くす神島拓哉、そして一ノ瀬あかり、SpaceNodeの西条の三人だった。

「神島……!? なぜお前がここに……!」

「神崎」

 神島は静かに歩み寄り、神崎の目の前で一冊の分厚い法的書類と、タブレット端末を突きつけた。

「お前の勝ち誇った顔を拝みに来たんじゃない。これを引き取りに来たんだ」

「なんだこれは……?」

 神崎が書類をひったくるように奪い、目を通した瞬間、顔面からスーッと血の気が引いていった。

「『信託受託通知書』……並びに『権利移転差止仮処分命令』だと……!?」

「そうだ」

 神島は冷たく言い放った。

「今朝八時十五分、SpaceNodeの全土地権利および将来のすべての賃料請求権は、東京中央信託銀行へ正式に信託譲渡された。信託法第十三条に基づき、委託者の固有財産とは完全に分離されている。お前たちが仕掛けた勝手な担保権や、自動没収プログラムなどのスマートコントラクトは、法的に『無効』だ」

「バ、バカな……! そんな短時間で信託受託などできるはずがない! 嘘だ!」

「嘘だと思うなら、画面を見ろ」

 神島が指さした巨大モニターのカウントダウンが、午前九時丁度を告げた。

『午前9:00:00――定期自動決済処理開始』

 画面上のプログラムが走り出す。

 神崎の仕込んだスマートコントラクトが、ファブラス社の口座へアクセスし――不渡りを検知して赤く点滅する……はずだった。

しかし、画面に表示されたのは、鮮やかな『緑色の決済完了(SUCCESS)』の文字だった。

【 SpaceNode 決済処理ステータス 】

・決済日時 : 2026/10/14 09:00:01 JST

・決済手段 : 東京中央銀行 デポジット・トークン(Deposit Token)

・入金元 : 株式会社グランドモール(新アンカー・テナント)

・受託口座 : 東京中央信託銀行 特設分別信託口座

・ステータス: 決済完了(即時DVP・自動分配実行中)


「な……なにぃ!?? 決済成功……!? なぜだ! ファブラス社は破綻したはずだぞ!?」

 神崎が悲鳴を上げ、画面に飛びついた。

「ファブラス社なら、すでに退去してもらった」

 西条が誇らしげに前に出た。

「新しいアンカー・テナントは『グランドモール社』だ。彼らが年間三拾億円の賃料を、東京中央銀行の発行する『デポジット・トークン』で全額即時事前払いしてくれた。今、九時一秒にお前の銀行のMBS保有者へも、約定通りの利払いがデポジット・トークンで全自動送金されたよ」

「デ……デポジット・トークン……だと!?」

 神崎はガクガクと膝を震わせた。

「そうだ」

 神島は神崎の胸元を指さした。

「お前たちが投資家に売りつけた悪質なMBS三拾億円分は、本日付で我が東京中央銀行が全額買い取る。グランドモール社の健全な賃料を裏付けとした、完全なる『信託保全型デジタルREIT』として再組成するためにな」

神島は一歩踏み込み、神崎の目を射抜いた。

「神崎。お前はスマートコントラクトの『自動化』という表面上の便利さに目を奪われ、金融が何によって成り立っているかを忘れた。銀行の本質は『信用』だ。法律を無視し、顧客にリスクを押し付け、プログラムで強奪するような真似が、金融と言えるか!」

「う……あ……」

 神崎はシャンパングラスを床に落とした。快い音を立ててガラスが割れ、泡立った液体が絨毯に広がっていく。

「日東新星が行った、粉飾の事実を知りながらの不当なMBS発行と、悪質なプログラムによる資産没収の企て……これらすべてのログは、すでに金融庁の検査局へ提出した。……終わりだな、神崎」

 神崎はその場に崩れ落ち、二度と声を上げることができなかった。

7

 午後三時。

 雨は上がり、丸の内の街並みには心地よい秋の陽光が差し込んでいた。

 東京中央銀行本店の三十一階。

 神島とあかりは、副頭取室での報告を終え、廊下を歩いていた。

「神島次長!」

 後ろから声をかけてきたのは、デジタル戦略特命部長の黒木だった。

 黒木は相変わらずのオールバックだが、その表情にはどこか疲れたような、そしてどこか吹っ切れたような複雑な色が混ざっていた。

「黒木部長」

 神島が足を止め、深々と一礼する。

「……見事だったよ」

 黒木は苦笑いを浮かべ、ポケットからタバコを取り出そうとして、禁煙の廊下であることを思い出して手を込めた。

「信託保全と預金保険適用のデポジット・トークン……。法的な隙を完全に埋め、ライバル行の不正を暴き、我が行に数百億円規模の新しいデジタル信託ビジネスを持ち帰ってみせた。副頭取も大満足だ。来期の君の昇進は間違いない」

「ありがとうございます。ですが、これは私一人の力ではありません。信託銀行やグランドモール社、そして現場で戦ってくれた部下やSpaceNodeのチームのおかげです」

「フン、相変わらず甘いことを言う」

 黒木はフッと息を吐くと、神島に向き直り、すっと右手を差し出した。

「だが……覚えておけ、神島。今回は君の勝ちだ。だが、これからSpaceNodeのデジタルREITとMBSを本格的に市場で流通させるとなれば、次は金融庁や海外の規制当局との泥沼の交渉が待っている。リスク管理の鬼として、私はこれからも君の前に立ちふさがるぞ」

「望むところです、黒木部長」

 神島は力強く、その手を握り返した。

 二人のバンカーの手と手が、固く結ばれた。

 夕暮れ時。

 神島とあかりは、本店の屋上庭園から東京の街を見下ろしていた。

「すごかったですね……神島さん」

 あかりが感慨深そうに呟いた。

「一時はどうなることかと思いました。ファブラス社の粉飾、日東新星の罠、九時のタイムリミット……まるで悪夢を見ているようでした」

「金融の現場は、いつだって修羅場さ」

 神島は風に髪をなびかせながら、遠くを見つめた。

「だがな、一ノ瀬。どんなに時代が変わり、ブロックチェーンやAIといったテクノロジーが進化しても、変わらないものがある。それは『人の信用』と『正しい法と倫理』だ。我々バンカーが守らなければならないのは、画面上の数字じゃない。その向こうにいる、預金者や挑戦者たちの『未来』なんだ」

「はい……!」

 あかりは力強く頷いた。

 神島の胸のポケットの中で、スマホが軽く震えた。

 画面には、西条からのメッセージが届いていた。

『神島さん、SpaceNodeの新しい区画に、世界中の企業から出店希望が殺到しています。……僕たちの新しい「街」が、ついに動き出しました!』

 神島は微笑み、スマホをポケットに収めた。

 眼下に広がる、夕日に照らされた巨大な東京のビル群。

 そしてその向こう側に広がる、無限のデジタル空間という新しいフロンティア。

 六百五十兆円の伝統的な銀行の信用を背負い、プログラマブル・デポジット(預金トークン)という新たな武器を手にしたバンカーたちの戦いは、まだ始まったばかりだった――。



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