2.「君臣の絆」
朝食を終えたばかりのエルンスト王子に皇太女の訃報を伝えに来たのは、宵闇色の祭服姿の神官――大神殿所属の上級神官ボシュエ卿だった。
そのブロンドの巻き毛にアメジスト色の瞳のどこか儚げな青年神官が、数か月前から皇太女の側に仕えていることはエルンスト王子も承知していた。
ただ、王子が実際に彼を見たのは、いつだったか皇太女を訪ねた折に行き合ったときの一度きりだった。
その場で挨拶は交わしたものの、その後は姿を見かけることも、彼の話題が皇太女との会話に上ることもなかった。
他の皇太女の側仕えの者――筆頭女官ジュリエット・ド・キュイーヴル伯爵夫人や上級侍従ジョルジュ・ド・メルキュール子爵が代表的だ――とは、何度も言葉を交わしたことがあるし、皇太女が呼ぶ彼らの名までも耳に馴染んでいたほどだ。
しかし、ボシュエ卿については、不思議と姓と肩書以外は何も知らないままだった。
そして、今、訃報を伝え終えたボシュエ卿のアメジスト色の瞳はテーブルの上の赤いルバーブジャムに向けられていた。
王子は内心でため息をついた。
帝国の人々はルバーブジャムを食さない。
そして、彼らはこういう王子の「外国人らしさ」を見下している。
しかし、卿は何も言わなかった――そもそも、この状況でルバーブジャムについて嫌味を言う方がおかしいかもしれないが。
王子は自分が強いてどうでも良いことに意識を向けているのを自覚していたが、他にどうしようもなかった。
「皇太女殿下が薨御された……間違いないのだろうね?」
王子は朝食のテーブルを挟んで目の前に座っている神官ボシュエ卿に尋ねた。
彼は確かに頷いた。
「残念ながら、間違いございません。既に宮廷魔導士たちの調査も始まっており、事が事なので魔導士長マーリン師が自ら現場に出ています」
宮廷魔導士が動いているということは、事件性があるということだ。
王子は喉に何かがこみ上げてくるのを感じたが、表情には出さなかった。
彼の立場でこれ以上の感傷を示すのは不適切だった。
大陸諸国において、皇族や王族として生まれた者は、自国に利益をもたらす同格の相手と結婚しなければならない。
ほとんどの結婚が感情を排した純然たる政略結婚だ。
他に好きな相手がいたとしても、恋愛を楽しむのは結婚して後継者をもうけた後が望ましいというのが伝統的な考えだ。
そして、やはり彼と皇太女の結婚も、余計な感傷の入り込む余地のない神聖かつ合理的な政略結婚であるべきだというのが王子の考えだった。
王子は一度俯いて目を閉じたが、すぐに顔を上げた。
「状況は承知した。皇太女殿下が女神様のもとで安らかであることを願う」
そして、まずは当たり障りのないことを尋ねた。
「しかし、何故君が訃報を伝えに来たのだろう?」
実際、こういう知らせは普通は侍従や秘書官から伝えられるものだ。
ボシュエ卿ははっきりと答えた。
「それは、皇太女殿下が生前私にある命令を下されたからです」
「……『命令』?」
「ええ、皇太女殿下はご自分の運命を悟り、『我が婚約者たるエルンスト王子をして、我が身に起こったことを調査させよ』と私にお命じになりました」
王子は暫し沈黙した。
婚約者たる皇太女の訃報を受け止めるだけで手一杯なのに、彼女がそれに関する調査を自分にさせることを望んでいたと聞かされてもどう捉えれば良いかわからなかった。
そんな彼をボシュエ卿のアメジストの瞳が真っすぐに見据えていた。
「王子殿下、驚かれるのも無理からぬことです。しかし、私はどうしても殿下にお願いしなければなりません。なぜなら……皇太女殿下は私と『君臣の絆』を結んでおしまいになったからです」
ボシュエ卿は、俄かに漆黒の祭服の左袖を捲り、手首に施された銀色の刻印を示した。
王子は静かに息を呑んだ。
その意匠は、間違いなく皇太女アリエノールの紋章――一角獣と薔薇の紋章だった。
皇太女は彼と「君臣の絆」を結んだ確かな証拠だ。
「ご存知の通り、『君臣の絆』の『第一の臣下』に選ばれた私は皇太女殿下の命を忠実に遂行しなければなりません。さもないと、私の命は失われてしまいます」
「君臣の絆」とは、月女神がアルジャン帝国の初代皇帝とその子孫に与えたとされる三つの奇跡――「聖なる魔法」「夫婦の護り」「君臣の絆」――の内の一つだった。
エルンスト王子は、アルジャン帝国に来たばかりのころ、教育係の伯爵がこの三つの奇跡について語っていたことを思い出した。
伯爵の語り口は、必要以上の美辞麗句で装飾されていたが、要はこういうことだ。
第一の奇跡、「聖なる魔法」は、帝国君主の嫡子たる皇子や皇女に特別な魔法が与えられる奇跡のことで、たいてい10歳の誕生日前後に発現する。
最初の一回は意図せず発現するが、それ以降は自在に使えるようになるらしい。
第二の奇跡、「夫婦の護り」は、帝国君主またはその後継者と彼らの配偶者に相互保護の力が付与される奇跡で、どちらかに死が訪れるまで続く。
ただ、その具体的内容については「皇太女殿下とご結婚なさればわかります」とのことで教えてはもらえなかった。
そして、目下の問題は第三の奇跡「君臣の絆」だ。
「君臣の絆」は帝国君主やその後継者が臣下を一人選び、絶対の忠誠を誓わせることができる奇跡だ。
対象に選ばれた臣下は、主の死後もその命を違えることはできないが、それと引き換えに主は自分が亡くなるまではその臣下を庇護しなければならない。
「しかし、皇太女殿下の『君臣の絆』は――」
――私と結ばれるはずだった。
と言いかけてエルンスト王子は口を噤んだ。
「君臣の絆」は帝国の建国当初は戦略的に用いられていた。
例えば、主が見出した有能な臣下が平民だった場合、間に合わせの爵位を与えたとて既存の貴族からは侮られるものだが、「君臣の絆」を結べば別だ。
臣下の手首に証として刻まれる主の紋章は、主がその者を「第一の臣下」として扱うという強い意思表示になる。
だが、情勢が安定しているここ数百年の間「君臣の絆」はすっかり形骸化していた。
男性君主の場合は皇帝に即位する際に在職している宰相と、女性君主の場合は結婚の際に皇配と結ぶのが慣例になっている。
皇太女と王子の場合、結婚式の式次第では、まず夫婦として誓いのキスをして「夫婦の護り」を成立させた後、次に「君臣の絆」を結ぶ儀式に移ることに決まっていた。
その儀式とは、主にあたる皇太女が臣下たる王子に純銀の盃を手渡し、王子がそれに口を付けるというものだ。
なお、儀式においては、純銀の盃には酒が注がれるが、空でも絆の成立には支障ないらしい。
王子の頭の中で過日の皇太女の声が響いた。
“ねえ、エルンスト、皇帝は宰相と「君臣の絆」を結ぶのに、女帝は皇配と結ぶのはなぜだと思う?”
そのとき、王子は教育係の伯爵から聞いたままの説明を繰り返したと思う。
すなわち、「皇帝と同等の『陛下』の称号を持つ皇后は皇帝の対等な配偶者であり臣下ではないが、皇配は女帝と結婚しても『殿下』のままであり彼こそが女帝の『第一の臣下』だから」という説明だ。
それを聞いた皇太女は意味ありげに言った。
“一般的にはそう説明されるわね。でも、私には皇帝が皇后を侮っているからのように思えるの。女の身で大したことはできないのだから『君臣の絆』で縛る必要はない。『夫婦の護り』の相互保護さえあれば十分だと――”
咄嗟に王子が何も言えないでいると、皇太女は肩を竦めて付け足した。
“――以前そんなことを言ったら、お父様にもジュリエットにも深読みし過ぎだと笑われてしまったわ。でも、あなたは真面目に聞いてくれるのね、エルンスト”
そのときに少し細められた満月色の瞳の煌めきを王子は今でもありありと思い出すことができた。
――もしかすると、アリエノールは私の気持ちを見抜いていて、私とは『君臣の絆』までは不要だと判断したのかもしれない。
そこまで考えて王子は我に返った。
いずれにしても、皇太女はボシュエ卿と「君臣の絆」を結んでしまった。
それはもう変えられない。
それに、相手が神官のボシュエ卿であったことに、どこか安堵していた。
――もしも、別の者だったら……。
王子はその考えを打ち消すように首を振った。
そして、できるだけ厳かな口調を作って言った。
「さすがに忠実に命令を遂行しようとする君に地の果てまで追いかけられるのは避けたい。とすると、私が調査する他ないのだろう」
王子の言葉にボシュエ卿はただ頷いた。
一瞬だけ、そのアメジスト色の瞳の奥に強い決意が覗いた気がした。
***
王子が調査を承諾すると、ボシュエ卿は早速事件の経緯について語った。
卿によれば、今回の事件は数か月前から動き出していたらしい。
数か月前、ボシュエ卿が普段奉仕している丘の上の大神殿に月女神の神託が下された。
その内容は、「冬の夜、皇太女アリエノールの身に危機あり」というものだった。
そこで、大神殿の長である大神官の判断で、差し当たって上級神官のボシュエ卿が宮殿に派遣されることとなった。
神託があったことは皇帝と皇太女本人にのみ伝えられ、二人の承諾の下、卿は暫く皇太女の側に仕えて様子を見ていたのだと言う。
エルンスト王子も、もちろん神託のことは聞いていなかったので、今の今まで卿が皇太女の側に置かれたのは大神殿の政治的思惑のため――例えば次期大神官候補者と帝室の関係づくりのため――だと思っていた。
「――神託をお聞きになっても、皇太女殿下は動揺なさいませんでした。ご自身が女神様から授かった『聖なる魔法』をもってすれば最悪の事態は避けられるとおっしゃっていて……しかし、結局は……」
ボシュエ卿は俯いた。
大陸諸国では、身分問わず女神様から生得の魔法を与えられることがある。
帝国においては、魔法が与えられた者は、魔導士の資格をとり、医療や警察関係の仕事に就くことが多い。
しかし、皇子や皇女に与えられる「聖なる魔法」は、一般の魔導士に与えられる魔法よりずっと強力だ。
一般の魔導士に与えられる魔法が物体に作用するのに対して、「聖なる魔法」は人間の心や体に直接作用する魔法なのだ。
ただし、畏れ多くも月女神が特別に与える魔法なので、自他の命を奪う用途では使えないらしい。
と、エルンスト王子は教育係の伯爵から教わったことを思い返した。
――「聖なる魔法」の内容は誰にも明かせない掟だが、アリエノールは「治癒能力」だとか「自己回復」だとかを授かっていたのかもしれない。
――しかし、使うのが間に合わなかったか、それを上回る危害が加わったか……。
そう考えたエルンスト王子は、これまで避けていた事件の核心に迫ることにした。
「それで……皇太女殿下はどのように亡くなったのだろう?」
「昨夜、寝室で急にお倒れになりそのまま……。宮廷魔導士が調べたところ、お身体からは致死量を上回る毒が検出されました。つまり、毒殺ということです」
宮廷魔導士というのは、帝室の直轄地で起きた事件や皇族が関わる事件の警察業務を担う魔導士のことだ。
今回は、宮殿内で起こった事件なので、当然彼らの管轄となる。
「だとすると、単純に考えれば、亡くなる直前に召し上がったものが怪しいということか……」
エルンスト王子は思案した。
昨夜は午後8時頃まで、宮殿敷地内の聖堂で月女神の祭日前夜の礼拝が行われ、王子も帝室一家と共に参列した。
最後に会った皇太女は健康そのものだった。
すると、それ以降に口にしたものが怪しい。
「それについては……実は皇太女殿下に毒を盛る機会があった者は限られているのです。ここに参上する前に、本件の調査にあたっている宮廷魔導士に確認しましたが、当夜に皇太女殿下のお側に近づいた方は4人しかいないそうです」
そう言って、ボシュエ卿は「容疑者」を整理し始めた。
一人目は、午後9時頃、貴腐ワインを持って皇太女を訪ねてきた皇帝。
言わずもがな皇太女の父だ。
二人目は、午後10時頃、純銀の花器と苺を持って訪ねてきたフェール女侯。
帝国の実権を握る大貴族出身の老宰相。
三人目は、午後10時半頃、チョコレートと花束を持って訪ねてきたキュイーヴル准将。
半年前に前線から戻った戦争の英雄にして、キュイーヴル伯爵家の後継者。
四人目は、礼拝後からずっと側仕えをしていた筆頭女官のキュイーヴル伯爵夫人。
美貌で知られる有力な新興貴族の夫人。キュイーヴル准将の母でもある。
ボシュエ卿の話を聞いたエルンスト王子は何故か胸が苦しくなった。
しかし、彼はそれに気づかないふりをして、卿に質問した。
「その4人以外に、皇太女殿下に接触した人物はいなかったということだね」
「ええ、以上の4人以外にはいないそうです。私も昨夜はお側には上がっていませんでしたから」
そう答えた卿は、アメジスト色の瞳を少し細めて王子を見た。
王子は頷いてから更に尋ねた。
「皇太女殿下に仕える者は、お側に上がる度に危険物を持ち込んでいないか宮廷魔導士の検査を受ける掟だと聞いたことがあるが、昨夜もそうだったのだろうか?」
「ええ、そうでした。皇太女殿下の側仕えをする者は、お側に上がる度に例外なく検査を受けています。昨夜も祭日前夜の礼拝後、居室に戻った際に検査が実施されましたが、何の異常も見つからなかったと聞いています」
宮廷魔導士による側仕えの者たちの検査は、12年前に皇帝の命で始められたとエルンスト王子は聞いていた。
帝国の宮廷魔導士は選抜試験を突破して選ばれた者たちだ。
優秀な彼らの検査を掻い潜って毒物を持ち込むことは不可能だろう。
「なるほど。すると、筆頭女官の伯爵夫人が何か持ち込んだ可能性は低いか……」
「ええ、私もそう思います。それから、今名前を挙げた貴族の方々は、いずれも魔法は持たないので、魔法による毒殺というわけではなさそうです」
「そうだな。唯一、皇帝陛下は何らかの『聖なる魔法』が使えるはずだが、畏れ多くもその『聖なる魔法』が皇太女殿下の命を奪ったということはないはずだ」
王子の言葉にボシュエ卿も頷いた。
「聖なる魔法」はその内容が何であれ、命を奪う用途では使えないはずだ。
「そうすると、やはり、魔導士の検査を受けていない客人――皇帝陛下、宰相の女侯、准将――が持ち込んだ物が毒の出どころとしては怪しくなります。宮廷魔導士たちもさすがに、皇帝陛下や高位貴族の客人を検査することはありませんから」
エルンスト王子はボシュエ卿の言葉に頷くと、暫し深く考え込んだ。
――アリエノールの命を奪った毒。
――皇帝陛下含めた3人の客人と1人の女官。
――そして、アリエノールがボシュエ卿に伝えた遺志。
彼の耳に皇太女の声が響いた。
(エルンスト、どうか――)
反射的に皇太女の姿を探して辺りを見回したが、そこに彼女の姿があるわけもなかった。
やがて王子は静かに言った。
「……私はやはり皇太女殿下のご遺志に従うべきなのだろう。ボシュエ卿、君も一緒に来てくれるね?」
「私も、ですか?」
ボシュエ卿のアメジストの瞳が王子を見つめた。
「私は所詮外国の王子……神官の特権を利用させてもらわないとまともな調査など見込めない。それに、神託が下されていたにもかかわらず、悲劇が避けられなかったとあっては、君も神官としてこの件を調査せねばならないだろう」
王子の言葉にボシュエ卿はほんの僅かに片眉を上げたが、結局は恭しくお辞儀をした。
「かしこまりました。王子殿下の仰せのままに」
ボシュエ卿を見つめる王子の心に浮かぶのは、一つの問いだった。
――アリエノール、君は何故……。
相手のいない問いはただ宙に浮いた。
王子はそれを振り払うように、一度だけ目を閉じた。




