1章第8話 価値
翌朝、鍛冶場に降りる階段は、昨日よりも短く感じられた。
足取りが軽い、というほどではない。ただ、止まらずに降りられた。
ランタンに火を入れる。
地下に橙色の光が広がる。
炉は、冷えている。
だが昨日と違って、「何もない」感じはしなかった。
ここには、火を入れた痕跡がある。
俺は棚の紙束を広げる。
昨日読んだところを、もう一度なぞる。
意味が分かるわけじゃない。
ただ、「どこに何が書いてあったか」は覚えていた。
炉に薪を足す。
火打ち石を打つ。
一度目は失敗。
二度目も、火花だけで終わる。
三度目で、小さな火が生まれた。
急がない。
消えたら、また打てばいい。
火が薪に移り、炉の中で安定する。
鉄の匂いが、ゆっくりと戻ってきた。
今日は、剣以外のものも試してみる。
棚の隅にあった、歪んだ短剣。
刃は折れていないが、柄が曲がっている。
勇者用ではない。
街の自警団が使っていたものだろう。
これも、値段はつかない。
短剣を炉に入れる。
剣よりも、反応が早い。
引き出して金床に置く。
音が、昨日とは違う。
高くはないが、濁ってもいない。
ハンマーを振る。
一打ごとに、柄の歪みが少しずつ戻っていく。
途中で手を止める。
紙を見る。
「直すな。使える形に変えろ」
昨日読んだ一文が、頭に浮かぶ。
完全に元に戻す必要はない。
握りやすければいい。
振ったときに、力が逃げなければいい。
時間はかかった。
腕も痛い。
それでも、最後まで叩いた。
短剣は、元の形とは違う。
だが、握ると手に馴染む。
俺はそれを棚に置いた。
値札は、つけない。
昼前、店に戻る。
セラは、客と話していた。
古い鍋を手に取った客が言う。
「これ、まだ使える?」
「使えるわよ」
「でも、歪んでる」
「歪んでるだけ。穴は空いてない」
客は少し考えて、鍋を置いた。
「やめとく」
それ以上の理由はなかった。
客が出ていくと、店は静かになる。
セラは、鍋を棚に戻した。
値札は、そのままだ。
午後、鍛冶場に戻る。
今度は、昨日の剣だ。
重心が軽くなった剣。
もう一度、火を入れる。
昨日よりも、怖くなかった。
壊れるかもしれない、という感覚は消えていない。
でも、触らずに捨てるよりはいい。
叩く。
音が、少し澄む。
完璧ではない。
だが、昨日よりは、確かに違う。
夜、店を閉める。
ランプの火が揺れる。
俺は思う。
もし、この剣や短剣が、誰かの手に渡るなら。
勇者じゃなくてもいい。
街を守らなくてもいい。
ただ、壊れずに、使われればいい。
それだけで、十分だ。
布団に入る前、手を見る。
煤と油で黒い。
痛みもある。
それでも、嫌じゃなかった。
鍛冶場の朝は、静かだ。
地上ではすでに人の気配が動き始めている時間なのに、地下にはその音が届かない。階段を下りるたび、外の世界から切り離されていく感覚がある。
ランタンに火を入れる。
橙色の光が、石壁をゆっくり照らした。
炉の前に立つ。
今日は、もう少し先へ行く。
棚の紙束を手に取る。
「温度を上げすぎるな。鉄は嘘をつかない」
薪を足し、火を育てる。
火打ち石の音が、鍛冶場に響く。
昨日よりも手際がいいわけじゃない。ただ、失敗しても慌てなくなった。
火が安定したところで、短剣を炉に入れる。
昨日、柄を直したものだ。
赤くなるまで待つ。
待つ時間が、思ったより長い。
施設では、待つことは許されなかった。
判断は早く、結論は即座に出る。
使えるか、使えないか。
そのどちらかしかなかった。
だが、ここでは違う。
赤くなるまで待つしかない。
急げば、壊す。
引き出して金床に置く。
ハンマーを振る。
音が鳴る。
昨日よりも、少しだけ澄んでいる。
何度も打つ。
回数を数える余裕はない。
ただ、形を見て、触って、また打つ。
次は、勇者の剣だ。
刃こぼれしたままの剣。
完全には直さない。
勇者が使う剣にはならない。
それでいい。
刃の厚みを変える。
重心を少し後ろにずらす。
振るためではなく、支えるための剣。
何に使うのかは、まだ決めない。
決めないまま、形を整える。
どちらも、値札はない。
その夜、店を閉めたあと、セラが言った。
「無理してない?」
「してないです」
即答だった。
「そう」
それ以上、何も聞かれない。
布団に入る。
体は疲れているのに、頭は冴えていた。
考えていたのは、勇者のことじゃない。
施設のことでもない。
鉄のことだった。
どうすれば、壊さずに形を変えられるか。
どうすれば、役割を押し付けずに使えるか。
翌朝、また鍛冶場に降りる。
火を起こす。
もう、迷わなかった。
俺はハンマーを握る。




