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1章第3話 値札

小さな箱を運び終えたあと、俺はしばらくその場から動けなかった。

腕が重いわけじゃない。息が切れているわけでもない。ただ、どう振る舞えばいいのか分からなかった。


「今日はここまで」


彼女はそう言って、倉庫の扉を閉めた。重たい音がして、外の通りの気配が遮られる。


「ついてきて。店はすぐだから。」


言われるままに歩く。

倉庫の裏手に回ると、小さな店があった。古い木造で、看板はあるが目立たない。文字も少し剥げている。意識して見なければ、通り過ぎてしまいそうな店だった。


中に入った瞬間、空気が変わった。

油と埃、乾いた木の匂い。棚には、古い品が並んでいる。どれも新品とは程遠く、使われてきた時間が染みついているようだった。


「座って」


彼女はそう言って、カウンターの奥に消えた。

俺は言われたとおり、入口近くの椅子に腰を下ろす。


しばらくして、木の器に入ったスープが差し出された。湯気が立ち、温かい匂いが鼻をくすぐる。


「……いいんですか」


「食べないと、明日動けないでしょ」


それだけ言って、彼女はもう一度カウンターの奥に消えた。


礼を言うタイミングを逃し、俺は黙ってスープを口に運ぶ。

塩味だけの、簡単な味だ。それでも、体に染み込むのが分かった。

飲み進めるうちに、少しだけ指先の震えが収まる。


店の中を見渡す。

棚に置かれた品の多くに、小さな札がついていた。文字や数字が書かれているものもあれば、何も書かれていないものもある。


視線が、自然と札のない品に引き寄せられる。壊れたランプ、欠けた陶器、用途の分からない金属片。


「気になる?」


彼女の声で、はっとする。

俺はこくりと頷いた。


「私はここで古道具屋を営んでるの。値札があるのは、売る予定の物。ないのは、まだ判断してない物。」


淡々とした説明だった。


「捨てるか、直すか、売るか。決めてないだけ」


判断。

その言葉が、胸の奥に静かに沈む。

唐突に、彼女は言った。


「奥に空いてる部屋がある。今日はそこで寝なさい。どうせ行くあてもないんでしょ。明日も手伝ってね。」


「ありがとうございます。」


その夜、奥の小さな部屋で横になる。

今日は疲れたな。

そう思い、俺はそっと目を閉じ、眠りについた。


——————


朝になり、目が覚めた。

何だか清々しい気分だ。

特によく寝付けたわけではないが、初めて目を覚ました時よりかは気持ちがいい。


外から物音がする。

棚を動かす音。何かを置く音。

俺は布を整え、部屋を出た。


店の中では、彼女が棚の前に立っていた。手に取った物を見て、戻すか、別の場所に移すかを迷いなく決めている。


「起きた?」


俺が声を出す前に、気づかれた。


「はい」


また敬語になった。

彼女はそれを気にする様子もなく、顎で棚を示す。


「これ、拭いて」


渡されたのは、古い金属の部品だった。布も一緒に渡される。


「力はいらない。汚れ落とすだけ」


「……分かりました」


言われたとおり、布で表面を拭く。黒ずんだ汚れが、少しずつ布に移っていく。拭いても、元の色が完全に戻るわけではない。それでも、触ったときのざらつきが減っていくのは分かった。


彼女は、作業の合間に俺を見る。

目線から監視ではないとわかる。。ただ、そこにいるかどうかを確認するような視線だ。


昼過ぎになり、店の奥で簡単な食事をとる。

昨日と同じ、味の薄いスープと硬めのパン。だけど、昨日より落ち着いて食べられた。


ここでは俺は「邪魔ではない」と思えた。

役に立っていると言えるのかは微妙だが、追い出されてもいない。

少しづつ気持ちが楽になっていく感覚がした。


夜になり、店の戸を閉めると、外の音が途切れた。

昼間の喧騒が嘘のように消え、古道具屋の中には、木と油と埃の匂いだけが残る。

ランプの火が小さく揺れていた。


俺は棚の前に立ち、軽い箱を戻していた。

その背中に、声がかかる。


「そういえば、自己紹介がまだだったわね。私はセラ。あなたの名前は?」


唐突だったが、予感はあった。

このまま避け続けられる話題じゃない。


「ありません」


短く答えた。


「……え?」


セラの声が、ほんのわずかに裏返る。


「ない?」


「はい」


もう一度、はっきり言う。


「どういうこと?」


今度は、はっきりとした驚きが混じっていた。

俺は一度、息を吸う。


「必要なかったからです」


「必要……なかった?」


セラがこちらを見る。

値踏みでも警戒でもない。


「俺は勇者を作る施設で、生まれました」


その言葉に、セラの表情が変わる。

初めて、はっきりとした反応が出た。


「……勇者?」


「はい」


「でも、勇者は――」


そこで言葉が止まる。

この世界の常識として、勇者は

「街を守るために戦っている存在」

「国が製造し、管理している存在」

「英雄として扱われている存在」


そのどれとも、俺は一致しない。


「俺は失敗作です」


静かに言った。


「製造された後、使えないと判断された個体は、廃棄されます」


セラの目が、見開かれる。


「廃棄……?」


「はい、俺は廃棄される寸前で逃げて来ました。本来なら存在していないはずの存在なんです。」


一瞬、店の空気が凍ったように感じた。

初めて、感情が言葉に滲んだ。


「だから、名前もありません」


沈黙が続いた。


しばらくして、セラは深く息を吐いた。

その呼吸は、驚きを鎮めるためのものではなかった。

知ってしまった現実を、胸の奥に落とすための時間だった。


「……そう」


声は低く、静かだった。

セラは目を伏せたまま、続ける。


「勇者は本来街を守る存在。国が作って、管理して、意味を与えて、使う。そんな中で、あなたは意味を押し付けられて、誰からも見られなかった存在。」


指先が、帳台の縁をなぞり、俺を見る。

セラは、はっきりと顔を上げた。


「でも、私はあなたを見てる。役割じゃない。失敗作かどうかでもない。ここにいる人として、見てる。」


いつの間にか、額に涙が溢れていた。


「だからね、意味のある名前はつけない。」


声は優しかった。

だが、迷いはなかった。


「期待される名前は、いつか”なんで期待に答えられないのか”って言われる。

 役に立つ名前は、役立たないとわかった瞬間に、捨てられる。

 そう、ここで扱っている古道具のようにね。

 だからあなたには、もうそれを背負わせない」


そして、彼女はただ呼ぶためだけの音を置く。


「ミナト」


理由は語られない。

使命も、象徴も、願いもない。


「ただ、ここで、生きていくための名前。私が呼びやすい名前にした。」


俺は、その音を口に出す。


「……ミナト」


「どう?気に入った?」


胸の奥で、何かが静かにほどけた。

救われた、とは違う。

許された、とも違う。


ただ――

これ以上、意味で縛られない場所に立った。

その実感だけが、確かにあった。


俺は泣きながら首を縦にブンブン振って頷いた。

セラは、そんな俺を優しく抱きしめてくれた。

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