1章第16話 消失点
俺はひたすらに走った。
足元の泥が跳ね、視界を汚す。肺がひりつき、喉の奥で血の味がした。
後ろを振り返る余裕はない。ただ、繋いだセラの手の熱さだけが、俺を現実に繋ぎ止めていた。
「……ミナト、その先の通りを真っ直ぐ、その突き当りの角を右に!」
背後からセラの声がした。
荒い息遣い。彼女は俺よりもずっと疲弊しているはずなのに、その声は俺を突き動かすためだけに放たれていた。
街道を外れ、森の入り口へ差し掛かる。木々の影が、俺たちを世界の「外側」へと誘うように伸びていた。
希望の光だ。
背後に、音が届いた。
パンッ。
乾いた、小さな音だった。
木々が折れる音でも、爆発の轟音でもない。何かが、不意に弾けたような。
直後、繋いでいた手の重みが変わった。
引きずられるような感覚。俺は反射的に足を止め、振り返った。
「……え?」
セラが、倒れていた。
転んだのではない。重力にそのまま身を任せたように、不自然な角度で地面に伏せていた。
彼女の背中に、紫色の光がまだ小さく残っていた。
流れ弾。結界を失い、雨のように降り注いでいた魔法の破片の一つ。
それが彼女の細い背を、音もなく貫いたのだと、理解するのに数秒を要した。
「セラ……?」
名前を呼ぶ。
スローモーションも、走馬灯もなかった。
ドラマチックな最期の言葉も、託される願いもなかった。
彼女はただ、そこに横たわっていた。
俺は膝をつき、彼女の肩を揺すった。
温かい。さっきまで繋いでいた時よりも、もっと熱いものが彼女の服を濡らし始めていた。
「おい、冗談だろ。行こう。立ってくれよ。もうすぐで国境を超えるんだ。」
返事はない。
彼女の瞳は開いたままだが、そこにはもう、俺を「ミナト」と映し出す光はなかった。
さっきまで確かにあったはずの命が、演算を止めた機械のように、唐突に、無意味に、消えていた。
「セラ! セラ! セラ!!」
俺の声が、ひどく掠れて響いた。
俺を、この世界に繋いでいた唯一の楔が、理不尽に引き抜かれた音だった。
受け入れられなかった。
俺は彼女を抱き起こそうとして、指先に付いた血のぬるさに、初めて絶叫した。
言葉にならない。
ミナトという名前をくれた人間を失って、俺はただの「壊れた失敗作」に戻ってしまったかのような、底知れない恐怖。
再度、衝撃波が響く。
至近距離に、次の魔法弾が着弾したのだ。
セラの体ごと、俺の体は軽々と宙に舞った。
背中を地面に叩きつけられる衝撃。
脳が揺れる。
かすむ視界の端で、セラの体の一部が見えた。動かない。もう、絶対に動かない。
「……せ……ぁ……」
伸ばした指先が、彼女に届く前に。
俺の意識は、底のない闇の中へと叩き落とされた。
降り注ぐ火の粉の音だけが、世界の終わりのように、遠くで鳴り続けていた。




