絶望と希望、そして絶望
次の日の午後六時過ぎ、美菜は、B席の客が注文した煙草の銘柄が切れていたので、あかりに後のことを頼んで、近くの煙草屋に買い出しに行った。遼平は雑用で厨房にいた。煙草屋までは店の駐車場の横を通って、歩いて二分ほどの距離、ほどなく着いて、いくつかの銘柄の煙草をカートンで注文する。代金は月単位でマスターが払うことになっている。その日はいつものお婆さんではなく、中年の男がいて、慣れない作業に手間取ってしまった。
煙草を抱えて戻ってくると、駐車場の前の道に黒い車が停まっている。嫌な気がして、小走りでその車の横を通り過ぎようとすると、車の中の人影も降りてきて、美菜を突き飛ばした。駐車場の草むらの中に倒れこんだ。助けを呼ぼうとすると、顎を強い力で掴まれた。
「声を出せば殺す」低く腹に響く声で脅された。昨日の痩せ型だった。
顎を掴んだ右手と脇に入れられた左手で奥まで引きずられた。
「抵抗はしてもいい。だが、声は出すな。出せば躊躇なくこれで刺す」
そう言って、ナイフを見せられた。
美菜は必死で考えた。一か八か大声を上げれば、店は目の前にある。だれか助けに来てくれるかもしれない。だが、この男はやると言ったことは本当にやりそうな気がする。そう思っていたとき、左腕に痛みを感じた。見ると、痩せ型が注射器を持っている。
睡眠薬? だめだ。眠らされたら好き放題にやられてしまう。絶望に沈んだ。
痩せ型は悠々と美菜の服を脱がし始めた。横向きにさせられ、背中のファスナーをおろし、ブラのホックをはずした。美菜は抵抗した。足をばたつかせ、痩せ型の腕を掴んで自由にさせないようにした。しかし、相手の方が一枚上手だった。美菜の動きを利用して、片袖を腕から抜いて、ブラをはぎ取った。両腕を押さえられ、露出した美菜の胸に顔を埋められ、敏感な部分を嘗め回された。全身に悪寒が走った。
股間を膝蹴りしようとしても、下半身を密着されてそれもできない。諦めたふりをして、全身の力を抜いた。隙を見て、反撃するつもりだった。
「なんだ、もう諦めたのか。つまらん」
そうか、こいつは抵抗するのを無理やり犯すのを楽しむ変態だ。だからといって無抵抗なら好き勝手に蹂躙されてしまう。今は美菜の両腕を押さえるのはやめて、片手と口で思う存分に美菜の胸を弄んでいる。もう一方の手が下半身に伸びてきた。
そうだ、ナイフはと思って、首を起こすと、美菜の左腕の近くの地面に突き刺している。覚悟を決めて、左手でそのナイフを取ろうとしたが、薬の影響か、左腕が動かなかった。右腕は動くが、遠い。
胸に飽きたのか、痩せ型が美菜の体から離れる気配がした。渾身の右膝蹴りを繰り出したが見事に空振りした。それどころか、またしてもその動きを利用され、尻に両手をあてがわれ、パンティをはぎ取られた。
思わず「いやー」と声が出た。同時に下腹部にずしんと痛みを感じ、意識が飛びかけた。腹を殴られた痛みで、抵抗する気持ちが急激にしぼんでいった。もう、右手も動かせない。
「声を出すなと言ったはずだ。二度目はないぞ」
低いがドスの利いた声に、美菜の気力は止めを刺された。
痩せ型の手と口は美菜の太ももを散々弄んだあと、股間に移ってきた。
もうだめだ。遼ちゃん、ごめんなさい。心の中で遼平に詫びた。
その時、こちらに駆けてくる足音がして「この野郎」という遼平の声がした。
反応して立ち上がる痩せ型。ゴンと重い音がして、痩せ型が美菜の体の上に倒れこんだ。
すぐにナイフを掴んで立ち上がる痩せ型。遼平が危ない。その思いが動かなかった右腕を動かした。痩せ型の右足を掴んだ。倒れた痩せ型の頭に遼平が振り下ろしたバットが命中して、痩せ型は動かなくなった。
遼平は、スカートが腹の上に載っているだけのほぼ全裸の美菜を、呆然と見ていた。遼平にこんな姿を見せたくなかったが、もう手も足もぴくりとも動かない。遼平の顔が歪み、ゆっくりバットを振り被り、止めを刺そうとしている。その時、
「遼平、もういい」
マスターの声がして、遼平からバットを取り上げて続けた。
「これ以上やると、死ぬかもしれない。おまえが殺人罪になってしまう」
あかりが駆け寄って、美菜の服の乱れを直してくれた。
「ミーナ先輩、大丈夫ですか。怪我はないですか」
「……」
美菜は恐怖と屈辱に必死で耐えていた。あかりにありがとうと言いたかったが、何か言うと心が砕け散るような気がして、何も言えなかった。
マスターが、痩せ型のベルトを抜いて、両手を後ろ手に縛った。さらに、自分のベルトもはずして痩せ型の足を縛った。
「警察に電話してくる」と言って、立ち去りかけたマスターが、すぐに戻ってきて言った。
「警察が来たら、ミーナも遼平も取り調べを受けることになる」
「そんな、先輩はそんなことできる状態じゃないです」
あかりが言ってくれた。
「そうだな」そう言って、マスターは考え込んだ。
「遼平」
「はい」
「ミーナのアパートまで、ミーナを背負って行けるか」
「はい、行けます」
「ミーナは、強姦はされていない」
「はい、あいつズボン穿いてました」
「だけど、その直前までいっていた。ナイフで脅されて」
「……」
「もう以前のミーナには戻れないかもしれない」
「そんな…、俺、嫌です」
「元に戻せるのはおまえしかいないと思う。おまえのミーナへの想いが、ミーナを救ってくれる」
「……どうすれば、いいのですか」
「今夜と明日一日、ずっとミーナのそばにいてやれ。優しくしてやれ。そうして、もしミーナが、おまえに我儘を言ったり、大泣きして感情をぶつけてきたりしたら、それが立ち直るきっかけになるような気がする」
「わかりました。やってみます」
遼平とマスターが話している間、あかりが美菜の下着をつけ、衣服を整えていた。全く動けない美菜に四苦八苦しながらも、なんとか仕事を終えたあかりは、美菜の上体を起こさせ、美菜を抱きしめて、
「ミーナ先輩、きっと遼ちゃんが助けてくれます」と言って泣いた。
美菜はなぜあかりは泣いているのだろうと、半ば放心した頭で考えていた。
あかりとマスターの手を借りて、遼平は美菜を背負った。後ろから美菜の下着が見えそうだと、あかりが店からバスタオルを持ってきて、美菜の腰に巻いて安全ピンで留めてくれた。
美菜は遼平の背に揺られながら、徐々に放心状態が解けていくのを感じていた。今、大好きな遼平に背負われている。
「遼ちゃん」声に出してみる。よかった、声が出る。
「何ですか。ミーナさん」遼平が優しく答えてくれた。
「ううん、呼んでみただけ」
「そうですか。でもよかった、ミーナさんの声が聞けて」
思い切って言ってみよう。
「遼ちゃん」
「はい、何ですか」
「私、遼ちゃんのことが好きみたい」
一瞬の沈黙の後、
「はい、知ってます」
え? 何、知ってたの?
「ミーナさん」
「あ、はい」
「俺、ミーナさんが大好きです」
本当だ。私も知っている。
「俺たち恋人同士ですよね。昨日、キスしたじゃないですか。俺、まだ唇にミーナさんの唇の感触、残っているんですよ」
そうだ、キスしたんだ。なぜこんな大事なことを忘れていたんだろう。
「恋人同士…、嬉しい」
美菜の太ももを直に支えている遼平の手の感触が心地よい。美菜はしばらくその感触に身を委ねた。
―あの男の手とは全然違うーと思ったとたん、男の口と手で、胸や太ももや股間を撫でまわされた感触が蘇った。全身に悪寒が走り、震えだした。
「ミーナさん、どうしました」
「怖い。あの男、怖い」
「大丈夫です。あいつ、マスターに手と足を縛られてます。もう何もできません」
「遼ちゃん、ごめんなさい。私、汚れちゃった。あいつに体中、嘗められた」
美菜は泣き出した。
「ミーナさんは世界で一番きれいです。あんな奴に汚されたりしません」
遼平も涙声になっている。
「でもね、あいつの唾液が体中にくっついて、私を汚してるの」
「そんなの、お風呂に入って洗い流せばいいんです」
「お風呂?」
「そうです。帰ったらすぐお風呂に入りましょう」
「お風呂……入りたい。でも、私、手も足も動かない」
「俺が入れてあげます」
「遼ちゃんが……」美菜はピタリと泣き止んだ。
「でも、裸だよね。遼ちゃんも?」
「はい、嫌ですか」
「嫌じゃない。けど恥ずかしい」
「そうですか。じゃあ、あかりさんを呼んで交代しましょうか」
「うーん、どうしよう」
アパートに着き、遼平は美菜をベッドに横たえた。
「お風呂、準備してきますね」
遼平が風呂の準備のためそばを離れただけで、美菜は異様な不安を感じた。すぐに戻ってくるとわかっているのに、遼平がいなくなる恐怖に耐えきれず、叫んでしまった。
「遼ちゃん、遼ちゃん、そばにいて」
遼平がすぐに戻ってきて、泣き叫ぶ美菜を抱きしめた。
「どこにも行かないで。遼ちゃんがお風呂に入れて」
「どこにも行きません。ずっとミーナさんのそばにいます」
そう言って遼平は美菜をさらに強く抱きしめた。しばらくそのままでいると、美菜の様子が落ち着いてきた。
「じゃあ、入りましょうか」と、遼平が言うと、美菜は「うん」と答えた。
遼平は自分の衣服を素早く脱いで全裸になると、美菜の服をゆっくり、優しく脱がしていった。美菜は目を閉じていた。最後の下着が脱がされたあと、美菜は消え入りそうな声で、「遼ちゃん、抱きしめて」と言った。
遼平が裸の胸を合わせ、美菜を抱きしめると、美菜は深い安心感に包まれた。遼平がいれば怖くないと思った。そして、遼平と結ばれたいと強く願った。
遼平はバスタオルを美菜の上に乗せ、美菜を抱き上げて、風呂場に運んだ。バスタオルを脱衣所に落として、美菜を抱いたまま湯船につかった。脚を支えていた右手で、美菜の全身を優しく撫でて洗い流した。さらに、美菜の頭を遼平の左肩に乗せ、左手で腰を支えて、美菜の体を水面に浮かせ、石鹸を美菜の腹に擦りつけて泡立たせた。その泡で美菜の全身を洗った。男に蹂躙された胸や太もも、股間を重点的に。
遼平の右手が、敏感な部分を通過するたびに、美菜の体はピクン、ピクンと反応したが、何度も繰り返されるうちに、穏やかで深い快感に変わっていった。
遼平のまるで宝物を扱うような動きに、美菜への深い愛情を感じて、美菜は安心しきってその快感に身を委ねていた。
「ミーナさん、もう大丈夫ですか。全部洗い流せましたか」
「うん、ありがとう。遼ちゃん」
遼平は美菜をバスマットの上に横たえ、自分の体を素早く拭き取ったあと、美菜の体を丁寧に拭き取っていった。美菜をベッドに運んで、遼平が
「下着はどこにあるんですか」と聞くと、美菜は
「ううん、このままでいい。遼ちゃん、抱きしめて」と、言った。
遼平が美菜を抱きしめる。強く強く、頬から胸、下腹部にかけて、どこにも隙間がないほどに密着した。
「ミーナさん、俺、なんか変です。ミーナさんのことが欲しくて欲しくてたまらない」
かすれた声で遼平が言う。泣き出すのを必死で堪えている様子。時折嗚咽が漏れる。
「うんうん、私も遼ちゃんが欲しい。遼ちゃんがしたいようにして」
その言葉が引き金になったのか、遼平は美菜の胸に顔を埋めた。お腹をすかせた赤ん坊のように美菜の胸を激しく吸った。遼平の硬くなったものが美菜の股間に当たって、彷徨っている。程なく目的地に辿り着き、美菜の中に入ってきた。思わず漏れる吐息。間髪を入れず、遼平が腰を激しく動かした。すぐに遼平は上体をのけぞらせて、美菜の中に精を放出した。
遼平は美菜の上でしばらく脱力していた。
「ごめんなさい。出ちゃいました」
「ううん、いいの。遼ちゃん初めてだから」
遼平が上体を起こして離れようとすると
「このままでいて。遼ちゃんが私の中にいるのを感じていたい」
二人繋がったまま、遼平が美菜を抱きしめる。
「ああ、幸せ。遼ちゃんとひとつになれた」
「俺もです。嬉しいです」
「遼ちゃん、キスして。優しくね」
遼平が美菜と唇を合わせた。お互いの舌が絡み合う。美菜の中の遼平が大きくなって、ぴくぴく動いている。
「あ、遼ちゃんもう元気になってる」
「はい。ミーナさん、もう一回してもいいですか」
「ふふ」
「だめですか」
「だって、もうしてるじゃない」
「あ、そうか。でも、ミーナさんの中に出しちゃっても大丈夫ですか」
「あ、赤ちゃん?」
「はい」
「そうねえ、できちゃうかも。そしたら遼ちゃん、パパよ。大丈夫?」
「えー、パパかあ。できるかな。どっちかというとママのほうがしっくりくるような気がするけど」
「ほんとにそうね。子どもが大きくなって、うちにはパパはいない。ママがふたりいるなんて言ったりして。早く遼ちゃんと結婚して、そんな家庭作りたい」
「それじゃ、子作り始めていいですか」
「ふふ、でも、さっきみたいに激しいのじゃなくて、優しく、ゆっくりとね。ひとりで行かないで、私も連れてってね」
「はい、俺も、ミーナさんのおっぱい美味しかったのに、焦っちゃって後悔してました」
「やだ、おっぱいって言わないで」
遼平が美菜の胸に口づける。舌を使って優しく愛撫する。もう片方の胸も、親指の腹で優しく、優しく撫でてくれた。何度も何度も。遼平の想いが伝わってくる。
美菜は遼平を抱きしめたかったが、まだ腕は動かない。だけど指は動いた。脚も少し動かせる。遼平の脚に絡めた。
「あ、ミーナさん、脚が動いた」
「うん、薬が切れてきたみたい」
「よかった」
遼平が腰を動かし始めた。快感が全身に押し寄せる。遼平の動きに合わせて美菜の腰も自然に動いた。遼平のスピードが徐々に増していく。快感が突き抜けていく。気づけば、お互いの名前を連呼していた。心がひとつに繋がったと思った瞬間、絶頂が訪れた。
遼平の動きが突然止まった。同時に美菜は、上体をのけぞらせ、腰を遼平に突き出していた。短い間隔の痙攣が何度も訪れた。遼平も痙攣している。痙攣の間に、大量の精液を美菜の中に放出しているのを感じる。痙攣が止まらない。
遼平は美菜の上で完全に脱力している。重かったが、その重さに幸せが満載されている。
この子がかわいくてしかたがない。愛おしくてしかたがない。思いっきり抱きしめたかったが、まだ腕を持ち上げることができない。横になら動かせる。
「遼ちゃん、動ける?」
「あ、はい」
「私を遼ちゃんの上にできる?」
「あ、ごめんなさい、重かったですよね」
「重かったけど、幸せなの。遼ちゃんにも分けてあげようと思って」
「そうなんですか」
遼平が美菜を抱きしめたまま半回転して下になった。美菜は全体重を遼平にかける。
「あ、すごいです。ミーナさんを独り占めしてるみたい」
「ね、幸せって感じでしょ。遼ちゃん、腹筋して上半身を少しだけ浮かせて」
美菜は両手を遼平の背に回した。
「やっと、遼ちゃんを抱きしめられる。遼ちゃん、大好きよ」
「うわあーーーー」
「ど、どしたの? 遼ちゃん」
「俺、ミーナさんとセックスしちゃった」
「何言ってるの、今頃」
「だって、やってるときは無我夢中だったし、今になって実感したというか、感動しちゃって」
「ほんとだね。遼ちゃん、顔よく見せて」
美菜は遼平の顔を覗き込んだ。
「あーもう、遼ちゃん、なんでこんなにかわいいの」
遼平の顔を見ると泣きたくなる。
「私、大好きな遼ちゃんとセックスしちゃった」
「あー、ミーナさん」
遼平が美菜を強く抱きしめた。美菜は幸せだった。この幸せがずっと続いてくれることを願った。
「ほんと言うとね、私、遼ちゃんとセックスするのが怖かったの」
美菜は遼平にすべてを話すことを決心していた。そのことで遼平の心が美菜から離れていく恐怖はあったが、もうこれ以上、遼平に秘密を持つことに耐えられなくなっていた。自分と遼平の絆を信じようと思った。
美菜はすべてを話した。謎の部屋で遼平に犯された場面から始まって、ふたりで裸のまま長い時間話したことを。そして、遼平の人柄に惹かれ、美菜への愛情に絆され、遼平を好きになったことも。大家さんの件では、遼平が大笑いしてくれた。美菜も笑った。そして、その後の、遼平との心震わせたセックスも、美菜は包み隠さず、ありのままを話した。
遼平は楽しそうに美菜の話を聞いていた。その姿を見ていると、美菜の中で完全に分離していた、47歳の遼平と16歳の遼平が重なり合い、思い出話をしているような気分になっていた。
ただ、美菜が高校教師に強姦された場面では、遼平の顔が曇った。しかし、その後の、遼平の「お尻だから屁は出るか」というジョークに、ケラケラと声を出して笑った。
謎の部屋で、突然遼平が消えてしまった場面、美菜が遼平との再会を待ち焦がれ、寂しさと苦悩に悶えていた40日間の場面では、遼平は心配そうに美菜の顔を見上げていた。そして再会したあと、狂気と言えるほどの歓喜の中で結ばれた話をしたとき、遼平は美菜に抱きついて、「よかったね、よかったね」と涙を流して喜んでくれた。
「だからね、ごめんね、遼ちゃん。遼ちゃんとしたの、初めてじゃなかったの」
美菜の言葉に遼平はしばらく考え込んだ。
「高校の先生は許せない。でも、あとは俺ですよね。未来の俺だから、記憶にないのは悔しい気もするけど、話してもらったから、もうそれは俺の記憶です。俺、今日ミーナさんと二回セックスしたから、五回セックスしたことになるんです」
「二回? まあ、そうかな」
美菜は遼平の意外な反応、美菜が47歳の遼平と結ばれたことを、自分のこととして喜んでくれたことに驚くと同時に、ほっとしていた。
「未来の俺、嬉しかっただろうなあ。30年間も好きで好きでしょうがなかったミーナさんと結ばれたんだから、今の俺の嬉しさの何倍も嬉しかったんじゃないかな」
「遼ちゃん、ありがとう。そう言ってくれて。私、苦しかったの。遼ちゃんと遼平さんと、板挟みになったような気がして」
「俺、話してもらって嬉しかったです。ミーナさんを好きだという気持ちは絶対変わらない自信があったんですが、それを未来の俺が証明してくれたんです。だって、30年ですよ。テレビで見ただけのミーナさんを、話もしていない、手も触れていないで30年間好きでいられたんです。やっぱりミーナさんは俺にとって特別なんです」
そうなんだ。未来の遼平も遼平なんだ。そんな当たり前のことに何を悩んでいたのだろう。二人を愛していることになぜ罪悪感を持っていたのだろう。
遼平の言葉を聞いているうちに、美菜は胸の奥に澱んでいたしこりが溶けていくのを感じていた。
「ありがとう、遼ちゃん。遼ちゃんも私にとって特別よ。かわいいかわいい遼ちゃん。大好きよ」
美菜はありったけの力で遼平を抱きしめた。遼平も強く抱きしめ返した。
「明日は休んでいいとマスターに言われてますから、一日中裸のままいちゃいちゃしましょうか」
「やだー、遼ちゃんエッチ」
「よかった。ミーナさん、いつもの調子が戻ってきた」
「うん、遼ちゃんのお陰。遼ちゃん」
「はい」
「助けてくれて、ありがとう」
「俺の方こそ。俺、あんなことができたのに自分でもびっくりしてます。ミーナさんが俺に勇気をくれたんだって感謝しています」
「遼ちゃん、ありがとう。私を見つけてくれて……」
美菜は遼平の胸の中で安らかな眠りについた。
ガラスの割れる音で、美菜は目覚めた。窓のそばに誰か立っている。
目を凝らすと、痩せ型だった。手にナイフを持っている。
美菜は悲鳴を上げた。
遼平が痩せ型に殴り掛かっていく。痩せ型はそれを難なくかわし、遼平にナイフを突き立てた。
ナイフが遼平の胸に深く突き刺さるのを美菜は見た。
美菜は悲鳴を上げ続けていた。
「ミーナさん、ミーナさん」遼平の声がする。目を開けて窓を見た。割れていない。
起き上がって、遼平に抱きついた。
「怖かった。あいつが窓を破って入ってきた」
「あいつって、ミーナさんを襲った奴?」
「うん、ナイフを持ってて、遼ちゃんが刺された」
そう言って美菜は泣き出した。
「夢を見たんですね。あいつは今頃、警察の留置場の中です。なんにもできません」
「でも怖かったの。遼ちゃんが、死んじゃった」
美菜は大泣きしながら言った。心臓の鼓動が激しい。震えが止まらない。
「俺、生きてますよ。ほら、温かいでしょ。心臓も動いてますよ」
遼平が魔法の手で、美菜の裸の背中を撫でてくれた。心臓の鼓動は徐々に落ち着いてきたが、震えは止まらない。涙も止まらなかった。美菜が遼平を失うのをどれほど怖れているのか思い知らされた気がした。
遼平が美菜を抱きしめたまま横になり、タオルケットを掛けた。美菜の二の腕を擦りながら、遼平が言った。
「俺がずっとこうしてますから、安心して眠ってください」
「ありがとう。でも眠りたくない。また夢を見るのが怖い」
「じゃあ、話でもしますか」
「ううん、ずっと私を抱きしめていて。私、泣きたい。思いっきり泣きたい」
「わかりました。思う存分泣いてください」
美菜は泣いた。怖くて泣いた。夢の中の遼平を守れなくて泣いた。遼平が助けてくれた感謝の涙、大好きな遼平と結ばれた喜びの涙もある。いろいろな感情が美菜の心に渦巻いていて、美菜はいつまでも泣き続けた。
そのうち、何を泣いているのかわからなくなった。だけど美菜は泣き続けた。泣かなければならないと思った。今日の事件から立ち上がるために泣く必要がある。そう思って美菜はいつまでもいつまでも泣き続けた。遼平は美菜を抱きしめ、二の腕を擦り続けていた。
目が覚めたら朝になっていた。目の前に遼平の顔があった。
「おはよう、遼ちゃん。いやだ、私の寝顔、見てたの?」
「はい、30分くらい見てました。きれいだなって」
「いやだ、恥ずかしい。遼ちゃんもかわいいよ」
「ミーナさん、もう大丈夫ですか」
「うん、遼ちゃんのお陰。それに昨日たくさん泣いたから」
美菜は起き上がろうとして、裸なのに気づいた。
「キャー、私たち裸だったのね。服着なきゃ」
美菜はタオルケットを肩にかけ、押入れから下着を取り出して身に着けた。
「今日一日、このままでいましょうよ」
「いやよ、恥ずかしい」
「俺、ミーナさんの裸、いっぱい見たから平気ですよ」
「平気じゃないでしょ。体の一部が正直になってるわよ。はい、これで隠して」
パンティとブラを丸めて、遼平に投げた。
「残念だなあ。今日はずっといちゃいちゃできると思ってたのに」
「そんなにしょげない。夜になったらね。一緒にお風呂入ろ。それからチョメチョメしよ」
「チョメチョメって何ですか。トランプですか」
「ふふ、そうね、トランプ」
「あ、ごめんなさい。俺の負けです。セックスですね」
「違うよ。トランプ」
「そんなあ、ミーナさーん」
「私をその気にさせてくれたらね。遼ちゃんの腕の見せどころよ」
美菜は下着の上に、丈の長い白いTシャツを着た。
「あ、ミーナさん、恰好いい」
「ありがと。遼ちゃんもお揃い」
そう言って、同じTシャツを渡した。遼平も下着をつけ、そのTシャツを着た。
「うわ、すごいミニ。遼ちゃん、恰好いい」
顔の可愛さと脚の恰好よさのアンバランス、これが遼平の最大の魅力だと思った。
その時、美菜はふと思った。この恰好で出掛けてみよう、昨日の事件をトラウマとして残さないために。遼平と結ばれたことで癒されたと思ったが、まだ足りないと悪夢が言っている気がした。何か大胆なことをして悪夢を振り払おうと思った。
「お腹すいてきちゃった。なんか食べるもの買いに行こうか」
「ミーナさん、出掛けても大丈夫? 俺がひとっ走り行ってきましょうか」
「ううん、大丈夫。というより遼ちゃんと離れたくない。一緒に行こ」
美菜は財布を入れたウエストポーチを身につけ、遼平の手をとって出掛けようとした。
「え、このまま行くんですか。スカートは?」
「いいんじゃない、すぐそこだから。遼ちゃん、恥ずかしい?」
「俺? 俺は大丈夫です。パンツ見られても全然平気ですから」
「だめよ、私以外の人にパンツ見せたら。でも姿勢よくしてれば大丈夫よ。遼ちゃんの恰好いい脚をみんなに見せつけよう」
ふたりとも素足にサンダルを履いて外に出た。快晴の空に心も晴れる。美菜は開放感に満たされ思い切り背伸びをした。
「ミーナさん、今ぎりぎりでしたよ。見えちゃうかと思ってどきどきしました」
「やば、忘れてた」
アルカディアとは反対の方向に五分ほど歩くと、小さなスーパーがある。美菜は遼平の腕をとって、並んで歩きだした。
途中、ミニスカートの若い母親が前を歩いていた。背負子に二歳くらいのかわいらしい女の子を背負っている。その子もミニスカートで、もこもこのパンツからムチムチのあんよを空中でぶらぶらさせている。
「郁美さん、おはようございます」
親子に追いついたとき、美菜が挨拶した。
「あら、ミーナさん、おはよう」
「綾ちゃん、いつも高い高いしてもらって、いいなあ」
美菜が女の子の脚をさすって、声を掛けた。女の子も嬉しそうに両手を伸ばした。
「ミーナさん、今日はまた大胆ね」郁美が言った。
美菜は女の子の手を握りながら答えた。
「やっぱり? ちょっとやりすぎですか」
「ううん、すごく恰好いい。お連れさんも」
「この子、友達の遼ちゃん。昨日私のところに泊まったんです」
遼平が会釈する。
「すごくかわいい子ね。もしかしてミーナさんの恋人?」
「え、なんでわかるんですか」
「私もね、昔そういう気分の時があったから、なんとなく。羨ましいな、こんなかわいくて恰好いい恋人がいるなんて」
「郁美さんこそ、綾ちゃんみたいなかわいい子がいて、私いっつもいいなって、指くわえて見てたんですよ」
「ミーナさん、子ども欲しいの?」
「はい、とても」
「じゃ、その子だけじゃだめじゃない。うちの旦那貸そうか。ミーナさんのこと気にしてたみたいだから」
「うわ、なんてこと言うんですか。私、これでも女子高生ですよ」
「ああ、そうだったね。ミーナさんとは気が合うんで、なんだか同世代のような気がして。もちろん冗談よ」
「際どい冗談。ついていけないのでこれで退散します」
「あはは、じゃね、ミーナさん、お幸せに」
「郁美さんも。綾ちゃん、バイバーイ」
美菜は女の子に手を振った。女の子も「バイバイ」と手を振る。
しばらく歩いたところで美菜が言った。
「お隣の山下さん」
「仲いいんですね」
「なんか気が合うのよね。ご飯に呼んでもらったりしてるの。でも、ほんと綾ちゃん、かわいい。私も綾ちゃん欲しい。遼ちゃん作って」
「はい、頑張ります」
「今、エッチなこと考えたでしょ。頭の中そればっかりなの?」
「いえ、九〇%くらいかな」
「ほとんどじゃない。遼ちゃんも男の子なのね」
スーパーの近くで、ベビーカーに乗っている赤ん坊を見つけ、美菜は駆け寄ってあやした。
近くに新しくできた団地があり、子ども連れの若い母親がこの店によく来ている。店の中にも赤ん坊や小さな子どもが何人かいて、美菜はひとりひとりに話しかけ、知り合いの子は抱きしめたりしている。
そのうちの五歳くらいの女の子が、遼平のそばに来て脚に抱きついた。
遼平は、しゃがんで「どうしたの」と、声を掛けた。
「お姉さん、きれい」と、女の子が言った。
遼平はその子を抱きしめて「ありがとう。あなたもとてもかわいいよ」と、言った。
女の子は「ママ―、きれいなお姉さんがチイちゃんを抱っこしてくれた―」と、嬉しそうに母親の元に走って行く。
美菜はその光景を見て、胸が熱くなった。それがこみ上げて、涙となって溢れた。
そうだ、自分はこの景色が見たかったのだ。好きで好きでたまらない小さな子を、愛してやまない遼平が抱きしめている景色が。そして、その子が美菜と遼平の子どもであったら。欲しい、自分の子が、遼平との子が今すぐ欲しいと、痛切に思った。
しかし、今できたとしても、生まれるのは一〇カ月後だ。そんな時間はないと思った。
『時間がない?』なぜ。
確かに今、時間がないと思った。しかし、なぜ……考えつくのはひとつしかなかった。意識不明の美菜が目を覚ます。やはり、自分はそれを怖れている。
「ミーナさん、どうしました」遼平が心配そうに声を掛けた。
「ううん、なんでもない」我に返って、美菜は言った。
パンや適当な食材をかごに入れ、清算を済ませて店を出た。そこで足が止まった。出入り口から数メートル先の道の脇に、黒い車が停まっている。心拍数が急激に上がり、息も苦しい。
遼平も気づいたようで、
「大丈夫、車種が違う。それにあいつがここにいるはずがない」
そう言って、美菜の肩を抱いて、歩き始めた。息を潜めて車の横を通り過ぎた。数メートル過ぎて、大きく息を吐き、二、三度深呼吸して、心と心拍数を鎮めた。そして、負けるものかと思った。目覚める恐怖にも、事件のトラウマにも。そんなものに脅えて暮らしたくない。遼平と一緒の幸せを満喫する。そのためにも子どもが必要だ。
「遼ちゃん、作るよ」力強く決意表明した。
「え、ナポリタン?」ずっこけた。
「はあ?」
「いや、さっきナポリタン買ってたから、嫌がらせかと思ってたんで」
美菜は思わず吹き出して、笑い始めた。
「もう、遼ちゃん、最高!」遼平に抱きついた。
「え、何笑ってるんですか。何作るんですか」
「そうね、ナポリタン作ろう」
「えー」
「ナポリタン恐怖症、直さないと。カレーは運ばない、ミートソース髪の毛事件もあったし、運べるのチャーハンしかないじゃない。チャーハンばっかり注文とってきたら、マスターに嫌われちゃうよ」
「大丈夫です。マスターはパンチラすると喜ぶから」
「あー、キャッチボールのパンチラ、わざとやってるの?」
「違いますよ。不可抗力です」
大丈夫だ。遼平がいれば、恐怖もトラウマも乗り越えられる。美菜は明るい気持ちでアパートのドアを開けた。
「遅くなったから、朝昼兼用ね。作るの面倒くさいから、パン食べよ」
午前10時を過ぎていた。
食べながら、遼平が話を戻した。
「で、何を作るんですか」
「あのね、買い物してるとき、遼ちゃんの脚に抱きついてた子がいたでしょう」
「はい、チイちゃんって言ってました。かわいい子ですね」
「私ね、遼ちゃんがチイちゃんを抱きしめたのを見て、感動したの。ああ、私はこの光景が見たかったんだって」
「かわいい子だったので、思わず抱きしめちゃいました」
「遼ちゃんも小さい子好きなの?」
「はい、大好きです。小さい子だと緊張せずに話せるんで。小学校高学年になるとだめですね。なんか緊張しちゃうんです。こんなこと言っていいのかななんて考えちゃって」
「そうなんだ…それでね、遼ちゃんが抱っこしてるのが、私と遼ちゃんの子どもだったらどんなにいいかなって思ったの。そしたら、もう欲しくて欲しくてたまらなくなったのよ、遼ちゃんと私の赤ちゃんが」
「ああ、赤ちゃん」
「そうよ。それなのに、遼ちゃん、ナポリタンだって。私思いっきり、ずっこけたんだよ」
「うーん、ミーナさんとは心が繋がってると思ってたけど、俺もまだまだですね」
そう言って、遼平はTシャツを脱ぎ始めた。ブラとパンティだけの遼平。恰好いい。思わず見入ってしまった。
「ちょっと、遼ちゃん、なにやってるの」
我に返って、美菜は言った。
「だって、服着てたら赤ちゃん作れないじゃないですか。ミーナさんも脱いでください」
「何言ってるの。こんな昼間っからやることじゃないでしょ。だれか来たらどうするの」
「だれも来ませんよ」
「あかりちゃんが様子見に来るかもしれないでしょう。そんな恰好してるの見られたら、何言われるか」
「ああ、それは大丈夫です。ミーナさんが眠っているときに、マスターに電話しておきましたから。ミーナさん、だいぶ落ち着いてきたから、明日は行けると思いますって」
「そう? でも、涼子さんが心配して来てくれるような気がするの」
「ああ、そうですね」
「だからね、服着て。それにね、今は遼ちゃんと話をしたいの。そんな恰好してたら、どきどきしてまともに話ができないから」
「そうですか。でも今夜できるんですよね。そう思うとどきどきしてきました」
そう言って、遼平はTシャツを着た。
「あ、でも赤ちゃん大丈夫ですか。卒業式」
「もうどうでもいい。大きなお腹で堂々と出席してやる。それくらい欲しくて欲しくてしょうがないの。ほんとは今すぐ欲しいくらい。遼ちゃん、なんとかならない?」
「え?」
「だから、今すぐ欲しいの、赤ちゃん」
「いや、それは無理でしょ」
「遼ちゃんだったらできそうな気がするの。私のためになんでもやってくれたじゃない。お願い、なんでもするから」
美菜は遼平に向って手を合わせた。もちろん冗談のつもりだった。しかし、手を合わせたときにもしかしたらと思った。夢の中だったら、夢の中の遼平であれば叶えてしまうかもしれない。
「なんでも?」
え、うそ。「うん、なんでもする」
「毎日エッチするとかでも?」
「う、うん。いいよ」
「わかりました。そこまで言うのなら、俺のとっておきの技をお見せしましょう」
遼平は座ったまま背筋を伸ばし、両手を合わせ、擦りながら、真剣な表情で呪文らしきものを唱えている。何、マジなの?
「ミーナさん」
「はい」
「さすがに100%の成功は無理そうです。せいぜい10%くらいです。これ、大変な技なんで、失敗してもお礼はいただけますか」
「お礼?」
「だから、毎日エッチ」
あ、それが目的なのね。美菜の冗談に対して冗談で答えようとしている。ほんの少し残念な気もするが、ほっとしていた。もし本当に赤ちゃんを連れてきたら、夢であることが確定してしまう。しかし、この冗談、どう落ちをつけるつもりなのか。それに期待して付き合うことにした。
「承知いたしました。毎日エッチいたします」
「了解しました。では」
呪文の音量が増した。顔を赤らめ真剣に唱えている。シキソクゼクウ、何、お経?
「遼平様、今、何をなさっておいでですか」
呪文が途絶えたときに、美菜は言った。
「お願いをしています。赤ちゃんを授けて頂きますように」
「お願い? 仏さまにですか」
「いえ、赤ちゃんのことですから、コウノトリさんです」
「コウノトリさん?」
「あ、コウノトリさんが怒ってます」
「え、なんで」
「無茶なお願いをしたからです。あ、コウノトリさん、滅茶苦茶怒ってます。もうお前たちに赤ちゃんを授けないと言っています」
遼平の迫真の演技に、なぜか焦ってしまった。
「えー、それは困る。遼ちゃん、なんとかして」
「だめです。ミーナさんのお願いだとばれています。ミーナさんが何か言わないと」
「えー、何を、えっと、えっと」そこで気づいた。これが落ちだ。
「コ、コウノトリさん、ご、ごめんなさい」
笑いが弾けた。遼平の満面の笑みに心がとろける。この笑顔を心に刻んでおこう。そうすれば、たとえ離れ離れになっても、きっとまた会えると思った
「遼ちゃん、演技うますぎ。ちょっと本気かと思っちゃった」
美菜が笑いながら言うと、
「うーん、いまいちでしたね。俺、ミーナさんが涙流しながら大笑いしてる顔が好きなんですけど、そこまで受けませんでしたね」
遼平が立ち上がった。
「気合入りすぎて、喉が渇きました。コーヒー淹れますね。ミーナさんもコーヒーでいいですか」
「うん、ありがとう」
遼平が台所に立って、コーヒーメーカーの準備をしているときに、玄関のチャイムが鳴った。
「はーい。涼子さんかな」
美菜が玄関に向かう。
「山下です。宅配便、預かってます」
外からの郁美の声に「はーい」と返事しながら、美菜は微かな違和感を覚えた。いつもは「郁美です」と言っていたような気がする。それに、いつも明るい郁美の声が沈んでいる気がした。ご主人と喧嘩でもしたのかと思い、深く考えずに、ドアチェーンをはずし、鍵を開けた。
ドアを開けようとしたとき、外から勢いよく開けられ、郁美が美菜にぶつかってきた。受け止めきれず、後ろに倒れこんだ。
「郁美さん?」目を疑った。郁美の腰のあたりが真っ赤に染まっている。白いブラウスがみるみる赤く染まっていく。
「よう、また会ったな。兄貴の敵討ちに来てやったぞ」
角刈りがいた。手にナイフを持っている。ナイフから血が滴り落ちている。
美菜は急いで、郁美の体から抜け出し、振り返って駆けだしながら叫んだ。
「遼ちゃん、逃げて!」
同時に、背中に激痛が走り、横の壁に激突して、意識が飛びかけた。
「ありゃ、急所はずしたか。まあいい、そこで寝てろ。あとで楽にしてやる。もう一匹はどこだ」
角刈りは悠然と部屋に向かっている。起き上がろうとすると、背中の激痛が脳まで走り蹲った。遼平は部屋ではなく、台所にいる。隠れるところなんてない。見つかるのは時間の問題だ。心が締め付けられる。だけど、遼平は、遼平だけは死んでも守る。
歯をくいしばって立ち上がり、後を追おうとしたとき、台所から姿勢を低くした遼平が、角刈りの左脇腹に突っ込んでいった。
片膝をついた角刈り。しかし、唸り声とともに反撃のラリアットが、遼平の顔面に命中し、遼平は壁に激突して、持っていた出刃包丁が美菜の目の前に落ちた。
咄嗟に、その包丁を拾って、角刈りに突進した。痛みは感じなかったが、足がもつれ、倒れそうになる。角刈りが、ナイフを振り上げ、遼平に突き立てようとしている。
間に合わない。そのまま、床を蹴って、角刈りに向ってダイブした。
頭に衝撃が走り、一瞬意識が飛んだ。
気がつくと、角刈りが仰向けに倒れていた。角刈りの脇腹に刺さった包丁から夥しい血が流れ、美菜のTシャツを真っ赤に染め上げていた。
そうだ、遼ちゃん。立ち上がろうとしたが、腰に力がはいらない。ほとんど匍匐前進のように遼平に近づき愕然とした。遼平の胸にナイフが刺さっている。
力を振り絞って、遼平のそばに寄り、渾身の力で上体を起こし遼平を見た。
ナイフは左胸に刺さっている。絶望に沈み、一瞬にしてあたりが暗くなった。
しかし、よく見ると、心臓の位置より上に少しずれているような気もする。
「遼ちゃん、遼ちゃん、しっかりして」呼びかけたが反応がない。
ナイフを抜こうとして、思った。抜けば出血がひどくなると聞いた気がする。どうしたらいいかわからず、美菜は錯乱した。この瞬間にも遼平の命の火が消えるかもしれないと、心が地団駄を踏んで泣きそうになった。だけど泣いている場合ではない。
その時、「ミーナさん」と、微かな声がした。
「遼ちゃん、遼ちゃん、私、ここにいるよ」
美菜は遼平の耳のそばで叫んだ。遼平の顔がぼやけてよく見えない。
「ミーナさん、信じて…ください」
「何を、何を信じるの」
「また…会える。来世でも……」
「わかった。信じる。信じてる。でも、まだよ。まだ行っちゃだめだよ」
それきり、遼平は返事をしなかった。
「だめだって。ひとりで行かないで、私も連れてってよ」
堪えていた涙が溢れだす。もう何も見えない。意識が薄れてきた。
美菜は遼平に添い寝して、遼平の頭を抱いて、頬ずりした。
「きっと会える。私のかわいい遼ちゃん」