事件
次の日、アルカディアで嫌な事件が起きた。
その日の午後二時過ぎ、この時間帯には珍しく客が三組あった。B席には二人組の若い女性客、C席には、やはり二人組の30代と思われる男性客、D席には、70過ぎの年配の女性客がいた。
そこへ、明らかに人相の悪い二人連れの男が入ってきた。ひとりは体格のよい角刈りの男、もうひとりは瘦せ型で、目つきの鋭い男だった。
当然、空いているA席につき、遼平が注文を受けに行った。B席にいた女性客はその男たちを見て、席を立った。トラブルを避けようとする賢い行動だ。美菜も普通ならそうするが、従業員である以上逃げられない。美菜がレジに向かうときに痩せ型の男と目が合った。すぐ目を逸らし、レジを済ませ、帰る客に「ありがとうございました」と一礼した。視線を感じ、振り向くと痩せ型が美菜を見ていた。いや、美菜の脚を凝視していた。背筋に悪寒が走った。それほど深いお辞儀はしていない。下着は見えていないはずだが、スカートの奥まで見られたのは確実だ。すぐに戻ってカウンターの陰に隠れた
入れ替わりに、遼平がミートソース二人前をA席に運んだ。食事をしながら、角刈りが周りを憚らない大きな声で、痩せ型に話しかける。痩せ型もそれに答えているようだが、低い声で聞き取れない。
しばらくして、角刈りがこちらを呼ぶ声がして、遼平が応対に走った。嫌な予感がした。遼平と角刈りが何かやり取りしている。突然、角刈りが「何だと」と大声を出した。
美菜はそばにいたあかりに「あかりちゃん、マスター呼んできて」と声をかけ、遼平のそばに駆け寄った。痩せ型の視界からは遼平の体で隠れる位置に立った。
「おまえ、俺の髪だと言いたいのか」と、角刈りが遼平に怒鳴る。
すぐにマスターが飛んできて
「お客様、どうされましたか」と言うと、
「いやね、料理の中に髪の毛が入っていると言ったら、このお嬢ちゃんが俺の髪じゃないかなんて言うものだからね」
そう言われて、美菜は皿の中を見た。ほとんど食べ終わっているミートソースの中に、よく見ないとわからないほどの短い髪の毛が一本入っていた。普通に考えれば、角刈りの髪の毛と思われるが、もちろん確証はない。遼平は思ったことを口にしてしまった訳で、非は遼平にある。しかも相手が悪い。
「それは大変失礼しました。お詫びとしてお代は結構でございます」
「それは当然だがね。こちらとしては疑われたことが、どうにも気分が悪い」と、角刈りが言うと、
「承知しました。少々お待ちください」そう言って、マスターがその場を離れた。
「申し訳ございませんでした」遼平が最敬礼で詫びを入れる。
「最初からそう言えばいいものを。もうそれじゃ済まないね。もう一段上の詫びを入れてもらわないと」
「どうすればいいんですか」
「そうだな。土下座だな。土下座すれば許してやるよ」
「土下座……」
土下座はだめだ。美菜は直観的に思った。土下座するほどの悪いことはしていない。そんなことをすれば、せっかく自信を持ち始めた遼平の心を壊してしまう。
遼平が膝を折ろうとしたときに、「遼ちゃん、待って」と美菜が声を掛けた。
美菜は怖かった。こんな男たちと関わってはいけないと本能が囁いている。角刈りも怖かったが、それ以上に痩せ型が怖かった。何をするかわからない不気味さがあった。
しかし、ここで遼平を見捨てたら、生涯後悔するような気がした。美菜は最大限の勇気を振り絞って、角刈りに立ち向かった。
「あの、この子がお客様を疑ったのは、たいへん申し訳なかったと思います」
声が震える。
「でも、それは土下座するほどのことでしょうか」
「何だと」角刈りが吠えた。怖い。
「土下座は、取り返しがつかないことをしてしまったときの最後のお詫びだと思います。この子がしたことは、それほどのこととは思えません。誠心誠意お詫びすれば済むことだと思います」
「そんなことはおまえが決めることではないだろう。被害を受けた俺が決めることだ。俺は、土下座してもらわんと治まらないと言ってるんだ」
「それではお聞きします」
こんな男に論理が通じるとは思えなかったが、自分にはこれしかできない。膝が笑い出し、今にも崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。
「あなたがだれかにぶつかったとします。あなたがお詫びをしても、その人は許してくれません。土下座して詫びろと言われたら、あなたは土下座しますか」
「ふん、する訳がない。そんな生意気な奴は一発殴っておしまいだろうが」
やはり論理は通用しない。
「それに、俺は生意気な女が一番嫌いなんだ。おまえも一発喰らってみるか」
角刈りが拳を掲げた。
脅しだとわかっていたが、体が勝手に反応する。両手を前に広げて顔を守り、「ひっ」と、情けない声が出た。
そのとき、視界を何かが遮った。
「殴るなら、俺を殴れ」
遼平が、両手両足を広げ、美菜の前に立ちはだかっていた。踏ん張った足ががくがくと上下に激しく揺れている。広げた両手も大きく震えている。これでは、殴るまでもなく、人差し指で額をぽんと押すだけでひっくり返ってしまう。
そんな恐怖に駆られながらも、美菜を守ろうとする遼平の気持ちが嬉しかったが、それ以上に、遼平が殴られたらと思うと気が気ではなかった。なんとかしなければと思うが、竦んでしまった足は一歩も動いてくれなかった。
祈るような気持ちで角刈りを見ると、なんだか様子がおかしい。拳は上げたままだが顔から怒気が消えている。直前までのピリピリしていた空気が緩んでいる気がした。
助かったと思い、大きく息を継いでいると、D席の老婦人が声を上げた。
「それくらいにしておいたらどうですか。ミーナが言ったように土下座するほどのことではないでしょう」
お婆さん、やめて。空気を読んで、と美菜は心の中で叫んだ。
「やかましい、関係ない婆が口を出すな」
案の定、角刈りの怒気が再燃した。
「それが関係あるんですよ。ここは私の身内の店で、ここで働いているミーナも遼ちゃんも、私のかわいい、かわいい身内のようなものでしてね。あんたみたいな大男に殴られるのを、黙って見ているわけにはいかないんです」
「ふん、こんなガタガタ震えている娘っ子を殴ったりしねえよ。おい、おまえ!」
遼平に向って吠えた。
「おまえなあ、そんなかわいい顔して、俺とか言うな。気が抜けて笑いそうになったじゃねえか。女は女らしくしろ。いいか、わかったか」
角刈りの怒気に押されて、遼平が激しく頷く。
「それから、おまえもだ」美菜を指さした。
「おまえは本気で殴るところだった。女のくせに生意気な口を利くな。それでも、まあ、おまえたちが、お互いを庇いあってるってことは俺にもわかった。ダチを大切にするのは大事なことだ。その心意気に免じて、今日は許してやる。だがな、婆さん」
「はいな」
「あんたの身内というのなら、今後こんなことがないように、きっちり教育しておくんだな」
「はいよ。しっかり言い聞かせておきましょ」
事態はなんとか収束に向かっていたが、美菜には別の問題が発生していた。
老婦人と角刈りがやり取りしていたとき、美菜は絡みつくような視線を感じた。視線の先を辿ると、痩せ型がいた。遼平が美菜を庇うために動いたため、痩せ型の視界の中に美菜の全身が晒されていた。
痩せ型の視線が、美菜の体中を嘗め回すように動いていた。美菜は体を透視されているような気分になり、総毛立った。蹲って体を隠したかったが、蛇に睨まれた蛙のように身動きできない。助けを呼ぼうとしたが声も出せなかった
「すみません、遅くなった」マスターの声がした。
「遅いよ、慎ちゃん。何やってたの」老婦人の声。
「すみません、伯母さん。茶封筒が見つからなかったもので」
そう言って、マスターは角刈りと痩せ型に話し始めた。痩せ型の視線が逸れたことで、美菜はその呪縛から解き放たれ、その場に崩れ落ちた。
「ミーナ先輩」「ミーナさん」遼平とあかりが駆け寄る。美菜は右手を軽く上げ、大丈夫と意思表示する。声は出ない。二人の助けでそばの椅子に座った。
マスターが茶封筒を男たちに手渡して、男たちが出て行った。
美菜にとって災厄のような男たちが出ていくのを見届けて、美菜は大きく息を吐きだした。気づけば、まともに息をするのも忘れていた。あかりが持ってきてくれた水を一気に飲み干す。「ありがとう、あかりちゃん」やっと声が出た。
C席にいた男性客が席を立ち、あかりがレジに向かった。マスターと二言三言交わして、その客も出て行った。
客がいなくなって、老婦人が美菜たちに声を掛けた。
「本当に大変な目にあったね。でも、ミーナも遼ちゃんもよくお互いを守ったわね。私、感心してたのよ」
美菜は大きく首を振った。全然守っていない。あの時、角刈りが遼平を殴っていたら、遼平は命を落としていたかもしれない。そうなっていたら悔やんでも悔やみきれない。足が竦んで何もできなかった自分が情けない。涙が溢れた。
「そうよね。守り切ったとは言えないか。あの大男が本気で殴り掛かったら、あなたたちはひとたまりもない。大けがをしていたか、下手をすれば命を失くしていたか。でも、あなたたちはそんな恐怖に立ち向かった。それは誇れることよ。だれにでもできることじゃない。責任があるとすれば、慎ちゃん、あなたよ。わかってる?」
「はい、よくわかってます。ミーナ、遼平、怖い思いをさせてすまなかった。全責任は俺にある」
なんでマスターに責任が? 美菜たちはキョトンとして、マスターを見た。
「こういう商売をしていると、ああいう客もごくまれに来ることがある。目つきが悪いってだけで断るわけにもいかないからな。おとなしく食事をして帰ってくれれば問題ないんでね。だけど、今日みたいにトラブルになりそうなときは俺を呼んで欲しいんだ。ああいう客への対処の仕方があるんで、そんなことまでおまえたちに押し付けるつもりはない」
「そりゃそうよね。安い時給でこき使われた上に、そんなことまでやらされては割に合わないでしょ」
「こき使ってはいないと思いますが、まあ、伯母さんの言う通りです。でね、あかりには最初にそういうことを言っておいたんだけど、ミーナたちは夏休みだけという話だったんで、ついサボってしまったというわけで、完全に俺の責任だ。本当に申し訳なかった」
そういうことかと、美菜は納得した。そしてこのご婦人はマスターの伯母さん。
「そうそう、自己紹介がまだだったね。私は慎ちゃんの伯母で、沢井涼子といいます。若いころは涼ちゃんと呼ばれていたのよ。遼ちゃんと同じ。だから、遼ちゃんが他人のような気がしないの。遼ちゃん、よろしくね。ミーナもよろしくね」
美菜と遼平も自己紹介をした。
「あ、それから、会社にいたときからの習慣で、男はちゃんづけで、女は呼び捨てすることにしてるのよ。だから、ミーナって呼び捨てにするけど気にしないでね」
「あ、はい」
「涼子さんは、沢井コンツェルンの会長だったのよ」
あかりが教えてくれた。沢井コンツェルン、聞いたことがあるような…
「え、沢井建設の!」
ゼネコン大手の沢井建設
「そう、その親会社。それから,医療機器メーカーの沢井製作所の親会社でもあるそうよ」と、あかりが続けた。
「そんな大きな会社の会長さん」と、美菜が言うと
「もう引退したけどね。同族会社だから、創業者の身内でそこそこ気が利いてると、なんとなく出世しちゃうの。で、今の社長が、慎ちゃんの父親で、私の弟の沢井健太郎ってわけ」涼子が言った。
「え、ということは、マスターは大会社の社長の御曹司。あかりちゃん、知ってたの?」
「マスター、そういうこと全然話してくれないんですよ。三日前に涼子さんが夜に来て、教えてくれたんです」
「そうなの。久しぶりに慎ちゃんとあかりの顔を見に来たんだけど、その時、ミーナと遼ちゃんの話を聞いてね、会ってみたくなって、今日来たのよ。そしたらあんなことがあって、なんだか私が疫病神を連れてきたみたいで、申し訳ない気がする」
「そんな、偶然ですから」美菜が言うと
「そうね。でも、こんなことを言うと不謹慎かもしれないけど、いいもの見せてもらった思いがする。二人が庇いあってる姿、ほんとに素敵だった。胸が熱くなったもの。遼ちゃん、顔をよく見せて」
遼平が涼子のそばに寄った。
「あかりには聞いていたけど、ほんとにかわいいね。これで男の子だというのだから、奇跡というしかない。その奇跡の子がよくあんな大男に立ち向かったね。恰好よかったよ」
「いえ、俺はただミーナさんを守りたかっただけなんです。ミーナさんが殴られそうになって、気づいたら飛び出してました」
「そう、そんなに。そんなにミーナのことが好きなんだね」
「はい、大好きです」
美菜は涼子の目を見ていた。穏やかで温かい目。遼平を宝物でも見るかのような目で見ている。その目が美菜に向いた。
「ミーナもこっちに来て、顔をよく見せて」
美菜は涼子の前の席に移った。遼平も美菜の隣の席に座った。
「そうだ、慎ちゃん。お店、もう閉められない? ミーナに話したいことがある」
「えー、しょうがないなあ。今日だけですよ。このところミーナ遼平効果で、夕方の客も増えてるんですから」
「ごめん、ごめん。今度穴埋めするから」
マスターが席を立とうとするのを、あかりが制して、臨時休業の看板を出しに行った。
涼子が美菜の顔をまじまじと見入る。
「ほんとにきれいね。ただ美しいだけじゃない。愛嬌みたいなものもあって、人を惹きつける魅力があるの。あなた、芸能界からお誘いを受けたことはないの?」
「はい、あります。お断りしましたけど」
「そうなのね。あなたを見てると目を離せなくなってしまうの。これは私がレズビアンだからかしら」
聞き間違いかと思った。一瞬の静けさの後、
「伯母さん、今何と」マスターが言った。
「あら、慎ちゃん、いたの?」
「いたのじゃなくて、レズビアンと言いました?」
「ちゃんと聞こえてるじゃないの。そう言ったの、レズビアン」
「だって、そんな話、初めて聞きました」
「そりゃそうよ。初めて言ったんですもの。だから、この年まで結婚もせずにひとりでいるんですよ」
「あの、涼子さん」美菜はたまらず声をかけた。
「何、ミーナ」
「初めて話したというのは、私がいたからですか」
「そうよ。あなたも……これ、言っていいの?」小声で涼子が言った。
「はい、大丈夫です。みんな知ってます。私もレズです」
「あかりから、男が嫌いだと聞いていたんで、もしかしたらと思っていたの。実際に会ってみて確信したわ。嬉しいよ、ミーナ。同類に初めて会えた」
「私も初めてです。嬉しいです、涼子さん」
「大変だったね。苦しかったろ」
「は、はい。でも、遼ちゃんに出会えて、私は救われました」
美菜は嬉しかった。美菜の苦しみを心からわかってくれる人に初めて出会えた。
「涼子さんこそ、大変だったんじゃないですか」
「そうね、私にも遼ちゃんみたいな人がいたら、どんなによかったかと思うね」
そうなんだ。遼平と出会えたから、心の平穏を得られている。もし、遼平と出会えなかったら……、そう思うと、涼子にかける言葉がなかった。
「伯母さんは、会社と結婚したんだと思っていました」マスターが言った。
「そう言ってくれる人はたくさんいたけどね、逆なのよ、慎ちゃん。結婚できないから、仕事に打ち込むしかなかったの」
「だけど、伯母さんは若い頃、男性社員に人気があったと聞いています。だれかプロポーズしてきた人はいなかったのですか」
「そうね、何人かいたわね。みんな素晴らしい人たちでした。特に最初に私をデートに誘ってくれた人は最高でした。いい男だったし、仕事もできるし、人柄も申し分なかったのよ。この人なら私を変えてくれるかもしれないと思ったの」
涼子はそこで一息ついた。目が悲しみを帯びている。
「映画を見に行ったのね。上映中に彼が私の手を握ってくれたのよ。私は確かに嬉しいと感じていたの。でも体が拒否していた。鳥肌が立って、寒気がした。そのうち震えが来て我慢しきれずに、手を抜き取ったの」
美菜にはその気持ちがよく分かった。
「ミーナは男の人を好きになったことはないの?」
「一度だけあります。でも、ひどい裏切りに遭ったので、前より男の人が嫌いになりました」
「女の人は?」
「はい、何人か好きになった子がいましたが、その子に彼氏ができたりして、すべて失恋しました」
「そうなのよね。私も同じよ。好きで好きでたまらなくなって、でも、告白もできない。自分が普通じゃないと自覚しているから、自分の恋に自信が持てない。そうやって逡巡しているうちに、魅力的な子だから、男に攫われてしまう。その繰り返し」
「はい、ほんとに、ほんとにそうですね」
美菜は祐美に失恋した記憶が蘇り、涙が溢れそうになった。しかし、同時に気づいていた。この記憶が自分を苦しめていないことに。ただ、懐かしい思い出に変わっていた。
「だからね、ミーナが遼ちゃんに出会えたことが奇跡のように思えるの。うーん、少し違うかな。運命も違う。よくぞ出会ってくれたって感じかな。そんな気がして、自分のことのように嬉しいの」
「涼子さん……」
美菜は涼子にすべてを話したくなった。だけど、ここには遼平もマスターもいる。
「あのー」やっぱり話そう。裸やセックスは省いて、それで伝わるか不安は残るが。
「何、ミーナ」
「私、皆さんに話してないことがあります。遼ちゃんにも」
美菜は遼平に向って
「遼ちゃん、ごめんね。いつか話そうと思っていたんだけど、遼ちゃんに嫌われるかもしれないと思って話せなかったの」
「俺、ミーナさんを嫌いになるなんて絶対にありません」
「うん、今は信じてる。でも、びっくりすると思う。私ね、遼ちゃんに会うためにアルカディアに来たの」
「え、でもそれは……」
「そうよね。あり得ないことよね。私、夢を見たの。夢の中で遼ちゃんに会ったの。31年後の遼ちゃん、47歳の遼平さん。遼平さんと夢の中でたくさん話をしたの。そして、私、遼平さんが好きになったの。だから、遼ちゃんに会いに来たの。遼平さんに、遼ちゃんがアルカディアでバイトするのを聞いて」
「え、俺、何がなんだか……」
美菜はVRの話をした。意識不明者の治療のためのツインVRで31年後の遼平と夢の中で会話したことを。裸だったことやセックスの話は伏せておいた。
「何だい、そのVRってのは」涼子が言った。
「バーチャルリアリティー、日本語で言うと仮想現実ってやつですね」
マスターが答えた。
「脳に信号を送って、何もないところで、例えばコップを実際に掴んでいるように思わせる技術です。確かまだ、その研究は始まったばかりのはずです。30年後は、意識不明者の治療に応用されているということだね」
「はい、遼平さんは一度目の治療で意識を回復したそうなんですが、私の方が回復していなかったそうなので、私を救いに来てくれたんですが、その後どうなったかはわかりません」
「ふーん、なんだかすごい話になってきたね。31年後の遼ちゃんが夢に出てきたなんて。そのVRというのはタイムトラベルみたいなことができるのかい。物理学者はどう思う」
涼子がマスターに言った。
「あ、俺ですか。いくらなんでもVRにそんな機能があるとは考えにくいです。ただ、可能性が全くないわけではないと思います。なにかのきっかけで、VRがマルチバースを繋いだ可能性はあるかもしれない」
「また横文字かい」
「マルチバースというのは、物理学の用語です。一般的にはパラレルワールドというのがわかりやすいかもしれません。パラレルワールドが繋がれば、タイムトラベルも可能だという学者は多いです。私もそう思っています」
「つまり、そのVRが、今のミーナの夢と31年後の遼ちゃんの夢を繋いだってことなんだね。ミーナ、夢の中の遼ちゃんが確かに未来の遼ちゃんだってわかる証拠みたいなものは何かあるのかい」
「はい、ひとつは、まだバイトを始めていない遼ちゃんのバイト先を知っていたことですね。もうひとつは…」
ちょっと説明が難しい。頭の中を整理した。
「先ほどの芸能界の話なんですけど、実は一度お受けしてて、今頃はアイドル歌手としてデビューしていたはずなんです。でも、遼ちゃんに会うためにお断りしたんです。遼平さんはテレビに出ている私を見て、好きになってくれたんです。そして、30年間ずっと、私のことを想い続けてくれたんです。結婚もせずに。私、それに感動して、遼平さんのことが好きになったんです。つまり遼平さんは私が芸能界デビューしたことを、私の未来を知っていたのです」
遼平に向って、美菜は続けた。
「遼平さんが、遼ちゃんが、私を見つけてくれたのよ」
「俺、わかります。俺もアルカディアでミーナさんに会って、一目で好きになりましたから。未来の俺だって、ミーナさんを見たらすぐに好きになるはずです」
「そうだったんだね。ミーナが芸能界に出て、遼ちゃんが見つけてくれたんだね。ほんとに、よくぞ見つけてくれたね」涼子が言った。
「はい、でも私は一年ほどで、突然テレビに出なくなったそうなんです」
「どうして」
「私には持病があって、おそらく芸能界の激務で悪化したんじゃないかと。もしかしたらそれが原因で、意識不明に陥ったのかもしれません。そのあたりは推測で、遼平さんもわからないって言ってました」
「うーん、遼平さんが未来の遼ちゃんだというのは、間違いないようだね。それで、遼平さんはどうして意識不明になったのかな」
「遼平さんは人生を儚んでいる節がありました。仕事がうまくいかなくて、いつも死ぬことを考えているなんて言ってました。遼平さんは覚えていないそうですが、病院の先生に自殺を図ったと言われたそうです」
「俺、それもよくわかります。ミーナさんに出会う前は、ずっと暗闇の中にいたような気がします。将来のことも不安で、不安で。ミーナさんに出会わなければ、きっとそうなっていました」
美菜はテーブルの上の遼平の手に、自分の手を重ねて言った。
「夢の中で、遼平さんに頼まれたの。遼ちゃんを救ってくれって。私も遼ちゃんに会いたくて仕方がなかった。アルカディアに来るとき、どきどきとわくわくが止まらなかった。ドアを開けたら、そこにいたの、私の王子様が。駆け寄って抱きしめたい思いを必死で抑えていたのよ」
「ミーナさん」
遼平が美菜の手を握り返した。
「遼ちゃんは私の思っている通りの人だった。ううん、ミニスカート穿いて、女の子っぽい髪型にすると、思った以上に恰好良くて、かわいくなった。私は、遼ちゃんのことが好きで好きでたまらなくなった」
遼平の手に力が入った。
「でもね、遼ちゃんを好きになればなるほど不安が大きくなったの」
美菜は遼平の目を見つめた。一点の穢れもない目を。美菜を心から信じて、心から頼りにしている目を。この子の存在が、自分が生きている意味であり、証である気がしていた。
「意識不明の遼平さんと私が、VRに繋がれて出会った。だったら私は、意識不明で眠っている48歳の美菜の夢の中の存在ということになります。彼女には目覚めてもらいたい。私の未来でもあるから。でも、彼女が目覚めたとき、私はどうなるのでしょう。48歳の美菜として生きるのでしょうか。そこには遼平さんがいるから、少し嬉しい気もします。でも、遼ちゃんはいない。あかりちゃんも。私は、それが怖くて、怖くてしかたがないんです。もう、遼ちゃんがいない人生なんて、考えられない」
涙に暮れた。そばにいる遼平が涙で霞んだ。
「ミーナさん」遼平が美菜の左手を両手で掴んだ。
「胡蝶の夢だね」涼子が言った。
「はい、遼平さんもそう言っていました」
「涼子さん、胡蝶の夢ってどういうことですか」あかりが言った。
「胡蝶の夢というのは、中国の戦国時代、荘子の説話だね。荘子がある日、蝶になった夢を見た。夢から覚めたとき、荘子は自分が蝶になった夢を見たのか、本当は蝶である自分が、今人間になっている夢を見ているのか、自分にはわからないという話」
「それってどんな教訓なんですか」あかりが尋ねる。
「教訓ね。荘子は老荘思想だからね。教訓なんてものはないんだよ。あえて言えば、人生なんてそんなもんだ。人間だろうが蝶だろうが、満足して生きていけってことだろうかね。蝶の気持ちはわからないけど、人間だっていろいろな境遇で生まれてくる。人生が夢みたいなものであれば、それが覚めるまで、精一杯生きて、幸せを掴めばいいというように、私は受け取っているけどね」
「なるほどですね」
「私にはミーナの心配が、今一つわからない。私も人生は夢みたいなものとは思っている。それでも、夢みたいだというのと、夢じゃないかと疑うのは、大きな差があるような気がするからね。だけど、ミーナの苦しみはだれよりもわかっているつもりだよ。私が歩いてきた道だからね」
「涼子さん……」
「だからこそミーナには幸せになってもらいたい。せっかく遼ちゃんと出会う奇跡に恵まれたんだから、夢じゃないかと怯えて暮らすのはもったいない。遼ちゃんと一緒の幸せを満喫すればいいじゃないか。遼ちゃんと結婚して、遼ちゃんみたいなかわいい子を、三人も四人も作って、その子らに囲まれて幸せな人生を送ればいい。夢というなら、そんな夢を見ながら過ごしていく方が何万倍もいいと思わないか」
「涼子さん、ほんとに、ほんとにそうですね」
涙が溢れた。次から次に。それは感謝の涙だった。涼子は美菜の苦しみと願いを理解してくれている。今日会ったばかりの涼子に心からの信頼を覚えた。
「だからね、涙を拭いて顔をあげてごらん。遼ちゃんもこっちを向いて」
美菜は両手で涙を拭いて、涼子を見た。
「ああ、本当にすばらしい、ふたりとも。ミーナ、遼ちゃん、幸せになっておくれ。お願いだから、お願い……」
涼子は突然泣き崩れて、最後は言葉にならなかった。
美菜たちは、突然の涼子の涙に唖然とした。
「涼子さん、どうしたんですか」
「ごめんね、ごめんなさい」
涼子は深呼吸して、気持ちを落ち着かせている。
「これを話すべきかずっと迷っていたんだけど、話すことにするよ。不吉な話になるけど、文字通り老婆心からだと思って欲しい」
美菜は居ずまいを正した。
「遼ちゃんはかわいい、かわいすぎる。ミーナは美しい、美しすぎる。すばらしいことだけど、すぎるというのが不吉な香りがする。私は、ミーナと同じくらい美しい女性をふたり知っている。ふたりとも不幸になった。ひとりは男に付きまとわれ、その男に刺されて死んだ。もうひとりは、やくざに浚われて薬漬けにされて、戻ってきた。戻ってきたけれど、自ら命を絶った」
「ふたりともすばらしい女性だった。外見だけでなく、性格もよくて仕事もできた。幸せになれたはずの人生を、男が台無しにしてしまった。ふたりとも私が愛した女性だった。私は彼女たちを守ってやれなかった。悔やんでも悔やみきれない」
「私はここに来て、ふたりを見たとき、そのことが頭に浮かんだ。特に、ミーナのことが心配でたまらない」
美菜はその話を聞いて、痩せ型のことを思い出した。
「お願いだから、ミーナ、気をつけて。夢から覚める心配より、男には気をつけて欲しい。今日の二人連れの男、特に細身の目つきの悪い男、あいつはミーナのことをずっと見ていた。ミーナを狙っているかもしれない。遼ちゃん」
「はい」
「ミーナといつも一緒にいてくれないか。ミーナを守って欲しい」
「はい、喜んで。命がけでミーナさんを守ります」
「うんうん、でも遼ちゃんが死んではだめだよ。遼ちゃんがいなくなったら、ミーナも生きていない気がする。私はロミオとジュリエットは大っ嫌いだからね」
「あ、そうか。困ったな」
「あはは、ほんとに宝物みたいな子だね」
涼子が立ち上がって言った。
「それじゃ、そろそろお暇しようかね。お迎えが来てるはずだからね」
美菜たちも立ち上がった。
「遼ちゃん、ハグしよう」
遼平が涼子に近寄って、抱き合った。
「遼ちゃん、ミーナをよろしくね。ふたりで幸せになるんだよ」
「はい、涼子さんもお元気で」
「それから、ミーナも」
涼子が美菜に向って両手を広げた。美菜は駆け寄って、涼子を抱きしめた。
「ああ、ミーナ」
「涼子さん、いろいろありがとうございます。涼子さんに会えてよかった」
「私も嬉しかったよ。ミーナとはこれからもいろいろ話したい。ひとつだけ言わせて。ミーナと遼ちゃんが出会えたのは奇跡だ。だけど、これからは運命だ。胡蝶の夢だろうがパラレルワールドだろうが、それから来世でもね。必ず出会える。そう心に言い聞かせておくんだ。そうすれば必ず出会える。私はそう信じてる」
「はい、そうですね。私も信じます。本当にありがとうございます」
「それじゃね。また近いうちに寄らせてもらうよ」
そう言って、涼子は出て行った。美菜はその後ろ姿を見ながら、この出会いも奇跡であり、運命なんだと思った。涼子が災厄を連れてきたんじゃない。災厄から美菜と遼平を守るために現れたんだ。
マスターから、今日は帰っていいと言われて、美菜と遼平は一緒に帰った。
帰り道、美菜は涼子のことを、涼子が言った言葉の意味を考えていた。
「涼子さん、いい人ですね」
自転車を押しながら、遼平が言った。
「そうね、とってもいい人。でも、寂しそう」
美菜が言う。
「遼ちゃんに出会わなかった私の未来の姿のような気がする」
「ミーナさん」
名前を呼ばれて、遼平の顔を見た。泣きたくなるほどかわいらしい顔、その顔に迷いがなくなって吹っ切れたような表情が浮かんでいた。
「何、遼ちゃん」
「俺、わかったような気がします」
「ん、何が」
「俺、ミーナさんに会うために生まれてきたんだってことが」
「……」
そんなこと、自分だって思っていると言いそうになったが、続きがあるような気がして黙っていた。
「涼子さんが言ってくれました。俺とミーナさんが出会ったのは奇跡だけど、これからは運命だって」
「うん、私もその言葉の意味を考えていた」
「それって、たとえ離れ離れになっても、また出会えるのが運命だってことですよね」
「そうね。胡蝶の夢でもパラレルワールドでも、来世でも、必ず出会えると信じていれば、必ず出会えるって言ってた」
「ミーナさん、それ、信じます?」
「そうねえ、信じたいけど…、来世って、生まれ変わりってことよね。そんなことが本当にあるのかなって思ってる」
「ミーナさん、信じましょう」
「え?」
力強い遼平の声に驚いた。
「涼子さん、言ってましたよね。必ず出会えると信じていれば、必ず出会えるって。ということは、信じていないと出会えないかもしれないってことですよね。だから、信じましょう」
「うん、そうなんだけど…、だけど……」
「俺、今無敵です。だって、死んだって、また生まれ変わってミーナさんに会えるんだから、怖いものはありません。今日みたいなことがあっても、今度は震えずにミーナさんを守れるような気がします」
男の子だと思った。美菜が守ってあげる存在から、美菜を守る男の子に成長している。それは嬉しかった。だけど……
「だけど、死んだら終わりかもしれないでしょう。もし、遼ちゃんが死んじゃったら、私、私も……」
涙が溢れた。美菜が最も恐れていることを口にしてしまった。遼平が角刈りに殴られそうになった場面が蘇った。涙が止まらない。
遼平が自転車を止めて、美菜を優しく抱きしめた。素肌の二の腕を撫でてくれた。涙がすっとひいていく。魔法の手だと思った。
「ありがとう、ミーナさん。そんなに俺のことを想ってくれて。でも、そんなことを言いたかったんじゃないんです」
「うん、もう大丈夫」
並んで歩き始めた。
「涼子さんが言ってくれたように、出会えたんだから、もっと楽しもうってことなんです」
「うん」
「死んだら終わりってのは、ある意味、絶望ですよね」
「うん、そうね」
「そんな絶望の中で生きていくんじゃなくて、死んでも生まれ変わって、また会えるという希望の中で、生きていこうって言いたかったんです。そうすれば、死んだら終わりってびくびくせずに、今を心から楽しめるんじゃないでしょうか」
「絶望と希望……」
そうだ、死んだあとどうなるかなんて確かめようもないことに悩んでどうする。また会えるという希望を持って、大好きな遼平と今を楽しんで生きていけばいい。
「遼ちゃん、凄い。すごい、すごーい!」
「いや、涼子さんが言ったことを、少し言葉を変えただけですから」
「ううん、遼ちゃんの言葉で、すごーく納得できたの。ありがとう、遼ちゃん」
「ミーナさんが元気になってくれたら嬉しいです」
「うん、遼ちゃんの魔法で元気になれた」
美菜のアパートに着いた。
「ねえ、アパートに寄っていかない?」
「はい、喜んで」
「あ、エッチなことはしないでね」
「えー、しませんよー」赤くなった。かわいい。
アパートにふたりで入った。
「元気になったら、お腹すいてきちゃった。昨日作ったカレーが残ってるの。一緒に食べよ」
「はい、ミーナさんの手作り、楽しみです」
「準備するから、その辺に座って、本でも読んでて」
「はい」そう言ったものの、遼平は立ったまま、机の前の写真や本棚の本を眺めている。
「この鉢植えは何ですか。花が咲くんですか」
遼平が本棚にある鉢植えを見て言った。
「あ、それ? それはシオン。小さくてかわいい花がたくさん咲くのよ。9月か10月頃」
「へー、シオンなんて花があるんですね。初めて聞きました」
「私、シオンが大好きなの。だいたいは紫なんだけど、ときどき白い花が咲くのね。これがかわいいの。今から咲くのが楽しみ」
「そうなんですね。見てみたいです」
「もうすぐ咲くと思うから、咲いたら教えてあげるね」
温めて盛り付けたカレーをテーブルに置いた。
「遼ちゃん、ソファーに座って」美菜は遼平と向かい合わせに座った。
「いただきます」声を合わせて食べ始める。
「あ、おいしい」
「そう、よかった」
「あのー、ミーナさん」食べながら遼平が言った。
「何、遼ちゃん」
「祐美さんはもう頭の中からいなくなったんですか」
「祐美? ああ、さっき涼子さんと話しているときに思い出したけど、平気みたい。懐かしい思い出になったみたいね」
言いながら思い出した。祐美が頭の中からいなくなったら、遼平とセックスしようと言ったことを。
「何、遼ちゃん、エッチしたいの?」
「いえ、あの、そのー、そういうわけでは………したいです」真っ赤になってる。
「ふふ、私もしたいよ。今すぐにでもね。でもねえ、エッチすると、赤ちゃんできちゃうかもしれないでしょう」
「あ、でも、ミーナさん、子どもが欲しいのでは?」
「うん、欲しい。遼ちゃんの子どもだから、絶対かわいいに決まってるし。でも、今できちゃったら、卒業式の時、お腹が大きくなってるでしょう。それって、ちょっと恥ずかしくない?」
「ああ、そうですね」
「だからね、卒業まで待って。卒業は三月だから……七カ月近くあるか。ちょっと長いか。じゃあ、来年、来年のお正月まで待てる?」
「待てます、待てます。うわあ、楽しみだ」
「これ、誰にも言っちゃだめだからね。特にあかりちゃん。ばれたら、絶対冷やかしまくるからね。あかりちゃんに言ったら、卒業式までお預けだよ」
「言いません、言いません。うわあ、正月が楽しみだ。正月が楽しみだなんて子供の時以来です」
「危ないなあ。アルカディアで、もういくつ寝るとなんて歌っちゃだめだよ。あかりちゃん、勘が鋭いからね。それだけで気づいちゃうかもよ」
「あ、そうですね。歌いそうです。危ない、危ない」
「それでね。言っちゃおうかな。ちょっと恥ずかしいんだけど」
「何ですか」
「私ね、遼ちゃんとエッチするのも楽しみなんだけど、それと同じくらい赤ちゃんを産むのも楽しみなのね。だからね、赤ちゃんの名前を考えてるの」
「え、俺とミーナさんとの赤ちゃんですよね。気が早くないですか」
「そうよね。まだエッチもしてないのにね。でも、それが楽しいのよ。でね、お客さんがいないときに、客席に座って、メモ帳にいろいろ書き出してたの。子どもの名前の候補を。それをあかりちゃんに覗かれちゃって」
「うわ、あかりさんに冷やかされたでしょう」
「そう、ミーナ先輩、もう遼ちゃんとエッチしたんですかとか言われちゃった」
「それで決めたんですか、名前」
「うん。私ね、自分の名前気に入ってるのね。美菜と書いてミーナと呼ばせることに。だから、女の子なら同じように棒線とナで終わりたいの。だから五十音順で、アーナ、イーナとやってみたの。しっくりくるのがあまりないのね」
「そうですね。ヘーナとかモーナじゃだめですね」
「そんなの論外よ。それで候補に残ったのが、ニーナ、ユーナ、ルーナ、レーナの四つ」
「あ、いいですね」
「漢字表記にしたいから、ニーナが思いつく漢字がなくて消えて、ルーナも留守の留しか思いつかないからこれもだめ。残ったのがユーナとレーナ。遼ちゃん、どっちがいい」
「ミーナさん、決めてるんじゃないですか」
「一応ね。でも、遼ちゃんの子どもでもあるから、遼ちゃん、決めて」
「ユーナとレーナですか。どっちもいい名前ですね。漢字は考えたんですか」
「ユーナだったら、優しいか結ぶ。レーナだったら、王様の王に命令の令で玲、この字は美しいという意味だから、私と同じね」
「んー、結ぶの結菜かな。俺とミーナさんを結んでくれる」
「あ、私も結ぶの結菜か玲菜かなって思ってた。じゃあ、結菜で決まりね」
美菜は幸せだった。こうやって、遼平と将来のことを楽しく話し合う。これこそが幸せの意味なんだと思った。
食事が終わり、遼平と一緒にテーブルの上を片付けた。ソファーに遼平と並んで座る。
「男の子だったら?」遼平が言う。
「最初はシオンにしようと思ったの。でも漢字にすると紫の苑で紫苑でしょう。ちょっとキザというか、なんだか少女漫画に出てくる主人公みたいで迷ってしまって。それでね、私思ったの、男の子でも結菜でいいんじゃないかって」
「あ、いいと思います。ナの字を変えれば、男でもいけますよ」
本当は、男の子でもそのまま結菜にしたかったけれど、そこはあえて触れずにいた。
「それにね、これは遼ちゃんに会う前から思っていたことなんだけど、男の子が生まれても、女の子のように育てたいって思ってたけど、だめかな」
「女の子のようにって、女の子の服を着せるってことですか」
「そう」
「そうですね、俺もそうだったから、小さい頃は問題ないと思いますけど、小学校高学年になったら、嫌がるかもしれないですね」
「そっかあ、そうだよね。その子の性格にもよるしね」
「俺みたいな存在が身近にいるから、意外に抵抗ないかもしれません。でも、なんか楽しみですね。早く会いたいです」
「でしょう。私もどんな子が生まれるのか、わくわくが止まらないの。早く作りたい」
遼平が顔を赤くしている。美菜が作りたいと言ったから、作っている場面を想像したのだろう。
「あ、もう暗くなってきた。遼ちゃん、早く帰らないと。遼ちゃんが襲われちゃう」
「俺? 俺は大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃないって。こんなかわいい子がミニスカートで、夜道をうろうろしてたら、襲ってくださいって言ってるようなものじゃない」
「大丈夫ですって。襲われてパンツ脱がされても、脱がした方がびっくりしますから」
びっくりした。遼平がこんなことを言うなんて。これも成長していると喜ぶべきなのだろうか。
「な、なんてこと言うの。思わず想像しちゃったじゃないの」
「ミーナさん、顔が赤いです。かわいい」
そう言って、遼平が美菜に抱きついた。
「ミーナさん、キスってエッチなことですか」
「んー、ぎりぎりセーフかな」
遼平が美菜の顎を指で支えて、キスをした。美菜は目を閉じて受け入れた。二度目のキスなのに、最初の時よりもどきどきした。遼平にリードされているからだろうか。
遼平が舌を差し入れてきた。美菜の舌がそれを受け入れ、意識せずに自然に絡み合い、お互いを愛撫した。下腹部に何か温かいものが生まれ、それが全身に広がる。
「やっぱりだめ。エッチな気分になってきた」
美菜は唇を離して言った。
「そうですね。俺も突っ走りそうになりました」
「キスはいいけど、舌を入れるのはやめよう」
「はい、それも来年の楽しみということで」
ふたりは立ち上がり、遼平は帰る準備をした。
「じゃあね、遼ちゃん。楽しかったよ」
「俺もです。ミーナさんとふたりっきりで話せて嬉しかったです」
「そういえば、遼ちゃんとふたりきりで長い時間話したの、初めてだね」
「ミーナさん、ひとりで外に行ってはだめですよ。明日、アルカディアに行く前に、早めに来ますから、買い物とかは一緒に行きましょう」
「わかった。ありがとう、遼ちゃん」
「それから、宅配便には気をつけてください。宅配便だって言って部屋に入り込んだ事件がありましたから」
「うん、それ大丈夫。ひとり暮らしする前に、お父さんに言われてるの。不在連絡票でまた来てもらうか、お隣さん、山下さんっていう若い夫婦がいて、そこで受け取ってもらうように頼んでいるから」
「そうなんですね。だったら安心です。それじゃあ、ミーナさん」
「じゃあね、遼ちゃん、また明日」
美菜は遼平を抱きしめた。遼平も抱きしめ返して、出て行った。
美菜は幸せだった。美菜の一番の願いは遼平と結ばれて、遼平との子どもを作ることだったが、それを四カ月先に延ばしたことで、わくわくが広がり、幸せな想いが倍増したような気がする。
キスを途中でやめなければ、今日遼平と結ばれていただろう。それはそれで幸せなことかもしれない。しかし、願いがかなった幸せより、願いがかなう期待感の中に、本当の幸せがあると、美菜は感じていた。
美菜は早々に風呂に入り、ベッドの中で、遼平との一夜を思い浮かべ、期待と幸せをかみしめながら眠りについた。