希望のあかり
「さてと、これからどうしようか」
「あたし、アルカディアに寄って、マスターと話してきます。今日のこと報告しようと思って、マスターも気にしてたから」
「デートね」
「デートったって、どこにも行きませんけどね。あ、そうだ。今日のこと全部マスターに話しても大丈夫ですか。先輩の恋の話はまずいですよね。祐美さんとのこと」
「んー、ちょっと恥ずかしい気もするけど、マスターにはレズってばれてるし、ま、いっかな」
「よかった。マスター、ああ見えて涙もろいところがあるから、泣いちゃうかもしれません。ミーナ、可哀そうって」
「やめてー。マスターの泣くとこなんか想像したくない。で、話が終わったらエッチするの?」
「しませんよ!」
「エッチなことも?」
「エッチもエッチなこともしません。というか、そんなことしたの最初だけです」
「あら、そうなの?」
「それが、エッチした後大変だったんです」
「どうしたの」
「マスター、急に正気に戻ったみたいで、ごめん、ごめんってひたすら謝るんです。半泣きで、みっともないくらいおたおたして」
「へー、マスターがね」
「あげく、あたしの人生を台無しにしたなんて言うもんだから、あたし腹が立って言ってやったんです。あたしはマスターが好きだから嬉しかったんですって」
「お、告白。でもマスターはあかりちゃんのこと好きって言ってくれたの?」
「そこなんです。あたしは怒ってるんです、無言でキスして、無言でセックスして、それじゃ、ムードもへったくれもないって言ってやりました」
「へったくれ」
この時、美菜は強烈な違和感に襲われた。「へったくれ」という言葉は、夢の中で全裸の遼平にプロポーズされたときに、美菜が言った言葉だった。それまで使ったことのない言葉に、その時もかすかな違和感を覚えていた。それを今、あかりも使った。
「あかりちゃん、へったくれって言ったの?」
「ええ、確かそう言ったと思います。それがどうかしたんですか」
「うん、私もね、その言葉を使ったことがあるの。言ったあとに変な感じがしたのね。今まで使ったことがない言葉だったからかな」
「言われてみたらそうですね。あたしも初めて使ったかも。普通なら『ムードもなにも』ですよね。気持ちが高ぶってたからでしょうか」
これ以上この件にこだわると、夢の話をする必要がある気がした。
「ごめんね。変なことで話の腰を折っちゃった。それで、マスターはどうしたの」
「はい、そのことも、また謝るもんですから、あたし条件を出したんです。そしたら許してあげるって」
「条件って?」
「結婚したら許してあげるって」
「け、結婚!」
「はい、でも、今すぐじゃないですよ。高校卒業したらって」
「えー、そしたら何て言ったの、マスター」
「わかったって」
「え、それだけ?」
「はい、でも、あたしがいやいやなのって聞いたら、やっと、俺もあかりのことが好きだって言ってくれました」
「はー、やっと告白してくれたのね」
「はい、半分無理やりですけど、とにかく言ってくれたから、まあいいかなと」
「でもよかったね。おめでとう」
「ありがとうございます。はー、やっと人に話せた。これ、まだ親にも言ってないんですよ。言ったら大騒ぎになりそうで怖い」
「あー、確かに、大騒ぎになるね」
「ですよね」
「あ、でも、結婚の約束してるんだったら、エッチしてもいいんじゃないの」
「結婚するまでそういうことはしないそうです。あたしのことを大事にしたいからって言ってました」
「はー、何言ってんだか。強姦みたいなことしておいて」
「強姦みたいなじゃなくて、強姦です」
まただ、強姦という言葉に反応して、夢の中で、美菜が「強姦も好きねえ」と言った場面がフラッシュバックする。全裸で遼平と向き合っていた場面が鮮やかに蘇る。心が震える。
「ミーナ先輩、あたしたちに隠していることがありますよね」
あかりの勘の鋭さに驚く。
「ん、なんでそう思うの」
「間違っていたらごめんなさい。あたしの言葉に先輩が反応して、様子がおかしくなることが何回かあったからです。強姦、へったくれ、あと、遼ちゃんに、君は本当に男なのって言ったときです」
「凄いね、あかりちゃん。その通りよ」
「あたしでよかったら、話してください。なんだか先輩が苦しんでいるようで、あたしもつらいです」
「そうね、あかりちゃんだったら話せるかもしれない。遼ちゃんには絶対言えないことなの」
そう言ったものの、まだ迷っていた。あたりは暗くなり始め、今、街灯がついた。
「でも、もうちょっと待って。もう少し考えてみる。これを話してあかりちゃんに嫌われたら悲しいから」
「わかりました。あたし、何を言われても、先輩を嫌いになることなんか絶対にありませんから、ぜひ話してくださいね」
「どっちみち、今は無理だから。もう暗くなってきたし、この話、一時間や二時間では終わらないから」
美菜は街灯の明かりを見た。街灯は道の反対側、ガードレールの奥に立っている。その奥は崖で、五・六メートル下を川が流れている。川幅は三メートルほどで、さらにその奥はこんもりとした林になっている。薄暗くなっている中、林はシルエットと化し、美菜の目には、街灯の明かりは道だけを照らしているように見えた。
あかりが道を照らしている。これは啓示かと思った。あかりが進むべき道を教えてくれる。美菜はあかりにすべてを話そうと思った。
「あかりちゃん! 私、話す。話したい。近いうちにきっと話すから」
「あ、はい」美菜の突然の心変わりに怪訝そうな様子。
「今、少しだけ話したい、いいかな」
「はい、ぜひ」
「私、遼ちゃんに会うために、アルカディアに来たの」
「え? そうなんですか、でも……」
「わざわざ、転校してまで遼ちゃんに会うために来たの」
「でも、遼ちゃんがアルカディアに来たのは、先輩の五日前ですよね。転校の手続きや引っ越しの手配とか、五日じゃ無理ですよね」
「そうね、なんだかんだで10日以上かかったかな」
「ということは、遼ちゃんがアルカディアでバイトすることを、先輩は事前に知っていたということになります」
「そう、知っていたの」
「遼ちゃんはミーナ先輩のこと知らなかったんですね」
「そのはずよ。知ってて知らないふりなんて、あの子にはできないと思う」
「だったら、遼ちゃんが先輩に連絡することもあり得ない。んーー、……もしかして、夢ですか」
「驚いた。あかりちゃん、ほんと凄いね」
「いえ、美容室を出たあと、先輩が夢の話をしていたから、夢がキーワードかなって思っていたんで」
「その通りよ。夢の中で遼ちゃんが教えてくれたの」
「遼ちゃんが……」
「そう、それも30年後の遼ちゃん。正確には31年後かな、47歳って言っていたから」
「え、そんな、そんなことが……」
「そうよね。こんなこと、とても信じられないよね」
あかりは戸惑いを見せながらも、考え込んでいる。
「そうですね。他の人に言われたら、あたしは信じません。でも、ミーナ先輩の言うことだったら……、信じます。47歳の遼ちゃん、どんな感じでした」
「そうねえ、見た目は今と同じ、もちろん女装はしていないし、髪型も元の幽霊ヘア」
「幽霊ヘア? あー、なるほど、目がほとんど隠れてる髪型ですね」
「中身は少し成長していたかも。とても丁寧で、口数も多くなってた。でも、自信なさげなところとか、言動の可愛さは今と同じ」
「ははーん、さては、その夢の中の遼平さんを好きになったんですね」
「うん。でも簡単に好きになったんじゃないよ。たくさんおしゃべりしたし……あれもしたから」
「あれ? あれって何です……ってまさか、あれ?」
「うん、それ」
「んもう、あれだのそれだのじゃわかりません。だいたい、ミーナ先輩、人のことを冷やかすの好きなくせに、自分のことはすごーく照れますよね」
「だってえ、恥ずかしいんだもん」
「そうやって、すぐぶりっ子する。セックスしたんですね」
「はい、しました」
「何をしたのか、はっきり言ってください」
「あかりちゃんの意地悪。だから、せ、セックスしました。しかも三回も」
「三回!」
「あー、だめだ。全部話さないと伝わらない。あかりちゃん、今何時くらい」
「そうですねえ、もう完全に暗くなったから、七時過ぎてるかもしれません」
「今日はうちに泊まってくれる。今日、全部話したい」
「わかりました。あたしも聞きたいです」
それから、二人して美菜の部屋に入り、あかりが自宅とマスターに電話をかけて、美菜の家に泊まる了承を得る。大騒ぎしながら、一緒に風呂に入り、夕飯にカップラーメンとタコ焼き器で作ったタコ焼きを食べて、話の続きが始まったのが、九時過ぎ。途中あちこち脱線したため、全部話し終わったときには、午前0時を過ぎていた。
「はー、ミーナ先輩、とんでもない体験したんですね」
「ほんとよね。改めて話すと、恥ずかしくて顔から火が出そうよ」
「先輩の問題は、遼平さんと遼ちゃんの板挟みになってるってことですよね」
「そうなの。二人は同一人物だって思いこもうとするんだけどだめなの。だって、遼平さんとのセックスを遼ちゃんは知らないし、遼ちゃんと感動を分け合った今日のことを遼平さんは知らない」
「先輩、遼平さんとのセックス、気持ちよかった?」
「うん、とっても」
「照れないんですね」
「さんざんエッチな話、したからね。免疫ついちゃったかな」
「ちょっと残念、先輩の照れてるところ、かわいくて好きだったんですけど」
「あら、そうなの。照れようか」
「もういいですよ。それで、もう一度遼平さんとセックスしたいですか」
「うん、したい。だってね、本当に気持ちよかったんだからね。それにね、セックスと同じくらい気持ちよかったのが、裸で抱き合ってるとき。遼平さん、肌がすべすべなの、全身。脚も腕も、お腹も背中もお尻も。そんな体に抱かれていると、心がとろけちゃうの。あー幸せって、ずっとこうしていたいって思うの」
美菜はその時を想い、しばし幸福感に浸った。ふと、あかりに目を向けると、下を向き、居心地の悪そうな様子。あかりの顔を覗き込む美菜。
「あら、あかりちゃん、顔、赤いよ」と言うと、
「あ、いえ、なんでもないです」妙に慌てている。
「ははーん、裸で抱き合ってるの想像しちゃったのね。それで、抱き合ってるのは誰と誰」
「あはは。もちろん、先輩と遼ちゃんです」
「あー、それは嘘だね。だったらなんで、そんなにもじもじしてるの。先輩に嘘ついたら、くすぐりの刑に処す」と言って、美菜はあかりをくすぐろうとする。
「やだ。わかった。わかりました。あたしとマスターです」
「なんだ、そうか。私はてっきり、あかりちゃんと遼ちゃんかと思っちゃった」
「なんでそうなるんですか。そんな訳ありません」
あかりはそう言うが、おそらく遼平と抱き合って、その素肌の感触を想像していたと思った。追及すれば、あかりは弁解に苦労するだろうし、正直に告白されても、対応に困る。追及はやめておこう。
「それで、本題に戻りますけど、先輩はどちらが好きなんですか。遼ちゃんと遼平さん」
「それがわからないから、悩んでるんじゃない」
「じゃあ、言葉を変えます。どちらを愛してますか」
「愛してる。愛してるねえ。うーん、うーん」
考えてもわからなかった。「愛してる」と「好きだ」、どう違うのだろう。
「あかりちゃん、愛って何、めっちゃ好きとどう違うの」
「そうですね。改めて考えると難しいですね。あたしも、めっちゃ好きのイメージです。あえて言えば、その人がいないと生きていけない。だから、その人を命がけで守りたいという思いってことでしょうか」
「凄い、あかりちゃん。そっか、それだったら、遼ちゃんかな。遼ちゃんを守るためなら死んでもいい。ん、でも私、あかりちゃんのこともそう思ってるよ。これも愛だよね」
「母性本能もそうですね。お母さんは命がけで子どもを守るから、これも愛です」
「愛っていっぱいあるのね。だったら二人を愛しても問題ないってこと?」
「それは、どう考えても違いますよね。男女の場合は特別なのかも」
「セックスが関係するよね」
「ですね。パートナーが他の人とセックスするのはまずいです」
「遼平さんか遼ちゃんか決めろということね」
「先輩が遼ちゃんを命がけで守りたいと思っているのが、母性本能から来るのか、男女間の特別な愛からそう思うのかで決まりそうです」
「えー、難しいよ」
「いいえ、難しくないです。先輩が遼ちゃんとセックスしたいかどうかで決まると思います」
「それは、もちろんしたいよ。さっき、遼ちゃんにもいつかしようって言ったし」
「だったらもう答えは出てますね」
それでも美菜は迷っていた。もちろん、16歳の遼平のことは泣きたくなるほど好きだし、今すぐにでも結ばれたいと思っている。一方で、謎の部屋での遼平も、美菜の心と体に忘れることのできない大きな痕跡を残した。会いたくて会いたくて会えなかった40日間の想いは、心に刻まれているし、肌を重ねた喜びに、今でもこの体が疼く。
「実を言えば、答えはとっくに出ていたと思うの。あんなにかわいい遼ちゃんを諦めるなんて、私にはできない」
「そうですよね」ほっとしたような響き。そうだよね、あかりちゃんは遼ちゃんの味方だものね。
「結局、問題は、私が遼平さんとのセックスを断ることができるかということなの。断らなくちゃいけないんだけど」
「体が遼平さんを求めてるってことですか」
「私が遼平さんと会うときは、裸なのよ。全裸。二人とも。そして、私は遼平さんのことが好きだし、遼平さんは私のことを30年間想い続けてきたの、私だけを」
あかりは考えている。おそらく、自分とマスターがそういう状況に置かれたらと思っているのだろう。
「それは難しいですね。最後まで行っちゃいそうです」
「でも、私は断るつもり。遼ちゃんのことが好きになったから、遼平さんとはセックスできないって、はっきり言うつもり」
「遼平さんが我慢できなくなって襲ってきたら?」
「遼平さんはそんなことしない。それに、遼ちゃんを救ってくれって、遼平さんから頼まれたんだから、きっとわかってくれる」
「ああ、そうでしたね」
「でもね、何かのはずみで抱き合うことにでもなったら、ちょっと自信ない」
「遼平さんの体って、そんなに危険なんですか」
「それはもう、あかりちゃんだって、裸の遼ちゃんと抱き合うところ想像したから、わかるでしょう」
「ああ、そうですね。え? いえいえ、あたし、そんな想像してません」
「あーあ、白状しちゃった」
「いや、だから、してませんって」
「はいはい」
「ミーナせんぱーい。信じてください」
「わかった、わかった。信じる。あ、もう一時過ぎてる。そろそろ寝ないと」
「あ、先輩。あと一つだけいいですか」
「何」
「夢の話です。48歳の美菜さんの夢」
「うん、それが?」
「先輩の最大の心配が、美菜さんが目覚めたときに、遼ちゃんやあたしと別れてしまうってことですよね」
「そうだね」
「つまり、今のこの現実が、実は美菜さんの夢の中の出来事じゃないかと」
「最初に遼平さんにその話を聞いたときは、そんなわけないと思ったのね」
「はい、普通はそうです」
「でも、今日、もしかしたらと思ったの」
「先輩の様子がおかしくなったときですね」
「そう、その時も言ったけど、あまりにも私の期待通りに進んでる気がしたの。遼ちゃんは理想の恋人になっているし、あかりちゃんは理想の親友になっている」
「……」
「それにね、あかりちゃんが言った『強姦』や『へったくれ』も、私が夢の中で言った言葉なの」
「はい、そうじゃないかと思っていました」
「決定的だったのが、あかりちゃんが『君は本当に男なの』と言ったとき、遼ちゃんが『そうだと思いますよ、変なもの持ってるし』って返したことなの」
「はい、ミーナ先輩の様子が一番おかしかったのがそのときです。先輩、立っていられなくて崩れ落ちた感じでした」
「うん、その会話、私と遼平さんが夢の中でした会話と全く同じだったの」
「そうだったんですか」
あかりが何か言いたそうにしている。美菜は、今のこの現実が48歳の美菜の夢の中ではないかという疑いを強くしていた。しかし、それは即ち、あかりが現実の存在ではなく、美菜が作り出した架空の存在だということになる。
美菜はそれを口に出すべきか迷っていた。それを言えば、美菜があかりを信じていないということに等しいような気がした。
あかりが沈黙を破って言った。
「つまり、あたしがミーナ先輩の期待通りに動くことや、あたしが夢の中での先輩の言葉をトレースしているから、あたしは夢の中の存在だということですね」
「あのね、私はそうであって欲しくないって心から思ってるの。でも……」
「先輩」
「はい」
「昼間も言ったように、あたしは自信を持って否定できます。あたしはあたしです。先輩の夢の中の架空の存在ではないって」
「うん」
「だけど、先輩が作り出した架空のあたしでも、そうやって否定するでしょうね」
「……」
「ミーナ先輩、パラレルワールドという言葉を聞いたことがありますか」
「……SF?」今、なぜその話?
「はい、SFでよく使われますが、先端の物理学で議論されているそうです」
「そうなんだ。確か、人が何かを選択したときに世界が分かれるみたいな話だっけ?」
「はい、物理学ではマルチバースと言うそうなんですが、意味は同じです」
「そうなのね。でも、それが?」
「もし、パラレルワールドがあるのなら、48歳の美菜さんの現実と、今のこの現実が同時にあってもおかしくないですよね」
あっと思った。現実はひとつしかないと思い込んでいた。そして、遼平との謎の部屋で、遼平が突然消えたり、現れたりするあり得ない現象を見せられた上、遼平から、美菜が48歳の美菜の夢の中の存在であることを告げられた。そのため、夢から覚めたあとも、この現実が夢なのではないかという疑いを強く抱いていた。
現実が二つ存在できるなら…。しかし、時代が違う。
「でも、私の現実と30年後の現実が同時に存在できるの?」
「はい、パラレルワールドがあるのなら、タイムトラベルも理論的に可能だそうです」
希望の光が灯った。美菜が意識不明から蘇れば、遼平やあかりから切り離される。それは美菜にとって絶望に等しかった。今の喜びが大きくなるほど、絶望の谷も深くなるような気がしていた。絶望の底に希望のあかりが灯った。
「ふふ、希望のあかりね」
「何ですか、それ」
「外で話しているとき、暗くなってきたでしょう」
「はい」
「そして街灯のあかりが灯った」
「はい」
「私にはそのあかりが道だけを照らしているように見えたの。あかりが道を照らしている。あかりちゃんが私の進むべき道を教えてくれるって思ったの」
「へー、そんなこと考えていたんですね」
「私、あかりちゃんに夢の話をしようか迷っていたでしょう。その時、あかりちゃんに聞いてもらおうって決心したの」
「そうだったんですね」
「そうしたら、本当に、あかりちゃんがパラレルワールドという希望のあかりをくれたのよ。でもあかりちゃん、なんでそんなこと知ってるの」
「マスターに聞いたんです」
「マスターに……」
「マスター、ああ見えて、大学で物理学を勉強していたんだそうです。そこで、量子力学とかいうのを専攻していたそうなんです」
「量子力学、難しそう」
「そうなんですよ。時々、その量子力学の話をしてくれるんですけど、あたしには何のことやらって感じです。シュレーディンガーの猫という有名な話があるそうなんですけど、先輩、知ってます?」
「シュレーディンガーの猫? 知らない」
「なんでも、猫を毒といっしょに箱の中に入れておくと、箱を開ける前は、生きている猫と死んでいる猫が確率的に存在していて、箱をあけるとどちらかに収束するそうです」
「なにそれ、ほんとに何のこっちゃらって感じね。そんなこと考えてなんの役に立つんだろうね」
「でしょう。そんな話ばっかりなんです。ただひとつ、パラレルワールドの話は、あたしも興味をもちました。量子力学をつきつめるとパラレルワールドは存在するという結論に達するというんです。理由も説明してくれたんですが、あたしには理解不能でした」
「そうなんだ。科学的に証明されているのね」
「いえ、証明はできないって言ってました。あくまで、あるはずだという予言みたいなものだそうです」
「証明できないってなんで」
「二つの世界を物質は行き来できないのだそうです。だから、人間が別の世界に行くことはできないとのことです」
「ふーん、あるはずなのに証明できないのか」
「でも、こんなことも言ってました。人間の魂が物質とは別の形で存在できるなら、別の世界に行けるかもしれないと。あと夢も」
「夢か、これだね」
「はい、だけど、これも、本当に別の世界に行ってる夢なのか、ただの夢なのか、見分けることは不可能だそうです」
「うーん、そうだね」
「でも、あたし、ミーナ先輩の話を聞いて思ったんです。もしかしたらVRが二つの夢を繋いだんじゃないかって。17歳のミーナ先輩の夢と30年後の遼平さんの夢を」
VRが二つの世界を繋ぐ。それはありそうなことに思えた。
「凄い、凄いよ、あかりちゃん」
「あ、でも、まだそうと決まったわけではありません」
「ううん、いいの。あかりちゃんの今の言葉にすごく納得したの。だから私、あかりちゃんを信じる。あかりちゃん、ありがとう」
美菜は両手を伸ばして、あかりを抱きしめた。
「いいんです。あたしは先輩が元気になってくれたらうれしいです」
美菜はあかりを突き放して言った。
「でも、間違ってたら、責任とってもらうよ」
「えー、どうすればいいんですか」
「そうねえ、消えたりしないこと。ずっと私のそばにいること」
「なんだ、そんなことか。私は百億パーセント消えたりしません。ずっと先輩のそばにいます。ミーナ先輩、大好きです」
そう言って、今度はあかりのほうから美菜に抱きついてきた。美菜も抱き返す。
「あーーーー」
「ど、どうしました。先輩」
「二時過ぎてる!」
「びっくりしたー。あたしが消えちゃったのかと思いました」
「あらら、百億パーセント消えないんじゃなかったの。あ、そんなことより早く寝ないと。寝不足の顔なんて、遼ちゃんに見せられない」
二人は慌ただしく寝る用意をした。
「ふとん敷くの面倒だね。ベッドに一緒に寝ない? ダメ?」
「いいですけど、変なことしないでくださいね」
「しないしない。でも抱き合って寝るのはいいでしょう?」
「はい、それくらいなら」
ベッドの中で抱き合った。
「はー、幸せ。あかりちゃん、大好き」
「あたしも幸せです。先輩、いい匂いがします」
「えへー、どんな匂い」
「みかんの匂いかな。あたし、みかん大好きなんです」
「あかりちゃんもいい匂い」
「どんな匂いです」
「そうねえ、大草原の中の空気の匂いかな。ってそんなとこ行ったことないけど」
「先輩、いい加減」
美菜は大草原の香りの中で、今日一日の幸せをかみしめながら眠りについた。