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青き胡蝶の夢  作者: 鳥沢 響
2.青春の刻
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宝石の一日

 そして翌日、下着売り場で女二人があーでもない、こーでもないと、小一時間もかけて選んでいるのを、遼平は手持ち無沙汰でうろうろしている。ジーパンにTシャツ、髪はぼさぼさ、眠そうにしている。

 やっと決まったパンティとブラジャーを見て、なんでブラジャーまでと文句をつける。美菜にそれをつけると、姿勢が良くなるし、気が引き締まるからと説得され、しぶしぶ了承。試着させようとするあかりに対しては、断固として拒否した。

 更に、うさぎのワンポイントがはいった白い靴下と踵のあるサンダルを買って、やっと終わりかと思えば、ブティックに入っていく。

 そこでまた、ひと悶着、美菜はワンピースがいいと言い、あかりはデニム地のミニスカートがいいと言う。決着がつきそうもなくて、遼平が「両方買えば」と言うと、「あー」と、二人して遼平を指さして解決した。

 美菜が、コバルトブルーの無地のワンピースと下着、靴下を遼平に渡して、

「はい、遼ちゃん、試着して」

「え、これ、俺が着るんですか」

「そうよ。そのために、今日来たんでしょう」

「え、だって、え、下着も着るんですか」

「そうよ。靴下もね。だからまず、着てるもの全部脱いでね。やり方わかる? パンティ前後あるよ」

「わかります…たぶん」

 しばらくして、遼平がカーテンの隙間から顔を出す。

「あのー、ミーナさん、ブラジャーのつけ方がわかんないんですけど」

「だと思った。はいはい」

 嬉々として、美菜がカーテンの中に入る。中では、遼平がパンティ一枚でおろおろしている。その姿に美菜は胸を撃ち抜かれる。遼平の裸は何度か見てるのに、パンティ一枚でこうも印象が変わるものなのか。

 美菜は顔を上気させながら、ブラのつけ方をレクチャーした。

「やだ、遼ちゃんの裸、見ちゃった」

「あ、いいな、ミーナ先輩、あたしも見たかったな」

「ふふふ、役得ね」

 そんなことを言っている間に、遼平が着替え終わって、出てきた。

「いやだ」女二人が抱き合って、叫ぶ。

 店員も目を丸くして見入っている。

「やっぱ変ですよね。すぐ着替えます」

「ちがう、ちがう。ものすごーく似合ってるの。とってもかわいい」

「腕が全部出てるし、このスカート、ヒラヒラしてる。風が吹くとパンツ見えちゃうんじゃないですか」

 ノースリーブのミニワンピースでスカートの部分にプリーツが入っている。

「はい、次はこれね」

 あかりから、デニムのミニスカートと、やはりノースリーブの白いシャツを渡される。

「えー、なんだよ。俺は着せ替え人形かよ」

 文句言いながらも、受け取ってカーテンの中に消える。そうです。君は着せ替え人形なのです。

 いつの間にか、店員や他の客が集まってきた。七・八人はいる。遼平が出てくると、全員の「おー」の大合唱と拍手。遼平は驚いてカーテンに引っ込んだ。

「ねぇ、今の子、店に入ってきたときは男の子だったよね」

「すごくかわいい。女装って気持ち悪いと思ってたけど、似合うんならいいよね」と、ひそひそ話が飛び交う。

「遼ちゃん、大丈夫よ。みんな、かわいいって言ってるよ」

 遼平が顔を出して言う。

「もう、着替えますよ」

「あ、だめよ。もう一か所行くところがあるの。脱いだ服と下着持って出てきて」

「え、この恰好で行くんですか」

「そうよ。言ったでしょ。君を完璧な女の子にするって。あとは美容室に行って完成。楽しみー」

 支払いを済ませて、三人で通りに出る。三人ともミニスカートで、注目を浴びる。道行く人は男も女も振り返っている気配がする。

 美菜は歩く速度を少し落として、右側を歩く遼平を斜め後ろから眺めた。ノースリーブの白いシャツとデニムのミニスカート姿が爽やかで、真夏の蒸し暑い澱んだ空気の中、遼平だけが涼し気な様子で輪郭が鮮明に映る。身長があり、すらりと伸びた脚が颯爽としていて、女装しているのに、なぜか男らしいと思ってしまう。しかし、まだ完成ではないと思った。恥ずかしげな気分が態度に表れているし、背筋も十分伸びていない。自信を付けさせないと。

「俺が一番スカート短くないですか。パンツが見えていないか、後ろが気になって」

「大丈夫よ。姿勢よくしていれば、滅多なことでは見えないから」

「遼ちゃん、恰好いいよ。みんな遼ちゃん見てるし。あたしなんか引き立て役だけど、全然悔しくない。むしろ遼ちゃんが注目されてるの、とても嬉しい。なんだろ、母親になった気分」

 あかりが言ってくれた。全く同感。

「ねえ、あかりちゃん。遼ちゃんが自分のことを俺って言うの、どう思う」

「あたし、俺がいい」

「はあー?」美菜と遼平がハモった。

「もちろん、仕事の時は『私』でないとだけど、普段女の恰好してる遼ちゃんが『俺』って言うのはありだと思う。なんかかわいい」

「そうだよね。私もそうかなって思ってたの」

「普段って、俺、普段からこの恰好?」

「そうだよー」今度は美菜とあかりがハモる。

「その服とこのワンピース。とりあえずアルカディアの行き帰りはどちらかね。あ、そうか。お家の人に見られるか」

「それは大丈夫だと思います。うちはお袋だけで、昨日、ウエイトレスの恰好したと言ったら、なんだか知らないけど喜んでました。見に行きたいとか言ってたし」

「へー、お母さんが。でも近所の目とか、気になるんじゃない」

「うちのお袋、そういうのは気にしません。むしろ俺の方が、少し抵抗があるけどがんばります。ミーナさんが喜んでくれるなら。というか、俺もちょっと気持ちいいかもって思ってます」

「でしょう。遼ちゃん、目覚めてきた?」

「遼ちゃん、それって快感って言うのよ」と、あかり。

「うん、なんだかズボン穿くの暑苦しそうで嫌になってきました。学校もこれで行こうかな」

「えーーー」二人がハモる。

「いくらなんでも、それはまずいよ」

「そうよ、制服着てないと怒られるでしょう」と、美菜。

「いや、うちの学校、そういうの自由みたいで。一応制服はあって、ほとんどの人は制服着てるんだけど、私服で来てるのもかなりいるんです。髪の毛も肩まで伸ばしてるのざらだし、ポニーテールもいます」

「男子校だよね」

「はい。基本、真面目な生徒ばかりなので、破目をはずす者はいないって信頼されてるんですかね」

「なんか凄い学校だね」

「うーん、でもね。真面目な男子生徒が、遼ちゃんのその恰好を見たら、どう思うだろう。あかりちゃん、どう思う」

「そうですね。気になって勉強どころではなくなるかな」

「だよね。遼ちゃんのその太もも、男の子には刺激が強すぎるんじゃないかな。うーん、だめだめ、大問題になりそう」

「そうですか。やっぱりだめか。ミニがだめならセーラー服で行こうかな」

「セーラー服!」またハモった。

 遼平がセーラー服を着る。なんと心躍る景色だろう。

「いやだ。あかりちゃん、何妄想してるの」

「な、先輩こそ、涎出てますよ」

「え、うそ」思わず、口元を拭いた。

「うそですよ。先輩こそ、どんな想像したんですか」

「だから、遼ちゃんがセーラー服着てるところ。冬服でポニーテール。結び目は青いリボン。何、この可愛さ。想像しただけで息が苦しい」

「あー、いいですね。それじゃ、涎も出ますね」

「出してないでしょ。あかりちゃんはどんな想像したの」

「あたしは、どうしても遼ちゃんの肌を見せたくて、夏服の袖を肩まで捲って、スカートも腰で巻き上げてミニにして、ルーズソックス。髪はベリーショートで(うなじ)をしっかり見せて、胸当てを外してブラをチラ見せってところです」

「あら、いやらしい」

「そうなんです。実際にあたし、それをやろうとしたんですけど、あたしじゃどうしてもいやらしくなって、でも遼ちゃんの可愛さなら、バランスがとれて恰好よくなりそうな気がします。ポニーテールでもいいけど、リボンはピンクですね」

「あー、いいかも。ルーズソックスかあ。ねえ、あかりちゃん、私、アパートに一人暮らしなのね。今度、三人で集まって、遼ちゃんの大着せ替え大会やらない?」

「うわあ、いいですね。やりましょう。楽しみー」

「遼ちゃんもいい?」

「はい、いろいろな服着るのも、なんだか楽しくなってきました。それに、ミーナさんの家に行くのも楽しみです」

「じゃあ決まりね。それじゃ、入ろうか」

 目的の美容室には、かなり前に到着していて、入り口付近で長い時間話していた。中に入り、あかりの母親に挨拶して、髪型を決める。ここでも、ポニーテールがいいと言う美菜とショートがいいと言うあかりの意見が分かれたが、あかりママの意見を取り入れ、ボブというロングとショートの間の髪型に決める。

 ファッション用のかつらのウイッグをかぶせ、毛先をシャギーカットしていく。シャギーとは毛先を軽くするカットの技術で、重くなりがちなボブを活動的なイメージにすることができるそうだ。美菜はデニムのミニスカートに合っていると思った。

 さらに、美菜が感心したのは、前髪を数本、長めに後れ毛にしたことだ。これによりか弱いイメージが引き出され、遼平の可愛さを強調していた。

 そして、全体としては活発でボーイッシュな印象の中にも、どこか儚げで守ってあげたいと思わせる可憐な美少女が完成した。

 美菜は鏡越しにそれを見て、愛しさに胸が苦しくなった。切なさがこみ上げてきて泣きそうになる。こんなにかわいくて、美菜の心を震わせる男の子がいることに現実感を失いかけていた。これは夢かもしれないと思った。48歳の意識を失っている美菜の夢。

 一方で、それならそれでもいいと思った。美菜の心を掴んで放さない、美菜を心から慕ってくれる遼平と、夢の中で幸せな人生を歩いていけばいい。

 あかりやあかりママ、他のスタッフや客たちが、口々に遼平の美しさ、可愛さを絶賛している。店に飾りたいと、あかりママが遼平の写真を撮っている。ついでのように、美菜とあかりも遼平を真ん中にした写真に写りながら、美菜は、どこか上の空で、48歳の美菜の夢の話やVRの話を遼平やあかりにしてみたいなどと考えていた。

 あかりママにお礼を告げ、店を出た。

「ミーナ先輩、なんか様子が変です。どうしました」

「あ、うん、遼ちゃんの可愛さになんだかぼーっとしちゃって」

「ですよね。遼ちゃん、ほんとかわいい。遼ちゃん、あんたほんとに男なの?」

「だと思いますよ。変なもの持ってるし」

 その言葉を聞いたとき、美菜は謎の部屋での遼平との思い出が鮮明に蘇り、平衡感覚を失い、膝から崩れ落ちた。同時に得体の知れない何かがこみ上げてきて、涙となって溢れた。次から次に溢れてくる。止めようとしても嗚咽となって零れ落ちる。

「先輩!」「ミーナさん!」ふたりともしゃがんで、両脇から心配そうに見ている。

「ご、ごめんなさい。私ね、遼ちゃんのことが好きでたまらなくなったの。遼ちゃんがきれいになって嬉しくて嬉しくてたまらない。なのに悲しいの。嬉しくて嬉しくて悲しいって訳わかんないよね。たぶん、あかりちゃんが言ってくれたように、私には遼ちゃんしかいないのを実感したのかも。遼ちゃんを失うのが怖くなったのかもしれない」

 うそではなかった。本心からそう思っていた。今のこの現実も夢かもしれない。夢なら覚める時が来る。そうすれば切ないほどに想いを寄せている遼平と別れなければならない。

 それだけではなかった。美菜は、あの謎の部屋で肌を重ねた遼平も愛していることを思い知らされた。二人は同一人物だと思い込もうとしたが、心がそれを許さなかった。美菜は二人の遼平の間で心が揺れていることに気づいてしまった。

「遼ちゃん、ミーナ先輩は」

「あかりさん!」遼平があかりを遮った。

「はい」

「俺、今、ものすごく感動しているんです」

「お、おー」

「俺、あかりさんの言ったこと信じてませんでした。ミーナさんには俺しかいないってこと。そんなわけないって思ってました。でも、今、ミーナさんも同じこと言ってくれました。嬉しいです。嬉しくて嬉しくて。俺、絶対にミーナさんを裏切ったりしません。ミーナさんのそばを離れません。ミーナさんの言うことに何でも従います。ミーナさんが喜ぶなら、どんな恰好でもします。だって、俺、ミーナさんのことが好きで好きでたまらないんですから」

「ああ、遼ちゃん」

 遼平の言葉にたまらず、膝立ちのまま美菜は遼平を抱きしめた。露出している二の腕が触れ合って心地よい。若葉の匂いがした。鼓動の大きさと激しさが、遼平の驚きと感動を伝えている。

 通行人の視線を感じるが気にならない。「どうしたの」という年配の男性の声がしたが、あかりが「あたしたち、青春してるんです。邪魔しないでください」と追い払った。このままずっと遼平を抱きしめていたかったがそうもいかず、

「遼ちゃん、ありがとう。あかりちゃんも。もう、大丈夫」そう言ったものの、立ち上がろうとするとふらついた。あかりと遼平が両側から支えてくれた。

「ありがとう。もう帰ろうか。本当は遊園地にでも行って、遼ちゃんの可愛さを見せつけてやろうかと思ってたけど、ちょっと無理みたい。ごめんね」

「そんなのいつでも行けます。もう帰りましょう。私たちの肩につかまってください」

 美菜はふたりの肩に両手を回して体を支えてもらった。

「遼ちゃん、ミーナ先輩の腰に手を回して、しっかり支えて、こんな時、変な遠慮しちゃだめよ」

「わかった」

 両脇がふたりの体に密着する。腰を支えられる手が頼もしく、心に染みる。

「遼ちゃん、ミーナ先輩のおっぱいが当たってるでしょ。どんな感じ」

「あ、あかりさん!」

「ふふ、ごめんね。私のおっぱい、ぺったんこなの。あかりちゃんのおっぱい凄いよ。代わってみようか」

「み、ミーナ先輩!」

「あはは、楽しいな。楽しくて楽しくてしかたがない……」また涙が溢れる。

「ミーナ先輩…」

「ごめんなさいね。情緒不安定みたい。訳わかんないよね」

 腰に回された遼平の手に力が込められている。無言の励ましを感じる。

「あのね。私、このところずっと夢の中にいるみたいな気がするの。比喩的な意味じゃないよ。そのまま、誰かの夢の中。私じゃない私の。例えば、意識不明で眠り続けている私の夢の中の存在じゃないかって。なぜそう思うかっていう説明は難しいけど」

 ふたりとも真剣に聞いている。

「アルカディアに来て、遼ちゃんに会ったとき、すぐにわかった。私は遼ちゃんに会うために生まれてきたんだと」

 本当は遼平に会うためにアルカディアに来たこと、いつか話すからね。

「遼ちゃんを女の子のようにするのが、遼ちゃんと私のために必要だと思って、遼ちゃんに無理言った。でも、遼ちゃんは私の期待以上に、きれいにかわいくなった。美容室の鏡の中の遼ちゃんを見たとき、この世のものと思えなかった。あり得ないって思った。これは夢だと思った」

 遼平の手が震えている。泣いているのかもしれない。

「あかりちゃんもよ。会ってすぐにこの人にはなんでも話せるって思った。女の子って面倒くさいのよ。言ってることと思ってることが違うことが多くて。でも、あかりちゃんはまっすぐ。あかりちゃんの言うことなら何でも信じられる」

 あかりの手にも力が込められる。肩に置いた手をずらして素肌の二の腕を撫でて答えた。

「私は、アルカディアで二つの宝物を見つけたの。遼ちゃんとあかりちゃん。遼ちゃんは私がなって欲しい人になってくれる。あかりちゃんは、私がして欲しいことをやってくれる。アルカディアに来て、まだ一週間にもならないけど、こんなに楽しくてわくわくした日々を過ごしたことはなかったと思うの」

「あたしも楽しかったです。ミーナ先輩に感謝しています」

「うん、ありがとう。でもね、あまりにも思った通りに進み過ぎている気がするの。ううん、思った以上にうまくいっている、なにもかも。これって夢の中のできごとじゃないかって思ってしまったの」

「俺、夢でもいいです。ミーナさんに好きでたまらないなんて言ってもらえて、抱きしめられて、本当に夢を見ているようです。夢でもいいから、これが続いてくれたらいいです」

「そうなのよ、遼ちゃん。私も夢でもいいと思ったの。遼ちゃんとあかりちゃんがそばにいてくれたら、それでいい。でもね、でも、夢なら覚めるかもしれないって思ってしまったの。目覚めたとき、遼ちゃんもあかりちゃんもいなかったら、私耐えられない。それが怖くて怖くて仕方がないの。ふたりのことを知らなければ、なんでもないことかもしれない。でも、私は出会ってしまったの、かけがえのない二人に。その二人を、私の宝物を失ったらと思うと……」

 再び崩れ落ちそうになる美菜を、遼平とあかりがしっかりと支えている。肩に置いた手を握ってくれている。その手を通して二人と心が繋がっていると思った。

 しかし、と美菜は思う。美菜の心配を、その深刻さを本当にはわかっていないと。それをわかってもらうには、謎の部屋のこと、VRのこと、48歳の美菜の夢のことを話さなければならない。あの部屋での遼平との心震わせたセックスも。

 それはできない。それを話せば、遼平はもちろん、あかりの心も離れていくような気がした。

「ミーナ先輩、あたしも、先輩や遼ちゃんと過ごしたこの何日かが夢のようだと思っています。でもそれは、あくまであたしの夢、自分の夢の中なら納得できます。本音を言えば、そんな訳ない、これは現実だと思っていますけど、夢だということを100%否定はできません」

 うん、それが普通だよね。

「でも、これが先輩や他の誰かの夢の中ということには、強烈な違和感があります。あたしはあたしです。ちゃんと自分の意志で行動しています。誰か他の人の夢の中でこんなことができるとは思えません。それは遼ちゃんやミーナ先輩も同じだと思います」

 うんうん、そうだよね。

「でも、そんなことはミーナ先輩もわかっていると思うんです。あたしにはわからない何かを感じているから心配しているんだろうと思います。先輩の心配は、目覚めたときに、あたしや遼ちゃんがいなくなってることですよね」

「うん、そうだね」

「こう考えたらどうでしょう。現実でも何があるかわかりませんよね。事故や事件、天災に病気、あたしたちのだれかがそれに巻き込まれていなくなることだってあり得ます。そんなこと考えただけで胸が苦しくなりますけど……」

 あかりの声が震えている。

「でも、だから何なんです」お、立ち直った。

「今日だってそうです。だれかが事故にあうかもしれない。こんな恰好して通り魔に襲われるかもしれない。それを心配して出かけることをやめたら、この宝石のような一日がなくなってしまうんです。あたしは今日一日で、ミーナ先輩や遼ちゃんと心が繋がった気がしてるんです。あたしだって、先輩と遼ちゃんが大好きです。好きで好きでたまらなくなりました」

 そう言って、あかりが泣き出した。声を上げて泣いている。

「うんうん、そうだね。ほんとにそうだね」

 もらい泣きしながら、美菜が言った。

「だから、だから、あたしの前から消えたりしないでください。あたし、嫌です。先輩や遼ちゃんがいなくなるなんて、絶対嫌です」

 そう言って、あかりは美菜に抱きついた。号泣している。遼平も泣きながら、美菜とあかりを横抱きにしている。

 通行人が何事だろうかと眺めながら通り過ぎる。

「うんうん、あかりちゃんの言う通りだね。明日何が起こるかなんて、だれにもわからないものね。今が大事なんだよね。私もあかりちゃんのことが大好きだよ。だからね、もう泣き止んで。みんなが見てる。さすがに恥ずかしいかも」

 あかりをぎゅっと抱きしめる。

「ごめんなさい。なんだか急にミーナ先輩がいなくなるような気がして」

 あかりは泣き止んだが、遼平はまだ泣いている。

「ほら、遼ちゃんも泣き止んで。私の情緒不安定がみんなに伝染しちゃったみたいね。私ももう大丈夫だから、手をつないで帰ろう。恋人つなぎね」

 美菜を中心に、五本の指を相手の指の間に入れる恋人つなぎで、歩き出した。

「あかりちゃん、ありがとね。今日一緒にきてくれて。あかりちゃんと一緒にいると、安心できるし、とても楽しい。あかりちゃんとは、ずっと一緒にいたい。遼ちゃんとずっと一緒にいたいとは思わないけど」

「ええー」遼平が抗議の声を上げる。顔が涙にまみれている。

「なんて顔してるの。かわいい顔が台無しじゃない。だってお風呂には一緒に入れないでしょ。あかりちゃんとならベッドも一緒に入れるし」

「お風呂はいいですけど、ベッドは遠慮しときます。レズの先輩に何されるかわからないから」

「あら、何もしないよ。その見事な胸に顔を埋めるくらいかな」

「な、なんてことを。ベッドには遼ちゃんと入ってください。あたしじゃ赤ちゃん作ってあげられないから」

「いやだ。あかりちゃん、エッチ」

「どっちが」

「エッチと言えば、あかりちゃん、彼氏いるの?」

「エッチと言えばって……はい、います」

「そりゃそうだよね。あかりちゃん、もてそうだし」

「そうでもないですけど、まあ告白なら何人かにされたことがあります」

「へー、学校の人?」

「あ、告白はそうですけど、彼氏は違います。社会人です」

「社会人、じゃ、仕事帰りに会ってるの」

「いえ、仕事中に会ってます」

「仕事中? お客さん?」

「いえ、お客さんじゃないです」

「え、え、てことは…まさか」

「はい、そのまさかです、たぶん」

「マスター」遼平とハモった。今日はよくハモる日だ。

「はい、正解です」

「えーーーーー」

「そんなに驚かなくても」

「え、だって、そんな気配全くなかったでしょう」

「はい、マスター、気配を消すの得意ですから」

「いや、その気配じゃなくて、付き合ってる気配。遼ちゃん、私より長いでしょ。全然気づかなかったの」

「いや、俺はミーナさんより五日早いだけですから」

「あ、そうなんだ。でも、仕事中は仕事の会話しかしてないよね」

「あ、はい。お客さんが切れたとき、マスター、よく煙草を吸いに外に出るんです。駐車場の横のベンチで。私も後から行って話してます。短い時間ですけど。あとは閉店後かな。これはけっこう長い時間話してます。昨日なんか遼ちゃんの話でめっちゃ盛り上がったんですよ。かわいかったなって」

「はー、全然気づかなかった。なんか悔しい。なんで黙ってたの」

「いや、聞かれなかったからですよ。自分からこんな話すると自慢してるみたいで嫌じゃないですか」

「そっか。マスターって何歳なの」

「えっと、35歳かな」

「ふーん、独身?」

「もちろんですよ。不倫なんかしません」

「あかりちゃんは16歳?」

「こないだ誕生日がきましたから、17歳になりました」

「35歳と17歳、これって犯罪じゃないの?」

「付き合ってるだけなら犯罪じゃないと思いますけど、エッチなことをすると犯罪です。えっと、なんて言ったかな。確か青少年健全育成条例とかいって、18歳未満の人にみだらな行為をすると処罰されるそうです」

「んで、みだらな行為をやったの?」

「ミーナ先輩、めっちゃ興味津々じゃないですか、先輩、女子高生ですよ」

「それ、だれかにも言われた気がする。いいから、ミーナ先輩に言ってミーナ」

「あはは、おもしろーい。どうしよっかな。マスターにだれにも話さないって約束してるんですけど」

「ってことはやったってことだね。何やられたの。おっぱい触られたとか」

「もう、なんでそんなに直球なんですか。胸って言ってください」

「同じことじゃ」

「完全におばさん化してますね。はいはい、さわられました。それだけじゃなくて、一番エッチなこともされちゃいました」

「何、え、え、それって、セ………ックスってこと? キャーー、どうしましょ。遼ちゃん、何興奮してんの」

「え?」

「興奮してるの、ミーナ先輩でしょう。あ、遼ちゃん、おめめまん丸、かわいいー。遼ちゃんもこんな話、興味あるの?」

 遼平が激しく頷く。

「で、どうして、そういうことになったの。最初から話してよ。馴れ初めから」

「馴れ初めったって、アルカディアに決まってますけど。あたし、去年の夏休みからアルカディアで働き始めたんです。その時、マスターに初めて会って、一目惚れしたんです。なんて恰好いいの。男の中の男だって」

「うん、まあ、そういうのは人それぞれだからね。それで?」

「最初は、仕事中に仕事の話だけだったんですけど、夏休みの終わりごろに、ブレンドの新作を試したいから、手伝ってくれないかというから行ったんです。お店の休みの日に」

「ブレンド? 珈琲の?」

「はい、手伝いといっても、出された珈琲を飲んで、おいしいとか、ちょっと酸っぱいとか感想を言っただけで、役に立ったかどうかわかんないですけど」

「その時は何もなかったの」

「はい、手も触れていません。でも、それからはほぼ毎週、休みのたびに会いに行ってました」

「ブレンドの新作で?」

「いえ、それは最初だけです。あたし、珈琲には詳しくないんで役に立たないと思われたんじゃないかと。ただ、会って話をするだけです。あたしは学校の話くらいしかできないんですけど、マスターは話題が豊富なんですよ」

「へー、どんな話。あ、いいや。それより、エッチの場面に行こう」

「えー、それ、話したいです。マスターがどんなに凄い人なのか自慢したかったのにー」

「それはまた、いつか聞いてあげるから、それよりエッチ」

「もう、先輩ったら。じゃあ、話しますけどね。クリスマスイブの日のことです。あたし、いつもは一時くらいにはアルカディアに行ってたんですが、その日はクリスマスプレゼントとか買っていたんで、三時過ぎになってしまったんです。事務室のドアを開けたら、いきなりキスされたんです」

「いきなり?」

「はい、いきなり抱きしめられて、キスされました。抱きしめられたままソファーに倒れこみました。テーブルの上にはビールの空き缶が五本くらい倒れていました。マスターはいつも話しながら、ビールを飲んでいたんですが、いつもは一本か二本でした。あたしが遅くなったので、待ってる間に飲みすぎちゃったんですね。それで、無言でキスされて、無言で服を脱がされました」

「全部?」

「はい」

「パンツも?」

「全部です!」強い口調。

「そんなに怒らなくても」

「怒ってません。恥ずかしいんです。全部って言えばわかるでしょう」

「いや、正確に想像するには確かめないと」

「いやー、そんな想像しないでください。遼ちゃんも聞いてるんですよ。あ、遼ちゃん、またおめめまん丸、いやだ、生唾飲み込んでるし。だめー、想像しないで」

「そんなに興奮しないで。それから?」

「そ、それで終わりです。あとは一番エッチなことをされました」

「え、もう終わり。その前にいろいろやるでしょ」

「いろいろって?」

「だから、普通やるでしょう。いろんなところを撫でられて、気持ちよくしてもらうこと」

「はいはい、あちこち撫でられて、気持ちよくしてもらいました」

「お、開き直ったね。最後のも気持ちよかった?」

「どうでしょう。なんか我慢してた感じですかね。あれって何回かやれば気持ちよくなるんでしょうか」

「さあ、経験ないからわからない」

 嘘が心に刺さった。あかりが正直に話してくれているのに、強姦されたことや夢の中での遼平との至福のセックスを話すことはできなかった。

「そっか、先輩は男が嫌いなんですよね」

「そうなの、自分が男にそんなことされるなんて、思っただけで鳥肌よ」

「あのー、こんなこと聞いてもいいのかな……」

「いいよ。何でも聞いて」

「女の子だったらいいんですか」

「そうね、じゃあ、あかりちゃんに聞いてもらおうかな、私の恋話。遼ちゃんにも」

 あかりと遼平が頷く。


 高校に入ってすぐに仲良くなった女の子がいた。ポニーテールが似合うかわいい子で笑顔が素敵だった。なにより、裏表のない真っすぐな性格に惹かれた。登下校、休み時間、いつも一緒だった。友達の話、先生の悪口、好きな音楽や映画や本、話題は尽きなかった。

 彼女といっしょにいると、明るい気分になれたし、わくわくした。

 そんな気持ちがいつしか恋心に変わった。いつも彼女のことを考えていた。授業中、食事中、入浴中、今彼女は何をしているんだろうと考えている自分に気づく。夜は、枕を彼女に見立てて抱きしめ、互いの服を脱がし、互いの体を慈しみあう妄想にふけりながら眠りについた。

 美菜がそんな気持ちでいることも知らず、彼女は平然とハグしてくる。一日に何度も。そのたびに、美菜は強く抱きしめたい衝動を抑えるのに必死だった。

 苦しかった。この苦しみから解放されるには告白するしかないと思った。しかし、あなたが好きだと告白すれば、99.9%、美菜から離れていくだろう。0.1%に賭けようと決心しても、次の瞬間、彼女を失うことに怖気づいてしまう。苦しみのハグも手放したくないと思ってしまう。

 そんなことを繰り返していたある日、彼女の方から告白された。「彼氏ができた」と。三日後には「キスした」と。一週間後には「セックスした」と告げられた。

「この気持ちわかる? 好きで好きでたまらなかった人から、他の人とセックスしたって嬉しそうに言われた気持ち。真っ裸にされて、いろんなところを愛撫されて、天国に行っちゃったって。セックスは痛かったけど、彼と結ばれて嬉しかったって、あの輝く笑顔を見せられた気持ちが」

 あかりも遼平も下を向いている。

「彼女に悪気はないことはわかってるの。私のことを友だちとしてだけど、本当に好きで信頼してるから、正直にありのままに話してくれたことも。でもね、でもね、やっぱり思ってしまうの。なんでこんなにつらい思いをしなきゃいけないのって」

 美菜はその時の思いが蘇り、嗚咽がこぼれ落ちた。

「ミーナ先輩、ごめんなさい。先輩がそんなつらい思いをしてたのに、嬉しそうに自分の体験を話しちゃって」

 あかりが泣きながら言った。

「あ、いいのよ、あかりちゃん。あかりちゃんが幸せそうで、私も嬉しかったから。それにね、こんな話、だれにも言えないでしょ。初めて人に話してすっきりしちゃった」

 気づくと、遼平も美菜の左腕にしがみついて泣いている。

「あらやだ、遼ちゃん、鼻水垂れてるよ。私にくっつけないで」

 美菜はバッグからティッシュを取り出し、鼻水を拭き取ってやった。

「遼ちゃんもありがとね、泣いてくれて。こうやってだれかが泣いてくれると、つらい経験も宝物に変わるんだよね」

 あかりも遼平も泣き続けている。

「それにね、私はもう救われてたの。彼女、森下祐美(ゆみ)っていうんだけど、私が転校するって言ったとき、行かないでって泣いてくれたの。駅のホームで『ミーナ好きだよ』って強く抱きしめてくれて、『行っちゃやだ』って、号泣してくれたの。私も『祐美大好きだよ』って思う存分抱きしめ返すことができたの」

 美菜はまた嗚咽がこみ上げ、続けることができなくなった。

 三人はしばらく無言で歩き続けた。美菜のアパートの前に着いたとき、あかりが泣きながら美菜に抱きついて言った。

「ミーナ先輩、可哀そう。あたし、先輩を慰めるためならなんでもします。ベッドにも一緒に入ります」

 美菜は、あかりの顔を上げさせ、鼻をつついて言った。

「こら、今の言葉、私にとっては、とってもエッチなお誘いに聞こえるんだけど、わかってる?」

「あ」

「ふふ、そんなことしたらマスターと修羅場になっちゃうじゃない。でも、ありがとね。あかりちゃんは今まで通り、私のそばにいて、話し相手になってくれれば十分よ。そして、遼ちゃん」

 右手であかりを抱いたまま、左手で泣いている遼平を抱き寄せた。

「いつかセックスしようね」

 遼平が噎せた。

「大丈夫?」

「びっくりした。いきなり何言うんですか」

「なに、嫌なの?」

「いえ、そんな、嫌だなんて。喜んでいただきます」

「いただきますって、変なの。でも、今はだめ。私の心にまだ祐美がいる。遼ちゃんが祐美を追い出して、遼ちゃん一色になったらしようね」

「はい、楽しみに待ってます。いつ頃になりそうですか」

「んー、30年後?」

 また遼平が噎せる。

「冗談よ。そんなのわかんないし。遼ちゃん、顔よく見せて」

 少ししゃがんだ遼平の顔を覗き込む。両手の親指で涙の跡を拭き取り、まじまじと眺めた。切なくなるほど可憐な遼平の顔。後れ毛が心に刺さる。

「遼ちゃんの顔をよーく目に焼き付けて、今日は眠るね。遼ちゃんのことをもっともっと好きになるから、その時にね」

「うん、俺も、ミーナさんにもっと好きになってもらえるように、かわいくなりたい」

「じゃあね、また明日。今日はほんとにありがとう。とってもとっても楽しかったよ」

 そう言って、美菜は遼平を抱きしめた。遼平も抱きしめ返す。

「俺も楽しかった。ミーナさんにまた明日会えるのが楽しみです」

 遼平の家は、美菜のアパートから少し距離があるため、自転車で来ていた。アパートの駐輪場からひいてきた自転車に乗ろうとした遼平にあかりが言った。

「遼ちゃん、スカートをお尻とサドルに間に挟んで乗るのよ。そうしないと、後ろからパンツ見えちゃうからね」

 遼平が言われた通りにする。

「そうそう、それでいい。それから、こぐときに両ひざがあたる感じでこぐのよ。がに股にならないように」

「わかった」

「あんまり飛ばさないでね。こけて、遼ちゃんのきれいな脚を傷つけないようにね」

「わかった。じゃあね、ミーナさん、あかりさん」

 遼平が、サドルに跨ったまま、胸の前で小さく手を振って、自転車をこぎ始めた。

「じゃあね、遼ちゃん、気をつけて」美菜とあかりが声を合わせる。

 遼平の後ろ姿をしばらく見送った後、あかりが言った。

「あんな男の子がいるなんて、あたし、まだ信じられない。なんか仕草も女の子っぽくなっちゃって」

「ほんとにねぇ。かわいくて、恰好いいんだもんね。あかりちゃんは母親してたしね」

「なんか放っとけなくて、構いたくなっちゃうんですよ。母性本能ってやつです」

「あかりちゃんは、口うるさい、いいお母さんになりそう」

「それって、褒めてます?」

「もちろんよ。口うるさいのは、いいお母さんの条件よ」

 遼平が帰った方角から西日が射してきた。美菜は西日の中で、両手を伸ばして背伸びをした。


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