VR治療
目が覚めると病院のベッドの上にいた。ということはやはり夢だったのか。それにしてもリアルだった。全身に美菜の肌の感触が残っている。甘くて爽やかな美菜の体臭も残っているし、なにより美菜の全体重を支えていた幸福感の中にいた。
頭にはフルフェイスのヘルメットのようなものがつけられ、無数の線が毛布の下に伸びている。毛布をめくるとその線は体中に装着されていた。また裸だった。一瞬「全裸好きねえ」と言った美菜の言葉が思い出され、笑いの発作に襲われかける。
気づけば、どこからかアラームが鳴っている。そのアラームに呼ばれたのか、パタパタと慌てたように看護師が入ってきた。名前を呼ばれたので返事すると「大変」と言って、また走り去った。
何が大変なんだろうと考えていると、今度はドタバタと数人の足音がして三人の人物が入ってきた。その中の医師らしき男が「仁藤さん、目が覚めたのですね」と言うから「はい」と答えた。
山崎という40歳前後のその若い医師によれば、私は二か月近く意識がなかったらしい。五階建てのアパートの屋上から飛び降り自殺を図ったという。足を骨折していたが、脳には異常はなく、にもかかわらず意識が戻らなかったというのだ。そこで最新のVRバーチャルリアリティーを応用した治療を施したのだそうだ。
「あなたは意識を失っているあいだ、夢を見ましたか」と、山崎が尋ねた。
「はい、非常にリアルでとても夢とは思えませんでした、非現実的なこともあったので、夢かもしれないとは思っていました」
「それがVRの特徴です。あり得ないことが現実に起きているかのように感じるのです。これから少し失礼なことをお聞きします。答えたくなければお断りされても構いませんが、これからの参考のためにできれば答えていただきたいと思っています。あなたは夢の中で性交渉をされましたか」
「……はい」少し躊躇したが正直に答える。
「ありがとうございます。恥ずかしがることはありません。生還された方の多くが性交渉を行っています。やはり性行為は人間の心と体に大きな影響を与えるものです。そのことで意識を取り戻すことが多いのです。もうひとつ、そのお相手はあなたの知っている方でしたか」
「はい」
「…ああ、そうでしたか」あれ、失望している雰囲気。
「え、まずかったですか」
「いえ、まずいことはありません。あなたはこうして無事に生還されたわけですから大成功です。ただ私どもの期待とは少し違っていたものですから」
そう言って山崎はVR治療について説明してくれた。
VR治療には二つの種類があるという。治療対象者がひとりのシングルVRとふたりのツインVR。VR治療が始まった三年前はすべてシングルだったが、その成功率は一%にも満たなかったという。そこで一年ほど前から二台のVRをインターネットで繋いだツインVRが開発され、大きな成果を上げていた。
シングルの場合、VRが見せる夢は普通の夢と基本的に同じである。ただリアルというだけである。それに対しツインの場合は、二人が同時に同じ夢を見ていて、その夢の中で会話しているのだという。
「ですから、シングルの場合、お相手は対象者の想いを寄せている人になることが多いのです。あなたはどうでしたか」
「はい、直接の知り合いではなく、テレビで憧れている人でしたが…」
「直接知っているかどうかは関係ありません。その存在を知っていればシングル、存在を全く知らなければツインVRの効果だと判定されます。あなたの場合、ツインに繋いでいましたが、効果としてはシングルVRのものだと思われます」
「でも、どうなんでしょう。シングルの場合、想い人と想いを遂げられるなら感動は大きいように思えるのですが、どうして生還率が低いのでしょう」
「そうですね。これは私の推測なのですが、シングルの場合のお相手は、あくまで対象者本人の頭の中で作り出しているものです。ですから、どんなに予想外の行動に見えても、無意識レベルを含めると、本人にとっては予定調和しているのです。非常にリアルですから、感動はあるでしょうが、驚きはないと思われます」
「なるほど」
「一方、ツインの場合、見知らぬ二人が出会い、興味・関心を話し合い、惹かれあって、恋愛感情に発展し、結ばれるという過程を辿ります。そこには予定調和はありません。場合によっては喧嘩して、そのあと一言も口をきかないケースもあるかもしれません」
「実際にそんなケースがあったのですか」
「それはわかりません。そのような場合は目覚めませんので、私どもには本人がどんな夢を見ていたのか分かりようがないのです。ただ、うまくいった場合の新鮮な驚きは格別なようで、皆さん興奮気味に夢の内容を教えてくれます。感動もシングルの場合より大きいかもしれません」
「そうなんですね。でも見知らぬ二人が惹かれあうなんてことが簡単に起こるものですか」
「そこなんです」
よくぞ聞いてくれたとばかりに、声のトーンが上がった。
「そこは、相性です。私どもは適合率と呼んでいます。ご家族の了承の下、対象者の興味・関心を徹底的に調べます。好きな本、漫画、テレビ、映画、日記や手紙、果てはネットの検索データなど、ありとあらゆる個人情報を集めて、AI人工知能に読ませます。そうして適合率50%以上のとき初めて、ツインVRにかけます。闇雲にやる訳にはいきません。なにしろ一回あたり、VR管理会社に百数十万円の使用料を払う必要があります。保険適用はありません」
なるほど、だから失望したのか。せっかくデータを集めたのに無駄だったという。
「あなた方の適合率は82%という驚異的なものでした。これまでは高くても60%台でした。最高でも70%です。ですから今回はきっと成功すると期待していたのです」
「なんだか申し訳ないです。いろいろご苦労されたのに、無駄にしてしまって…」
「いえいえ、それは大丈夫です。一番大切なことは患者さんが意識を取り戻すことですから。ただひとつ気がかりなのはお相手のことです。あなたがシングルで帰ってきたということは、ツインの効果が出ていないということなので、おそらく意識は戻っていないと思います。しかしそれは断じてあなたの責任ではありません。ツインの場合でも片方だけが生還することはよくあることなんです」
「相手の方の意識が戻ったかどうかはわかるのですか」
「はい、それだけは管理会社が教えてくれます。逆に言うとそれ以外、名前や年齢、入院先などは絶対に教えてくれません。ツインで戻られた方はそれを知りたがります。実際に会って結婚したいというのです。気持ちはわかりますが、私どもも知らないので教えようがありません。もっとも夢の中で名前は教えあっているでしょうから、今の時代、ネットを駆使して会っている方もいらっしゃると思いますが」
「そうですね。その気持ち、よくわかります」
「それで、最後にお願いなのですが、あなたの夢の内容をできるだけ詳しく教えていただけないでしょうか。もちろんどうしても話したくない部分は省いてもらっても構わないのですが、性行為の部分は、極力詳しくお願いします。恥ずかしいとは思いますが、そこがこの治療の要だと思いますので」
「……わかりました」
戸惑いながら話し始めたのだが、話し始めて気づいた。自分が話したがっていることに。こんなこと誰にも話せないし、そもそも話す相手がいない。できるだけ詳しくと言われたことをいいことに、微に入り細に入り、会話もそのまま思い出せる限り正確に伝えた。
ただ、美菜の初体験、高校教師に強姦されたことは話せなかった。
「そうですか、石谷美菜さん。覚えています。私は小学生だったのですが、中学生の兄が大ファンでした。いなくなって兄がショックを受けていたのをよく覚えています。それから、最近のVRは、窓もドアもない部屋に裸で閉じ込められるという設定で始まるのがほとんどです。この設定の成功率が高いということを、VRに搭載されたAIが学習した結果です。性行為から始まれば、というか肌を許した相手には打ち解けやすいということでしょうか。しかもお互い裸だから本音で話しやすい。もともと相性がいい相手ですから、恋愛感情に結び付きやすい」
なるほど、と思った。しかし、相手が美菜ではなかったら、見知らぬだれかだったら、うまくいったのだろうか、全く自信がなかった。
「気になったのは…お相手が石谷さんと伺って、これはシングルで間違いないと思ったのですが、気になる点がいくつかあります。ひとつは最後の性行為の場面で、あなたが盛り上がって挿入しようとしたのを、石谷さんが抱きしめて阻止したところがありましたね」
「はい」セックスの場面を冷静に振り返られるのは、少し恥ずかしいかも。
「シングルは基本的には普通の夢と同じです。夢で今まさに挿入というときにブレーキをかけられるかということです。正確に言うと、石谷さんをしてブレーキをかけさせられるだろうか。シングルですから石谷さんもあなたが動かしているのですから」
「はあ、そうなんですか」よくわからない。
「もうひとつは、あなたが下宿のおばさんに襲われる場面」
だから、そんなに冷静に話さないで。
「そのあと、ふたりで大笑いする場面、そのときの会話がすごく自然でおもしろいのです。笑いが伝染して、私も笑いをこらえるのに苦労しました。まるで小説を読み聞かされているようでした。いや小説家でもこんな夢は見ないでしょう。これはツインではないかと思いました。だとすると、お相手は石谷美菜さんということになります。そんな偶然があるのでしょうか。いやもちろん可能性はゼロではない。が、しかし…、適合率82%……、あなたはリアルで石谷さんにお会いになったことがありますか」
「いえ、ありません。ミーナさんは私の存在さえ知らないはずです」
「そうですか。もともと知り合いであれば、適合率82%の謎も解けるかと思ったのですが……。今ここでいろいろ悩んでも仕方ありません。明日になれば、管理会社からお相手の方が目覚めたかどうかの報告があります。もし目覚めていれば、ツインが働き、お相手が石谷さんである可能性が高まります。あくまで可能性で本当のところはわかりません。お相手の個人情報は私どもには決して伝えられません。同様にあなたの個人情報、私どもが集めたデータ、さきほど伺ったあなたの夢が外部に漏れることは決してありません。そして、あなたも夢の内容を外部に話さないでいただきたいのです。これは退院のときに誓約書にサインしていただきます。この話が外部に漏れると、いくら治療のためとはいえ、病院が患者に性行為の夢を見させるのかといったいらぬ誤解を与えかねないからです。週刊誌の恰好のネタとなります。さらに下手をすると、VRが性風俗産業に利用されてしまうかもしれません」
「わかりました」
「長くなってしまいました。お疲れになったでしょう。ゆっくりお休みになってください。また、明日診察にまいります」
山崎が病室から出て行ったあと、遼平は非常な疲れを感じていた。
美菜との楽しかった時間が夢だという。それを論理的に説明され、遼平も納得した。残念だと思うが、それでも構わないと思った。あれほどリアルな夢なら現実とどう違うのか。実際に全身に美菜の肌の感触、温もりが残っている。美菜の香りも、甘さが少し薄れ、美菜のイメージそのものの柑橘系の香りが鼻に残っている。仰向けになって手を伸ばせば、至福の重みを全身で感じることができる。
「ミーナさん」と声に出し、その架空の重みを抱きしめる。
美菜とはもう会えない。意識を取り戻した以上は、VRを使うことはできない。悲しかったが、美菜との思い出があれば生きていける。そう思いながら遼平は眠りについた。
次の朝、朝食後に、山崎が病室にやってきた。
「おはようございます、仁藤さん。調子はどうですか」
「おはようございます。大丈夫です。それで、相手の方は目覚められたのでしょうか」
「それが、残念ながら目覚められていません。ただVR中に脳波に変化が見られたそうです。さらに、あなたが目覚める直前の時間帯に、指が動いたそうです。見守っていたご家族の手を握り返したということです」
「ということは、ツイン…」
「そうですね、ツインの効果が働いたと言っていいと思います。そして、お相手が石谷さんである可能性が高まったということです」
遼平は嬉しかった。シングルであれば、夢の中の美菜は遼平の心が創り出したもので、いわばひとり芝居をしていたことになる。それではあまりに虚しかった。美菜と心が繋がった瞬間は本物だと思いたかった。
「先生、ミーナさんに会うことはできませんか」
「昨日申し上げた通り、私どもはお相手の情報を全く持っていませんので、現実には無理です。ただ夢でならもう一度会えるかもしれません」
「え、どういうことですか」
「お相手のご家族から、もう一度あなたとツインVRを試させてくれないかとの申し出があったのです」
「それは、私の方からもぜひ…あ、お金か」
「料金は問題ありません。先方が全額持つと言われています。問題なのは、これまで健常者、つまり意識喪失していない方とのツインVRは一度も成功していないということです」
「そうなんですね。だったらなぜ私と」
「ええ、私も申し上げました。ほかの意識不明者と試した方が、可能性が高いのではと。お相手のご家族ではなく、間に入っている管理会社の担当者に」
遼平は、夢であっても美菜に会いたいと痛切に思っていたが、美菜が目覚める可能性が高い方法をとるべきだと、自分を納得させようとしていた。
「その担当者から驚くべき話を聞いたのです」
「……」
「お相手の方と仁藤さんとの適合率が82%というのはお話したと思います」
「あ、はい」
「お相手の方と仁藤さん以外の方との適合率が軒並み10%台だというのです」
「はあ」
「82%というのも驚異的な数字ですが、10%台というのもあり得ない数字なのです。少なくとも私は初めて聞きました。それが軒並みというのですから驚きです。わかりやすく言うと、82%は会ってすぐに恋に落ちるレベル、10%台は、それの逆ですから、嫌悪感だけで口もききたくないレベルでしょうか。こんな人と裸で部屋に閉じ込められるなど、考えただけでぞっとします。心が壊れてしまうかもしれません。おそらくはAIがそれを察知してツインVRに繋がないと思います。ですから、これはやっても意味がない、というより、やってはいけない治療と言えます」
「しかし、健常者とでは成功したことがないのでは」
「はい、今まではそうです。しかしこの82%という数字も今までにないものです。おそらく先方のご家族もこの数字に賭けて、藁にも縋る思いなのではないかと。私もやってみる価値があるかと思います」
「わかりました。そういうことでしたら喜んで、というより私の方からもお願いしたいです。因みに私の適合率はどうだったんですか。ミーナさん以外の」
「ちょっと待ってください」そう言って、椅子に座って手元の資料を調べている。
「57%と52%、あとはすべて40%台です。82%を除けば非常に標準的です。ほとんどの人が40から60の間に分布しています。ごく稀に30台も見ることがあります。20%台すら見たことがありません。ですから石谷さんの軒並み10%台がどれほど異常かわかると思います。おっと、まだ石谷さんとは確定していませんでしたね」
「いや、私はミーナさんだと確信しています」
「そうですね。私もおそらくそうだと思っています。ところで石谷さんはどんな方なのでしょう。軒並み10%というのは非常に気になります」
「私はわかるような気がします。男が嫌いだと言ってましたから。その方たちみなさん男の方ですよね。性行為させるのですから」
「いやいや、そればかりではありませんけど、おそらく全員男性でしょう。しかし、仁藤さんだって男性ですよね」
「私は女の子みたいだとか言ってました。ほんと失礼な話です」
「ああ、そう言えば昨日、そんなことを言ってましたね。きっとそれは石谷さんにとっては誉め言葉なんですね」
山崎が立ち上がって言った。
「それでは、二回目のVRの準備に取り掛かってもよろしいですか」
「はい、ぜひお願いします」
「できるだけ成功率を上げたいので、意識喪失に似た状況、つまり睡眠中にやりたいと思っています。今は起きられたばかりなので、昼食後に睡眠導入剤を服用していただいてからとなります。それまで、ゆっくりしていてください」
ひとりになったあと、遼平は適合率のことを考えていた。82%、遼平と美菜の関係が特別なものと認められたようで嬉しかった。それはいい。適合率の話を聞いていたとき、何か大切なことを、聞かされたような気がしていた。
遼平の適合率は、美菜以外は50%台と40%台、50%台は相性まずまずといったところか。57%の人はどんな人だろう。たまに喧嘩しても、すぐ仲直りして、温かい家庭を作れるような気がした。そう考えると82%はよすぎる気がする。相性がよすぎるとどんな不都合が起こるのだろう。考えてもわからなかった。
美菜の適合率はと思ったとき、背筋にひやりとしたものを感じた。10%台、山崎医師によれば、嫌悪感だけで口もききたくないレベルだという。そんなに男が嫌いなのか。確かに「男は大っ嫌い」と言っていたが、こんなに深刻なものとは思っていなかった。美菜の心の闇を覗いたような気がした。同時に、美菜を幸せにできるのは自分だけだ、美菜を守りたいと、心から思った。
そもそも、遼平は自殺未遂でこの病院にいる。記憶はないが死ぬことばかり考えていたから違和感はない。そして、意識喪失していた遼平をVRに繋がれた美菜が救ってくれた。これからは美菜を守るために生きて行こうと思った。四八歳の美菜を想像しようとしたがうまくいかなかった。まあいい、82%は会ってすぐに恋に落ちるレベルだから、会えば解決する。まずはこれから17歳の美菜に会って、たくさん悦ばせて意識を取り戻させなければ。悦ばせるってエッチすることだよなとか考えていると、
「仁藤さん、にやにやしてないで、早く食事してください」
と、看護師に言われた。え、もうそんな時間?
「今にやにやしてました?」
「涎でも出しそうな感じでしたよ。エッチなこと考えてたんでしょう」
「うん」
「やだ。そんなの肯定しないでください。気持ち悪い」
あれ、おかしいなあ。美菜ならかわいいって言ってくれるのに。
食事も終わり、睡眠導入剤も飲んだ。
遼平は美菜を上に抱いたお気に入りの体勢を想像しながら眠りについた。