一章-3
ヴァイザー達が出ていき、しばらくすると静かに扉が開かれる。まるで忍び込むかのように、音もなく寝室に入ってきたのは王太子だ。
『殿下』
「ヴァイザー達は何と?」
『……姫が眠りについているのは、掛けられそうになった呪術が失敗したからだそうです』
「失敗?」
王太子は微かに目を見開くと、眉間に皺を寄せた。
『はい。殿下が姫様に贈った指環のおかげで、最悪の事態は回避できたそうです』
「指環の……」
王太子はまるで眩しい物を見るかのように目を細めると、自分の左手に目を落とした。黒革の手袋に包まれた手に何があると言うのだろうか、オティーリエは思わず首を傾げた。
「姫が目覚めるには、どうしたらいいんだ?」
『ヴァイザーが言うには、姫様の魂がどこかに行ってしまっている状態だそうです。目覚めさせるには術者を見つけないといけないそうなのですが……』
「術者を探しだす、か」
眉間に皺を寄せ、顎下に手を当てた。
『王太子殿下、一つ問うてもよろしいですか?』
「なんだ」
『何故、姫様を目覚めさせようとするのです?』
「何?」
『このまま、このまま姫様が目覚めなければ、貴方は新しい妻を娶る事が出来ます。これ以上北方に力をつけさせることはないでしょうし、他の貴族の方々との間に蟠りを残すことはないでしょう』
オティーリエの生家であるノルト家は由緒正しい騎士の家系だ。
数百年前まで王家の剣術指南役、騎士団の設立運営に携わってきたが、貴族以上に力を付けてきたがために王に恐れられ、雪深い大地に覆われた辺境に追いやられたと言われている。
今もなお騎士団には北方出身の者が多く、優秀な騎士を輩出する地方ではあるが貴族からの受けが悪い。血筋より実力を重んじる考え方は、血を重んじる貴族たちにとって脅威でしかないだろう。
そんな地方出身のオティーリエと結婚することは、貴族たちに不満を抱かせるようなものだ。
『姫様に情愛を抱かないうちに、離縁されることをお勧めします。その方が双方のためでもありましょう』
オティーリエの言葉に王太子は俯くと、唇を噛みしめる。
「……これを引き起こした原因は自分にあると、分かっているんだ」
何かを決心するように顔を上げた王太子にオティーリエは思わず瞠目した。ヴォルフラムの瞳に浮かぶのはいつもの冷やかな光ではなく、怒りだ。激しい炎が瞳の奥で音を立てて燃えている。それは、自分自身に対しての怒り。
「姫と話をしようとせずに、手紙で済ませようとしていた自分に腹が立つ。姫に何もできないまま、このままにしたくない。彼女を、死なせたくない」
悲痛な声がオティーリエの全身を打った。この人は心まで凍ってなどいない、自分を押し殺し王太子という職務を全うしようとしていた人だ。
「姫にとっては迷惑なことかもしれない、こんなことで償えると思っていない。だが、俺は……」
ぐっと拳を握りしめた王太子を真っすぐ見つめ、オティーリエは意外にも冷静な自分の頭に驚いていた。
『……殿下。今、姫様に手紙をお書きになったとおっしゃいましたか?』
「ああ、それが?」
『お手紙は、いつ頃からお書きに?』
「……結婚して、すぐからだが? 俺は視察も多いし、その、いくら同じ離宮で暮らしているとはいえ、断りもなく私室に入るのは失礼だろう?」
そう言って王太子は視線を逸らした。どこか照れたようなその仕草から彼が人づきあい、特に女性の扱いが苦手なのが良く分かる。
騎士に多い反応だ。普段男所帯の騎士達が、オティーリエの姿を見た瞬間蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、遠巻きにこちらの様子を窺っていた様を思い出した。
『姫様がお書きになった手紙は受け取りましたか?』
「手紙? いや、一度も受け取ったことはないが……」
『やはり』
「……おい、小鳥。何が、やはりなんだ?」
『殿下が手紙をお書きになったように、姫様も殿下宛てに手紙をお送りになっておりました』
「何だと?」
『やはり、届いていないのですね……』
王太子は顎に手を当てると、静かに頷いた。
「姫は、確かに俺に手紙を?」
『はい。お出しになっておりました。私はその様子をずっと見てまいりました』
自分が今まで書いて来た手紙が読まれていなかった衝撃にオティーリエは思わず頭を振った。まさか、このようなことをする人間が離宮の中にいるとは思いもしなかった。いや、疑おうとは思わなかった。この離宮にいる者のほとんどが、北方出身者を良しとしない貴族出が多いことを分かっていたとはいえ、理解していなかった。
「姫は手紙を誰に託していた?」
『姫様が尤も信頼している侍女に』
「名は?」
『………まさか、侍女を疑っているのですか?』
「疑うべき存在は彼女らだろう。侍女長はグレーテルか……彼女がそんなことをするとは思えない。俺付きの侍女か、姫の侍女だろう」
そう言って眉間に皺を寄せる王太子に、オティーリエは苛立ちを紛らわせるように足踏みをした。
「殿下。申し訳ございませんが、そろそろ御退出をお願い致します」
凛とした声に振り返ると、戸口には憮然とした表情を浮かべるイングリットの姿があった。今まで沈黙していたようだが、一向に部屋を出ない王太子に痺れを切らしたらしい。
「俺は、随分毛嫌いされているんだな」
王太子の呟きはオティーリエにしか聞こえなかった。
『そのようなことは……』
「すまない、この鳥の世話はどうするんだ?」
否定しようとしたオティーリエの声を遮って、王太子は銀の鳥籠を突いた。
「姫様がこのような事態ですので、私共が……」
「鳥の世話をした経験はあるのか?」
「い、いえ……」
突然の問いにイングリットは困ったように視線を巡らせ、訝しげな視線を王太子へと向ける。
「俺に任せてくれないだろうか? 鳥の世話なら慣れている」
「え?」
「それは、本当でございますか?」
驚き固まるイングリットの後ろから顔を覗かせたのはグレーテルだった。
「遠征で連れている鷹の育ての親は俺だって知っているだろう?」
『鷹……』
まさか、賢く獰猛な鳥を育てられる人がいるなど思いもしなかった。国によっては鷹に狩りをさせると聞くが、オティーリエは見たことがない。
「はい。存じ上げております。鷹の子を拾ってきたのは私でございますから」
グレーテルは一つ頷くと、彼女には珍しくうっすらと笑みを浮かべた。
「連れて行っても、構わないか?」
「王太子妃様の大切なご友人ですので、どうか……」
「分かっている」
いつもの無表情にほんの少し影を落としたグレーテルに王太子は一つ頷き返すと、慎重な手付きで鳥籠を持ち上げる。鳥籠が外された衝撃で止まり木が揺れる。オティーリエは落ちそうになるのを少しだけ羽ばたいて堪えた。
「では、預かる」
「よろしくお願いいたします」
そう言って深々と頭を下げたグレーテルの横を王太子は音もなくすり抜けて寝室を後にした。