序章-2
どんな理由があるにせよ、オティーリエにとっては話しやすい気の合う友だ。愛嬌のある小鹿のような眼に怒気が宿っている事にオティーリエは思わず苦笑した。
「イングリット、貴女がそこまで怒る事?」
「姫様は怒らなすぎですっ!王太子殿下の従妹だかと言って、あのような口を利くなど!それに、あのドレスは元々妃殿下のためにと献上されたものですのよ!?」
「……私、ああ言った派手な柄と淡い色は好きじゃないの。私が着たら浮いてしまうわ」
最新流行の柄や色だと言われ、見栄を張って似合わないドレスを着て馬鹿にされるなど、オティーリエには耐えられない。
「エミーリア様にはお似合いだったし、ドレスも似合う人のところに行けて幸せでしょう?」
「殿下はお優し過ぎます!」
まだ後ろでブツブツと文句を言っているイングリットに苦笑しながら、オティーリエは離宮へと戻った。
王太子夫妻にあてがわれた離宮は後宮に比べればこぢんまりとしているが、一国の王宮らしく調度品は一級品だ。
私室に近づくと、内側からゆっくりと扉が開かれる。
現れたのは、女性にしては高い身長の冷たい雰囲気を帯びた妙齢の侍女だった。きっちりと結い上げた暗褐色の髪、切れ長の青灰色の瞳。無表情のせいか鋭利な美貌がさらにきつく見える。
彼女の名はグレーテル・ベル。
この離宮を取り仕切る侍女頭だ。付き合いは短いが、この王宮で尤も信頼できる女性だと思っている。
「おかえりなさいませ、妃殿下」
「お茶を淹れてくれる?」
「畏まりました」
一礼したグレーテルに促されるまま室内に入る。オティーリエのために整えられた部屋は温かみのある色合いと飴色の木で造られた家具で揃えられた落ちつける空間だ。
「おかえりなさいませ、殿下」
「お疲れでございましょう」
室内に控えていた侍女達が次々に声を掛けてくる。向けられる笑みに微笑み返し、オティーリエはイングリットが引いた椅子に腰かけようとして動きを止めた。微かな小鳥の囀りが奥の部屋から聞こえてくる。
「あら、姫様の小さなご友人がお呼びですわね」
「本当。あの子は寂しがり屋ね」
からかうように言ってくるイングリットに微笑み返し、オティーリエは足を寝室へと向ける。窓辺に置かれた鳥籠からまるで出してと言わんばかりに美しい声で囀るのは瑠璃色の小鳥だった。
この国では見る事の出来ない、もっと温かな気候の土地でしか生息していない鳥は、オティーリエが雛の頃から世話をしている。
「瑠璃」
名を呼べば小さく鳴きながら、差し出した指に体を押し付けてくる。故郷から唯一共に来てくれた小さな友人にオティーリエは荒んだ心が癒されていくのを感じた。気を抜いた瞬間足元をすり抜けた感触に、思わず小さな悲鳴を上げる。
「何?!」
なーお、と少ししゃがれた声とともに足に身を摺り寄せてきたのは、いつの間にか寝室に入りこんでいたらしい一匹の大きな猫だった。
「まぁ、小熊ちゃん。また、私の寝台で寝ていたの?」
ショコラーデ色の長い毛に太い尻尾、初めて見た時小熊に見えたためオティーリエはそう呼んでいる。どこで世話をされているのか、離宮を縄張りにしているらしくオティーリエの寝室に我が物顔で入ってきては眠って帰っていくのだ。オティーリエの小さな友人に危害を加えることはないため好きにさせているのだが、一体どこで飼われている猫なのか。
「殿下、お茶が入りました」
「ありがとう。今、行くわ」
そっと鳥籠から手を離し、オティーリエは寝室を後にした。
オティーリエよりも先に寝室を出た小熊は、椅子に寝そべり大きな欠伸を漏らしている。まるでこの部屋の主は自分だとでもいうような振る舞いだ。
慣れたようにグレーテルは空いている席を引き、オティーリエに座るよう促す。窓辺に置かれた円卓の上には、白磁に青い花の模様が美しい陶器の茶器とオティーリエの大好物であるアプフェルクーヘン(林檎のケーキ)が載った皿が綺麗に並べられている。彼女の几帳面な性格を垣間見る瞬間である。
「グレーテル、私に便りは届いて?」
「……いえ、ございません」
「そう」
思っていた通りの答えはオティーリエの心を微かに揺さぶった。
ここで泣ければオティーリエは可愛い女だろう。けれど、そんな自分を晒すほどオティーリエは女らしくない。つくづく、自分のこの可愛げのない性格が嫌になってくる。
「この間新調した便箋とペンを持ってきてちょうだい」
「畏まりました」
「私がお持ちしますわ」
「いいえ、私が」
「貴女達、静かになさい」
楽しげな声を上げながら文机へと向かう侍女達にイングリットは呆れたような表情を浮かべる。
ちらりとオティーリエを一瞥してくる目はどこか不満気だ。
返事がないからと言って手紙を書くことを止めるオティーリエではない。向こうから送ってくるなと言われるまで送り続けてやる。これはもう意地だ。
「姫様、焼き菓子もどうぞ」
そう言って円卓に置かれた新たな皿には、様々な形の焼き菓子がふんだんに盛られていた。
「ありがとう」
「いえ……」
オティーリエの言葉に侍女は頬を染めると、一礼して下がっていく。ここに勤めて長いと言うのに 彼女は未だにオティーリエが話しかけると緊張しているように見えた。ふと、視界の端に一冊の書物が映った。
「大変、今日返す本だわ!」
王宮の書庫から特別に借りたそれは、貴重な書物だ。無くしたり遅れたりしたら司書に申し訳ない。
「私が行ってまいりますか?」
「いいえ、他の本も借りたいと思っていたから行くわ。グレーテル、菓子を包んでくれる?」
グレーテルは一礼すると文句ひとつ言わず焼き菓子を紙に包んでくれる。振り返れば、イングリットを始め侍女達が窺うような視線をオティーリエへと向けてきている。
どうやら、共に行くことを期待しているらしい。
「イングリット、一緒に来てちょうだい」
「はい」
オティーリエはドレスの裾を払うと再び私室を後にした。