序章
緑豊かな山々と大小様々な湖沼の恵みを受けたドゥンスト王国。歴史長き大国であり、肥沃な大地が生む経済力と軍事力を有したその国は緑濃い初夏を迎えようとしていた。
王都―湖畔に広がる美しい城下街を見下ろす小高い山の上にヴァイスブルク宮殿は存在する。
森の緑により際立つ白壁、まるで空を切り取ったかのような青い屋根。
まさにその名の通り白肌の美しい乙女を思わせる宮殿の中庭に、淑女達の楽しげな声が響いていた。
麗らかな午後、オティーリエ・ザシャ・フリーデリケ・ノルト・ドゥンストは退屈だった。王太子妃として名家の夫人、令嬢達達とのお茶会に出席することは務めのようなものだと開き直っているが退屈なモノは退屈でしかない。目の前に置かれたカップを持ち上げ、口を付けるふりをしてオティーリエは小さく溜息を零した。こういう日はお茶よりも、遠乗りに行きたい所だが田舎とは違い王都の淑女達が馬に乗ることはない。
「エミーリア様の今日のお召し物、素敵ですわ!」
「淡い紅色が御髪にとても似合っております」
耳に飛び込んできた黄色い声。
麗ら若き令嬢達はオティーリエの周りを囲み、熱い視線を向けるのはオティーリエの目の前に座る人物だ。
きつく巻かれた腰まで流れる豪奢な金色の髪、自信に満ち美しく輝くエメラルドの瞳、少し化粧が濃いが他人の目を惹きつける美貌。ヴェスト公爵令嬢―エミーリア・イーナ・ヴェストは自分に向けられる賛辞に薄紅色の唇に笑みを浮かべた。
「最近贔屓にしている仕立屋が私のために考えてくださったドレスですの」
淡い紅色の上等な生地、裾には鮮やかな薔薇の透かしが入っている。確かに彼女の美貌に良く似合う。
「美しいですわ」
「本当、素敵だと思いません、オティーリエ様?」
突然話を振られ、思わずむせそうになるのを堪える。音を立てないように気を付けながらカップを置いた。
「ええ。エミーリア様の御髪にとてもお似合いです。私ではそのように着こなせません」
そう言って笑みを浮かべたオティーリエにエミーリアはどこか勝ち誇ったように笑う。彼女が期待する答えを出せた事にオティーリエはホッとした。彼女と彼女の取り巻きを不快にさせると後が面倒なのだ。
「そういえば、妃殿下」
気を良くしたエミーリアは甘い声を出す。濃い化粧と相まって、お菓子を食べたわけでもないのに胸やけがしてきたオティーリエは思わず胸に手を当てた。
「殿下はお元気でいらっしゃいます?」
その問いに、やはりと思わず溜息を零しそうになるのを堪える。オティーリエの夫である王太子は現在南方の国境砦に視察に行っている。
「お手紙は送りましたが……お忙しいのでしょう、返事はまだ届きません」
「あらあら、ヴォルフラムは筆不精ですものね。いつ便りが来るか分からなくて不安では無くって?」
ふふん、と鼻を鳴らすエミーリアにオティーリエは小さく首を横に振った。
「便りがないのは元気な証拠、と言いますでしょう?そこまで不安には思いませんわ。何かあれば、連絡も来るでしょうから」
そう言ってオティーリエは小首を傾げると小さく微笑んで見せた。その表情は、彼女の人形めいた美貌を惹き立てる。
処女雪を思わせる青みを帯びた白銀の髪、職人が丹精込めて磨き上げた瑠璃の瞳、縁取る睫毛は繊細な硝子細工のようだ。弓なりの眉、薄紅色の頬、珊瑚色の唇、シミ一つない白磁の肌。彼女を形作るすべてが畏怖を覚えるほど美しかった。
北方の宝石、人形姫、雪の女神など様々な異名で呼ばれているオティーリエはその渾名に恥じぬ美しさを持っている。容姿で王太子妃に選ばれたわけではないだろうが、誰もがそう思わずにはいられない。
現にエミーリアを囲んでいた淑女達も見惚れている。その様に苛立ちエミーリアは手の中の扇子をわざと大きな音を立てて閉じた。
エミーリアの機嫌が悪くなったことに淑女達の顔色が青ざめて行く。エミーリアは王太子妃を抜けばこの中では一番地位が高い令嬢だ。怒らせて何かあってはいけない。
令嬢達が息を飲む中、オティーリエはゆっくりと立ちあがった。
「私、約束がありますの。お先に失礼させていただきますわ」
「あら、まぁ、まだよろしいのでは?」
「いえ……また、誘ってください。それでは、失礼いたしますわ」
形だけ引き止めるエミーリアに会釈をして、オティーリエはその場を後にした。
すかさず待機していた侍女が現れ、オティーリエの後ろに控える。心許している者が傍にいる事に気が緩みそうになるのを何とか堪えた。
侍女と共に角を曲がったところでオティーリエは小さく息を吐く。少しだけ肩の力を抜けば、後ろから穏やかな声を掛けられる。
「お疲れ様です、殿下」
そう言って恭しく一礼したのは、オティーリエとそう年が変わらない侍女だ。きつく結いあげられた茶褐色の髪に飴色の大きな瞳、オティーリエが嫁いでから仕えてくれるようになった侍女の名はイングリット・フリック。西方子爵家の令嬢だ。本来なら中庭にいる淑女達と共にいることも出来ると言うのに、末子であるという理由で宮中に侍女として召し上げられたのだ。おそらく、まだ若い王太子の側妾にという狙いもあるだろうが。