第1話
8月の真夏の炎天下の中、とある温泉街を歩く二人の青年の影があった。
空珀『あー……あっちぃ……溶ける……』
そう気だるそうに汗を拭きながら呟くのは九条空珀。
空珀は何気に美容意識も高い、なのでこの暑さは天敵とも呼べるだろう。日焼けや汗、UVケア等が欠かせないこの時期、対策はバッチリな空珀だが対策がバッチリだからと言って完全に全てが防げるわけではない、それが分かっている空珀なので外にもあまり出たくはないのだが、今回の件は外に出ない訳にはいかない用事だった。
静夜『ほらほら頑張って、もうすぐ着くはずだから……って、おや、着いた』
げんなりしてる空珀を励まし、目的の地に着いたと伝えてるのは藍木静夜。こちらは空珀と違って何食わぬ顔でこの炎天下を歩いていたのだ、これに対しては空珀も「お前は暑さを感じているのか?それとも俺の知らない対策をしているとか?」と言ってしまうほど。
そして静夜が言っていた“目的地”とは温泉街の外れにある温泉旅館、月宮。前の持ち主は経営が上手くいかずそのままこの温泉旅館を売った。だが買い手も見つからず、かと言って温泉旅館を取り壊すお金を出すものはいない。どうしようかと皆が思っているところ、何を思ってかは知らないが静夜と空珀がこの温泉旅館を買い取り、そして今現在、その温泉旅館に足を運んだのだ。
空珀『……うっわ、信じられない……』
ありえない、という顔をして温泉旅館を見ているのが空珀、だがその通りなのだ。
売ってから何年経ったのかは分からないが、どんよりと薄暗く誰も近寄りたがらない雰囲気だった、見た目は確かに綺麗なままだ、決して落書きや壁の塗装が剥がれていたり、といった事はないのだがどうも雰囲気が廃旅館になりかけの感じだった。これでは「幽霊が出るんだってよ」と噂させるのも無理はなかった。
静夜『ふふふっ、僕はこれはこれで楽しいよ』
対照的な二人なのか、静夜はどこか楽しげに笑っていた。 元々怖いのが好きだからなのか、いつもと違う雰囲気だからなのか、よく分からないがどこか楽しそうだった。
空珀『何がどう楽しいのさ、俺は何も楽しくないけど?』
静夜『そう?楽しいじゃないか、このなんとも言えない雰囲気楽しくない?嗚呼、それにこの中を全部自分達の手で変えられると思ったらわくわくしないかい?』
そう言ってぐるりと辺り一周を見回してまた微笑む静夜。「お前の感性はよく分からねぇ…」と空珀は呆れたように呟いていた
空珀『ふーん、俺らの部屋悪くないじゃん?』
社員の住み込み用の部屋がある方に行き、後に自室となる部屋を見て空珀は少しは満足したそうだ。
静夜『まぁね、後にこの旅館は僕らの手で営業をしていきたいと思っているし。少しは良い部屋取っても文句はないと思ってるよ』
元々この旅館に住み込みで働くつもりの二人だった、やはり少しくらいは良い部屋を取りたいとも思うのだろう。最初は静夜が「近くにアパートでも借りてそこから出勤でもすれば…__」なんて話が出ていたが空珀が「は?何言ってんの、住み込みでしょ?てかそうじゃなきゃ俺嫌だからね」と言われたものなので住み込みになったのだった。
空珀『まぁね……って、それよりも、せめて自分達の部屋は掃除しないとまずくない?』
空珀の言う通りだ、廊下も部屋も全部、埃に塵等で汚かった。
元々この旅館は旅館は立派だった、広い庭に大きな池、ゆったりとしたフロアに景色が良く見えるように作られた客室、立派な内風呂に心休められる露天風呂と、とても立派だった。
だが庭は手入れが行き届いてない落ち葉や投げ捨てられたゴミに池は水が濁っている、フロアや客室はすす汚れ等でひどい状態だ。お手洗いや厨房だってきっと見れたものじゃないだろう、風呂だってきっと酷いはずだ。それを二人でやるのは出来なくはないのだが、相当な時間がかかる。そんな長い時を経てやっていたら暮らしてはいけない。
お金だって粗末になんかは出来ない。買い取るだけのお金やここを掃除する業者を雇う金、家具なども買い変えることを考えたら「まだお金を隠し持ってるんだろ?」なんて言われそうだが、元々二人とも親からは猛烈に反対されていたのを勝手に買い取ってやってるわけだから「お金が足りなくなったので貸してください」なんて絶対に言えない、口が裂けても言えない言葉だ。
だがここを買い取り、家具を変え、清掃業者を雇う、と言った事が出来ることから二人の家は裕福だったのは分かる。
裕福が故にこんな一か八かのような事、しかも家を出て一か八かな事をする、そんな事は親もさせたくないのだろう。例え裕福ではなくてもどこの親の家庭でも躊躇うのではないかと思う、だが二人はこの一か八かの選択を選んだ。理由は「皆を笑顔にするのは楽しいから」だった。
高校の文化祭での経験がきっかけとなった。そこから二人はコツコツとお金を貯めて「いつか二人で」と約束していた。そして現に約束は叶ったが「皆を笑顔にする」というのはまだ叶ってはなかった。
空珀『あーもう仕方ない!ほら静夜、片付けるよ!!とりあえず最初は自分達の部屋だけでも!』
空珀はそう叫ぶと髪をまとめてアップにしていた。そしてトランクから掃除道具を出していた
静夜『えっ、掃除道具なんか持ってきてのかい…?』
心底驚いてる静夜。
やはりこの二人は対照的なのではと思えてくる、ただの性格上の問題なのかもしれないが。
空珀『当たり前だろ、汚いのは分かってたし。家を出る時に貰っていい掃除道具とかタオルとか持ってきたから。まぁ親には冷たい目で見られてたけどね……って、ほら!はやくやるよ!電気とガス、水道はもう通ってる。掃除さえすればこの場所はもう使える状態、一日でもはやく営業出来るようにするよ、分かった!?』
静夜『あーはいはい……分かりましたよ……僕は掃除道具を持ってないから貸してね』
声が大きいよ…、と呟きながら静夜も掃除へと準備を進めていた。