__ 一人の若き騎士を選び
「座下、私は蒼崎・光樹および氷室・紅烏の両者の転属を進言致します。あの二人はここの職務には不適当です。もっと責任の少ない辺境にでも飛ばすべきです」
「ぁ……そうか?」
「そのとおりでございます。座下、長旅でお疲れでしょうがこれはもはや一刻の猶予もならない問題であります。あの者を今の職務につけたままなら、とおからず取り返しのつかないことがおきます」
「ん……」
伽羅色の壷などが多く並べられた豪奢な部屋。一人の若い騎士が、ごてごてとマントなどで着飾った年配の神官に対して、言葉に力を入れて話しかけている。騎士は席にソファーに座っているが、その神官は立ち歩き騎士の話を、部屋に並べられた彼の物ではない壷の品定めをしながら、興味なさそうに聞き流しながしていた。
「大司教座下、どうか私めの言葉にお耳をお傾けください。これはゆゆしき問題です」
「――まあそんな怒るな、音無特級十字騎士よ。これには色々と難しい問題があってな……」
ガタ――ソファーを鉄のブーツで叩いて、ジュンが立ち上がった。
「座下――」
ここはギマランイス大教会の司祭室。大司教はよそからついたばかり、地下牢から息巻いて出てきたジュンと鉢合わせて、寝室に立てこもった司祭の職務室で談話することになったのだった。
「わかったわかった、そういきり立つな。いま納得するように説明してやろう」
大司教の大きな腹がジュンの方を向く。
ジュンが腰を降ろすと、大司教も彼と向かい合って座った。
「いいか? 確かにお前から見たら蒼崎がここの助祭に不向きなのは確かかもしれない。だがな、実際あの男をおいてここの助祭にするべき者などいない。お前はもう今代の『黒き月の独り子』を見たのだろ? 俺はあれが恐ろしい。俺はこれまで三人の『独り子』を見たがな、あれほど強い心と、強い力を持ち合わせた独り子は初めてだ。それどころか、彼女のような存在は記録に残されていない。お前はあれを打ち倒し克服したから平気だろうがな、できれば俺は姿を見ずに済ませたい。それはあれを見た、もしくはあれを知っている誰もが思うことだ。――あれは無条件に人の心を竦ませるのだ。――それなのに、蒼崎は平然とあれと接触する。それはとても貴重なことだ。蒼崎はここの地下牢に繋がれたすべての魔物にすくむことがない。その男を外すことができるか? 蒼崎は魔術師としても稀有な能力を持っているし、ここにいてもらわなければならないのだ」
「しかし――」
「ま、他にあやつを飛ばす場所も無いんだがな。あやつは何故か上層部に嫌われていてな、ここで一生過ごすことにされてるんだ。面倒な政治的問題が絡んでいる、諦めてくれ」
穏やか、というより呑気そうな大司教の言葉。だがジュンは何も言うことはできない。
「そういうわけで、お前も職務に戻ってくれ。あの独り子と折り合いを付けて、護送の任務までついてくれ。そうしたらお前は一個師団の指揮だって取れる立場につけるかもしれないぞ」
「俺は権力には興味がありません。しかし――世界を護るためなら尽力は惜しみません」
そうかそうか、と緊張感無く返す大司教に一礼して、ジュンは部屋を後にした。
からんからん、と足音を立て、前方から袖を振りながら歩いてくる人影があった。
「ジュンー! やっほー」
駆け寄ってきたカミエの姿は先程のみすぼらしいものではなく、ジュンの良く知らない服装に変わっていた。――端的に言って、それはドレスではない。――絹だと思われる衣装の色は青い藤の色で、彼女の瞳の色に合わせたものだろうが、教会の廊下の灰色には合っていない。とにかく袖が長いのが目につく。胸の下に巻かれた、太い、重そうな帯も目立つ。下半身は筒のように包まれていて、ジュンにはその服が竹を連想させた。
「あ、見てる見てる。どう、この服? ミツキが出してくれたんだよ。私はよく知らないけど、フリソデって言うんだって。可愛いよね」
――ミツキは独自の文化を持っている。
ときどき、あるいはしばしば、ミツキはジュンの知らない物品を持ち出して彼を驚かせたり呆れさせたりする。
囚人服ではなく、良くは知らないが小奇麗な衣装をカミエに着せたミツキに対し、いったん収まっていたジュンの感情がまた昂りだしたが……三秒の後には彼の精神は燃え尽きていた。もはや怒るのは馬鹿馬鹿しい。ミツキに、この目の前の化け物、これらを相手にいくら何言っても無為だ。
ジュンは諦めた。
「あ、溜め息ついてる」
「…………。……ミツキはどうしてる?」
「ミツキ? ミツキは部屋で待ってるよ。あ、私は呼びに来たわけじゃなくて、ただ散歩していたわけだけど」
「そうか……」
ジュンはミツキの部屋の方へと歩きだす。
その後ろを、下駄を履いたカミエの足音が、カラン、カラン、と追いかけてきた。
「……お前が歩いていたら、さぞかし教会の奴は驚いただろうな」
ジュンは何となしに言っていた。――会話などする必要などないはずなのに、化け物と呼んで憚らない少女を相手に、ジュンは無意識的にコミュニケーションを始めていた。
カミエはそんなジュンの様子を深く考えることなく、自然に受け答えした。
「ううん、滅多に歩いてないから、ここの教会の人。少し歩いてる人見たけど、遠目で、向こうからだと私がこの服着てたら誰だかすぐには分からなかったみたいで、視界から外れてから驚いてたかな」
「お前から驚かしたりはしないのか」
「しないよ、そんなこと。だって、私が半径一メートルに近寄ったら、みんな心臓が止まっちゃいそうに見えるんだもん」
カミエはざっくりと言った。
「ミツキとは仲が良いみたいだな」
「まあね、嫌いじゃないかな。ここに来てから、他に相手にしてくれる人もいないし。変にビクビクしてなくて、でも別に怖いもの知らずってわけでもなさそうなところが面白いかな。でも――」
でも? と言葉の続きをまつジュンの目の前で、カミエはその愛らしい顔を奇妙にしかめて見せた。
「たらしっぽいのが嫌かな。――ていうかたらしだけど。軟派っていうのはああいうのを言うんだよね? なんか、女の敵って感じ」
「女の敵……」思わず口元が緩みそうになったジュンだったが、強情に表情を殺した。
「そ。――それにくらべて、ジュンは硬派。そうだよね? ジュンに愛されたら、きっと一途に死ぬまで思い続けてもらえるんだなって、私ときめいちゃうの」
うるうる、とカミエの蒼い瞳が輝いていた。
ジュンはぴたりと足を止めた。
「それで――」
どうやって思うことを尋ねようか、ジュンは言葉を選べなかった。
「ん? どうしたの、ジュン?」
「……あ、と……」
「僕とカミエちゃんがどこまで行ったのかって――寝たのかって、聞きたいんでしょ? ジュン」
ミツキが現れた。あどけない甘い顔に、にこにこと笑いを貼り付けて。
「ウブだよね、ジュン。童貞でもないっていうのにさ」
「……」
「僕はカミエちゃんにキスもしてないよ。――できればしたかったけど、なかなか心を許してくれなくてね」
「当たり前じゃん。私、そんな尻軽じゃないし。乙女の純情をなめないでよね」
カミエはジュンの腕に抱きついた。
「な、なんだっ……」
ジュンが慌てる。
それを見てミツキはクツクツと笑った。
「なかなか仲が良くなってきたみたいだね。――ほら、話は僕の部屋でしてくれるかな? ここで話しこんでると、他の神官や騎士が出てこなくなる」
「どう? この子は。なかなか面白いでしょ?」
神父姿のミツキがジュンの知らないお菓子を出してきた。小さなホットケーキ二枚貼り合わせて、その間に小豆を煮て潰したものが挟まれている。――いわゆる『どら焼き』というものだ。ジュンと並んでソファーに座った着物姿のカミエは、テーブルに並べられたどら焼きにさっそく手を出し、嬉しそうに頬張った。
「この女、とんだ食わせ者だな」
どら焼きを不機嫌に睨めつけながら、ジュンがぼそっと言った。
応接間の奥の台所から、さっき飲まされた苦いお茶――抹茶淹れた茶碗を盆において、ミツキが姿を現す。
「その言い方だと、この子がどれだけ凄いかは判ったみたいだね」
「わからなくてどうする。――俺はよく知らんがお前の説明のとおりだと、黒き月の独り子は心を壊して強い力を持っているか、力が弱くて心が生かされているか、二つに一つ。――そう、だから今まで問題なく処理してきたんだろ? こういう奴等が十二年に一度だか暴れてたら、とてもじゃないが隠しきれるものではない。だが、今までの独り子は扱いやすかったから秘密裏に物事が進んでいたんだ」
うんうん、と相槌を打ちながらミツキは抹茶を二人の前に並べ、ソファーに腰掛ける。
「そのとおりだよ。今までは棺に閉じ込めて運搬するとかやりやすかった。でも、この子は違う。心もあるし、強い力も持ってる。そして――我が儘だ。ごっつい騎士達に囲まれて旅なんかしたくないってごねてくれるから、僕達は大困りさ」
「別に我が儘言ってないじゃない」
四っつ目のどら焼きを頬張りながらカミエが抗議する。――「私はただ一人のナイト様と旅をしたいって言ったんじゃない」
「そのナイトって言うのは……」
「君をおいて他に無いじゃないか」
ジュンの言葉に割り込んで、ミツキが言った。
「そうでなければ、いくら君が有能だからといって一人で黒き月の独り子の護衛なんかさせられる訳無いじゃないか」
「何で俺なんだ?」
嘆くようにジュンは言う。
ずず……抹茶を音を立ててすすりカミエが答えた。
「好きになったから」
「はぁ? なんでだよ」
「だから、好きになったからだって」
ジュンはその答えが理解できずに沈黙する。
ことん――茶碗を置いたミツキが言った。
「人が人を好きになるのに理由はない――そういうことでしょ?」
「そうそう」カミエがはしゃぐように応じる。
「お前が? ――――ふざけるなよ」
ジュンがにわかに立ち上がった。
一度怒って、しばらくは怒ることはないと思っていた。しかし、ジュンの感情のメーターはまたしても振りきれていた。
「誰が誰に向かって物言ってるんだよ? お前は虐殺者だろ。大罪人だろ、この化け物め。お前が誰かを好きになる? ふざけるなよ。お前には、そんな人間みたいな感情を持つ権利はないんだよ。お前は黙って鎖に繋がれて北まで連れてかれれば良いんだ」
ジュンは一息に言った。
さすがのミツキも、ジュンの二度目の剣幕に少しだが色を失っていた。だがカミエは、平然と微笑しつづけたままだった。
「ジュンって……」
カミエがジュンを見上げながら言った。――「拘束プレイ好き?」
空気が凍りついた。
「……僕はそんな趣味があったとは知らなかったなぁ」
あくまでも緊張感無く言うミツキの前で、ジュンがカミエの襟首をつかみあげた。
バシン! ――鋭くカミエの頬を打ってから、彼女を打ち捨ててジュンは部屋を出ていった。
「……本当に、僕じゃ駄目なの?」
出した飲食物を片付け、番茶を改めて淹れてから、ミツキはカミエと向き合って座り、問いかけた。
カミエは白い頬を赤く腫らし、しかし陶然とした様子で痛む頬を撫でていた。
「……君の求めることは、ジュンには難しい。――酷で――憐れだ」
「ミツキは、ジュンの友達だからそんなことを言うの?」
ティーカップに淹れられた番茶に口をつけながら、カミエが問い返した。
ミツキの表情に笑いはなく、苦いもので染められていた。――ジュンの前では見せない顔だった。
「そうだね……彼のことをよく知ってるから、彼のことが好きだから、彼にはあまり辛い目には合ってほしくない……当然だよね? ――それだけじゃないけど」
「うん。ミツキがいて――ジュンはミツキが友達にいて幸せだと思うよ」
カミエが立ち上がり、部屋を一周し始める。
「ミツキの言いたいことは分かるよ。――ジュンが、見た目は無愛想でつっけんどんだけど、ただの強がりで、優しいだって私は思う。――初めて、あの私が壊した町の瓦礫の中で会った時から、ジュンがそういう人だって言うことはわかってた。わかってたから、好きになった。――私のこと、ジュンはなかなか認めてくれないだろうけど、いつかきっと好きになってくれる。好きだって言うようになる。でも、そうなったらジュンはすごく傷つく。……うん、わかってる。だけど、だからジュンが好きなの。ジュンに好きだって言って欲しいの。私はジュンを傷つけたいのかもね」
カミエが言葉を打ち切る。
どうして? ミツキが問いかけた。――彼女がその言葉を待っていることを理解して。
「だって、私、ツミビトだから。もういっぱいいっぱい人を殺しちゃった、大悪人だから。もうちょっと……悪いことがしたいんだと思う」
ツミビト――その言葉はミツキの胸を強く突く。
それにね、とカミエがミツキの背後から声をかけた。
「ミツキには素敵な彼女がいるじゃない。――私はちょっと怖いけど」
「あぁ、紅烏ね。――怖いかい? そうかもしれないけど」
「そうだよ。あの人も、私を見て怖がらなかった。ううん、それだけじゃない、あの人はもし私に怒るようなことがあったら――殺したくなったら、ためらいなく私を殺そうとする。たとえば、私がミツキを殺すとか――例えだよ? ――そしたら、何が起ころうとお構いなしに、私を殺そうとする。そういう人っぽかったら私は怖いな。――ま、そうじゃなくても、ミツキと一緒に旅したら、絶対あの人がついて来るでしょ? そしたら、いっつもつんけんしてそうで気が滅入るし」
ははは、とミツキは笑う。
カミエも声を合せてくすくすと笑った。
「そうだね、何から何まで言う通りだ。――僕からも、アカから離れる気はないしね。――でも、残念だな。君も可愛いから、一緒に旅したかったよ」
「本当?」
「もちろん。可愛い女の子はみんな好きさ。――ジュンのこととか関係なく、君と君自身を死に送る旅をしたいのも本心だよ」
と、部屋中を歩き回っていたカミエが、いつしかミツキの前に立っていた。
カミエはミツキに覆いかぶさるように腰をかがめ――唇を重ねた。
キスの時間は短かった。だが、恋人同士のように二人は貪るようにキスを交わした。
「――これで諦めてね」
唇を離し、たたずまいを正してカミエが言った。
その薄紅色のふっくらとした花唇は、彼女自身のものではない唾で濡れていた。
「わざわざサービスしてくれたのかい?」
「ううん。これは予行練習。ジュンとキスするときのね」
「あぁ、それはいい発想だ。彼は素人娘は嫌うからね」
「嘘……私、処女なんだけど」
「はは、そのへんは愛で乗り切ってくれ」
そうだね、とカミエは答えると、ミツキに背中を向けた。
帯に手をかけ、ぞんざいに振りほどいた。青藤の描かれた見事な振袖をばさりと脱ぎ棄てソファーの背もたれに投げかけ、襦袢姿になってミツキを再び見た。
「じゃ、着物返すね。この白い服だけ貰っていく……いいよね?」
「もちろんいいよ。それは襦袢っていうんだよ。ランジェリーだね」
じゃあね、と別れの言葉は背中越しに投げて、カミエは部屋を去ろうとする。
カチャ……ドアが開いたとき、ミツキは言う。
「神恵。――ジュンを、あまり傷つけないで」
言葉を受け取り、彼女は薄く嗤う。それは凄惨に。天使のごとく美しさと、悪魔のような残酷さを合わせた微笑で。
「約束、できないね」
夜――といっても日の差さない地下牢では、昼も夜もあったものではない。しかし、夜は魔の気配が強くなる時間。昼よりも禍々しい雰囲気が漂い、それとなく夜とわかる。
コツ……コツ……
誰かの足音が虚ろに響き渡っていた。夜になれば滅多に人が来ることのない地下牢。それも、世界を滅ぼすとも言われる少女が閉じ込められている今となっては、たった一人を除いて、地下牢を訪ねる者などいないはずだった。
「誰か」は小さな灯りを手に、闇の中で目を光らせる檻の中の魔物達の前を通り過ぎまっすぐ地下牢の最奥へと進んだ。
その最奥に繋がれた、神の傑作のごとく美しい少女は、眠りの前のまどろみから覚めて近寄ってくる気配を感じ取った。
ゴゴ……重い扉が石の床とこすれて鈍い音を響かせる。そこから覗いた蛍のような灯り、それを手にしている人物にカミエは声をかける。
「ミツキ――?」
「……お前、あいつのことが好きなのか? 残念だったな、俺はジュンではない」
入ってきたのは鎧姿の騎士。灯火の光を反射してアメジストのように輝く瞳の、その目付きは鋭いが、顔立ちはまだどことなくあどけなく少年と呼ぶのがふさわしいなりだった。
「うーん……この時間に来るなんて言ったら――ていうか昼間でもここに来るのはミツキくらいだから、ね。いらっしゃいジュン、来てくれて嬉しいな。なんの御持て成しもできないけど」
鉄格子のなかで、カミエは顔を輝かせている。
立ち膝で自分を仰ぎ見ているカミエを見おろしながら、ジュンは鉄格子に背を向けて座りこんだ。
火ではない、八面体の宝石が光を放つ魔法の松明が床に置かれると、ジュンとカミエのいる空間だけ光が包んだ。
「何しに来たの? ていうか、何でそっち向いてるの?」
「別に何しに来たわけではない。俺はここで寝る。お前の顔を見る必要はなかろう」
カミエは鉄格子の間から手を伸ばす。――その鉄格子のうち一本には、誰かが剣を叩きつけたような切れ込みが入っていた。――首に抱きつきたかったが、鉄格子の中からは手が届かなかった。
「ねぇ、これ開けてよ。一緒に寝ない?」
「魔女と寝るほど俺はいかれていない。お前も黙って寝ろ」
「格子こわしてもいい?」
「また殴られたいのか?」
ジュンに取りつく島はない。ぷぅ、と頬をふくらませ、騎士のマントの端だけを掴んで、カミエは諦めたように牢の床にじかに寝そべった。
「ジュン、私のこと、嫌い?」
笑っているけど、とても切ない裏腹な声。その声はジュンの胸を、きゅ……と弱く締め付けたが、いっそ何気ない感じで彼は答えた。
「好かれると思うのが、そもそもおかしいよな」
「そうかな……そうかも? ジュンは、私が人をいっぱい殺す女だから嫌いなの?」
「あいにく、人殺しを好きになる趣向はない。――俺は、人を傷つけるものを排除するために騎士になった」
「誰かを護るため、でしょ? ジュンは照れ屋だね……優しいし」
「優しさなど不要だ」
ジュンは切り捨てるように言った。――「俺はこの剣で斬るのに理由のある相手を探しているだけだ。護るためなんて……」
少し、沈黙。
「ジュン、私を北へ連れて行ってくれる?」
答えは無い。
「ジュン? もう寝ちゃった?」
「……役目だからな。俺しかやる者がいないなら、引き受けるしかない」
「本当? やったあ!」
そのはしゃぐ声は、静寂の凍りついた地下牢に華やかに響き渡った。――絶対的に。地下牢によどむ暗い気配など吹き飛ばすように。
「何をそんなに喜ぶ? 俺と旅をすることか? ……死ぬことがか?」
「どっちも!」
カミエは心底楽しそうに言う。――「ジュンに連れてってもらって、旅の果てで死んじゃう。最高じゃない!?」
「どうかしてるな……」
少し間を作ってから、ジュンは言った。とても、苦々しく。
「そうだね」
カミエは短く、感情の希薄な声で答えた。
「どうかしてる――ジュンから見たら、普通の人から見たらそう思うかもね。でも、私、人間じゃないから。神様の力を手に入れて、いっぱい人を殺して、心は壊れなかったけど、もう人間じゃなくなっちゃったから」
カミエは見る、闇の渦巻く牢の天井を。そこにある闇は深く、とても人が見透かせるものではない。だが、カミエの眼はそれを見ていた。光――電磁波ではなく、闇そのものを信号としてとらえるカミエの視覚神経だった。
「私が見ている世界と、ジュンの見ている世界は違う。――喩えの話じゃなくて、物理的にね。この固い床に転がってても平気だし。――でも、これもよかったかもしれない。これでよかったと思う。じゃなかったら、私の心はもう砕けていただろうから。色んな痛みに耐えられず、私はお人形みたいになっていた。――そのほうが周りの人には良かったみたいだけど。――私ね、まだ生きていたいの。まだ、若い人生を歩んでいるんだぞーって言いたい。死にたいって言うのも本当。死にたくない気持ちは一切なくて……なんていうのかな、この先とおからず死ぬこともまた当然って感じ? でも、それまでは自分勝手に生きていたい。だから……」
ジュンのマントが強く引っ張られた。
何かと思い、振り返ったジュンの眼に映ったのは、悲哀の表情ではないのに、透明の雫を一筋、ほほに流しているカミエの美しい顔だった。
「悲しいとか、苦しいとか、よく分からなくなっちゃった私だけど……死ぬまでに恋をしたくなった。だから、ジュン、あなたの恋人になりたい。――ジュンは嫌だろうけど、私の心はそこに縋りつく。私が確かに生きているんだって、この恋しい気持ちが証明してくれたら……とか思うの」
てへへ、とカミエは笑う。
ジュンは切り捨てるように顔を背けた。――その苦い顔が、いつもの仏頂面以上の意味を隠していることを知られないために。
「お前は、罰を受けるべきじゃないのか?」
「あはは、そうだね。――でも、私はそんなもの受けてあげない。嫌だから。――ねぇ、私は罪人なんでしょ、ジュン? 罪人だから、ジュンを誘惑して、最後に傷つけたい……、そんなことも考えた」
――なんのために恋をするんだ?
――自分のためだけに、一方的に恋をするのか?
心に浮かぶ疑問、しかしジュンは口には出さない。口に出せば、彼女と向かい合ってしまうような気がしたから。
「あー、でもうまく言えないな、この気持ち。一応、初恋だからね、ジュン」
「……俺は寝る。もうこれいじょう話しかけるな」
カミエの言葉を無視して、ジュンは言った。――もう今は、これ以上、彼女の言葉と冷静に、冷淡に向き合うのは無理だったから。
「そう。――おやすみ、ジュン」
カミエは優しい、優しい声で言った。
光を放つ宝石の魔術を切ると、深い闇がすみやかに二人を包んだ。
それは深淵と呼ぶにふさわしいほど、深く、黒く、絶望的なまでに昏い闇。だが、ジュンの心は自然と緊張しなかった。すうすう……と静かに聞こえる、カミエの呼吸が闇の恐怖も意識させなかった。
――俺は、お前を愛したりはしない。
やっぱり和服がいいなあ、と
書きながら思っていました。でも今回はステレオタイプなファンタジーなのです。名前は日本人ですが、今時はそういうのも珍しくないようですね。