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act2「我儘で恋する独り子が

 それは、蒼穹に雲が穏やかに流れている麗らかな春の日だった。

 少女は母親と、昼餉に何をつくろうか話しながら、笑いながら町中を歩いていた。

 幸せな日常の、ほんの一日のこと。

 ふと、世界は翳った。

 そして悲鳴が聞こえた。

 離れた場所で何かあったようだった。少女は不安で心がすくみあがり、母親に抱きついた。母親も震えていたが、大丈夫、といった。家に帰ろうと、無理して笑顔になっていた。

 だが親子が家に帰ることはなかった。早足で歩いていた親子の前に、黒い大きな魔獣モンスターが立ち塞がった。蟷螂のような闇をまとうモンスターは、二人に鎌を振り下ろした。

 母親が、娘を護るように抱き締め、モンスターに背を向けた。だが娘の行動は早かった。母親の腕が完全に彼女を包む前に、その腕の中からすり抜けた。そして、母親を襲うモンスターの鎌の前に敢然と立ちはだかった。


 神恵かみえ――母親が娘の名を叫んだ。


 娘は嬉しかった。母親の盾となれたことに。そして悲しかった、もう二度と母親と言葉をかわせなくなると思うと。

 だが闇の鎌が身体に触れた刹那、少女は自分の中で何かが目覚めるのを感じた。――光のような、眩しく、清らかな強い力。――これで母を、自分の身も護れる。少女は確信し、迷わずにその「何か」を解き放った。


 一瞬、意識が光の中に飛んだ。


 我に帰ったとき、目の前に正体不明の敵はいなかった。

 やったよお母さん、と少女は後ろに庇ったはずの母親を振りむく。だがそこに母の姿はない。

 少女の周囲には生きて動く物は一切なかった。

 どこまでも続く瓦礫、根こそぎ破壊された町のあと。――少女の友達も、親戚も、親しい人たちも、誰もいなくなっていた。

 町は一瞬にして殺戮され、破壊されつくしていた。瓦礫の他には、チロチロと燃える一面の火の海だけが少女の世界となっていた。

 それが……それが……恐ろしいことに少女自身で引き起こした事態だと、まもなくして少女は気づいてしまう。

 力が、溢れる。その力は誰かを護るものではなく、ただ純粋に目の前の物を破壊するための力だと少女は気づく。溢れる力は少女の全身を輝かせ、小さな背中に神々しく大きな翅を顕わしていたが――少女の目覚めてしまった力は、どこまでも禍々しく凶悪だった。

 誰も聞かない少女の絶叫が響いた。








 目が覚めた。




 石牢の中で目覚める少女。――夢だった。うなされていたようではなさそうだが、全身に汗が噴き出して粗末な服がべったりと肌に張り付いていた。固い石の床の上にシーツにだけ包まり直に寝ていた少女は、痛む身体を重々しく動かし、身を起こした。

 今見たのは少女の過去だった。護りたくて、咄嗟に目覚めた力を使って、自分の生まれ育った町を根こそぎ破壊した。故郷から離れたことのない少女にとって全世界だった町を、少女は一瞬で破壊した。

 少女は孤独だった。

 もう誰もいない。親しかった人達、あるいはちょっと不和だった人達も、少女自身が根絶やしにした。――そして母親。父のいない家庭で、ずっと支え合いながら生きてきた母親は、さよならも言えずに死別してしまった。

 ――護りたかったな。

 少女は膝を抱え、身を丸めながら思った。

 ――早く、死にたい。

 だが、少女は勝手に死ねない身体だった。強力なアストラル力を蓄えた身体は、死ねばどのようにその力を放出してしまうかわからないからだった。

 世界を滅ぼすと、彼女は言われる。

 少女が死ぬただ一つの方法――平板世界の極北にある、白夜と吹雪に閉ざされた混沌渦巻く破滅の遺跡へと行き、その身をささげること。

 そのための旅路の道連れに、少女は一人の若き騎士を選んでいた。

「早く来ないかな……。私のナイト様」

 彼女を死の地へと連れ去る騎士――それを呼ぶ少女の口元には、乙女のような微笑があった。



 ○


 一面の黄色い草はら。枯れ草に覆われた平坦な台地の上に、冷たい冬風が吹き抜ける。

 辛気臭い場所だ――帯剣した、教会騎士クルセイダーである紅い髪の少年、音無おとなしじゅんはたった一人、馬上からそう思った。

 そんな殺風景の中、一つどしんと立っている建物。灰色で、有刺鉄線のついた鉄の壁に覆われた砦のような建物は、実は神を讃えるための教会。とはいっても、周囲五キロメートルに人家のない場所に建てられたこのギマランイス大教会は、別名「牢獄教会」と呼ばれる教会に仇なす異端者――それも異端の儀式によって人間離れした危険な者達を閉じ込め、あるいは処分するための特別な施設だった。この見た目からして堅牢なこの教会は、周囲にも目に見えない魔術の結界を敷き詰めてあり、そのために周囲では植物の成長が悪く、今みたいな冬で無くとも、地面は黄色っぽい雑草がまばらに生えているだけだ。

 鉄の大門の前まで馬を進め、門を剣のさやで叩いた。

 ボーン! ――耳を聾するような音が鳴り響く。

 少し待つと、門が重々しく内側に開いた。

 そこに小柄な神父の恰好をした少年が一人、堅固な教会を前にぽつんと立ってジュンを迎えていた。

「やあ、ジュン。久しぶりだね。馬に乗っている君はとても格好いいよ」

 甘いアルトヴォイス、童顔で白い髪の神父姿の少年は、にっこりとジュンにほほえみかけて親しげに挨拶した。

 ジュンはちらりと彼を馬上から見下し、それから馬から降りて一礼した。

「わざわざの助祭殿のお出迎え、感謝いたみいる」

「いえいえ、我がギマランイス教会としてもあなたのような優れた特級十字騎士カルキストをお招きできるなど光栄の至りですよ。――て、ジュン、なんでそんな他人行儀にするかな? 久しぶりに会った友達同士じゃないか、楽しげに笑顔の一つも見せてくれよ」

「……その人を食ったようすは相変わらず、蒼崎あおざき光樹みつき

 ミツキと呼ばれた白い髪の少年は笑顔を濃くする。

「君の無愛想も相変わらずだよ、音無・盾。――立ち話もなんだから、ひとまず中に入らないか?」



 コツン――コツン――


 冷たい石の床に二人分の足音が響く。といっても、一人は革靴で床を叩く音も柔らかだが、もう一人は鉄製のブーツなのでとても痛々しい音が響かせられていた。床は単なる石ではなく、よく磨かれた大理石だ。横幅十メートルほどの広い廊下は、壁や天井に質素だが美しい装飾が施されていた。

「でも君も忙しいよね。あの任務が終わってから、特級十字騎士にランクアップして、すぐに他の任務に行かされたんだって? しかも、それが終わったら元の教会に帰るまでもなくここに寄こされたんだろ?」ミツキが言った。

「そうだな。まぁ、十字騎士には所属する教会なんてものは基本的に無いんだが」

 ジュンは今の階級になる前は、とある大都市に所在する聖ロンバルディア教会に所属する一級騎士ビショップだった。十字騎士は教会全体の派遣社員のようなもので、人手の足りない現場に回され続ける大変な職務だが、騎士として志の高いジュンは喜んでこのポジションについた。ちなみに、十字騎士にも一応の所属教会が決められている。

「君も偉いよね。十字騎士なんて、僕はまっぴらだよ」

 そういうミツキも、元々は魔術師を使う騎士として戦っていた。今は助祭という基本的には戦いとは離れたポジションについているが、まっとうな人間はほとんどおとずれないここギマランイス大教会においては、助祭というのは教会に閉じ込められた囚人や魔獣の監視における最高責任者だった。

「……お前、どうしてここに来たんだんだっけ? ここにはお前の好きな女が全然いないだろ」

 町も遠い。「教会」の組織においては、特に騎士階級において男女の差別はないが、この教会には神官としての女性は皆無だし、騎士の女性もいないような気がジュンにはしていた。おまけに、この教会は重要拠点ではあるが辺境ということも確かで、ここに来た以上一生そのままのポジションで居続けなければならない流れがあった。

「うーん、どうしてだっけ?」

 ミツキは首をひねった。――「あぁ、紅烏アカがここに来るって言ったからだよ。ていうか、僕がここに来たくないってごねてたら、彼女が先に転属されることに決まってしまったんだ。いやだよね、上層部のやることはさ」

 ミツキはやれやれと首を振った。少し長い白髪が襟元でさらさらと揺れた。

「アカ……?」

 ジュンはその名の者が誰だかすぐに思い出せなかった。――「あぁ、お前の恋人か。あのうるさくてギラギラしてる赫い髪の女。そういやあいついねぇな。いっつもお前に張り付いてるはずだろ?」

「赤い髪でギラギラしてるとこまではジュンも一緒だよね」ミツキは笑って言った。

「彼女は今、どっかの応援に送られてる。――て、あー、そうそう!」

 ミツキが突然大声になり、ジュンはビクっと驚いてしまった。

「君さ、間の悪い時に来てくれるよね! 紅烏がいないからさ、たまには街に行ってサキとか他の女の子に会ってこようと思ったら、君が来るって言うから出かけられなくなったんだよ? まったくさ、せっかくの機会なのに……!」

「浮気ができなくて俺に起こるな。それに、この時期に来ることになったのも俺のせいではない」

 ジュンが眉間にしわを寄せて言った。

 ジュンはそっと溜息をつく。

 蒼崎・光樹――ジュンが駆け出しだった頃、ともに技を磨いた数少ない友人。女好きで若干不真面目で信仰も薄いが魔術において若くして突出し、剣術に秀でていたジュンとは不思議と気があった。ミツキは武術もそこそこできた。彼からジュンは魔術の指導を受けたこともあった。――また、その他のことも彼から教わったり影響をうけたりしている。

「ま、せめてもの慰めは、あの「独り子」ちゃんが可愛いことかな?」

 ミツキの呟いた『独り子』――その単語の登場に、ジュンの眉がひそめられ、二人の間に今まであった気楽な雰囲気が少し張りつめたものになった。



「任務の説明はどのくらい聞いてきた? 僕の部屋で詳しく話そうか」








 ベルベットの絨毯や複雑な模様に織り込まれたカーテンなどが調度としてある、豪奢な助祭室にジュンは通された。つまりはミツキの執務室である部屋には、彼が職権を行使して取り寄せた、沈香というある地方にしかない香が焚かれ、独特の雰囲気を醸し出していた。椅子をすすめられたジュンの前に出されたお茶も、ボトルグリーンに濁ったほろ苦い味のあまり知られていないお茶だった。

「口にあうかな。抹茶っていうお茶なんだけど」

 キャラメル色の茶碗に口をつけてお茶を静かに飲むミツキが聞いた。

 ジュンは少し首を傾げてから答える。

「さぁ……」「なんでもいいって?」

 ジュンの言葉を先読みして、ミツキが言った。不愉快な顔になったジュンを前に、ミツキは喉の奥でククと笑った。――「変わらないね、そういうところも。君が来るのに合わせてお茶菓子も作ったし、あんまり使わない楽焼の茶碗も出したんだからくつろいでよね」

 ジュンの手の中でほんのりと温かい、肉厚の焼き物。ミツキの口ぶりからして相当の芸術品らしいが、ジュンにはよくわからない。ただその重厚な手触り、ずっしりとした重さ、紫檀の木のような色合いからして、確かに良い物なのかと彼は思った。

「それで、仕事の話なんだけど」

 水あめを固めた半透明の生菓子を楊枝で口にほおりこみながら、ミツキが切り出した。

「君はあの、『黒き月の独り子』七那瀬ななせ神恵かみえを倒して捕獲した張本人だからある程度は知っているだろうけど、何か聞きたいことはない?」

 問われて、ジュンはその少女との戦いの場面を思い出した。――炎のゆらめく赤く染められた町の跡。重傷を負い倒れゆく仲間達に、逃げていく隊長たち。一人で立ち向かった光輝く翼をもつ少女との、壮絶な力のぶつけ合い。――凄まじい戦いだった。あれから二月近く経ったが、ときどき自分がなぜ五体満足で生きているのか不思議になることがあった。

「俺は大して情報を持っていない。あの娘が『黒き月の独り子』だということは知っているが、それが具体的にどういうものかもよくは知らない」


「俺が知っていることは、今回の任務が例の娘を北の聖地『混沌渦巻く聖墓』――またの名を『トウェルヴ・ケイオス』という場所へ連れていくということだけだ。その例の娘は、「教会」の持ついかなる方法においても安全かつ完全に抹殺することができなく、その北の聖地でなら聖地に宿る俺達の崇める神の力をもって娘を滅する必要があると。そのために誰かが娘を護送しなければならないと俺はきいた。――これさえわかっていれば十分じゃないのか?」


 ジュンは言うだけ言うと、すました様子で濁ったお茶に口をつけた。

 一方ミツキは、だめだめ、と首を振りながら答えた。

「君は本当に冷たいよね。君が正式にこの任務につけば、それはすなわち彼女を殺すことになるんだから、殺す相手のことはもう少し知っておいてあげないと」

 ミツキは一息おいて話しはじめた。



「『黒き月の独り子』は年の初めに三日間から五日間にわたって訪れる白夜の日に、その白い空を三日月形にくりぬいて黒い空が見える夜に生まれる子供のうちのたった一人を指して言うね。この『黒き月』が現れるのは十一年から十四年周期、世界のどこに生まれるとか性別による偏りはない。たった一つある法則は、その子供の父親が、子供の生まれた前後一年で死ぬこと。黒き月の独り子は生まれた時にはそれとわからないで、十四歳くらいになってから命の危険に曝されたりすると目覚める。目覚める状況は、カオティックに遭遇する時が多いことが過去のデータからわかってるね。そもそもカオティック自体、普通に生きていれば会うことさえない存在だから、『独り子』とカオティックを惹き寄せあっているとも考えられるね。

「一般の人たち、教会でも位の低い人達は独り子のことを知らない。知らされていない。黒き月が昇った夜に生まれた父親のない子供といっても、そのうちのどれがなるかは全く分からないし、わからないものを不用意に教えると差別を生むだろうから公開されていないんだね。もっとも、民衆って言うのは勘のいいものだから、隠していても噂みたいのは存在しているんだけど。

「独り子は『混沌の光』という力をもっている。この名称は教会の極秘文書に記されていて、神の力の一部であるとされているが、何故カオティックの持つ力『混沌の闇』と似たような名称になっているのか、少し僕は興味があるんだ。

「独り子は自分の力を制御することができなくて、周期的に暴走させてしまう。独り子にはダメージは及ばないけど、周囲はたまったものではないね。よっぽど強固な結界を張らない限り防ぐことはできない。独り子が力を使うことを封印することはできないし、かといって独り子を殺してしまうことはできない。ここでポイントなのはね、ジュン、独り子は自ら北へ移動する衝動を持っていることだよ。

「多くの独り子は、目覚めた時に精神に障害を生じる。だいたいは抜け殻みたいになって自律行動をしないようになる。この状態なら、誰もいない山奥にでも放置しておけば彼らは自分から何もしないから良いような物だけど、そのうち何故か勝手に動き出すらしいんだよね。彼らは北の聖地に向かって一直線に動く。で、途中で人里に立ちよって暴走すると困るんだよね。

「精神に異常をきたさなかった場合は、その独り子の力は結構弱いものになるらしい。この場合は頑張れば封印処分することができるらしいけど、今から千年ぐらい前、とある教会でそれをやって北の聖地に行かなかったら、十年くらい経ったある日、いきなり封印が弾けて教会の周囲七キロメートルを死の荒野にしたことがあったんだって。その荒野はいろいろケアして何とか雑草くらいなら生えるようになっているけど、今でもやせ細った土地であることには変わらないね。

「独り子を北に送らないと世界が滅ぶ――そんなこと、誰が確かめたわけじゃないけど、力の弱い方だった独り子が暴走した影響は今もまだ残ってる。力の強い独り子が死に至るほどの暴走をしたケースはないけど、その時にどれくらいの被害が出るかなんて全然予想のしようもない。世界が滅ぶかもしれないっていうのも、あながち言いすぎじゃないと僕も思うよ。

「まぁそういうわけで、黒き月の独り子は問答無用で北まで送られて廃棄される決まりになって、ここ五百年は順調にその『巡礼』が行われてたんだけどね。



「さてここで問題その一、千年前に独り子を封じてぶっ飛ばされた教会は何処でしょう?」


 ミツキの問いかけにジュンは、知るかよ、と素っ気なく答えた。ジュンは長々と話を聞かされてうんざりしていた。お茶は飲みきったし、出された菓子は甘ったるくて不愉快だった。

「もう、ちょっとは考えてくれても良いのに。――正解は、ここ、だよ音無・盾クン。ここの周りって夏になっても細々と草が生えるだけで動物も寄らないんだよね」

 ミツキの言うことは確か。だが、ジュンの知っていたところと違う。

「ここが不毛なのは、周囲に張った結界のせいじゃないのか?」

「それが違うらしいんだよね。僕もここに助祭として来て、色々調べたからわかったんだけど。そもそも、結界でまわりの環境悪くしてるなんて、本当だったらあちこちの環境団体から訴えられるじゃないか。今はエコの世の中だよ。そんなことやってたら、お布施が減っちゃうじゃないか。――ていうのは冗談だけど」

 一息ついて、彼は続ける。

「結界を張って処置してるから、ここはまだこんな感じらしいよ? 放っておけば、酸素さえ流れ込んでこない呪われた土地らしい。――さて問題その二、独り子が心を壊しているか、それとも力が弱いか、どちらかって話をしたよね。じゃあさ、いま地下牢に入れてある独り子、カミエちゃんは前者か後者、どっちだと思う?」

 ジュンは思い出す。その独り子は捕まえるまでに教会騎士の一小隊を全滅させてくれたから、力は並みのものではない。ジュンも参加していたあの小隊なら、ドラゴン並みのカオティックが五体現れても勝利できるはずだった。

「前者だろ?」

 しかしミツキは意地悪く笑った。正解ではないようだ。

「さて、答えはこれから見てもらおうかな。お茶も無くなったし、御対面と行こうか」










 不穏な空気が、ザワザワと肌を撫でていった。



 ギマランイス大教会の最奥、強固な鉄の扉の先にある石の階段の先にある地下牢には、標本として捕獲された魔獣、邪悪な秘術に手を出して人としての性を失ってしまった処刑を待つだけの異端者、殺すこともできないで固く封じられている人とも獣とも形容できない禍々しいものなど、様々なものがそこに繋がれている。「教会」の組織の中ではどちらも類稀な能力を持つジュンとミツキの二人だったが、さすがにこの地下牢を歩く時は談笑することもできないようだった。

 光の差さない地下を、明るい灯火を持って二人は歩く。

「相変わらず大した場所だな。あの娘も、こんな場所に閉じ込められてさぞ喜んでいることだろうな」

 重々しい空気を笑い飛ばすように、ジュンが皮肉混じりにそう言った。

 ミツキは喉の奥でクツクツと低く嗤って答えた。

「そうだね、寒い寒いって文句ばかり言ってるよ。――みんな怖がっちゃってね、助祭の僕が直々に彼女の世話をしないといけないのさ。ま、可愛い女の子に会えるのは嬉しいことだけどね」

「そう言えば、ここに来てから全然他の奴が出てこないな。司祭には顔を見せといた方がいいんじゃないか?」

「あぁ……他のみんなはね、みんな恐慌状態になって役立たずさ。まあこの僕が出てきてるから、わざわざ彼らを出す必要もないから呼んでないんだけど。特に魔術の使える人達はみんな魔力を使い果たして、半死半生だしね。それとここの司祭は儀式を行うだけの本当の神官だから、出てきてもらっても邪魔なだけだよ。あの人も怖がって部屋から出てこない一人だし」

 教会においては、戦闘能力を持たない儀式を行う者を神官、戦闘要員を騎士と呼び分ける。

 ――そんなにあの娘が怖いか。

 ジュンは思う。だがわからない話ではない。ジュンは彼女に勝利したからまだ恐怖も薄いが、あの神々しいまでの威圧感は忘れようもなかった。並みの人間なら喜んで会おうとは思わないだろうし、彼女に傷つけられた者なら例えその傷が僅かなものでも、心の底まで恐怖が刻みつけられるかもしれない。

 そう……彼女は神の力を持つ、神に近き者。人とかけ離れたもの故に、対面する者を無条件で畏怖させるのだ。

 ザワザワとした冷えた空気のなかを歩いて奥に進むにつれて、空気の物々しさは次第に増していく。一面の壁に刻みつけられた魔術もどんどん高度なものとなり、地下牢に繋がれている存在の危険度が上がっていることを示している。地下牢の中は静かだったが、魔物達の殺気や邪念はうるさいほどに感じられた。

 やがて、鉄ではない不思議な金属に閉じられた部屋の前に来た。一目で見てそれとわかる、厳重な封印。

「覚悟は良いかな? ――って言ってもこの封印はもう役立たずになんだけど」

「どういうことだ?」

 ジュンは思わず問い返す。

「中の彼女がね、気分が悪いって言って器用に封印の魔術を焼き切ってしまったんだよ。張りなおそうとした魔術師九十名、全員彼女と馬鹿正直に魔力で張り合って、敗れて、今はほとんどが寝込んでる」

 その骨抜きの封印の扉が、唸りを上げながら重々しく開いた。

 中は変わらない石の床に、鉄格子があった。明かりは絶やされていないようで、魔術で作られたランプが硬質な光を投げていた。

 太さ百ミリメートルほどのぶっとい鉄格子の中に、件の『黒き月の独り子』はいる。端がぼろぼろになって粗末だが清潔な白い絹布に包まり、石の床の上に転がっているいたいけな少女。肌は包まっている絹布と同じくらいに白く、布をつかむ手はたおやかで白百合を思わせる。壁の方を向いていて顔は分からないが、寝乱れて広がった金色の髪が、極上の金糸のように細やかで美しいことこの上なかった。

 ボンボン、とミツキが鉄格子を素手で叩いた。

「お姫様、お姫様、あなたのお呼びになったナイト様がお出でになりましたよ」

 楽しげな口調で神父服の少年が呼びかける。

 う……ん、とカミエが声を漏らし、寝がえりをうった。

「ミツキ……お腹すいた喉乾いた寒いトイレ行きたいこのシーツ飽きたシャワー浴びたい眠いもう少し寝かせてご飯は米よりパンにしてシチューの具に人参は欠かさないでたまには音楽が聴きたいカレーは辛くしないで和菓子はおいしかったよ……」

 欲望全開の寝言。しばらくぶつぶつ言うと、また静かな寝息が立てられはじめた。

 ミツキは苦笑しながらジュンを振り返る。ジュンはといえば、眉間に深いしわを寄せて佇んでいた。

「ね、可愛いでしょ?」

 ミツキは本当にうれしそうに言った。

 どうでも良い、ジュンは言葉にせずに答える。

 ミツキはさらに苦笑を濃くして、話を戻した。

「どうする? 出直す?」

「こんな奴のために、何度も出直したくない。さっさと叩き起こせ」

 ジュンはカミエの顔をさげすむように見下していた。だが、わずかに綻んだ安らかな寝顔――自然とジュンの心さえ和ませる魔力があった。

「カミエちゃん、起きてよ、起きて! ジュンが来てくれたよ!」

「う……何……?」

 ミツキが少し声を大きくして、ようやくカミエは起き上った。

「……さむ。ミツキ、トイレ行きたい」

 カミエの蒼い瞳がミツキをとらえた。ミツキの胸が躍った。

「あー、はいはい。でもカミエちゃん、ジュンの前なんだからもう少しお淑やかにしないと」

「ジュン……?」

 そしてカミエの視線が、ミツキの後ろに腕組みして立つジュンに向けられた。

 鎧を着て威圧的にたたずむ紅い短髪の若い男。眉毛が太く鼻柱も立派だが、輪郭などに何処となくまだ二十も生きていないと感じさせる、まだ少年と呼べる風貌。

 二人の視線が交わった。

 邪気のない彼女の視線、これが千百八十四名の命と三名の手足を造作もなく奪った恐ろしい力の持ち主なのかと、ジュンは思った。

 一方、カミエの脳裏には、自分が打ち倒された時の映像がよみがえった。誰も近寄ることさえできなかった彼女自身に、剣と楯を持って敢然と立ち向かった勇気ある騎士。揺るぎのない太刀筋に、光輝く剣――


「ジュン! ――――ぐわ!」


 ジュン目がけてカミエが抱きつこうと飛び出す。だが、前に伸ばした手は鉄格子をくぐりぬけても、身体は通らずに彼女は派手な音を立てて鉄格子とランデブーした。

「いったぁい!」

「大丈夫、カミエちゃん? この鉄格子は触ったら火傷する魔術がかけてあるからあんまり触っちゃ駄目だよ」

 額をさする大量虐殺者に、床に座り視線を合わせて声をかける助祭神父。とてもそれぞれがどういう素姓の者なのかなど感じさせない、のんきな雰囲気があった。

 ジュンはその光景をただ、腕組みの姿勢を崩さずに観察していた。

 しかし、ミツキが次に取った行動に、流石にジュンも動揺した。

「ミツキ……これ邪魔。開けてくれないと自分で開ける」

「あぁちょっと待ってね。ほら、このレバーを下げると……」

「――おい!」

 鉄格子の脇に付けられたレバーを握ろうとしたミツキの手を、ジュンがハッシと止めた。

「ジュン――そんなに強く握っちゃ駄目だよ」

 照れた仕草でおどけるミツキ。だが、ジュンは恐いほどの真面目な面持ちで彼を見据えた。

「あいつが誰だかわかってるのか? あいつは生まれた町を一瞬で焼き尽くし、選りすぐりの教会騎士で編成した一小隊を撃破した化け物だぞ」

「あ、そうだね」

 ミツキは笑顔で言った。――「でもね、別に彼女はもう暴れることはないし、本気になったらこんな鉄格子なんの役にも立たないし」

 握りしめられたジュンの手を解きながら彼は言った。

「それにね、彼女を牢から出すのはこれが初めてじゃないから。だって可哀そうじゃない。こんな女の子がさ、風呂もトイレも無い牢屋に閉じ込められてるなんて」

「初めてじゃない、だと……!」

 ジュンの紫の双眸に強い光が宿った。

「ふざけるな! こいつは大罪人だ! 世界を滅ぼす力さえ持つ化け物だぞ! こういう奴には相応の扱いをしてやればいいんだ。それとも貴様、この魔女の色香に惑わされたのか?!」

 ミツキの苦笑が凍った。別にたじろいだ訳ではないが、怒髪天となった友人をどうやって宥めようか、それを考えるのに身体の動きが止まってしまったのだった。

 沈黙が訪れた。他の牢に閉じ込められた魔物達の、かすかな囁きが聞こえてきた。


「ジュンって怒りっぽいのね。ミツキの言ってたとおり。本当、純情の『ジュン』だよね」


 ――最悪のタイミングでその台詞が出たな……。

 思わぬ事態に、さしものミツキの表情が凍りついた。純情の『ジュン』――ミツキ自身が考えたそのあだなは、重軽傷者四十名を出す事件まで引き起こした禁じられたワードだった。

 ジュンが剣を抜くのは一瞬だった。

 キン――! 鉄に刃が食い込む甲高い音が、静かな地下牢に響き渡った。

途中の光樹の長い台詞は原稿用紙三枚半くらいあります。読み飛ばしちゃってください(今更)。

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