表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

月明かりの迷路

作者: 雨猫

 最初に薬草売りが消えた。

 白銀街道を通行中、行方知れずになったのだ。

 ゴルミの村で、かれの失踪は話題にもならなかった。だれもその男が村にくることを知らなかった。薬草売りはゴルミ村に入る直前に街道で姿を消したのである。

 次に消えたのは十三歳の子守り娘だった。

 彼女の事はゴルミの村で話題になった。恋仲の男と駆落ちしたのだと、だいぶ噂された。もっとも相手の男を知っている者は、ひとりもいなかった。子守りは村の出身で、たいそう両親を心配させたものの、帰ってくることはついになかった。

 フィーラとマイラはそのころに、双児として生まれた。


 姉妹は健康に育った。四歳のころには元気に跳ねまわっていた。両親の目の届かないところへいくこともあった。

 父親のジルはある日、上機嫌に双児を抱きあげた。

 農夫のたくましい腕は、姉妹を、村の境涯まで運んだ。

 ゴルミの村は、森に囲まれた聚落である。何代にも渡る苦しい開墾でひろげられた土地だった。村の領域がおわる、森との境界に、フィーラとマイラは連れてこられた。底知れない太古の森が黒々と口を開けていた。村の境界を示す、腰かけくらいの石が置かれてある。

 ジルはまず、姉のフィーラを石に座らせた。

 フィーラは期待に満ちた眼差しを父親にむけた。

 農夫は満足げにうなずくと、やおら平手をふりおろし、娘の頬をぶった。

 フィーラは石から転げ落ち、驚きですぐに立ちあがった。不思議そうに目を見張り、頬に手をあてた。

 つづいて、おびえるマイラを石に座らせ、同じように頬を打ち据える。妹のマイラも石から転げ落ちた。彼女は立ちあがらず、地面にしゃがんで泣きだした。

 ジルは膝をついて娘たちを抱きよせ、その小さな耳に大声を押しこんだ。

「この石を忘れるな! こっから外に出ようものなら、今度はさっきの倍の力でぶつからな! わかったか? わかったか!」

 ゴルミの子供たちはこうして、村の範囲を体でおぼえさせられる。痛みで教えられた記憶は一生消えない。痛みの恐怖は、森への恐怖に転化されるのだった。


 ふたりはつれだって村のあちこちに出かけた。

 もっとも村の果てをしめす石が目にはいると、その足はとまった。マイラは石を見つめて唇をかみしめた。一方フィーラの視線は、石を飛びこえて、暗い森のなかに熱っぽくそそがれた。

 姉妹をめずらしがらせる物は、村のなかにもたくさんあった。

 ゴルミの中心には居酒屋と共同の浴場があり、村をながれる小川のほうには洗濯場と水車小屋がある。遠くに領主の城の屋根が見えた。

 ゴルミの村の物知りばあさんと、姉妹はすぐなかよくなった。ばあさんは小物をこしらえたり、まじないをやったりして生計を立てている陽気なひとだった。いつもひじ掛け椅子にすわり、窓をあけはなして外を見ている。ちかくをとおる人影を見つけると、

「プラット・エイデン!」年に似あわない大声を出すのである。「調子はどうだい? かみさんを最近見ないねぇ」

「やぁ、トルーディー」それがばあさんの名前だった。「女房は病気なんだ」

 こんなふうにして、トルーディーは村のこまかい事情に通じていた。

 フィーラとマイラがたずねると、トルーディーばあさんは決まって優しく出迎えてくれる。姉妹は貪欲におはなしをせがんだ。

「ねぇ、トルーディー。狼は人を食べる?」

 フィーラはしょっちゅう聞いた。

「そうだねぇ。食べるヤツもいたねぇ」ばあさんは、実際に見たかのように話すのである。「森には怖い生き物がたくさんいるからねぇ。悪霊がさけぶし、子供をさらう魔女もいるんだ」

「わたし、森は嫌い」マイラがいう。

「でもね、怖い物ばかりでもないんだよ。小鬼を知ってるかい? 小鬼を見つけたら、親切にしてやらなきゃいけないよ」

「なぜ?」と、フィーラ。

「気の遠くなるほど昔の宝物が、森にはあるんだよ。小鬼はそのありかを知っていてねぇ、優しくしてくれる女の子には、財宝をわけてくれるのさ。でも、誰もがそんな幸運じゃあないんだよ」

 トルーディーは、しわくちゃの笑みを浮かべた。

 物知りトルーディーにも知らないことはあった。

 というよりも、ゴルミの村びとたちは、なにも知らなかった。

 白銀街道が人を呑みこんでいた。放浪学生、巡礼者、吟遊詩人、農夫、羊飼い、商人たち、百名をこえる人々がゴルミのすぐそばで消えていた。旅人は村にたちよらず、街道を通過するだけだったので、そのなかの誰かが失踪しても、村びとに気づかれることはなかった。ただ神隠しの噂だけが立ちのぼっては消えていった。

 村はただ、眠ったような毎日を送っていた。

 フィーラとマイラは十一歳になり、美しく成長した。それまでは二人でひとつ、とでもいうように一緒だったのが、近ごろはそうもいかなくなっていた。家畜の世話も畑も、子供にできる仕事がたくさんある。二人はべつべつに両親の仕事を手伝った。

 マイラはどんな作業ものんびりと取り組んだ。フィーラは要領よくなんでもこなしたが、仕事をさぼるのも上手だった。

 ある夜、床についたフィーラは、妹にそっとうちあけた。

「ねぇ、マイラ。秘密を聞きたい?」

「なに?」マイラは姉の瞳に、不思議な光を認めた。

「ぜったいの秘密よ。誰にもいわない?」

「約束する」

「白い女神に誓って?」

「誓う」

「わたし、きょう森にいったの」

 眠気が吹き飛んだ。子供は森に入ってはいけない。これは村の掟のなかで、もっとも守られなければならないもののひとつだった。

「フィーラ──」

「マイラ。そこでわたし、なにを見たと思う?」

「知らないわ」

「驚くよ」フィーラは妹の目をのぞきこんだ。「わたし、小鬼を見たの」


 姉妹の家は二部屋からなる。日常生活をおくる広い土間と、主に寝室になっている奥の部屋だ。フィーラとマイラは奥の部屋の寝台にもぐっている。両親は土間で、手作業に没頭している。

 布でさえぎられた寝室の入り口から、蝋燭の明かりが漏れていた。

 本来はまっさおな姉の瞳が、今は黒くしか見えない。その瞳に、垂れ幕から漏れる蝋燭の明かりがにじんでいた。姉の浮かべた微笑みには、マイラをまごつかせるものがあった。

「森へいったって、いつ?」マイラは尋ねた。

「きょう。わたし、小川を越えたんだ」

「……なんで?」

「いつもいってるじゃない、マイラ」

 姉の手が不意にのびて、マイラの肩をつかんだ。

「わたし、いつか森へいくって。どうしてもいってみなきゃ気がすまなかったの」

「どうして?」

「どうしても。理由なんかない。ちょっとだけ、村を抜け出してみたかったのかな。そんなことよりね、みんな嘘をいってる。ねぇ、マイラ。森は怖いところなんかじゃない。美しいところ、本当に」

「危険な獣がいるわ」

 フィーラの手が、マイラの腕から離れた。

「まぁね」といって、仰向けになる。「でも、なにもなかった。こうして戻ってきて、あなたと話してる」

「たまたまよ、運がよかっただけ」

「狼なんかいやしない。少なくとも村の近くにはね。小鬼の話を聞きたくない?」

「小鬼を見たなんて、信じられない」

「でも、確かだよ。ほんの間近で見たんだもん」

 フィーラの口調が確信に満ちていたので、マイラは引きこまれた。

 フィーラが小川を越えたのは、水をくみにいった時のことだった。家畜小屋のそうじを母親からいいつけられ、水が必要だったのだ。

 小川の水くみ場には、たまたま誰もいなかった。

「だから、むこう岸にいってみる気になったの」

 小川をこえれば、森までほんの数歩だった。森に入ってしまえば、フィーラの姿はたちまち茂みに隠れてしまう。彼女は迷わないよう、前後左右を見回して、慎重に奥へすすんだ。ほんの少しの探検で引き返すつもりだった。胸の高鳴りはかつてないほどだ。なにがこんな楽しいのか自分でもよくわからなかった。

 しげみをかきわけるたびに、新しい光景があらわれる。

 ある地点では、濃いみどりが、黒い幹にけぶっていた。次のしげみをかきわけると、木漏れ日が斜めにささって、光の輪をちいさな蝶が自由に通過していた。コケむした倒木の上をネズミが逃げる光景もあった。風で万物が鳴りさわぐ場面もあった。頭上では小鳥たちがしきりにさえずっている。足元にはところどころ、落葉からキノコが生えていた。

 いずれの景色も、どっしりとして荘厳だった。

 驚嘆につぐ驚嘆の世界だ。飽き飽きしていた村の生活にない物が、色彩が、ここには満ちあふれ、わきたっている。

 フィーラは夢中になった。道のない森のなかでは、歩くということさえ新鮮な挑戦だった。自分がどれほどの距離を歩いたか、わからなくなっていた。森には人を吸いこむ力があった。彼女は木々と光につつまれ、未熟な初心者を歓迎する悪路に嬉々としながら、ふと顔をあげた。

 そこは、ややひらけた岩場だった。

 十歩で一周できる程度の泉が湧いていて、岩がそのまわりを囲んでいる。あたりは静まり返っていた。水面をもりあがらせて、湧水は碧く澄んでいる。

 小石にちゃぷちゃぷ弾かれながら、流れは西へむかっていた。

 岩のひとつに、小鬼がすわっていたのだった。

 ぼさぼさの頭、まっくろな瞳、肌は黒く、着ているものは胴体から膝までをおおうだけで、腕やスネはむき出しだった。靴ははいていない。しろい爪が、長くのびている。身長はフィーラより低いだろう。

 小鬼は立ち上がって、奇妙にひとなつこい笑みを浮かべた。

 だがつぎの瞬間、その笑みが幻だったかと思えるほど素早く跳躍し、森の奥へ飛びこんでいった。

 フィーラはあっ、と思ったきりなにも考えず、泉に背をむけて走りだしていた。

 逃げ出したわけではなかった。恐怖は不思議なくらいにない。ただ、目的が達せられたような気がして、あとはいそいで村へ戻らなければ、と思ったのだ。

「村に帰って、あらためて興奮しちゃった」

 マイラは現実に引きもどされた。姉の目に濡れた火が揺れている。

「迷わなかった?」

「北にまっすぐ進んだだけだもん。迷いようがない」

「ねぇ、本当の話?」

「誓って本当。不思議な体験だった。でもこの眼で見たの。肌は黒くて、目もぞっとするほど黒いの。手足が長くて猿みたいだった。それで、人間より身軽だと思う」

「信じられないわ」

「マイラ、おねがい、ぜったい断らないで」

「なに?」マイラは姉のいうことを、なかば予想していた。

「一緒に森へいこう、明日にでも」

「嫌よ」思わぬ大声を出してしまい、マイラは自分でたじろいだ。「絶対に嫌。フィーラ、あなたにももう、森へなんかいって欲しくない」

「マイラ、トルーディーの話をおぼえてるでしょ? 小鬼の話」

「ええ、もちろん」

「わたしたちは幸運なの。幸運にえらばれたんだよ?」

「そうは思わないわ」

「なにが怖いの?」

「姉さん、馬鹿なこと聞かないで。森には獣がいるし、それに小鬼は人じゃないのよ。魔性の物だわ」

「あれは、悪い小鬼じゃない」

「フィーラ──」マイラの小さな胸を占めていたのは具体的な恐怖だった。小鬼がどうとかいう以前に、森へ入ったなんてことが知れたら……父さんは怒りのあまり発狂するだろう。「そんなこと、どうしてわかるの?」

「わかるの。もういいわ」

 フィーラが寝返りをうった。やがてかすかな、幸せそうな寝息が聞こえてきた。

 マイラは取り残された。黒い森と、そこへ一人で入っていったという姉のことで頭がいっぱいだった。


 それから数日、マイラは落ち着かなかった。

 フィーラの危険な遊びが、一時的な気まぐれでありますように、と祈らない日はなかった。マイラは子供だった。子供がひとりで抱えるには、姉の秘密は重すぎるように思われた。しかし誰にも相談できない。マイラはひとりで絶望に苦しんだ。姉と二人きりになったとき、マイラは緊張した。いつ森の話をしだすかもしれない、と思うとビクビクしてしまうのだ。

 だが、あの夜以来、森の話題は出なかった。

 小鬼なんて、嘘だったのかもしれない、とマイラは思いはじめた。そう考えると気が楽になった。鬱々と悩んだ後だけに、マイラは平凡な毎日の平凡さが嬉しかった。

 マイラは牛乳を絞り、バターを作る。フィーラはパン生地をこね、それをパン屋に持っていって焼いてもらう。畑にいる両親のお弁当をつくるのが、姉妹の日課だった。

 畑への道すがら、フィーラがだしぬけに話しはじめた。

「きのう、また会ったよ。小鬼に」

 マイラは足をとめた。

 姉も数歩すすんでから立ちどまる。ふたりは見つめあった。

「またいったの?」

「ええ。小鬼に会った」

「森へいったの!」

「声が大きいわ」

 フィーラが歩き出した。

「なんで? どうしてよ?」

「わたしが聞きたいわ。なんでそんなにおびえるの? 森は怖くないよ」

「お父さんが知ったら、殺されるよ」

「平気。うまくやるもの」

「姉さん、もうやめてよ。どうしちゃったの? トルーディーだって、木こりのマルトさんだっていってるじゃない。迷って出られなくなる人もいるし、熊や狼だっている。小鬼がいるなら、魔女やもっと怖いものだっているわ」

「怖がりなんだから。マイラ、あなたもいらっしゃい、くればわかるのに」

「いかないわ」マイラは憤然といった。「ぞっとする。わたし、森は大嫌い」

「憶病者」フィーラが振り返った。にこにこ笑っている。

「父さんにいうわ」

「ちょっと──」

「父さんにいうわ」マイラは繰り返した。 

「このことは、わたしたちの秘密のはずだよ。あなた、白い女神に誓ったんだから」

「二つに一つよ、フィーラ」

 ふたりは道の真ん中で立ち止まった。

「もう二度と森へはいかないって約束してくれたら、黙っててあげる」

 フィーラの眼がしばらくのあいだ、うつろに曇った。彼女は首をかしげて、マイラを見つめていた。マイラは一瞬、自分のほうが何もかもを大げさに考えすぎているのかもしれない、と思ったが、譲歩する気にはなれなかった。

「どうするの?」

「いいわ。森へはいかない。約束する」

 あっさりそういって、フィーラはつっと先を行きはじめた。

 マイラは追いかけて、姉を追いこした。

「誓える?」

「誓うわ」

「わたしの眼を見て」

 フィーラの青い眼がひたっとマイラを見据えた。「誓うわ」

 そういわれたら、マイラにはもう、返す言葉がなかった。


 季節は夏をむかえようとしていた。

 空はうんと高く雲を立ちあがらせ、ときどき気まぐれに雨をふるい落とした。すべての物がその色をより濃くした。空はますます青く、道はますます白く、鋤起こしのはじまった休耕地は黒々と、森の木々は濃緑に、畑は鮮やかに、人々の笑顔はいっそう華やかになった。丘はうねり、花たちはあでやかな顔をあげ、虫が世界をとりまいた。

 夏至を祝う火祭りがちかい。それなのに、一部の人々の表情にときおり、不安が走りすぎた。

 司祭のデナン師は、農作物をもってくる老人をつかまえて、自分が体験した信じがたい出来事をはなした。

「どう考えるべきか迷うのだが」デナン師は顔をさすった。「わたしは、死の天使と道ですれ違った」

 老人は思いもよらぬ告白に、だいぶ胆をひしがれた様子だったものの、神妙な面持ちでうなずいた。デナン師はさきを続けた。

「この前のことだ。用事でおそくなって帰ってくるとき、白銀街道を歩いておったのだ。もう、夜中にだぞ。うつむいて歩いていたが、ふと気配を感じて顔をあげたら、なにかがこっちへやってくるところだった。腰がぬけるかと思ったわい。まばゆく光る天使さまがわたしのほうへ歩いてらしたんだ」

「それで、どうしました……」

「わたしは、とっさに道のはしによけて、帽子をとった。天使のうしろには、四人の旅人の亡霊がつきしたがっていた。かれらは旅の途中でいのちを落としたんじゃないかと思う。その魂を、死の天使がお導きなさるところに、わたしは出会ったのだ。どう思う?」

「あながち嘘とも思えねぇ」老人は即座にこたえた。「あたしも、へんな噂を聞きましたんで。この近所で、やけに旅人がすがたを消すとか。おそらく、天使さまは道に迷った魂を取りにきなすったんだ」

 こういった噂は、ゴルミの村のところどころでささやかれた。どうやら、タチの悪い獣が街道付近まできているらしい、と人々は語った。とはいえ、農作業は本格化してきている、不安がいつまでも人々の胸を占めているわけではなかった。

 神隠しの噂はマイラの耳にもとどいたが、彼女はもう姉の素行を気にしてなかった。

 この時期、姉妹はいつも一緒だった。干し草を刈る作業がはじまっていた。冬のあいだ家畜を養うための干し草である。ふたりは、大鎌こそ持たせてもらえなかったものの、刈った飼料を家々の納屋にはこぶ作業にあけくれた。フィーラが森をさまよう暇はなさそうであった。

 火祭りも、とどこおりなく行われた。

 男の子はみんな仮面をつけて、人々からささげ物をあつめた。マイラは、悪魔の人形を火柱に投げこむ役だった。フィーラにはもっと名誉ある役割が与えられた。祭りをつかさどるデナン師は毎年、処女をひとりえらんで、ひたいに祝福のキスを贈るのだが、今年えらばれたのがフィーラだった。

 いつもはもう少し年上の、十五、六歳の乙女がえらばれる。しかし十一歳のフィーラが発する白い輝きは、村びとたちを納得させるに十分だった。彼女は巫女のように冷然としていた。祭りの間ずっと、マイラにはまるで彼女が別人のように見えたほどだった。


 火祭りが終わると、まもなく最初の収穫だ。

 マイラの心配がぶり返してきた。姉がまた、隠れて森へいくのではないか。

 刈り入れがはじまると、姉妹はまた離ればなれになる。どちらかが両親を補助するため畑へゆき、もう片方は家の仕事をまかされて残るのだ。

 姉が畑にいく日は安心だった。両親の目をぬすんで森へいくのは無理だ。しかし、マイラが畑にいく時は、気が気ではなかった。家にのこる姉を見張る人間はいなかった。

 マイラは姉の様子を注意深くみまもった。普段と変わったところは見つけられなかった。姉の、森にたいする異常な興味は、冷めたのかもしれない。ふたりきりになった時、マイラはフィーラに、思いきって尋ねてみようとしたことが何度かあった。それをしなかったのは、自分の質問によって、消えかけていた姉の情熱にふたたび火がつくのではないか、と恐れたからだ。それ以上に、

 ──フィーラとは仲良しでいたい。

 という弱気な理由もあった。

 強烈だった夏がすぎ、収穫も終わりにちかづいた。

 また、祭りの準備がはじまった。今度は火祭りのように儀式ばったものではない、宴会だ。収穫祭がすぐそこまできていた。

 村びとたち、特に年老いた人々は例にない事態に気づいた。

 ルーウィー族が少なくはないだろうか?

 ルーウィー族というのは、大道芸や落ち穂拾いで生きる放浪の民だ。祭りがちかづくと、どこからともなく集まって、村の外に天幕を張り、楽しい芸を披露して、またどこへともなく去っていく。いつもなら百人ほどやってくる。それが今年は五十人に満たなかった。じつは年々、やってくるルーウィーの民は減ってきていた。

 浅黒い肌をしたルーウィーの男に、直接わけを尋ねた農夫もあった。

「みな、このあたりに、きたがらないのさ」ルーウィーの男は簡潔に述べた。

「そりゃまた──なんで?」

「さぁね、なんだか知らないが、このへんの街道で、バカに仲間がいなくなるんだ。だから気持ち悪がってこないヤツが増えた」

 農夫はそれ以上、詳しいことを聞こうとはしなかった。思い当たることがあった。消えているのは、ルーウィーたちだけではなかった。たとえば商人も、行商のようにひとりふたりで旅する者が、道中の不幸な事故ですがたを消すのはめずらしいことではない。しかし最近、白銀街道であった事件はちがう。七人からなる隊商が、ゴルミのそばで煙のようにいなくなったのだ。二台の荷馬車も一緒に消えるという不可解な事件だった。

 獣のたぐいではなく、不逞のやからが徒党をくんで街道を荒らしているのではないか、と推測する者もあった。いずれにせよ、ルーウィーの減少はゴルミの村に少なからぬ影を落としていた。


 収穫祭の前日。

 姉妹は祭りの衣装を、トルーディーに縫ってもらうことになっていた。

 収穫祭では、子供たちは祭儀のための白い服を身につけるのがきまりなのだ。

 トルーディーの家は、衣装をとりにきた他の子たちでごったがえしている。フィーラとマイラは順番を待ち、おそろいの服をそれぞれ受けとると、帰途についた。

 マイラは道のまんなかで、もらったばかりの着物を体にあわせてみた。待ちきれなかったのだ。すこし心配でもあった。下にきる長衣は、黄色味をおびた雲のような色で、その上にかぶる袖のひろい祭服は、まさしく純白だった。

「わぁ……」と、喜びが口にでた。「フィーラ、見て! トルーディーったら……わたし、大人みたいに見えない?」

 マイラは胸をときめかせて姉にたずねた。

 フィーラの青い瞳が、夕焼けをあびて紫色に変わっている。

「まぁ、悪くないかもね」と、そっけない。

「悪くない? 気に入らない? これ、わたしたちが着た服のなかで一番だよ。見てよ、わたし、別人みたいじゃない?」

「つまらない、こんなの」

 マイラの上機嫌がふきとんだ。

「つまらなくないわ」

「もっと綺麗なものが、世の中にはあるのよ」

「トルーディーの服だって綺麗だもん」

「マイラ、いいもの見せてあげようか?」

 フィーラが誘うように首をかしげた。姉の浮かべている笑いを、マイラは以前、見たことがある。マイラは毒気をぬかれてたたずんだ。

「約束をまもれるなら見せてあげるよ」

「約束って?」

「お父さんとお母さんに内緒にできる?」

 マイラはうなずいた。

 フィーラがスカートの懐中に手をいれる。

 祭服をくしゃくしゃに丸め、マイラは姉にちかづいた。

 姉がひろげた手のひらをのぞきこむと、そこに黄金色の円盤が光った。金貨だった。

 思わずどもった。「ど、どうしたの?」

「もらったの」

「誰に?」

「小鬼」

 マイラには、目のまえの金貨と小鬼がすぐにはむすびつかなかった。トルーディーの言葉を思い出した。小鬼は、森の財宝を人にわけるのである。フィーラがまた森へいったのだということにも思いあたった。

「気づかなかったでしょ。わたし、うまくやったもの」姉の表情は得意げに輝いている。「小鬼と友達になったんだ。もうだいぶ前のことだよ。あの子、少しだけなら言葉も話せるの。この金貨は友情の証。わたし、あの子の家に連れてってもらうんだ」

 マイラには、その言葉がひどく不吉にきこえた。何ごとかが起きていた。自分たちの手に負えないほどのなにかだった。

 フィーラが金貨をスカートにしまう。黄金の魅惑にマイラはとまどった。それは、小鬼がいて、財宝を管理している、確かな証拠だ。現実なのだ。おとぎ話として聞くようなふわふわしたものではなく、さっきの金貨のように重みのある現実なのだ。森に現実の神秘があり、姉がそれに巻きこまれようとしている。マイラをおびえさせたのは、フィーラがそのことを不気味とは考えず、むしろ夢中になっているらしいことだった。

 ふたりは、服をかかえて夕日の村道をあるいた。

「あしたよ、マイラ」

「なにが?」

「あした、小鬼のすみかに案内してもらう約束なの」

「あしたは、お祭りだよ」

 どうしたら姉の熱狂をしずめられるのか、わからなかった。マイラはただ、オドオドしていた。

「だからよ。お父さんたちは、お祭りで一晩中、うちには帰ってこない。だからわたしも自由にうちを出られる。でしょ?」

「夜にいくつもりなの?」

 無理だろう、と思った。すくなくとも、自分には無理だ。夜の森など、恐ろしくて足をすくむ。フィーラだっておなじなはずだ。

「平気だよ。わたしは夜なんて」姉はきっぱりいった。「楽しみなくらい。小鬼のすみかってどんなだろう。うまくいけば、ううん、きっと宝物をわけてもらえる」

 マイラは目の前が真っ暗になる思いだった。

「ふたりでいけば、二倍の金貨をもって帰れるんだけどな」

 フィーラが笑顔で、こっちを見ている。

 マイラはなにも答えなかった。


 翌朝、マイラは姉よりはやく祭服にきがえて、父親に話しかけた。

 父親は見るからに浮かれていた。踊りのための派手な服をきている。

「あとにしろ、祭りがはじまっちまう!」と、父はいった。

「お父さん、いま聞かないとぜったい後悔するよ」

 マイラは、フィーラの秘密をすべて話した。

 浮かれ気分が父からぬけていくのを、マイラは目に見たように思った。母親は朝食のしたくで台所にいたが、料理を中断してマイラの話を聞きにきた。

「なんてこと……あの子は!」母がいった。

「それでぜんぶか?」父の声はひくくて硬い。

「ぜんぶよ」

 父親のジルは、祭服を着たフィーラを寝室からひっぱり出すと、つづけざまに三度ぶった。「森へいったのか?」という質問に、フィーラが首を横にふったので、さらに三度ぶった。悲鳴をあげて逃げ出そうとするフィーラの襟首を、ジルはつかみあげた。そのまま納屋まで引きずって娘をなかにほうりこんだ。

「祭りには連れていかん。一生そこから出られないと思え!」

 そう怒鳴り、重い(かんぬき)で扉をふさいだ。

 マイラは母親とともに、その様子を遠まきに見ていた。父が憤然とやってくるのと入れ違いに、マイラは家畜小屋へ駆けよった。背伸びすれば顔がとどくところに窓がある。 

 フィーラは藁のなかに泣きふしていた。

「姉さん……」

 姉が涙にぬれた赤い顔をあげる。「裏切り者!」

「ごめんなさい、わたし……」

「裏切り者! 卑怯者! 憶病者!」

「だってわたし……」

 突如、フィーラが絶叫をあげた。聞いたことのないような声だった。悪魔にでも取り憑かれたのかとマイラは思った。長くのびて震えるぎゃあああの語尾が、いつまでも終わらず、終わったと思ったらまたフィーラの口から放たれた。マイラは恐怖にとらわれて母家のほうへ走り出した。

 朝食のあいだ悲鳴はつづき、食卓は重苦しい雰囲気だった。家族は言葉なく、出かける準備をととのえた。悲鳴は不意にやみ、すすり泣きになっていた。花束のカゴをかかえてマイラが外に出た時、フィーラの涙声が家畜小屋から聞こえてきた。

「たすけて、お母さん……その子はマイラじゃない、姉さんよ。わたしがマイラなの」

 父親が唾を吐いた。「いくぞ」

 いくらそっくりな姉妹でも、実の両親が顔をまちがえるはずがない。

 家族は祭りへとむかった。残してきた声がしだいに遠ざかっていく。

「お父さん、たすけて、マイラはわたし、その子はフィーラよ」


 村の十字路から教会まで人でいっぱいだった。

 広場では踊りがすでにはじまっている。あちこちに騒ぎがあった。ルーウィー族の音楽がどこにいても聞こえた。

 マイラは友達と一緒になって、踊りの輪に持参した花を投げたり、チーズをかじったり、甘いお菓子をもらったりした。鬱々としてすこしも楽しめなかった。祭りではやく帰りたいと思ったのははじめてだ。

 後悔の念が、マイラを押しつぶそうとする。友達と歩いていても、きゅうに姉のことを思い出して、立ちどまってしまう。涙がこぼれそうになるのだ。マイラは何度かそれをくり返し、友達をずいぶんと心配させた。

 夕方がせまってくると、今度は姉に会うのが怖くなってきた。

 マイラはカゴに、お菓子をあつめた。姉へのおみやげにするつもりだった。

「お菓子をくださいな」

 野天に出されたテーブルに、それぞれの家庭でもちよったお菓子がならべられている。

 あるテーブルで、ふたりの大人の会話をマイラは耳にした。

「ギラン金貨だそうだ。それを箱いっぱいにつめた馬車が、白銀街道で消えたらしい」

「すると、いよいよ盗賊だな」

 ひんやりしたものが、マイラの頬をなでた。

 祭りは、夜通しでおこなわれる。しかし子供がいていいのは夕方までだ。父親と母親は、子供を一度家までおくり、ふたたび祭りの会場へと帰ってくる。真夜中には大人たちだけで儀式がおこなわれる。

 マイラはいそいで両親をさがした。父は酔っ払いのなかにいた。母親はおしゃべりの群れのなかで見つけた。

「もう、帰ろう。わたし、もう帰りたい」

 盗賊、という言葉がマイラの頭からはなれなかった。もしや姉は、家畜小屋からぬけだしていないだろうか。そう思うと居ても立ってもいられなかった。


 歩くのが遅い両親にイライラして、マイラはひとりで走りだした。カゴのお菓子がおいしそうな音をたてる。急角度をつけて家の敷地に駆けこんだ。家畜小屋の窓に飛びつく。

 小屋はもぬけのカラだった。

 ふりかえるが、お父さんもお母さんもまだ追いついていない。お菓子を置き、マイラは閂を肩でもちあげて、扉をひらいた。牛とロバがマイラを見た。暗くなった奥を見定めようと足を踏みいれたとき、マイラは背中を押され、つんのめった。

 顔をあげると、フィーラが外に出て、扉を閉めるところだった。

 なにが起きたのすぐには理解できずにいた。光がほそくなり、扉が密着する。閂のきしむ音がひびいた。

「フィーラ! 駄目! 聞いて!」

 返事がない。マイラは扉にはりつき、押してから引いた。動かない。目を見開いて、耳をすます。

「マイラ!」父さんの声だ。遠くから聞こえる。「姉さんを外に出すんじゃないぞ」

「ええ、わかってる」フィーラの声は扉のすぐむこうから聞こえる。

「お父さん、マイラじゃない、マイラはわたしよ!」暗闇のなかで息をのんだ。返事を待つ。背後で牛が鳴いたが、ふりかえらなかった。「お父さん! お母さん!」

 駄目だ。マイラは声をふりしぼった。「マイラはわたし! お母さん、フィーラをどこにもやらないで!」

「いっちゃったよ」姉の声がした。「マイラのお馬鹿さん。大金持ちになれたのに」

「フィーラ! 森へいっちゃ駄目! 盗賊がいるんだよ!」

「信じないわ、裏切り者」ザッと砂利を蹴る音がした。

 姉さん、姉さん、姉さん、と三度よんで、マイラは口をつぐんだ。あたりは静まりかえった。耳をすましたが、人の気配がなくなっていた。

 マイラは転びながら走り、窓にしがみついた。夕闇が地面に黒い層を流していた。ニワトリがマイラの視界をよこぎった。そのむこうに、母家がある。窓の格子にほおをつけると、かろうじて道のほうが見えた。見渡すかぎり、人影はどこにもなかった。


「大丈夫。姉さんは今までだって、森から無事に帰ってきたもの」

 しかし今までは、昼間だった。こんな暗くなってから森へいったわけではないのだ。

 マイラはせわしなく、家畜小屋のなかを観察した。

 クモの巣のかかった棟木、立てかけられた農具、飼い葉桶、縄。

 扉の閂はやぶれないだろう。窓しかない。

 横にながい方形の窓で、マイラがようやく握れる太さの木が6本、檻をつくっている。

 格子をつかんで揺らしてみるが、ビクともしない。マイラはとっさにあたりを捜した。石でできた円柱が目についた。石臼(いしうす)だ。真んなかに手ごろな穴があいている。壁際にある縄の束に飛びついた。縄を、石臼の穴に通すのだ。ふんばらないと持ちあげられないほど石臼は重い。それでもなんとか、穴に縄が通った。石臼を縛る。

 縄のもう一方の端に玉をむすび、マイラはそれを天井に投げた。縄は天井の梁をこえて落ちてくる。うまくいった。

 玉をつくった方を、マイラは牛の角にむすびつけた。

「たのむわよ」マイラは牛を仕切りから連れ出した。牛は一声鳴いて首をふったが、おとなしくマイラの導きにしたがう。力強い歩みだ。

 牛の角にむすばれた縄は、ピンと張り、斜めに天井へつづき、梁で折れて、石臼を引きずった。牛が家畜小屋の最奥まできたとき、石臼は梁の真下にぶら下がっていた。

「おねがいだから、動かないで」

 牛に念を押し、角から下がる縄の余りを房の仕切りに結ぶ。その後で角に結んだ結び目をほどいて牛を解放し、石臼に駆けよった。石臼はマイラの額の高さまで持ちあげられていた。

 あとは、これを振子にして窓にぶつけるだけだ。

 マイラは冷たい円柱を頭上にかかげて後ろにさがり、それを窓にむけて投げつけた。最初の一撃で、二本の格子がひしゃげた。さらに二度、おなじことをくり返すと、窓枠そのものがはずれて、外に落ちた。父さんはきっと怒るだろう。石臼の振り子が小さく揺れるのを尻目に、窓枠をつかみ、肘をかける。体の半分が窓からせり出した。体を回転させて窓枠にまたがり、飛び降りた。

 庭に出て、太陽がまだ西の空に光を残してくれていることをマイラは知った。しかしものの数分で消滅する光に違いない。味方になってくれそうなのは月であった。祭りは満月の日を選んでおこなわれる。

 大丈夫、マイラは自分にいい聞かせて、走りだした。家畜小屋から出るのに、それほど時間をかけていない。いそげばフィーラに追いつける。まだ間にあう、きっと。

 ゴルミはいつもとおなじ村とは思えなかった。無人の集落に変貌している。大人たちは儀式のために教会に集まり、村に残されているのは子供だけだ。その子供たちも、家にこもって戸をかたく閉ざしている。夕闇が濃さをまし、建物が色あせて白くくすんだ。人の気配がない。マイラは廃村に迷いこんだような錯覚を感じた。あるのは、荒くなった自分の息づかいだけだった。

 小川にむかう途中、教会のほうに煙がたっているのを認めた。

 一瞬、マイラは躊躇した。お父さんとお母さんに、このことを知らせるべきではないだろうか。

 マイラは走りつづけ、小川が見えてきた時、速度をあげた。その勢いで、彼女は生まれてはじめて小川を飛び越えた。大丈夫。いそげば姉に追いつける。連れもどすことができる。教会にいったのでは間にあわない。自分の力で解決できる。

 しげみをかきわけて、一歩を踏みこむと、そこは別世界だった。マイラは森のなかにいた。


 森は、宝石のようなきらめきと、血のように濃密な闇が、きわどく同居した世界に見えた。無数の枝や枯葉が、たかく層をなしている。苦しげに張る枝の網。そこからこぼれた月光が下生えを輝かせていた。しかしそれ以外は、切り抜かれたような闇だ。

 走りつづけたせいで心臓が破裂しそうだ。

 マイラは森を歩いた。ほそい枝が彼女の顔を打つ。

 わずかに見える空は灰色だ。木々にさえぎられ、空はバラバラにくだけた陶器のようだった。道はなかったが、足を置ける場所を選びつづけることで、前へすすんでいた。

「フィーラ……」と口にしてみるものの、声はつぶやき以上のものにならなかった。

 落葉を踏む自分の足音がうるさい。確実になにかいる、という予感を信じて、マイラは時おり立ちどまった。しかしふりかえって目に入るのは、巨木と巨木のあいだにある、のしかかってくるような闇。わずかしか進んでいないつもりだったのに、もう帰り道が見えない。マイラは憑かれたように手足で薮をかきわけた。小さな体で不器用に、異世界を泳いでいた。立ちどまれば、怖さで二度と動けなくなるような気がした。

 ここは──ぜんぜん違うんだ、マイラは思った。

 なにもかもが違う。自分の知っている世界と。

 これが地上の本当のすがただった。自分がすべてだと思っていた村の生活、季節のリズムでととのえられ、なにがどうなるのか先のわかる毎日、統制され区割りされ、綺麗にかたづいた村のなか。役割と制限と法が定められた明快に日の照らすわたしの世界──そんなものは、地上のほんの一部にすぎない。この無秩序こそ世界の大部分だ。規則もなく、なにが起きるかわからない森の闇が。

 すすむたびに、マイラを小突く森は、それを知っているみたいだ。魂をひっくり返されるような不安にマイラはおびえた。体がバラバラになりそうな恐怖だった。お父さんやお母さん、いや王様のちからに頼ることさえできない。マイラはとてつもなく孤独だった。マイラの世界、ゴルミの村そのものがまったくの孤独だった。森にかこまれ、隔絶されたちいさな場所だ。マイラはそこに住んでいるちっぽけな子供にすぎない。

 あえぎながら、マイラは進んだ。いつのまにか、森のなかを駆けていた。恐怖から逃げるには、走るしかなかった。

 マイラが信じられることが、ひとつだけある。自分は正しい方向にむかっている。ずっしりと重い確信でもって、マイラは姉のすすんだ道を感知できた。なににも頼ることのできないこの世界で、その確信だけがマイラの命綱だった。彼女は黙々と、手足のみの動物になったみたいに走った。

 唐突に、月光の照らすひろい場所にでた。マイラは肩で息してその光景をながめた。岩場だった。清冽なせせらぎが音をたてている。フィーラのいっていた泉に違いない。

 不意に白いものが視界のはしをかすめた。マイラは目をこらした。服のすそのように見えた。マイラが着ている祭服とおなじ物が、木々の間をかすめて消えたのだ。

「フィーラ!」

 なにも動かない。本当に姉の服だったのか、それとも月明かりの加減でそう見えたのか──西のほう、水の流れにそって白い人影が吸いこまれていった。

「フィーラ! 姉さん!」

 マイラは叫ぶ。視界がはげしく上下する。せせらぎのほとりは走りやすかった。飛ぶように走れた。

 人影が見えなくなった。見失った。あせりで立ちどまりそうになる。駄目だ。走りつづけるのだ。村からどれほど離れたろう。もどれるだろうか。

 森の奥に、白い服のすそが揺れた。今度は間違いない、フィーラはすぐそこにいる。

「おねがい! 待って!」

 人影がとまった。マイラがその場所に駆けつけると、人影に見えたのは低木の一部にすぎなかった。泣き出しそうだった。あたりを見回す。白い影がひらひらと、マイラの前で明滅し、闇に溶けていく。

 姉はまるで幽霊にでもなったようだ。

 なぜ追いつけないのだろう?

 マイラは息を切らし、それでも走った。このまま姉を見失ったら、もう二度と会えなくなる、と直感した。フィーラを取りもどすのだ。この世界から。

 限界まで走って、とうとう足が歩きに変わった。マイラのすがたはひどいものだった。トルーディーに縫ってもらったせっかくの衣装がところどころ裂け、体じゅうに泥と葉と木ノ実がついている。そでに血のあとがあり、ほおの傷が汗でしみた。

 木々のむこうに、フィーラの後ろすがたが、はっきり見えてきた。姉は歩いていた。先導する黒い影がある。あれが小鬼だろうか。

 フィーラがいるのは、見通しのいい岩場だ。たくさんの大きな岩が積みあげられ、低い山になっている。見ていると、フィーラが、岩をよじ登りはじめた。ちいさくて黒い生き物が、岩の上からフィーラに手を貸している。

 マイラはよろよろと岩山のふもとまで近づいた。

 満月が思うさま、岩のひとつひとつを照らしている。それなのに、腰をかがめる黒い生き物のすがたが、もうひとつはっきりしない。

 フィーラが岩を登り終え、立ち上がった。風がそよぎ、彼女の服をはためかせ、長い髪をくしけずる。夢見るようなフィーラの顔があらわになった。小鬼が手招きするほうに、フィーラはゆっくりと歩いていく。

 小鬼は、岩と岩のせまい隙間に下半身をいれ、あとずさりしながらもぐっていく。ちいさな洞穴のようになっているらしい。小鬼の頭が洞穴のなかに消えた。

 フィーラが身をかがめた。小鬼につづいて、穴に入ろうとしている。

「駄目!」マイラは叫んだ。

 姉が顔をあげる。

 マイラは岩に飛びつき、手がかりを見つけてよじ登った。「駄目! 姉さん!」

 冷たい手がマイラの腕をつかんだ。マイラは悲鳴をあげた。

 マイラを引っぱりあげたのは、フィーラだった。

「マイラ、どうして──」

 マイラには聞こえなかった。姉の首に抱きついたとき、涙があふれた。「穴に入らないで! 穴に入っちゃ駄目!」

「落ち着いて、可哀想に──どうしたの?」

 姉が、髪をなでてくれる。マイラは泣きじゃくり、けっして放すまいと、力いっぱいフィーラにしがみついた。 「入ったら、二度と出てこられない!」

「マイラ、痛いよ」

「入らないで!」

 マイラは姉からすこし離れ、穴を見た。フィーラもふりかえって穴を見た。

 二つの光る目が、姉妹を見据えていた。

 穴のなかでその目は、二度しばたたき、そのまま動かなかった。悔しそうな、恨みがましい目だった。マイラに震えが走った。

「わかったわ」フィーラがいった。「ここから降りよう、マイラ。静かにね。穴には入らない。村へ帰るの」

 フィーラとマイラは手をとりあって、岩から降りた。ふりかえると、小鬼が月を背中にして、岩のうえに立っている。

 森へ入り、フィーラの導きで、きた道を帰るときも、マイラはうしろが気になった。どうかすると、小鬼がついてくるのを見たように思った。事実、小鬼はついてきていた。姉妹が疲れて立ちどまったとき、背後の闇にあの悲しそうな目が光った。

「走るよ」フィーラがいい、ふたりは走った。

 小鬼を引き離すことはなかったものの、小鬼がちかづいてくることもない。

 一定の距離がたもたれている。ふたりが森を出るまで、小鬼はそうやって追いかけてきた。懐かしい村にたどり着き、小川を越えた時、ふりかえると小鬼は森のなかにとどまっていた。ふたりを見ている。無表情な、それでいて訴えかけてくるような目。きゅうにかすかな音をたて、小鬼は闇にもぐった。森へ引き返したのだ。

「どうしてだろう」フィーラは息を荒くしている。「いまは、わたし、あの小鬼が怖い」

 マイラはだまっていた。

「あの穴にもし入ったら、わたし、どこへ連れていかれたんだろう」


 二十一年前、殺人者のブールという男が、マルファ市の牢獄を破り、情婦をともなって逃走した。ふたりは白銀街道で官憲に追われ、森のなかへすがたを消した。以来、ブールを見て生きて帰った者はいない。

 ブールとその妻は森のなかに洞穴を見つけ、二十一年間そこに隠れ住んでいたのである。お尋ね者の身で街へは帰れなかった。空腹を満たすため、ブールは街道で旅人を待ちぶせた。襲って食料を得るためだった。

 ブールの妻は、洞窟でつぎつぎと子を生んだ。洞窟の奥行きは半程里(およそ1・5キロ)もあり、家族が暮らすにはじゅうぶんだった。ブールは、襲った旅人をひとりとして生きて帰さなかった。そのせいで、白銀街道でおこなわれていた追いはぎ行為は誰にも気づかれずにいた。死体さえ残されなかったのである。死体はおろか、服も持ち物も、残らず洞窟に運ばれた。ゴルミのちかくで、たくさんの旅人が煙のように消える、という現象だけが残された。

 たったひとり、ブールの凶手を逃れた幸運な男がいる。白銀街道を通行中、かれは『なにか人の姿をした生き物』が馬車を襲撃している場面に遭遇した。男はすぐさま道を引き返し、最初に出会った人物に自分の目撃したものを訴えた。目撃談は土地の領主に報告され、領主は兵をあつめた。森がくまなく捜索された。やがて怪しげな洞窟が見つかり、人々は戦慄すべき事態を目のあたりにしたのだった。

 そこはすさまじい異臭のこもった地獄だった。

 人とは呼べない汚らしい生き物がうごめいていた。

 ブールの家族はこの時、全部で三十四名になっていた。幼い子供も少なくなかった。その子が、さらわれた子なのか、それとも近親相姦で増えた子なのか、捕縛されたブールは語らなかった。かれはケダモノのようになってしまっていた。

 三十四人の大家族を、なにが養っていたのかは明白だった。洞窟には、旅人の死体が無数に保管されていた。切断された四肢が天井からぶらさがり、胴体もきちんとかさねられて整理されていた。洞窟のおくには骨とあたまを捨てる専用の場所があり、奪った金品や衣服はひと財産を形成していた。かれらの主食は人肉だったのである。洞窟で火は使えないので、生肉をかじっていたに違いない。

 フィーラが見た小鬼は、ブールの孫のひとりであったかもしれない。ブールの一族は、アカと泥でまっ黒によごれ、一見して人間とは思えないほどだったから。

「森がやつを狂わせたんだ」ゴルミの人々はそう噂しあった。「森はひとの住むところじゃねぇ。人間は、人間から離れて生きようとすると、たちまち獣になっちまうのさ」

 ブールとその一族は、首都に送られ、裁判なしで全員処刑された。

 ゴルミの村は、異界と境を接して、まだ眠ったような日常を営々とつづけているに違いない。トルーディーばあさんはもう死んでしまったろう。

「けどね」

 そう子供たちに語りかける女がしかし、いなくなったわけではない。

「小鬼に出会ったすべての女の子が幸運なわけじゃないんだよ」と。


おわり

 という。

「ソニー・ビーン」ネタでどうもすいません。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ